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絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

バスケットの思い出 余話3

2009-12-06 | 思い出
私は、常に先生みたいだったなあと思います。

ふと思い出したことがあります。それは、仲間のK君から「もう、菅野の睨みは怖くない」と言われたことがありました。なぜ、そんなことを言われたのかはわかりません。しかし、それを言われた時、そうか俺は仲間を睨んでいたんだなと思いました。

要するに、常に睨みをきかして、みんなを支配していたのです。私が思う部活とはこうあるべきだという考えのもとに、それに従わないものが出ないように、睨んでいたのでしょう。それが、部活を引きしめて居たのだと思います。
先輩のKさんが、怖い先輩になって、部活に欠けていた緊張感を取り戻してくれたことに感謝したと話しましたが、私は私で、自分たちの時代を引きしめる役を演じていたのです。

しかも、それは、下級生に向けたものではなく、同級生に向けられていました。練習に手を抜く仲間に対して、無言の圧力をかけて、脅していました。それは、殴るとかいう怖さではありません。言ってみれば先生的な怖さです。いいかげんなことをすると、菅野に怒られるという感じでしょうか。

私は、プレーにおいてだけでなく、様々なことで先生の代わりをしていたんだなと思います。たぶん、そう考えると、先生は菅野がいるから任せておいて大丈夫だと思ったと思います。なぜなら、私が美術部の顧問をしていて常に思ったことだからです。しっかりしている部長の時は、私が出張でも休暇でも安心して部活をやらせることができたのです。そういう意味で、私は先生にとっては、先生の代わりができる部長だったと思います。

K君の発言は、私を舐めているように聞こえますが、それまでは、私の睨みを気にして、怖がっていたのだと分かります。それが怖くなくなったのは、睨まれて怖がっているようじゃ駄目だという意味です。或る意味で乗り越えたのでしょう。もう怖がるんじゃなく、人の目を気にしながらやるんじゃなく、堂々とやるんだという意味だったかもしれません。

ーーーーー
私は、或る時、同級生にボールをぶつけました。みんなで練習をしている時に、勝手にドリブル練習をしていたからです。みんなと一緒にやらないで、勝手な練習をしている状況でした。
私は、直ぐに辞めるだろうと思って、それを期待して、黙っていました。しかし、調子づいていつまでたっても辞めません。それで私が切れました。呼びつけて、みんなの練習を止めて、注意しました。そのときに、勢いでボールをぶつけてしまったのです。そうしたら、逆切れされてしまいました。同級生なのになにするんだよということです。それは、とても険悪な状況になりました。
それまでは、申し訳ないという感じでいたのですが、もう駄目でした。私もそうなると思っていませんでした。だから、とても困りました。しかし、彼はスタートメンバーのレギュラーなのです。この場合、私はどうすればよかったのかと、後でボールをぶつけたことを後悔しました。
しかし、彼のチームワークを乱す行為が許せませんでした。こんな時は、先生に言って、彼をレギュラーから外してもらう行動に出るべきなんだろうかと思いました。しかし、私はそうはしたくなかったのです。それより、すまんすまんとか、ごめんごめんとか言って、直ぐにみんなと同じ練習に戻ってほしかったのです。

教員をしていても、そのような場面には、何度も出くわします。俺が怒らない内にやめろよなと思いながら、待つ時があります。怒鳴り飛ばすのは簡単ですが、そこまで行かない内に気がつけよなと思って待つのです。

しかし、その経験をしたために、私は、警告を発するということを覚えました。「先生が怒りだすのを待ってるのかな?」と言ったり、「賢い奴は怒られない内に止めるよな」とか言うことで、怒らないで済ませる技を覚えました。

こんなところにも、人生の教訓がありました。
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バスケットの思い出 余話2

2009-12-06 | 思い出
高校になって、本庄西のキャプテンと副キャプテンと同級生になりました。

そして、一緒にバスケット部に入ってプレーをしましたが、中学時代の話になった時、副キャプテンのN君が、決勝の時、後半は俺たちもマンツーマンをやればよかったんだと言いました。そうすれば、前半の得点差があるから、後半にいい勝負になれば、勝つチャンスもあったんだと言っていました。
確かにそうだなと思いました。なぜなら、本庄西がゾーンだったので、ダブルローポストの秘策が使えたからです。あのスクーリーンプレーは、マンツーマンでは使えませんでした。それは、ベンチワークの違いで、児玉が勝ったのです。

