森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

「~ように」を想像する

2008年02月12日 11時54分56秒 | 過去ログ

ブログを滞らせるつもりはなかったが、
結果的にそうなってしまった。
高熱、それも高校以来の40度越えをしてしまい、
動けなかったのである。


アムステルダムより帰り、
変な病気はもらったわけでないが、
2日ほど奈良にいて、
そのまま富士へ。

日本理学療法士協会の現職者講習会。
伊豆から富士に変更されて何年が経過したことか。
目の前に壮大で寛大な富士山をみると、
なんて自分は浅はかで小さいのかと、
心理的に感じる。

富士での講演は1講義目、
スライドを使わず、身体は何のためにあるのか、
という視点で感じることの重要性、
そして、その主体的に感じることから生まれる
脳の可塑性、運動学習についてのべた。

視点の変化を求める。
そのあとの懇親会では目からウロコであると言っていただいた。
動けることに主眼が置かれるリハビリ、
人間にとって幸福なのは、自ら感じ取れることである。
感じられない世界、それを想像してみたら容易だろう。
感じることの意味について、もう一度問いたい。

心が痛い、身体が痛い、痛みとは何か?
感じるとは何か?
セラピストの脳の柔軟さが問われる。
機械論を信じると、柔軟さが失われ、
自らの脳もサイボーグ化してしまう。

懇親会後、うどんを食べに、午前様。
初日の夜は元気だった。

翌日、実技を中心に行う。
これが功を奏し、今回はいい講習会だった。
久しぶりに、それを感じた。
みんなの顔をみればわかる。
わからないながらも、学習の喜びを感じ取っている。

概念化されていない若いセラピストは特にそれを感じた。
自分の身体も知らないのに、
どうして患者に運動・動作を教えることができるのか。

それに気づいてもらえればよいと思う。
両恩師は相も変わらず、講義がうまい。

その夜、スタッフと懇親会があったが、
どうも調子が悪い。
午前様にならない23時半といった早々の時間に引き上げ、
寝たが、翌日の講義をなんとかしないといけない。
そして、急きょ、プログラムの変更。
受講生の学習の手続きを考えた上での変更である。
つまり、講習会とは流れであり、
それは神経の流れとも似ており、
局在が別々に発火しても意味がないのである。
神経の興奮でなく、組織化、
流れが大事である。
連合野での処理がないまま、興奮を求めれば、
かい離が生じる。
受講生とのかい離が生じる。

反射と一緒である。
脳をシステムとして考えるとそれは妥当であり、
社会を同じくシステムとして考えても妥当である。

実習は大変だ!!!と連呼して、
学生に恐怖を与えている教育者も、
実は心の反射回路を刺激しているのにすぎないことに気づいてほしい。
いまだに、そういう思考回路が続いているのが悲しい。
時代が変われば、思考も変わる。
昔話ばかりのナルシストにはなりたくないものだ。

最終講義では、認知神経リハビリテーションの構造を
脳の機能から説明し、脳を知るとは自らの脳を知る手続き、
セラピストの脳が変わらなければ、患者の脳も変わらぬ。
そういう視点を脳科学からの述べた。


そして、「ロマンティックリハビリテーション」


学校で習ったことをすべて忘れる。
アインシュタインの言葉が染みる。


質問タイムでは、「過去」「現在」「未来」が取り上げられたが、
ささやかでも良いから、
「~ように」生きたいを想像することかな。
人生はバイアスだらけである。
それが間主観性である。
バイアスのない世界を想像してみると、
それは無機質な地球である。
有機体として地球に存在している以上、
バイアスはかかって当然である。
何もおそれることはない、
しかし、物事はそんなに単純なものでない。
側面、裏面、あらゆる角度(空)、そして時間から、
物事をとらえる科学的態度が必要である。
人生はバイアスがあるからすばらしいものいになるが、
そのバイアスに胡坐をかいていれば、
世の中は停滞してしまう。


脳が解明されていれば、とっくに脳卒中は治っている。
人間の思考よりも、
脳の構造と機能が恐るべき深さと広がりを持っているからである。
人間は自らの脳に負けている。
自らの脳の数パーセントしかまだ発揮できていない。


もうすぐ2010年、この10年を振り返らず、
つぎの10年を想像して、
自らの仕事を夢あるものにしようじゃないか。
同士たち。


やっと、このようなブログを打つことができるまで回復してきたが、
37度代から下がらず、腹部は激痛である。

ブログが少しの安らぎと思って書いた。

採点に戻ります。