芋焼酎はいかがですか?

英国の情報交換の場であったコーヒーハウスで芋焼酎はいかがですか?

「式と会」(結婚式と同窓会)

2012-08-28 07:07:07 | Weblog

数年ぶりに結婚式に参列した。

若者に人気のあるウエディングプランナー。

その職種を目指す彼らが就職を希望する結婚式のプロデュース会社。

いかにもそのような会社が絡んでいるであろう会場であり、式典だった。

 

式典も素晴らしく、料理もおいしく、会場も素晴らしいが・・・。

キリストもマリアもいない。

無宗教だが教会風の会場。

ステンドガラスの装飾が美しいチャペルのような式場。

神父風の白人の外国人は、

牧師に見られるように「アルバ」を身にまとっていた。

式典では4名の生演奏と合唱。

さらに写真撮影を担当している人物も。

アルバイトの音大学生か?

それとも若い従業員の兼業業務か?

いずれにしても20代の人たちが楽しそうにイキイキ働いていることが伝わってきた。

これは、ディズニーランドで働く人々から受ける印象と同じものであった。

 

仲人も立てていない。

来賓の挨拶も極力少なく設定。

本当に新郎新婦をよく知る人々からの長めのスピーチ。

登場人物が少ないことは大歓迎であった。

 

しかし内輪にしか通じない話や笑いで占められていたスピーチの数々。

職場縁で参加した私にはその輪に入れない辛さも同居していたことは事実であった。

 

週末には30年ぶりに大学時代のサークルの同窓会に参加した。

あの当時に同じサークルに所属していた諸先輩がすでに何名か他界されている。

彼らを偲んで集まろうと言うのも今回の趣旨だった。

全体でも30名程度。

それほど多くいたわけでもないクラブなのに・・。

一年上の先輩が2名。

2年上の先輩が2名。

皆さんが大企業に勤めていた企業戦士だ。

○○生命、▼▼スポーツ、☆☆製菓・・。

中堅私大を出て、大手企業に就職。

全国を飛び回って心身を酷使されたそうだ。

殆どの皆さんが心筋梗塞・・。

単身赴任先のアパートで孤独死されていた方もいたそうだ。

「人生」や「幸せ」について考えさせられてしまう。

 

30年という月日は、人の風貌や体形も変えてしまった。

一目では判らない諸先輩も多く

本当に月日の経ったのを感じる会でもあった。

執行役員や大企業の肩書のある面々だが・・。

酒量が増えるとともに

自然に苗字で命令調に呼ばれる当時に戻っていた。

 

そんな中でも我々の憧れの先輩、

商社勤務の井領さんの機敏でスマートの身のこなしは当時のままだった。

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『ビートでのドライブ』

2012-08-21 07:07:07 | Weblog

今回は購入した中古軽自動車についての後日談。

一応座席は2席あるが・・。

二人乗るとギアチェンジする際に助手席に座る人の膝や腕に当たってしまう。

しかしながら心の中では子どもの頃に憧れたスーパーカーと同様のビート。

中年の私には似合わないようなコンバーチブルで黄色のビート。

ギアチェンジを駆使して、フルスロットル。

公道でゴーカートを走らせているような気分の車である。

20年以上前の車には思えないほど、

コーティングがされてピカピカしているし、

ホンダディーラーで購入する際にも

営業マンから「絶好調のエンジン」とのお墨付き。

そんな趣味的な古い車を埼玉にあるビート専門店に点検に出したところ、

何カ所かの不具合が見つかった。

それがhttp://kamimura4727.blog.fc2.com/blog-entry-241.html

このまま走り続けているとタイミングベルトが切れたり、

エンジンが止まってしまうとの診断だった。

そこで財政的な問題もあり、最低限度の修理をお願いした。

 

修理が完了して、久々にビートに乗った感覚は全く違うものだった。

感覚的なことを文書で説明するのはとても難しいが、

マニュアル車初心者の私でもクラッチをつなぐことが楽になった。

翌日は職場の同僚のMさんと(彼は900CCの大型バイク)