戦っているのは選手なのに、その戦略で勝敗が大きく左右するということを学びました。ボックスワンによって、我々が負けました。マンツーマンではいい勝負でした。ゾーンプレスで脅かして、スクリーンプレーで我々が勝ちました。こう考えてくると、バスケットは頭のスポーツだなと思います。

ーーーーーー
私がジャンプシュートを覚えたのは、一年生の後半だったと思います。教えてくれたのは、Tコーチです。その頃、二年生の先輩たちは誰もジャンプシュートができませんでした。ジャンプシュートは腹筋がないとできないと言っていました。また、背がないと駄目だとか言っていました。そして、無理にやるならと言って、顔の下辺りから、やってみせてくれたことがありました。
そのときは、へええ、そんなものかな?と思っていましたが、私はやってみたらできました。背が低いとできない。腹筋が強くないとできない。この二つが理由で、先輩たちは、最後までジャンプシュートをしませんでした。

それは、後になると、なんと愚かなことかと分かります。それを考えた時、指導者がいなかったんだなと思いました。私も先輩の言うことですから、一々反論はしません。尤も、軍隊のようでしたから、言えるわけがありません。もし、共和中なら、私は言っていたでしょう。そんなことはないよと。
ジャンプシュートは身長に関わらずだれでもできます。きちんと指導されたらできない人はいません。まして、背の高さは関係ありません。腹筋も使いますが、強い弱いに関係ありません。だから、その当時は、Tコーチは私にだけ教えたのです。
まだ、完全にTコーチも我々のコーチではなかったんですね。どちらかと言えば、共和のコーチでした。U先生と親しかったからです。
だから、Tコーチが本格的に統合中学を教え出したときも、どちらかと言えば、女子ばかり教えて、男子はついでに見てくれるというものでした。男子が本格的に見てもらうようになったのは、私たちより下の学年になってからでした。

ただ、私だけが個人練習を一人でしているものだから、いろいろ教えてもらえたのだと思います。そのために、私は先輩を追い抜いてしまったのだろうと思います。

ーーーーーー
女子の顧問のU先生は、審判の資格を取って、先生方に審判の方法を指導する立場になりました。そのため、県大会でも、審判がどうであるかを審査するくらいの立場になったのです。そうなると、児玉が試合をするときは有利です。試合が終わってから、今のジャッジはどうだったでしょうかと審判がU先生に尋ねるのですから、場合によると、どっちだかわからないボールは、みんな児玉に来てしまいます。ボールがコートから出た時に、どっちが最後に触って出たかで、どちらのボールになるかが決まります。そんなとき、わからないことがかなりあるのです。
そのたびに、マイボールになれば試合はずっと有利になります。極端なことを言えば、審判で試合がひっくり返ることがあるのです。
だから、場合によると、審判がU先生にゴマをすることさえあるのでしょう。それは、いけないことです。しかし、現実にはそういう心理は働くものです。だから、顧問の先生が顧問間の関係をどのようにしているかで、チームが有利になったりもするのだということを後でお聞きしました。
Tコーチが、「U先生が県に行って、他の顧問の先生方と仲良くなってきてくれるので、助かるよ」と言っていたことがありました。



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バスケットの思い出 余話1

2009-12-05 | 思い出
先生は、やはり只者ではなかったという話をしたいと思います。

実は、女子の顧問のU先生もバスケットは素人なのです。それなのに、すごい成績を上げました。私たちは結果的には、県大会予選で三回の内二回アベック優勝したのですが、その下の学年は、県北大会でアベック優勝を果たします。
そして、更にその下の学年は、女子が県大会で優勝、男子は3位になります。
これは、信じられないことです。全くの素人の先生で、たった3年でチームをここまで強くした人が今までいたでしょうか。私が知る限りでは居ないように思います。
しかし、その方法は、コーチの使い方でした。というか、いいコーチがいてくれたのです。Tコーチに私は教えてもらったと言いましたが、その方は、後に、埼玉県の県会議長を務めた方です。その人が仕事もそっちのけで、ボランティアで教えてくれたのです。技術面においては、ほとんどTコーチの力でしょう。

