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絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

文化祭の思い出

2010-06-29 | 思い出
平成2年ごろの文化祭で、前庭ステージの背景の絵を美術部が頼まれました。
ベニヤ20枚以上の大きさでした。下絵を美術部が描いて、色塗りは文化祭実行委員がやりました。その写真が出てきたので、ご紹介します。



これは、記念写真を撮ろうと美術部がステージの上に乗ったときでした。
部員が60名くらいになった時でした。

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部活としての美術部

2010-01-28 | 思い出
美術部の指導を25年間やりましたが、いろいろなことがありました。

ある時、入部を希望してくる生徒が活動内容を聞いて、「どうしてそんなにやるのですか?」と言いました。日曜祭日休みなく、年中無休の美術部を作ったので、気楽に適当にやりたいという気持ちの生徒には、向かない美術部になっていました。

私は、日本一の美術部を目指しますと言って取り組んでいたため、それを「いいぞ!」と言って応援してくれる人たちの声援に応えるようにやってきました。

だから、この美術部は今はそのような目的でやっているんだよと説明しました。
要するに、とことんやりたいという子にはとてもうれしい美術部なのです。

ということは、逆を言えば、ただ絵を描くことを楽しみたいという分かりやすく言えば、一週間に一回程度絵が描ければいいという人には向かない美術部になっていたのです。

ーーーー
そのため、そういう希望の生徒は、美術部に入ることができませんでした。
私は、「美術部に入らなくても、絵を見てほしいなら、私のところへ時々持ってくれば見てやるよ」という話をしてやり、入部するなら、他の部員と同じことをしなければならないということを話しました。

やはり、それを聞くと、躊躇して結局は入部しませんでした。

ーーーーー
私は、一週間に一回程度描きたいという生徒の希望に応えてやるために土曜デッサン会を開いて、募集をしてみたりしましたが、やはり、そういう子はなかなか参加してきませんでした。
要するに、自分の気が向いた時にやりたいだけなので、こちらが設定したのでは、それに合わせる気持ちはないのだなと分かりました。

ーーーーー
私は、美術部をやっていても、その美術部員の中にも、気持ちの強さに差があるので、週3日活動をする生徒とか、いくつかのコースを作ってやるほうがいいのかなと考えたことがありましたが、それをやるといろいろなことで不公平の問題が出てくるため、できませんでした。幸い美術部はレギュラーと補欠という感覚はないので、全員が展覧会などに出品できます。それが良いことかどうかわからないのですが、そのために、このコースをつくるということも出てきてしまうのです。

もし、レギュラーと補欠があるなら、週一回だけ参加したいなどという子はいないのでしょうね。例えば、野球部で私は試合に出なくてもいいのです。週一回程度野球を楽しめればいいのですと言って、野球部に入りたいという生徒はいないでしょう。
受け入れる側も、そんなやつは入部させないというのが、当然でしょうね。

だから、私は野球部と同じような感覚で美術部をやってきたことになります。

適当に来たり来なかったりということを許さなかったのです。
それは、預かった限り必ず、本人が満足のいくようなレベルの絵を描かせるという気持ちで指導したかったからです。

それが、私が目指した美術部だったのです。


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バスケットの思い出 余話6

2009-12-10 | 思い出
最後の県大会のことは、簡単にしか触れませんでしたが、私はへとへとになったと書きました。

K君に言わせると、あれは作戦負けだと言いました。

相手のマンツーマンに対して、こちらもずっとマンツーマンで行くには、体力が続かないというのです。持久力のある3人はいいけれど、私と、もう一人のK君は駄目だと分かっていたと言っていました。もう一人のK君とは、私とダブルローポストを組んだK君です。

それで、もう一つ思い出すのは、私たちはこの夏の県大会の前に、かなりの練習をしました。それが、実は持久力をつけるような練習だったのです。しかし、その後思ったのは、それは絞られ過ぎたということでした。
なぜなら、私はそのためにかなり痩せました。家で食事をしているときに、父に言われました。「お前、ずいぶん痩せたな」と。

持久力を付けるはずが、逆に体力を消耗していたのかもしれません。
しかし、自分には分かりません。埼玉大学付属中学のY先生はその後も指導に来てくれて、かなりの時間面倒をみてくれました。その時に、よくこれだけきつい練習に耐えた、君たちは凄いと言ってくれました。

私たちは、1年生のときに、先輩たちの理不尽ないじめ的きつさに耐えています。だから、Y先生の言うきつい練習などはきついとも思わず、先生が言っていることがわかりませんでした。きついと思わなかったからです。

しかしそれは、やはりきつかったのかもしれません。
だから、県大会の時には、体力が続かなかったのかもしれないと後で思いました。

試合中、私はメンバーチェンジをしなかったので、試合に出ずっぱりでした。終わり頃K君は5ファールで退場してしまって、ベンチから声をかけてくれるのですが、私は体力がなくて、へとへとで歯を食いしばってプレーしていたことが思いだされます。「ここで負けたら、もう終わっちゃうんだぞ!」とK君が言った言葉が忘れられません。終わった後、試合に出なかったH君が泣いていたそうです。これで中学時代のバスケット生活が終わったんだということで、涙が出たのでしょう。

