Men's wear      plat du jour

今日の気分と予定に、何を合わせますか。 時間があれば何か聴きましょう。

七草の頃

2014-03-08 | Others
 テストステロン社の佐藤社長がこのブログをご覧になって、「3時間経ってしまった」とメールをくださったのは、もう前回アップした頃でしょうか。
私のことを、ジュンジ・タカダみたいとひとに紹介してくれたくらいですから、そんなにコンをつめて見るようなものではないことはご承知なはずなのに......もの珍しかったのでしょうか。

同じように会う度にだんだん面白くなる社長さんがいらして、先日も
「これどう思います?」と仰います。
「どうって、答えようがありませんよ」
「でも、だいぶ違うでしょう?」
「いゃ、私に訊かないでください」
「こんなでいいんですか?」
「社長、やめてください」
「違うと思うけどなぁ」

としだいに皆さん、なぜか津々井社長みたいになってくるから不思議です。



読んでいる本のなかに紹介されたもので、「読んでみたい」と思わされる本がままあります。
池波さんの「浄瑠璃素人講釈」という随筆にあった話で、

 其日庵・杉山茂丸(1864-1935)は、頭山満などと共に明治・大正の政界の黒幕として知られた無欲の人物で、義太夫節に造詣が深く、観賞のみか、みずからも稽古にはげみ、竹本摂津大掾(二世・竹本越路太夫)や三世・竹本大隅太夫その他の庇護者でもあった。
 この一巻は、杉山茂丸が、八十余の浄瑠璃の解釈をおこなうと共に、自分が親しくしていた名人たちの聞き書きをも発表したものだ。
 その聞き書きが、すばらしい。(中略)

私は義太夫節をよく知らぬし、この本のなかにあらわれる名人たちの芸を味わったこともない。それでいて、年に何度か、この一巻を繙くたびに、太い棍棒で脳天をなぐりつけられたような気分になる。(中略)

たとえば三代目の大隅太夫。この人は大阪の鍛冶屋の息子に生まれ、名人団平に鍛えぬかれ、杉山茂丸が、
「底の知れぬ、恐ろしい芸」
 と評したほどの芸人になってからも、文楽座の出演を終え、師匠であり、相三味線でもある団平を家へ送りとどけてから自宅へ帰り、酒一本をのんで、ぐっすりと眠り、午前一時に起きて本読みをはじめる。自分が何度も語った院本(浄瑠璃の脚本)の一つ一つを読み返し、解釈を深め、新しい発見をしようとするのだ。夜明けになって、また一眠りし、朝の八時ごろ起きて、団平のところへ稽古に出かける。すると大隅太夫の妻女が追って出て、袖をとらえ「今日という今日は、子供も私も食べる米がおまへん」というや、大隅太夫が「むぅ......」と唸って「難儀やなあ.......」と、羽織をぬいで妻女へわたし、
「これで、どうなとしといてや」
 呆気にとられている妻女を残し、稽古に出かける日々だったという。
 これは修業時代の若いころのはなしではない。天下の大隅太夫となってからのことだ。
 現代には、とても通用するはなしではなく、こうした芸一筋に凝りかたまった芸人も役者も、今は消滅した。
 それにしても、何と尊いはなしだろう。私なども、大隅太夫の何分の一でもよいから、
「芸の狂人になりたい......」
とおもう。

というのです。

先月も寒かったですが、この時期展示会へ行って「売れませんねぇ」なんて聞くと、本物の匂いのするものなど見当たらない乏しい内容にやはり寒い思いがします。
読んだばかりのせいか、赤貧洗うが如しと言ってさしつかえない大隅太夫の方がずっと豊かに思えたり、太夫くらい打ち込んでいたら安易に否定的な言葉は出てこないのでは、としきりにこの話が思い出されました。

七草の頃、今年初めて昼も夜もイタリア料理という日のことです。
例によって他愛ない話で盛り上がる中、「その頃は買ってばかりいたから、もうたいへんだった」という話を受けて、
「私なんかコート作ったら中に着るものがありませんでした」と応えました。

大隅太夫の話を読む前だったのですが、これには原典があります。
20年近く前、ミラノ・マルペンサ空港から市街へむかう幹線道路端に、毛皮を着たご婦人方が立っていました。
なぜかドライバーに向かって前をはだけると、寒空の下、毛皮のしたは下着だけという嘘のようなホントの話によります。



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