Men's wear      plat du jour

今日の気分と予定に、何を合わせますか。 時間があれば何か聴きましょう。

ブランド志向

2019-07-24 |  その他
「◯◯って良いですよね!」と、あるブランドについて同調を求められて少し困りました。
いくつか持っている中に、数百年歴史があるメーカーなのに「こんな作りでいいのかな、歴史と技術が十分継承されてるとは言えないんじゃないか」という作りの製品があって、私としては「現物を自分の目で見て、個別に判断するのが一番」だと思いました。
ブランド志向とは違うのかも知れませんが、盲信も避けたいと思います。

帽子のリボンに入ったブランドロゴが「邪魔だね」と剥す方がいる一方、その同じブランドロゴが少し掠れてよく見えないからクッキリ見えるのに替えてくれという人がいるそうです。
そんな時思い出したのが、A.フラッサーの本にある一節でした。

デザイナーのイニシャルやロゴも避けてください。他人のイニシャルは当然のことながらあなた自身のものではありません。服に自分らしさ、自分の個性を出そうとしているならなおさらです。
雑誌『ニューヨーカー』のひとこま漫画にこんなのがありました。
セールスマンが客にY.S.L.のイニシャルのついたシャツを売りつけようとすると客がいいます。
「もしそのシャツが本当にぼくのためのシャツなら、母がぼくをイブ・サンローランと名付けていたことだろう」
しかし、デパートの力の強い今日、デザイナーのロゴのついていないシャツを買うのは至難の業にも思えます。どうしてもロゴのついている服飾品を身につけなくてはならない時は、ロゴがシンプルで目立たないものを選んでください。
「アラン・フラッサーの正統服装論」1988 (Clothes and the man, the principles of fine men's dress)


「拙者、吐夢武羅雲ではござらぬ」とは言ってないと思いますが、1930年代の仕立屋や紳士服店に置かれていたアパレル・アーツという季刊誌の表紙で、G.B.Shepherdという人が描いたもの。
なぜサムライだったのかは不明です。
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洋服通

2019-07-20 |  その他
「海の日」を過ぎても、数羽のウグイスがまだ鳴きます。
良い声を聴かせてもらって喜んでいましたが、パートナーが見つからないのかとちょっと心配になって来ました。



直接であれ間接であれこの仕事に役立つことなら何でも見たい読みたい思っていた頃のこと、ある方が紹介していた戦前の本でちょっと面白そうなのがありました。もちろんそんな昔の本が目の前にポンと現れる訳もなく、海外の資料など次々にもたらされる情報に目を奪われ、諦めるともなく優先順位から外れていきます。

それから30年以上経ったある日、偶然その著者(紹介してた方の)とお話する機会がありました。
色々伺ったあと件の本についてお聞きすると、
「あれね、その頃知り合いだった奴が遊びに来た時、貸してくれって言うから貸したらそれっきりなんだよね。今すぐ名前は出てこないけど、顔はハッキリ覚えてる」とのこと。
ありますよね、そういう事。
そういう人に限って全部読まなかったり、あるいはその逆に、洲之内徹さんが好きな絵に出会った時のように、もう手放したくないというほどだったのでしょうか。
いずれにしてもその方もしばらく読んでないので、他の話題では盛り上がりましたが、その本に関しては昔書かれた以上の情報はありませんでした。

それからまた数年、以前検索した時はまったくヒットしなかったのに、月日が経つうちに古い資料も網にかかるようになったのか、ようやくその本「上原浦太郎著 洋服通」を読むことが出来ました。



序文はその当時海外で最も有名な日本人の一人、ハリウッドでも洒落者で知られた早川雪洲が書いています。
昭和5年発行と、1933年創刊の「Esquire」さえまだ生まれる前の話ですが、図版は本格的に「Vanity Fair」から採ったらしく、フェルやC.F.ピーターズらしいイラストや若い頃のローレンス・フェロウズの署名入りも一枚ありました。





この上原さんは写真を見るとかなりの押し出しですが、なかなか面白い語り手でもあるようで、例えば

「一般奥様方に対して注文がある。外でもない。今少し御主人の召す洋服に就いて、知識と愛情を持って戴き度いのである。奥様が外出なさる、帰ればすぐ外出着を着換えベンヂンで襟を拭きどこかシミでも附いていないかと、いとも丹念に点検し、さて折目正しくたたんで衣服箪笥へお納めになる。誠に結構な事である。
ところがひるがえって旦那様の毎日お召しになる洋服となると、それが全然打って変わった冷淡さに驚かざるを得ない。すべての品物がそうである様に、否、毛織物で作られた洋服に於ては殊に手入法の如何がどれ程そのものの寿命に影響があるか知れない。
現在社会に活動している凡ゆる階級の男子が悉と言ってもよい程、洋服万能の時代を現出して居る今日、用いる当の御本人も左様であるが、今少し家庭の人々が洋服というものに頭を向けてほしいと思う。洋服党に無くてはならぬものはブラシである。脂肪性の織物、即ち毛織に対してブラシは一つのクリーニングである。皆様御存知でしょう。愛犬や愛馬にブラシをかけてお遣りになると如何にも艶々しい毛並になることを。これを見ても毛織にブラシが如何に有効かが明らかに知られる。ブラシは唯目に見得る塵埃を払うだけではない。肉眼で見ることの出来ぬそして一層生地を損ねる度の強い微細な塵を、ホジクリ去るのがブラシの役目である。顕微鏡で見ると毛織の生地は、丁度材木を重ねた様になっている。其の間には様々のゴミが恰も石ころか何かの様に挟まって居る。ブラシはつまり其の間の石ころを取出すテコである。此の事が充分呑み込めさえしたら、人といえども毎日必ず一度は充分にブラシをかけ、尚吊って置く場合には、清浄な布でも被せて埃のかかるのを、防ぐ気持にならずには居られないだろうと思う。」
という具合に、「洋服の手入法」という話はさらに続きます。(もちろん原文は旧漢字です)