また、私は卒業後はバスケットを教えに行きましたが、どちらかと言えば、U先生と仲よしになり、いろいろ教えていただきました。そのU先生のやり方は、とにかく強いチームに行って、練習を一緒にさせてもらうこと。一緒にやっている内にどちらがどちらのチームの子だかわからなくなる。それは、そのチームに近づくには一番良い方法だということ。それを教えてもらいました。
そうやって、先生は児玉のレベルアップを図ったのです。それが、顕著にわかったのは、U先生が神川中学に転勤してからでした。神川中学の生徒を毎日のように児玉に連れて来て練習している内に、直ぐに児玉を追い抜いてしまったからです。
なるほどと思いました。
こんなことも、私の美術部の指導で生きているのです。私も追い付きたいと思うところがあったら、そのような意識を持って、生徒を連れて行ったりしました。

私の場合は、同じ高校生ではなく、プロの画家でしたけれど。

ーーーーーー
また、面白い話は、私が宿命のライバルと思った本庄西のキャプテンのO君ともう一人副部長のN君とは、高校一年で同じクラスになります。そして、同じバスケット部でチームメートとして活動しました。そこでは、私がキャプテンになりました。だから、或る意味で、私は宿命のライバルに個人としても勝ったつもりでした。
また、そのチームには、あの大原中のレギュラーだった選手もいました。そして、県大会で優勝した荒川中の選手もいました。いろいろ中学時代に出会った選手たちが集まりました。だから、そのときのことを話すのも楽しみでした。
そして、その彼らより私がプレーが上手いと確認できたことが嬉しかったのです。

そのことは、私が一年生でありながら、先輩に混じって大活躍することで証明しました。その話もまた、中学で先輩たちを追い抜いて行ったことと似たような話になりますので、また機会があればお話ししたいと思います。


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バスケットの思い出20

2009-12-05 | 思い出
最後の県大予選、決勝戦になりました。

決勝戦には、メインコートが作られました。準決勝までは、体育館の二つのコートを同時に使っていましたが、もうこれが最後だということで、その試合だけが注目されるように、二つのコートに跨るように、中央に作られました。それまで、天井に張り付いていた透明なバックボードがおろされ、まさにメインコートという感じです。

女子は、毎回優勝です。他のチームを相手にしません。我々は、それが終わるのを待ちました。果たしてその試合を見ていたのかどうか、記憶にありません。私は自分たちの試合のことばかり考えていました。

我々は、この日のために、秘策を用意していると話しました。果たしてそれが効果を発揮するかどうか、そのことを考えて、頭の中ではもう試合は始まっていました。今でいえば、シミュレーションをしていたのです。

この試合には、埼玉大学付属中学のY先生が応援に来てくれました。顧問の先生が親しいからなのか、バスケットの指導方法の研究をされているためか、以前一度来て、我々は、この先生の指導を受けました。そのときは、1対1でいる状態にどのようにパスを入れるか、パスを受け取る側が、いかにディフェンスを振り切ってもらうかというパターン練習をしたのです。その指導の仕方をいろいろな先生方に示す研究授業だったように思います。

そして、その時は、最大付属中学の部員も連れてきて、やってみせながら指導に当たりました。だから、我々はそのときに埼玉大学付属中学と練習試合もしています。そのときは、みんな背が高く、しかし、都会の子供で、ひ弱そうなひょろひょろとした子が多いなあと感じました。そして、人数が多いなあと感じました。我々の倍はいたように思います。試合は、正式な時間ではなくやったような気がします。そして、負けました。

私たちが、一年の頃はこの埼玉大学付属中学と川越富士見が強くて、その二校で決勝戦が行われたと三年生から聞き、ゲーム感覚で遊ぶ時は、どちらかがこのチームになりきって、遊んだものでした。

野球をするときに、じゃあ、俺たちがジャイアンツな、そっちが阪神だぞ、いいか?と言って、それぞれそのチームになりきって遊ぶことがあります。それと同じことをやっていたのです。