そのH君は、その後高校の教員になってバスケットの顧問になり、県大会でもベスト4くらいまで持って行きました。我々同級生の中では、バスケットの指導者としては、一番活躍してくれた人です。
ーーーーーーーー

体力で思い出すのは、引退した後バスケットをやると、実に気持ち良く動けました。引退して栄養が足りて体が休まると、その数カ月は最高のプレーができるのです。そして、その後、段々体力が続かなくなるという経験をしました。やはり、練習していないと衰えて行きます。一試合の体力が続かなくなります。そういうものなのですね。体力を考えながら、絞るときと、体力を取り戻すときのバランスが大事なのだと思います。

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バスケットの思い出 余話5

2009-12-09 | 思い出
昨日、なかまちにいたら、K君が来ました。

K君には、時々会っていますが、久しぶりにバスケット部の時の話をしました。
私がバスケットの思い出を書いたことを話して、後で読んでほしいと言いました。

このK君は、高校になってから空手を始めて、その後の人生では空手の先生として指導を続けています。今は、体を壊して実践はできなくなりましたが、それでも育てた指導者が幾人もいるので、今でも、その各支部を周って、指導を続けているのです。実績は、小学生の部で、何人も日本一の成績をあげました。すばらしい指導者です。

そのK君が、昨日も思い出して言うことには、「やはり、中学時代のバスケットがあったから今の自分がある」と言いました。もし、バスケット部でなかったら、俺はどうなっていたかわからないなあと。

実はK君は、喧嘩をやらせたら誰にも負けないだけの力を持っていました。背は小さかったのですが、気が強く腕っぷしも強かったのです。

だから中学時代、少し突っ張りたい奴もこのK君には敵わず、みんな小さくなっていました。

このK君と私の中は、例のうさぎ跳びの競争です。また、練習中に勝手なドリブル練習をしていたので、私が呼びつけて、ボールをぶつけたことで紹介しました。
だから考えてみると、私もなかなかの度胸ですよね。喧嘩をやれば、私が負けるのは目に見えているのです。

その時の、話をしてみました。すると、K君は覚えていないと言いました。
ただ、覚えていないのは、それほど頭に来た訳でもなかったんだと思うし、それは自分が悪いからだと思ったんだろうなと言いました。
また、私の気持ちも今ならよくわかるよと言いました。それは、自分が空手の指導者になってみて、そういう場面がいくつもあるというのです。

ただ、菅野はそういう感覚をもう中学時代から持っていたんだなとそれに感心すると言っていました。俺なんか自分のことしか考えられなかったと。どうやれば自分がレギュラーになれるかということばかりで、人のことや全体のことを考えられなかったよと。

話が先輩にしごかれたことに移ると、「俺たちはよくいじめられたなあ」と言いました。「特に、俺とお前は」と。

私は、K君がいじめられたことはよく覚えているのですが、自分のことは忘れてしまいました。だから、俺とお前はと言われた時、私もか?という気持ちがありました。私の場合は、プレッシャーをかけられたけれど、ことごとく先輩が驚く反応を示して、あのやろうすごいなと言わせたような気がするのです。

あんな過酷なことを言ったのに、やっちゃったぜと先輩を驚かすことが多かったとなんとなく、マンガみたいなことを多く覚えているのです。できっこないと思って、やれと言ったのに、やっちゃったという感じですね。

じゃなかったかな?と思うのですが、今度具体的にどうだったのか、もう少しよく聞いてみたいと思います。

それより、K君に対するいじめです。

K君は、よくグランドを走らされました。失敗をするとすぐグランド1周をさせられます。大抵は100数えるまでに帰ってこいと言われます。そして、先輩が数えるのですが、K君が近づいてくると、急に数える速度が速くなって、「はい駄目、もう1周」とわざと追加で走らされます。あまりに何度も走らされるので、K君も意地になって、わざと100を超えるように帰ってきて、もう1周と言われる前に、自分から「行ってきまーす」と言って、走り続けるようになりました。

あるとき、野球部でも同じように走らされている選手がいました。先輩たちは数えるのが嫌になったのか、野球部のあいつを抜いたら、終わりにしていいよと言いました。見ると、その野球部の選手は、グランドの反対側を走っています。抜くのは大変です。そして、なかなか速いのです。
後で聞くと、野球部の先輩も、K君を見つけて、あいつを抜いたら終わりにしていいよと言ったらしいのです。だから、二人のマラソンはいつまでたっても終わりません。先輩たちは野球部の先輩と示し合わせて、そのように走らせたのかもしれません。とんでもないいじめですね。

このことが、いじめの象徴です。

しかし、このいじめによって、K君はその後駅伝選手になるのです。マラソンがとても得意な選手になりました。だからでしょうか。彼はむしろあの時走らされたことが俺にとってはよかったんだ。だから俺は先輩に感謝しているよ。と言いました。私は、プレーで先輩を負かすことで、恩返し?をしました。K君は、マラソンで、負かすことで恩返しをしたのです。