なかなか細かい所まで神経の行き届いた人と思われるかと思いますが、あまり細かい人は全体をつかむのが苦手だったりします。

「実際に洋服の良い悪いを識別することは非常に困難なことで、専門家の目と一般人の心に写る印象とは大変に違う点がある。出来上がった洋服が専門家から見て良くとも、実際に着る人に取っては頗る工合の悪いことがあるものだ。それと反対に着る人には大変よく、素人に好評されても、裁断師とか裁縫師から見て、ビックリする程手ぬかりで劣悪という刻印を押されることがある。前者は重に地質の良い上に、裁縫も裁断も本式に誤りなく出来て居て耐久性のある正確な洋服である。
後者は重に粗悪な地質で裁断や裁縫に手落ちがあって、何処かに無理が見え、又肝要な部分を思い切って手を抜いてある。けれども色の調和と全体のデザインが良いために、一寸見れば非常によく映る。実際此種の洋服はよく見うける。
人間の骨格や容貌が各々異なるように、洋服の仕立方は千人が千人悉く違う。この点は万人共通の和服と大いに異なる点である。又色の調和、デザイン、スタイルがよい為に仕立や裁断を超越して良く見えることもある。其の上着こなしの上手下手がある。これは無論体格が洋服を着る為めに適して居る人と、永年洋服を着て居るのでしっくりと写る人があるが、どちらにしても此の着こなしは重大な要点である。従ってこれらの条件がぴったりと合わなければ満足という讃辞がない訳だ。
但し此の種の洋服は耐久性に乏しく型が崩れる恐れがある」

大きく掴むのも抜かりないようです。

長い間読みたい見てみたいと思っていたものでも、実際に手に取るとそれほどでもない場合も多いですが、この本は色々な意味でたいへん面白いものでした。
一つには、'20年代から'30年代に移行する時期に当たり、すべて俯瞰できる今日から見れば、スタイルが比較的大きく変化した時代の真っ只中にいた人のレポートでもあることです。



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シルエット

2019-07-08 |  その他
天気に一喜一憂する日が続いておりますが...

その方と親しくなったのは、都内で集まりがあったとき隣同士になってからでした。
話を伺っていると、昔からその時々の流行を追いかけ、日本人デザイナーが流行ればそれらを、アルマーニが流行ればそれに注ぎ込んで来たといいます。
還暦を迎える頃「果たしてその服は自分に合っているんだろうか」というシンプルな疑問に行き当たって初めて、クラシックな服の存在を知ったとのこと。だから現役中はほとんど流行に費やしてきたと仰います。

私が子供の頃、多くの大人が流行だった裾がフレアになったズボンを履いていました。
今でも刑事モノの再放送とかで見られると思いますが、もう海外ドラマとかで外国人のスタイルも見ていましたから、今の子みたいに「似合わないンじゃネ?」と思っていました。
脚が短いからとか、頭がデカイからとかの理屈を言うのはもっと先の事です。

ずっと進んで後年私が仕事で深く関わる人も、今思えば「流行と無関係」という「スタイル」を定着させようとした方でした。
そうした先達がまだその頃は思うように入手できなかった1920年代からこちらの資料が、時間と共に手元に集まるようになりました。
それらに目を通していると、子供の頃の疑問よりもっと長いスパンで、後の時代から見ておかしな服とそうでないものがよく見えて来ます。
やはり60年代以降コマーシャリズムが加速して混迷を深めていた頃、F.アステアに流行の既製服を着せてみたという記事を見つけました。



担当者がノセ上手だったのか、本人が着たことないモノに興味を示したのか、何故引き受けたか分かりませんが、出来上がりが芳しくないと判断して画像をあえて鮮明にしていない...わけではなく、他のレイ・ミランド(A.ヒッチコック監督:ダイヤルMを廻せ 等)、ラルフ・ベラミー('30年代のアステア映画等に出てくるちょっと顔の怖い人)も同様の写りです。
写りもありますが、着られるサイズどおり着せると、頭部から脚部までのバランスが何かヘンです。

死後も自伝的な映画の製作を認めないほど、自分のイメージを大事にしてきたアステアの名誉の為に、'30年代に仕立屋さんが作った服も並べておきましょう。
「エレガント」と言っても時代の環境も見逃せないかと思いますし、昔は良かったというような事も言いたくありませんが、より良く見えるシルエットはあるものですね。

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