その埼玉大学付属中学が眼の前に来てくれたのでした。考えてみると不思議なことです。余談ですが、私は、その後、埼玉大学に進学し、教育実習でこの中学へいくのですから。そして、バスケット部の面倒をみるのです。それは、このときは、考えもしないことでした。

とにかく、いろんな関係があって、Y先生が応援に来てくれました。

決勝戦が始まりました。
ーーーー
我々の秘策とは、私に対するボックスワンを意味のない物にするためのものでした。それは、ゾーンプレスでした。
私たちのチームは、みんな背が低く、大きいのは私だけです。大きいと言っても並みの大きさで、170センチしかありません。だから高さで負けることがあります。それを関係ない状態にするには、プレスをかけて、リングから遠いところで勝負をするのがいいのです。このゾーンプレスはそういう意味もありました。

まず、シュートが入ると、相手はリング下からパスを出すのですが、もうそこからパスを出させないディフェンスをします。我々の小さい選手3人がその位置からプレッシャーをかけるのです。そして、パスが出たらそのボールを持っている選手に二人かかりで取りに行きます。そうすると挟まれてボールを取られそうになるので、なんとか振りほどいて苦し紛れにパスを出すのです。それを3人目が狙います。

そのときに、私は、センターサークル付近にいて、ロングパスのカットを狙います。最後の一人は、もし、ロングパスが通ってしまったときに備えて、自分たちのリング下に位置して、速攻にそなえます。そういうディフェンスでした。

前の三人は、小さいけれど、すばしっこくてしかも持久力のあるメンバーでした。
実は、この三人は駅伝の選手でもありました。もっと言えば、駅伝で県大会で3位になりましたが、そのメンバーだったのです。持久力ではこれ以上ないすばらしい3人がバスケット部にいたのです。

もう少し、説明すると、一人は、副部長のI君で、共和中出身。一年生の時、ボール持ちで、県北大会に行ったI君です。彼は、共和中学でマラソンが一番速いのでした。後の二人は、私と同じ元児玉中出身のH君とK君で、H君は児玉では小学校時代からマラソンで常に1番でした。例の辞めたいと言ったH君です。K君は、一年生の時に坂をうさぎ跳びで上がらされて、私に勝ったK君です。
この三人が前で、動き回ります。

私はと言えば、センターサークルの真ん中にいて、三人に檄を飛ばします。「当たれーー当たれーー」と叫ぶのです。まるで、戦国時代の武将がひらひらの付いた棒で全軍に指示を出すような感じです。

なんだか、かっこいいですよね。そして、ロングパスが出ると、それをすごい勢いでカットに行くのですから、やっていて一番気分のいいポジションです。この奇襲は成功しました。なぜなら、本庄西はこれに驚いたからです。そして、戸惑いました。

ただ、我々は、動きと勢いはありましたが、シュート力がありません。せっかく良いカットをしても、シュートでポロッと落としてしまって、がっかりしてしまうのです。それが何度もありました。

相手のゾーンを攻めるのではなく、途中カットして、そのまま持ち込む形ですから、シュートは私より前の3人が打つことが多くなりますが、そのシュートがなかなか入りませんでした。

そして、前半が終わってみたら、17-12くらいで負けていました。私は、アレーッと思いました。本庄西は、「おい、俺たち勝ってるぞ!」と意外や意外という感じで、呆れています。まさか勝っていたとはというのです。ハーフタイムで水を飲みにきて、そう言ってはしゃいでいるのが聞こえました。

我々は、脅かして相手を慌てさせたことは、成功していました。問題はシュートが入らなかったことだけです。しかし、負けていたので、気持ちは沈んでいました。

そのとき、応援に来ていた埼玉大学付属中学のY先生が、慌てることはない、君たちは勝てると言ってくれたのです。自信を持ってやれ、自分たちのバスケットをやるんだと言ってくれました。いや、本当は覚えていません。たぶんそのようなことを言ってくれたのだと思います。我々は、夢中で聞いていました。なぜ、あの時、ハーフタイムでY先生が言ってくれたのか、いま考えると不思議です。しかも顧問の先生ではなく、Y先生なのです。
私は、言葉は覚えてないけれど、このY先生が神様のように思えました。我々はきっと勝てるという気になりました。