一般道を埼玉から大間々、沼田方面から吹割ノ滝、

トウモロコシ街道から日光方面へと向かった。

この山道の運転経験で随分運転に慣れた気がする。

 

翌日は鬼怒川温泉から福島県にある「大内宿」に向かった。

江戸時代の宿場町の大内宿には多くの観光客が訪れていた。

せっかくなので、

そこの目物という「高遠そば(ねぎそば)」を食した。

それは、生のネギを箸代わりにソバを食べることで有名なソバだ。

何と蕎麦やでは受付順に待ち番号札(百人一首に番号が記載)を渡された。

番号札を受け取り、実際に蕎麦を食したのが一時間半後。

その間に大内宿の店舗散策。

十分すぎるほどの時間であり、十分お腹がすく運動タイムとなった。

さらに翌日は、那須のアウトレットまで車をとばした。

買い物がメインではなく、

信号の殆どなく車を走らせやすい道をドライブすることが目的だ。

オープンカーの状態にして、風を感じながら片道約1時間半のドライブ。

「快感であり、運転することがおもしろい」というのが正直な感想である。

駐車場にすぐに入れない程にアウトレットには多くの人々がいた。

両脇に並ぶ店舗と多くの人々。

大内宿とアウトレット街はとても似ているように思えた。

江戸時代から平成へとタイムトリップしたような不思議な感じでもあった。

 

ビートは暫くの期間、鬼怒川温泉に置きっぱなしにしておこうと思っている。

直ぐそばに置いておきたい気持ちもあるが・・。

東京で運転するよりも田舎の一般道の方が格段に面白い車だからだ。

仕事もあり、プライベートでも様々にやらなければならないことに追われているが・・。

近々、またビートの運転をするつもりである。

 

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『看病2』

2012-08-14 07:07:07 | Weblog

先週のウェブログの総数は過去最多。

書いている本人が驚きである。

 

さて母の状態は幾分良くなり始めた。

見舞い患者が同席する場合には、

病室から車いすにのって談話室まで移動していいほどになってきた。

食事も半分食べれたり、

全部食べたりと日によって違うようだが、

快復し始めているのではないかと思われる。

2日毎に、静岡を訪問していた私だが、

一週間以上実際の対面はしていない。

その理由は、どうしても抜けられない高3の夏期講習期間があったからだ。

地元に暮らす兄弟にも

病変が急変しても帰れない一週間となると告げて望んだ講習でもあった。

兄弟には、とにかく毎日病状報告をよこすように伝えてあった一週間。

御陰さまで何事もなく終了した。

お盆の時期に兄弟が母の看病に当たり

その後、私が母の面倒を見るつもりだ。

 

明日、医師から3回目の病状報告があるそうだ。

素人として考えた場合に、

母は退院に向けて病状が回復しているようにもみえる。

しかしながら、そこもまた問題があるのである。

それは、病院と介護施設の「間」の問題。

病人は、老人ホームにはいられない。

病院のような十分な対応ができないからだ。

快方に向かっている老人は老人ホームでは引き取らない。

食事が完全に食べれるということが条件だからだ。

一般病院は、快方に向かう要介護支援老人を他の専門の病院に移そうとする。

そこは、老人ホームと一般病院の間にある場所である。

いわゆる療養型病院。

都内の総合病院に併設された療養病棟にかつて義母もお世話になったが、

そこは医療行為もあり、リハビリ訓練もある施設だった。

間となりえる有り難い施設だ。

しかしながら、

どうやら私の実家のある静岡にはそのような病院が少なく、

転院するのも大変なようだ。

 

