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絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

今日の私

2011-07-18 | 日記
1、火の鳥第7巻を読み終えました。
   乱世編(上)で、平清盛が出て来ました。私が以前読んだ記憶では、清盛が火の鳥の生き血を飲んで永遠の命を得る夢を見たという部分があったように思いましたが、それはありませんでした。その前に死んでしまいました。その部分は、8巻なのでしょうか。これから8巻を読むところです。

2、ドンキホーテ第2回を見ました。
   最高に面白いです。引きこもりを治してしまいました。

3、美の巨人、ラファエロを見ました。
   録画しておいたので、それを見たのです。ラファエロのアテネの学堂についてでした。
   私は、この絵の下絵があることを知っていましたが、実際にフレスコに描いた時の下絵があるとは思っていなかったので、新しい発見がありました。それは、ミラノのアンブロジアーナ図書館という所にありました。これは、知っておくべきことですね。なぜなら、その下絵には、中央手前で頬杖をついているヘラクレイトスの姿がありません。しかし、実物大の下絵なんていいですね。本物を見たくなりました。額に飾られています。小さな紙を300枚つなげたものだそうです。しかも、フレスコに写し取るときに付けた穴がしっかり残っています。(当たり前ですが)

4、児玉絵画クラブ展の最終日に顔を出しました。
   見学に来た人が勝手なことを言っていました。そういうことは、自分で描ける人が言う事だなあと思うようなことを生意気に言うのを聞いて、とんでもないことを言う人だなあと思いました。
   まあ、素人が言う事に目くじらを立てる必要もないので、軽く流しましたが、訳も分からず勝手なことを言うので、そういうところで、人間性の分かってしまう恐ろしさを感じました。

   私は、「わ―凄い。写真みたい」という素人には腹を立てません。それは、本人は褒めているつもりだからです。
   しかし、専門家が言いそうなことを生意気に言ったりすると、わかりもしないでと不愉快に思います。そういうことは、自分が描ける人が言う事だよなと思うのです。

5、夕食は、回転寿司でした。
   母と夕飯をかっぱ寿司で食べました。母のお手伝いで運転手をしたのですが、父が児玉絵画クラブの打ち上げでなかまちで食べるため、母と私も外食にしようということになったのです。そこで、本庄へ行ったついでに回転寿司に寄りました。
中は、大混雑です。かなりの人が待っています。こんなに繁盛したら店を作って良かったと思うでしょうね。児玉にもできないかなと言いながら帰ってきました。ハマグリの味噌汁が美味しいです。母はこれが目当てです。

6、なでしこジャパンが優勝しました。
   準決勝では、父が勝ったぞと朝、二階に上がって来て言いました。今朝は上がってこなかったので、負けたのかと思いましたが、母に聞いたら勝ったというので、驚きました。テレビはもうそのことで大騒ぎでした。これは大変なことになったなあという感じです。もう家族も取材されて大変だろうなあと思います。同じ質問を嫌というほど受けるでしょう。どこまで我慢して答えられるかなと心配になります。

   インタビューの終わりに、「この後、ゆっくりお休みください」とアナウンサーが言いました。
   バカだねえ、寝られる訳ないじゃんと思いました。テレビ局はあんたの所だけじゃないんだよ。
   もうインタビュー漬で嫌になるほど、オファーがあるだろうと思い、かわいそうにと思いました。
   それは、日本だけじゃなく、世界中の国のテレビからもあるでしょう。




   
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裸婦デッサン会で思うこと 3

2011-07-18 | 絵のこと
私は、車椅子の状態なので、遅れて行くと自分の思う場所が取れないと思い、いつもこうしたデッサン会では、速く出掛けて行きます。そして、できれば明暗が半々になる位置に近い所に自分のポジションを構えることにしています。

始まりの時間を確認しなかったこともありますが、早く行きすぎました。9時に行ったら、始まりは10時半でした。
しかし、そのお陰で、思う場所が取れました。

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前の文で、「自分との会話に忙しく」と書きました。

それは、言ってみれば、こんな感じです。

「上は、この辺から描いて、下はこの辺に収めよう。全体の形がこのようになっているから、左右はこのくらいでいいかな?
ということは、頭の位置はこの辺りだな。よしよし、このくらいで進めてみよう。あまり早くから厳密に測ると進めにくいから、
初めは気楽な気分でいいな。違うなと思ったら、その時点で測るかな?でも一応何頭身くらいかは決めておかないと後から直すのは嫌だから、せめてそのくらいは決めてから描こうかな?」