なぜなら、その年の冬のマラソン大会で、K君は1年生なのに、3位になります。
1位は、バスケット部の3年生でしたが、2位は小学校の時から常にマラソンで1位だったやはりバスケット部のH君でした。辞めたい騒ぎをして、私がわかったとそっけない態度を取ったために辞めなかったとお話ししたH君です。

私の同級生は、マラソンの強い二人がいたのです。

しかし、その時の様子をドラマにしたら、一時間番組が作れますね。K君が自分をいじめた先輩たちをマラソン大会で抜いて行くときの状況が目に浮かびます。先輩たちがヒーヒーいいながら、走っているところを「先輩、お先に」と涼しい顔で抜いて行くのは、痛快でしょう。お陰で僕はマラソンが大好きになりました。とでも言えば面白いかなと。

昨日はそんな話をして別れました。





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バスケット思い出 余話4

2009-12-08 | 思い出
私は、大学を出た後、二年間就職浪人をしていました。
教員試験を受けたけれど、健康診断で教員になるのを少し待った方が良いと言う判断をされて、浪人をしていました。その間に、児玉中学にバスケットのコーチに行きました。

まだ、私の恩師K先生が男子の顧問をしていたので、遊びに行って、コーチもさせてもらいました。その頃は、もうバスケットが弱くなっていて、県大会にも出られない状況になっていました。女子のU先生は神川中学に行ってしまい、神川が県大会に出場する時代になって、その後U先生は管理職になって、また、違う学校に移ってしまったため、他の中学が県大会に出場するようになっていました。

そう考えると、チームというのは顧問次第だなと思います。その頃、まだK先生は顧問をしていたのに、なぜ弱くなってしまったのか、私にはわかりませんが、やはり教員にもピークというものがあるのでしょうか?それとも選手の状況だったのでしょうか。

とにかく、県大会に出られないチームになっていました。
私は、その男子のお手伝いをさせてもらいましたが、県大予選の決勝まで行って、負けてしまいました。
そのときに、女子も少しは見ていましたが、顧問の先生とはつながりがなかったので、指導はしませんでした。チームは、やはり県大には行けないでいました。
ただ、選手の様子を見ていたら、なかなかいい子がいるのです。私は、先生にこの子たちなら県大会に行けますよと言いました。
しかし、先生はそうですか?と自信がなさそうに答えました。騙されたと思ってやってみますか?と私が言いました。そして、女子の指導が始まりました。
私は特別な指導をした訳ではありませんが、ちょっと力を入れて指導してみました。そうしたら、約束通り優勝して、県大会出場を果たしました。顧問の先生は大喜びでした。出場経験のない先生にとっては、信じられない結果だったかもしれません。
その予選では、一回戦でU先生のチームと戦いました。U先生のチームはまだ、チームになっていなくて、一年生のチームでした。しかし、児玉の顧問の先生は恐れていました。ベンチワークで負けるという気がしていたようです。
途中で、U先生が出す言葉とか、タイムアウトの取り方で、「あれで、やられてしまうんですよ」と私に説明しました。私は、そんなことなんでもないですよと答えましたが、選手のプレーよりもベンチワークを怖がっていることが意外でした。

しかし、試合は大差で勝ちました。

決勝は、美里中学だったと思いますが、私の予想通り勝てました。予定外だったのは、美里中の顧問の先生だったでしょう。児玉には勝てると思っていたら、意外な助っ人がいたのですから。それが、私だった訳です。こんな予定外のコーチがいるとは思わなかったようです。

県大会は、上尾の運動公園の体育館でした。しかし、私の指導力が足りないこともあり、一回戦で負けてしまいました。

私は、このチームをもっと強くするための方法を考えて、練習量を増やそうとしました。すると、顧問の先生から、それはできませんと言われました。

丁度この頃、埼玉県の県北にも部活を遅くまでやらせるのは良くないと行きすぎに対する、PTAの圧力がかかって来たころだったのでしょう。少し前は、県南でそのような動きがあって、部活がみんな駄目になって来たと聞いたことがありましたが、その波が県北まで到達して来たのでした。

私は、先生に、「先生はやっぱり教育的にやりたいですか」と聞きました。先生はそうだと言いました。プロのバスケットの取り組みではないので、学校教育という範囲内でやれるところまでやるという考えでやるしかないというのが、先生の考えでした。それは、正しい判断です。しかし、それでは、他のチームに勝てません。
私はそれが分かったので、コーチをやめました。自分がやるからには、強くしたいからです。県大会に連れて行くという約束は果たしました。だから、ここで一区切りつけていいだろうと思いました。生徒たちはなぜ私がコーチを辞めたのか知りません。

私は、部活はやはり自分が顧問にならなければ、やりたいようにはやれないということをここで感じました。ただ、普通のことをしていたのでは、勝てないのです。
だから、美術部の顧問になって、私のやったことは、普通の顧問ではやれないことばかりでした。それが、本庄第一高校の美術部をつくりました。漸く自分の作りたい部活ができたのです。



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