かつて担当医と話した時、彼はこんなことを言っていた。

「一ヶ月ほど、点滴をして・・、その後は栄養を鼻から又は胃から直接入れて延命ができるような病院への転院を考える可能性も出てくる」と。

御陰さまで、病状は回復しつつあり胃に直接栄養チューブを突っ込むことはしなくて良さそうだが、このまま一般病院にいると歩けなくなってしまいそうだ。

例えば要支援要介護を受けているような入院患者がトイレに行く事を考えると現場の看護師の手がたりない。

本人は、トイレに行きたいと言っているのだが何時も紙おむつをしたままにされて、ベッドに寝たまますることを促されている。

地方の療養型病院は、市内から外れた遠い場所にあったり、山の上に遭ったりするそうだ。

私がかつて目にした療養病棟は、かなりリハビリ施設が充実していて午前中は、リハビリが義務づけられていた。

静岡の療養型病院は、どうだろうか?

仮に半分以上の患者が口から物が食べれず、

胃にチューブがささったままベッドに寝ている病院への転院推奨では考えてしまう。

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『看病』

2012-08-07 07:07:07 | Weblog

7月26日、仕事の都合をつけて

いつもと同じように気ままに無計画で静岡の実家へ向かった。

とりあえず直接、老人ホームに住まう母を訪問。

ホームに到着すると、

何かいつもと違っていた。

職員の方が驚いた顔で私を見て話しかけてきた。

「どうして、わかったんですか?」

「えっ?」と聞き返した。

 

なんと早朝より母の具合が悪く、

ホーム専属の医師の到着を待っているとのことだった。

横になっている母の横で待機していると医師が到着。

日頃、老人を見慣れているためか?

それとも、尊敬される田舎の医師という立場にどっぷり浸かっているためか?

その医師の発した一言が今でも鮮明に残っている。

「老人には誤嚥がよくありがち。この手の人はしょうがないですよ」

と慣れた手つきで、抗菌剤を注射した。

数日間様子を見ましょうと言って医師は帰っていった。

 

その数日後の28日に母は体調が戻らずに救急車で総合病院に搬送された。

私は急遽、車を走らせて東京から静岡に向かった。

到着時間は深夜1時。

救急受付の裏口から病院に入り、

薄気味悪い暗さの中、病室へ向かった。

病室で母は眠っていた。

目がさめるまでの30分間程、

ベッドの脇で母の手を握り、頭をなで目を覚ますのを待った。

母は目を開け、私に気がついたので、とりあえず安心。

深夜なので他の患者の迷惑になっても申し訳ないので

そのままとんぼ返りで東京に戻りついた。

時刻は早朝の4時だった。

 

8月に入ってからも日帰りで病院に2回訪問。(日帰り)

酸素マスクが付けられて、

点滴をされている姿から最終の訪問では酸素が外された。

しかしながら、まだ点滴が継続されている。

少しずつ、ゼリー食が試みられ始めた。

ゼリー状のお茶、ゼリーみかん、そしてゼリー状のご飯に海苔佃煮。

まだ看護師に数口、食べさせてもらっている。

食事が自ら取れて、点滴がはずれることを祈るばかりである。

 

病院は完全看護なのに、なぜ。

たびたび私は無理をして片道180キロメートルの道を病院に向かっているのだろうか?

その理由は2つ。

一つは、話せば話すだけ、お腹がすいて食欲が出るのではないかという息子としての想い。

もう一つは、無意識?意識的に点滴をはずしてしまう為に

両手にはグローブがはめられ、それがベッドに括りつけられている。

見舞い人がいる場合には、グローブを取って良いのだが・・・。

それ以外の場合は終日拘束されている。

夏場のグローブは暑そうだし、

身動きが取れない姿を出来るだけ軽減させてあげたい気持ちが湧いてくる。

 

総合病院の担当の若い医師は言う。

「点滴も延命処置の一種ですから・・」

正論であろうが患者の身内に温かな言葉がかけられない病院の医師。

最少人数で働いているいつも慌ただしい看護師たち。

看病できる親族として、

この夏は無理をしてでも何回も静岡に向かうことを決意したしだいである。

 

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