そして、後半が始まりました。
ゾーンプレスは、効果はあったけれど、得点では負けていたため、今度はオールコートマンツーマンに切り替えました。相手は、前半と同じゾーンでした。
我々は、実はもう一つ秘策を用意していました。それはボックスワンを振り切って私がフリーでシュートを打つ方法でした。
それは、ダブルローポストでした。これは、説明しないとバスケット経験者でも分からないでしょうが、フリースローを打つ場所をハイポストと言います。それに対して、フリースローレーンのリングに近いところをローポストと言います。ダブルポストとはその位置に二人立つのです。

そのポストに大きい選手が立って、ボールをもらうとシュートが打ちやすいため、その攻撃のことをポストプレーという名前がついていますが、我々はそれを二人で行うことを研究したのです。もちろん、そこには私が立ちます。そして、もう一人私の次に背の高いK君が並んで立ちます。
私にはボックスワンのH君が付いています。タイミングを見て、K君が私とH君の間に入ります。それは、K君を壁にして私とH君を引き離すプレーでした。これは、専門的に言えば、スクリーンプレーと言います。それを試みました。そして、まんまと成功しました。H君は慌ててました。「あれーー」と言いました。私は、やったーとばかり、パスを受けて、シュートを打ちました。ただ、久しぶりにフリーになれたので、勝手が違って、そのシュートを外してしまいました。
ただ、その秘策は大成功でした。結局、私は、リング下で、何本もシュートを決めました。

ただ、なんだか変だったのは、いつもよりシュートに対する歓声が少ないように感じました。私のシュートは0度からのジャンプシュートが多くて、0度ですから、バックボードは使いません。だからいつでもリングにスパッと入るかっこいいシュートなのです。そのシュートを決めた時は、ナイスシュート!という弾むような声が響いていました。しかし、リング下から決めたシュートはかっこいいシュートではないからか、その反応が違いました。私は、シュートはシュートなんだから同じような反応を期待したのですが、そうではなかったことをやけによく覚えています。
得点はどんどん開いて行きました。相手は、マンツーマンをやられて、疲れてしまったようで、攻めに苦しんでいます。私たちは、リング下からスクリーンを使って得点を積み重ねて行きます。それに加えて、前半落としていたシュートも他のメンバーが決め出しました。バスケットでは、勝っているのに、得点で負けていたのですから、シュートが入り始めれば、こちらの方か上なのはわかりました。

とうとう、45対28で我々が勝ちました。

終わってみれば、大差でした。

私は、この勝利は、Y先生が与えてくれたものだと思いました。

しかし、それは、間違いです。確かにY先生の声が神様の声のように聞こえました。しかし、それまで、私たちをよく面倒見てくれて、素人であるにも関わらず、よく勉強して、コーチを手配してくれたり、練習試合を組んでくれたり、辞めたい部員を引きとめたり、ありとあらゆる努力をしてくれた顧問の先生がいたからなのです。自分が教員になってみるとそのことがわかります。

私は、実は、顧問の先生が私の中学時代のほとんどを占めています。
中学一年と三年で担任。二年と三年で顧問ですから。K先生一色です。私が先生になりたいと思ったのも、このK先生の影響が大きいと思います。

ですから、この私のバスケットの思い出は、このK先生への感謝として締めくくりたいと思います。有難うございました。

ーーーーー
余談ですが、この後、最後の県大会に行きます。
相手は、忘れてしまいました。我々と同じタイプのチームで、お互いにオールコートのマンツーマンで戦い、私はへとへとになりました。やはり、バスケットは一人の選手が初めから最後まで出ないで、途中で交代して休んでまた出るというパターンでないと、へとへとになってしまいます。それは、後でわかることで、なかなかそこまでは、わかりませんでした。