こんな感じの独り言です。もちろん、声を出してではありません。心の中でこんな確認をしているのです。

もう少し進めてみましょう。

「頭から顎までの長さでやるより、頭から首の付け根の部分を基準にする方が、測りやすいな。そうすると、その二つ目は肩から肘までの長さとほぼ等しいぞ、しめしめ。一応このくらい決めて置いて、後はすこしクロッキー的に全体の形を描いてみるかな。
途中の形を順番につないでいくと、下へ来たら足りなくなったというのではいけないので、何でかんで入れる訳だから、まず、ポイントになる部分をしっかり把握しよう。頭の形は、髪の毛の形を捕まえて、顔は後からでもよいと。肩と肘の位置を抑えて、尻の位置を決める。そして膝と足首を決める。そのポイントとポイントの位置をしっかりさせてから、その後を考えよう。」

こんな感じです。

これをやっている内に、他の人と会話などは考えられません。常に、このようにして自分と会話をしながら進めて行きます。

中村先生から声をかけられたときは、もっとはるかに進んでいましたが、それは細かい明暗に入っていた時でした。

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モデルさんは、プロの方ですから、いろいろな参考例としてポーズを示してくれます。我々が注文する必要がないので、こちらとしてはとても楽です。もちろん、裸のモデルなので、プロには違いないですね。
しかし、描いていて、いくらプロでも毎回必ず同じポーズが作れるとは限りません。
足場には、チョークで印をつけたりしますが、どうしてもダメなのは微妙な体のひねりです。

前の時は、向こう側が見えていたのに、今回は見えないぞということが起こります。
それを指摘しないでいると、その次に指摘した時には、二番目に見えている状態で描いた人から、いやこれでいいなどということにもなりかねません。それで、言い難くなってしまうこともあります。やはり、毎回ポーズのチェックが必要です。
その辺は、一人で描いているのではないので、難しいですね。

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裸婦デッサン会で思うこと 2

2011-07-18 | 絵のこと
失敗について、考えてみましたが、改めて視点を変えて考えてみると、デッサンは、失敗の連続でしょう。それを見る力で判断して、その都度直しているということもできます。
描いたものを下書きにして、その上に描くということは、下を否定しているともいえます。その意味で、芸術は破壊と創造です。

難しく考えるなら、そのように言えます。

しかし、実際問題、その下書きの失敗がなければ、先に進めません。
いつでもストライクの表現はできません。常にど真ん中のストライクの表現を求めたら、私などは描けなくなってしまいます。むしろ、失敗でいいと思うくらいでないと、始められません。だから、初めはクロッキーのような気楽さで描きます。そして、そこにデッサン力という目で、その失敗に対して厳しい目を向けるのです。

だから、最初はアバウトですよ。

ただ、常に「おい、それでいいのか?」と自分の問い続けています。構図はどうだい?
画面に対する大きさは?余白の美は?左右、上下はこれでいいのか?などです。

途中で、中村先生から「菅野君が黙って描いているね」と言われました。
私は、自分との会話に忙しく、他の話をしている暇がありません。

消すことについても、素人は消しゴムを「失敗を修正する」という意味で使います。
しかし、練ゴムを使うようになるとわかりますが、消しゴムは「明るい部分を描く」という意味で使うのです。つけ過ぎた鉛筆の量を減らすという意味でも使います。
だから、消しゴムも下を否定するだけでなく、創造しているのです。

失敗という意味で、考えていたら、このようなことが思い浮かびました。

ーーーーーーー
これは、素人でもわかりやすく描きましたが、もっと難しく考えると、これ以上のことがあります。

デッサンをするという意味、絵を描くという意味の違いで、いろいろな問題が出てくるでしょう。それは、狙いを持ってデッサンをするということで考える場合です。

プロは、ただ単に写せば良いとは考えていません。
より美しく表現したいと思うからです。
この裸婦を見て、何を表現しようかという問題です。
そういうテーマを持った時の失敗とは、テーマが実現できたかどうかという問題になります。それは、求めるものによって違います。その全てに言及することはできません。

自分が感じた、光の印象という場合は、その画家がどのような印象を持ったのか、そしてそれが出たのか出なかったのかということは、その画家にしかわかりません。
だから失敗だと言われても、他の人にはわからないわけです。

