今日は、少し大学に行き、雑務をして、
3年生の評価実習施設の訪問に出る。
「ちょっと、今日は研究室で処理したいものがある」
その自らのこころと決別して、
河内の病院へ。
順調を確認し、その表情から、安心を持った。
少し時間があったので、今里の病院に向かい、
院生の計画書を指摘し、
そのまま、河内に戻り、老人保健施設へ。
今が成長の過程。
そんなことを感じながら、
「喜怒哀楽」とはよく言ったものだ。
と、人間らしさを感じ、
「四苦八苦」の意味を再認識し、
20代前半の「こころ(精神)」のはぐくみの重要性を感じた。
「他」ばかり気にして、「自己」を意識していない。
PTだろうが、なんだろうが、あんまり「意識」せずに、
「人間」として、どう生きるかを考え、
「自己中心的」志向にならず、かといって、「他者」ばかり気にして、
自己嫌悪に陥らず、
どう生きるか、を悩んでほしい。
自己嫌悪とは、所詮、自己保護なのだ。
こころの揺らぎが、明日の自分を創る。
人生は、未完成だから面白い。
「うれしいことは手ごたえ」「かなしいことは口ごたえ」
自らの身体で、自らの心を感じることだ。
それが「わかる」を創発する。
「わかった」という私にしかない感覚は、突然生まれる。
付け焼刃で生まれないし、だれかの借り物でもない。
最近、いろんな人があとがきで「上辺」だけの脳科学者を批判しているが、
それも自己保護にすぎない。
それをしている「心意気」を計らず、
自分の精神の枠組みのなかのみで、否定している。
それは科学でなく、文化だといい、自らをある枠組みに落とし込み、
世界観を小さくしている。
「実験」「実験」といって他を知らず、自己を保護している人たちは、
「臨床」「臨床」といって保護している人たちに似ているし、
その小さな枠組みでは、突然変異は生まれないかもしれない。
小さい枠組みで争うことの醜さを思いながら、
「臨床」という「人間らしさ」の場を感じることができ、
今日は自分を自分が体感することができた。
久しぶりに、生き方、将来を思うことができ、
10年後、どう生きるかをイメージしてみた。
車を運転しているときか、歩いているときか、
はたまた、風呂に入っているときか、
そのときの、脳のなかのことばの結合(神経結合)は、すごい。
イメージと同時に、もう1回自分を不安定な揺らぎに追い込んでみようと思った。
時間を削ってでも(睡眠を減らしてでも)、色んなことを考えてみたい。
人間らしさを科学する。
人間探求学研究室にでも変更しようかと思うこの頃でありつつ、
高知のどっかで、細々と生きたいと思うこの頃でもあるし、
10年後の自分が10人ぐらいいる。
「生物らしさ」の「喜怒哀楽」とは?
それこそが、ロマンティックな世界観かもしれない。
静岡のみなさん、メールありがとうございました。
また、今年度の院生の受け入れを3名の方々で断ってしまい・・・
次の機会のお願いをしながら、
日本は狭い。
いつでも、どこでも、一緒に研究をすることはできる。
そして、世界も狭い。
いつでも、どこでも、飛んで行き、
共有できる。
人間コミュニケーション、それは「愉快」な「間の意識」だ。
3年生の評価実習施設の訪問に出る。
「ちょっと、今日は研究室で処理したいものがある」
その自らのこころと決別して、
河内の病院へ。
順調を確認し、その表情から、安心を持った。
少し時間があったので、今里の病院に向かい、
院生の計画書を指摘し、
そのまま、河内に戻り、老人保健施設へ。
今が成長の過程。
そんなことを感じながら、
「喜怒哀楽」とはよく言ったものだ。
と、人間らしさを感じ、
「四苦八苦」の意味を再認識し、
20代前半の「こころ(精神)」のはぐくみの重要性を感じた。
「他」ばかり気にして、「自己」を意識していない。
PTだろうが、なんだろうが、あんまり「意識」せずに、
「人間」として、どう生きるかを考え、
「自己中心的」志向にならず、かといって、「他者」ばかり気にして、
自己嫌悪に陥らず、
どう生きるか、を悩んでほしい。
自己嫌悪とは、所詮、自己保護なのだ。
こころの揺らぎが、明日の自分を創る。
人生は、未完成だから面白い。
「うれしいことは手ごたえ」「かなしいことは口ごたえ」
自らの身体で、自らの心を感じることだ。
それが「わかる」を創発する。
「わかった」という私にしかない感覚は、突然生まれる。
付け焼刃で生まれないし、だれかの借り物でもない。
最近、いろんな人があとがきで「上辺」だけの脳科学者を批判しているが、
それも自己保護にすぎない。
それをしている「心意気」を計らず、
自分の精神の枠組みのなかのみで、否定している。
それは科学でなく、文化だといい、自らをある枠組みに落とし込み、
世界観を小さくしている。
「実験」「実験」といって他を知らず、自己を保護している人たちは、
「臨床」「臨床」といって保護している人たちに似ているし、
その小さな枠組みでは、突然変異は生まれないかもしれない。
小さい枠組みで争うことの醜さを思いながら、
「臨床」という「人間らしさ」の場を感じることができ、
今日は自分を自分が体感することができた。
久しぶりに、生き方、将来を思うことができ、
10年後、どう生きるかをイメージしてみた。
車を運転しているときか、歩いているときか、
はたまた、風呂に入っているときか、
そのときの、脳のなかのことばの結合(神経結合)は、すごい。
イメージと同時に、もう1回自分を不安定な揺らぎに追い込んでみようと思った。
時間を削ってでも(睡眠を減らしてでも)、色んなことを考えてみたい。
人間らしさを科学する。
人間探求学研究室にでも変更しようかと思うこの頃でありつつ、
高知のどっかで、細々と生きたいと思うこの頃でもあるし、
10年後の自分が10人ぐらいいる。
「生物らしさ」の「喜怒哀楽」とは?
それこそが、ロマンティックな世界観かもしれない。
静岡のみなさん、メールありがとうございました。
また、今年度の院生の受け入れを3名の方々で断ってしまい・・・
次の機会のお願いをしながら、
日本は狭い。
いつでも、どこでも、一緒に研究をすることはできる。
そして、世界も狭い。
いつでも、どこでも、飛んで行き、
共有できる。
人間コミュニケーション、それは「愉快」な「間の意識」だ。