そして、我々より、背が高く、シュート力もあるそのチームに負けました。残念ですが、そのチームにはリベンジマッチはできません。もう引退だからです。

長いバスケットの思い出を読んでくださったみなさんに感謝します。有難うございました。





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バスケットの思い出19

2009-12-04 | 思い出
決勝に行く前に、少し監督の考えと私たちの思惑について、話したいと思います。

それは、後で考えると、監督の方針に対する我々の抵抗でした。

監督の考えは、とにかく強くするために、スタートメンバーの力をアップさせようというものでした。それは、分かります。しかし、あまりにそれを考え過ぎて、交代メンバーを育てることがおろそかになりました。バスケットは、6人目7人目を使えるように育てることが必要なのです。これまでのどこかで話しましたが、バスケットは、スタートメンバーの5人で戦うスポーツではないのです。それを初めのメンバーを変えるのは、5ファールで退場した時だけというような使い方でした。

これは、監督やコーチの考え方だったのでしょう。
私は、その辺に不満を持っていました。もっと、控えの選手を使ってほしいと、訴えました。レギュラーと補欠ではなく、交代しても、同じように使える状態を作ってほしかったのです。

それで、練習中にU君ではなくK君にも同じことを練習させてほしいと言いました。
また、トップのH君ももう一人のH君と交替させてほしいと言いました。

先生は、それは、ベストメンバーに選ぶチャンスを与えてほしいと私たちが言っているように受け取ったかもしれません。私たちはそういう気持ではなかったのです。しかし、他のメンバーを使えという要求は、ベストメンバーを変えろという要求に聞こえたかもしれないのです。
そして、U君はK君に替わりました。しかし、H君は、元のままに戻りました。途中で先生が、何でもう一人のH君を使えとみんなは言うのかと逆に聞き返して来ました。友だち関係で、レギュラーのH君がだめな理由でもあるのかという感じでした。

私たちは、そんなことはありません。ただ、それを上手に言うことができませんでした。要するに、メンバーチェンジしても力が変わらないようなチーム作りをしてほしかったのです。

しかし、それをH君も勘違いしました。自分がレギュラーから外されると勘違いしたらしいのです。それでだと思いますが、部活を辞める騒ぎを起こしました。
その前に、一人6番手と思われるT君が辞めたばかりでした。そのT君は、レギュラー云々の話ではありません。進学を考えて勉強したいからというのが理由でした。
我々は、そのT君を辞めさせたくなくて、とことん話しました。しかし、ダメでした。3年になってどうして?もう少しじゃないか。最後まで一緒にやろうよ。などなど、いろいろ特別な時間を作って話しました。しかし、結論はダメでした。とても残念でした。だから、今回のH君もダメかなと思っていました。

私は、H君から階段の踊り場に呼び出されて、それを言われました。階段の窓のところで、外を見ながら、辞めたいんだと言われました。私は、それを聞いて、「そうか」と残念そうに言いました。T君のときに散々言ってもダメだったので、もういろいろ言うのは止そうと思い、そのまま「わかった」と言って、話をしませんでした。
何も言わないということは、彼にとっては意外だったようです。私は、一つの作戦のつもりでした。何も言わないということは、どういうことか。H君に考えてもらいたかったのです。何も言わないのは、言うこともないというのではなく、言うことは分かっているはずだと言いたかったのです。しかし、どうしてもダメならあきらめるよということだったのです。後日彼は、こう言いました。「菅野は、あの時何にもいわなかったもんな」と。それが気になったと言っていました。

何も言わない方が、彼には効果があったのです。気にするタイプなのです。なんとなくその性格を分かっていたので、私は敢えてなにも言わない作戦に出たのです。

しかし、とても不安でした。辞めてほしくないのに、分かったと言ったのですから。
ただ、私は、自分のその態度が彼を引きとめることになったのかは、わかりません。裏で先生がどのくらい彼を説得してくれていたか、分かってないのです。
ただ、彼が、私の取った態度が気になったと言ったことは事実でした。

結局、事を大げさにしないで済んだので、それも良かったのかなと思います。

それで、H君は最後までやることができました。

よく、大人の世界では、監督と選手の考え方の違いで、チームがうまくいかなくなるという話を聞きました。こんな中学の3年間の中でも、あるのですね。ただ、私たちは、そのいざこざをするところまで行かない内に引退になったということでした。先生には、先生の思惑があって、チームを強くするために考えていることがあるので、あまりにそのことを言いだせば、生意気言うなと叱られたかもしれませんね。
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