私は、ある程度はそういうテーマも持って描きますが、このようなデッサン会では、自分の思い通りのポーズや構図にできませんから、ただ単に、見て学ぶという勉強のつもりで描くので、難しく考えません。

ただ、時々独り言のように、「もっと美しくならないかなあ」と言いました。ただ単に正確に写すだけでは物足りないとは感じているのです。それは、鉛筆の味であったり、紙と鉛筆の馴染み方であったりします。難しく言えば、絵肌という言葉でしょうか。
ただ単に正確に写すと、写真みたいでつまらないということが出てきます。そうならなための味ですね。

やはり、絵である以上は、絵の美しさが欲しいです。その場合、画家のとらえ方ということが出てくるでしょう。それは、デフォルメという意味ではありません。
途中経過で空間を把握するために使う強弱のような意味です。
描いていて思うのは、それがないと描き進められないのと、捕まえている気分になりません。




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裸婦デッサン会で思うこと

2011-07-18 | 絵のこと
昨日の裸婦デッサン会で、講師の中村先生から、「菅野君は、失敗ということはないんかい?」と言われた。私は、何と答えたか、曖昧な返事をしたと思う。ただ、「そうですねえ、特に失敗ということはありませんねえ」と心の中で答えた。

そのことを今日は考えている。

みんなは、ポーズを決めるとき、「このポーズは難しい」と平気で言う。ということは、易しいポーズがあることになる。私はそうは思わない。どのポーズも難しさは同じだ。むしろ易しいと思っていることが、その難しさに気付いていないのではないかとさえ思う。
どんなポーズなら易しいのだろうか。
私は、ポーズがつまらないとか、面白いとかは感じる。しかし、描く難しさは同じである。

失敗はないのかとの質問には、確かに最近は、全くうまく行かなくてモデルに似ても似つかないというようなことはない。それは、見て学ぶと言う姿勢で、見える通りに近づけて描こうとしているからだろう。

そうだ、失敗とは何か?と考えた方が良い。

まず、構図だ、私は構図を考えて描く。この画面に描くには、どこからどこまでどのくらいの大きさで入れるかをきちんと方針を立てて描く。だから、そういう意味では失敗はないだろう。
この場合の失敗とは、全身を入れるつもりでいたけれど、描いていたらはみ出してしまったということだ。そういうことはないから、失敗はないのだろう。

他の事も同様である。
比率の問題も、描いていたらどうも全身の大きさに対して、頭が小さすぎるとか、大きすぎるなどである。これも途中でよく測ったり、休憩の時に離れて見たりして確認しているから、違うと思えば直すので、修正してしまう。だから失敗には見えない。

そして、明暗も同様である。
明暗は、大きく二つに分ける。そして一番暗い部分を作って、反射光線を感じさせる。そうすれば立体感が出る。明るい部分は、2Hとか4Hなどの固い鉛筆を使って微妙な明暗の差を描いていく。紙の白さは本当にハイライトの部分だけである。
後は、物が物に落とす影をしっかり見る。その陰影表現だ。陰より影の方が暗い。
これを意識、して描く。

明暗の対比が強い部分をしっかり見てそれをポイントにするつもりで描くと、つかみやすいだろう。

とりあえず、簡単に書くとこのようになる。
それらを常に意識して描くから、違っていれば修正するので、失敗にはならない。

だから、まず、見える通りに近づけて描くという姿勢で、以上の点に気を付けて描けば、
特に失敗ということはない。


ただ、この場合、見る力が問題になる。違いに気づかなければ、理由もわからず、うまく行かないと思っているだけだろう。その意味で、デッサン力とは見る力だといえる。


裸婦デッサンの場合は、素人がやると輪郭線ばかり描いている。しかも全てが同じ強さの輪郭線である。輪郭線以外は見えないのだろうか?裸婦の場合は、その体の起伏を明暗の差で描かなければ、輪郭線を追いかけても、ただのシルエットになるだけだ。人間の形をした板に目鼻口をつけて福笑いをしているようなことになってしまう。胸や股の毛は目立つから描くけれど、描くべきはそんなことではない。体のボリュームや骨格、ポーズの特徴、人体が作り出す周りの空間なのである。それを描かなければ、人体を学ぶ意味がない。





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