芋焼酎はいかがですか?

英国の情報交換の場であったコーヒーハウスで芋焼酎はいかがですか?

ニッケル・アンド・ダイムド

2007-11-25 23:00:30 | Weblog
・下流社会、負け組み、ワーキングプア、年収200万円で快適に暮らす等の小見 出しが週刊誌に登場することが多くなった。
 日本でも、派遣会社に登録し日雇い生活をしている労働者の悲惨な労働状況など がテレビ等でも取り上げられている。
 その悲惨な労働状況とは、日雇いなので集合地点までの往復の交通費と日給を支給する会社まで現金を取りにいくための交通費も自腹など、実質手取り額は搾取 された後であるために小額である。
  さらに労働は非常に単調な労働ということが実態のようである。
 家も借りられず、インターネットカフェで夜を明かすが、室内は明るく、部屋は座るだけのスペースにしかないので、熟睡する環境にないようだ。
・『ライフスタイルとアイデンティティ』(渡辺潤著)の参考文献のなかの一冊であるバーバラーエーレンライクの『ニッケル・アンド・ダイムド』を読んだ。
 彼女は、博士号を持つ作家である。
 しかし、学歴を大学中退と偽り、50歳を過ぎた女性が単身で低賃金の労働者として働いた記録である。
 かつて『暴走族のエスノグラフィー』という参与観察からなる斬新な著書を興味深く読んだことはあることを思い出した。
 筆者は、暴走族の一員として加わったわけではなく、客観的な観察を行い、その行動等(屈みかた等)を詳細に記録し、その生態を明らかにしていた。
・『ニッケル・アンド・ダイムド』はアメリカ下流社会の現実がその実体験を通じて書かれていてその実態について驚きをもった。
 1998年にワシントンの経済政策研究所が発表した資料によるとアメリカの全労働人口のほぼ30%が時給8ドル以下で働いているという。
 バーバラが初めにレストランで働いた時の時給は約2ドル。
 チップを見込んだ額ではあるが、その金額も低所得者の悲惨な状況をあらわして いる。
 また、家を借りるお金も無く、車で寝起きをしていたり、トレーラーハウスで生活している人も多いという。
 低所得者が暮らしていく為には、2つの仕事を掛け持ちしている実態もかかれていた。
 病に陥ったからといって薬も買えない。
 働きすぎなので、仕事の辛さについて考えることもなくなってしまうという。
・かつて、開拓時代のアメリカは労働不足解消の為にアフリカから大量に奴隷を買い入れた。
 アメリカ人はその奴隷たちに、過酷な労働を課してきた。
 また、黒人奴隷が、相互に会話を交わさないように言葉のことなる地域の黒人をミックスして買い入れたそうだ。
 現在、奴隷は人権問題の絡みもあり形式的には存在していない。
 しかし、彼女の本に登場する、スーパーの店員、お手伝い、ウエートレスは雇い主からは人間扱いされていない。
 奴隷扱いそのままである。
 ほんとうに酷い実態がわかる本である。
 病気欠勤しても手当ても健康保険もなく、一日の給料がもらえないということは、即、翌日の食料がないことを意味している。
・とても気に入った一文を記して〆とします。
 「アメリカの職場では、人々が自分のものと呼べる唯一のものは自分が育てている腫瘍であり、喫煙によってその腫瘍に養分を与えるために捧げられるわずかな時間だ」
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ネイキッド

2007-11-23 22:11:54 | Weblog
アクセス数を増やそうと一瞬「裸」というタイトルにすることも考えたが一時的な来客を求めるよりも狭く結びつきのある読者に向けて信用を落とさない情報を発信するために「ネイキッド」に変更。
 冬の寒さの中、誰も居ない暖かい露天風呂に入ることを想像してみよう。
「ア~ア、極楽極楽」と器に見立てた両手に入れられたお湯を顔にかける時の自分は飾り立てしていない自分自身のような気がする。
 それは、劇場から降りた弛緩の状態の私でもある。
 しかし、ずっと裸のままの自分ではいられない。
 他者の目もあるし・・。
 衣服を身にまとうという事は、単に防寒や身体の保護だけが目的ではない。
 自分らしさを表現する手段でもあるはずである。
 また、同時に本当の裸の自分を見せない為の身体装飾を目的に衣服等を纏うのかもしれない。

 <ネイキッドでないということ>
足には靴、靴下。足の爪にはぺデュキア。下半身には、下着、ズボン、スカート。上半身には、シャツ、上着にコート。手には、手袋。爪にはマニキュア。首にはスカーフやマフラー。耳には、イヤリング。口には、口紅。目にはメガネやアイシャドー。髪には、パーマネントや染色。
身体装飾には、直接ボディーへの装飾を行うタトゥもあることは周知の事実である。
 例示したこららは、自分を表現する為のモノでもあると同時にそのままの裸の自分を見せない道具でもあるのだ。
 やはり、殆どの時間を私たちは裸では過ごしていない。
 自分て何者であろうと悩むこと、自己のアイデンティティについて考えることは、身体装飾と大いなる関係があるのかもしれない。
 中学、高等学校のことを考えてみると、多くの日本の学校が制服を採用している。
 学校のアイデンティティを明確にするための制服であるのだ。
 しかしながら、校則違反はどの学校でも見られる。
 男子はズボンを腰まで下げてはいている。
 また女子はスカートを極端に短くしている。
 生徒たちの制服着用の乱れは、学生でいたいけど他の生徒と同じ身なりをしていて同じアイデンティティであると思われたくないという反抗かもしれない。
 確かに制服の乱れは、ズボンを緩める。シャツのボタンをはずす。
 リボンやネクタイを緩める。
 シャツを出す。
 ソックスのゴムを抜きルーズに・・。
 「弛緩」や「解放」がキーワードである。
そう考えてみると、ズボンを思いっきり股が痛くなるぐらいに上げて、タイトな穿き方をする反抗は見られない。
自分とは?を考える時に身体装飾ははずせないことは明らかである。

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ライフスタイルとアイデンティティ(渡辺潤 著)

2007-11-16 21:03:42 | Weblog
・渡辺先生の著書について書評を書けるような実力も、資格もないことを先ずお詫びしてから感想を書かせていて抱きます。
・何本かの投稿論文から構成されていることもあり、また大学の授業でも使用することを視野にも入れているためか、参考文献以外にとめどもなく多くの文献が紹介されています。
 一読後、気になった文献を直接読んでみたいという気にさせてくれます。
 ユートピアについての文献紹介等が多々出てきます。
 それを読みながら渡辺先生に何度も言われていて実行できなかったことを思い出しました。
「文献を読んだら書評を書きなさい。」わかってはいるけれど、なかなか実行できません。
 文中の気に入った内容に付箋をはり、それを書き留めていることで終わってしまっています。反省。
 これは、まさに連続する書評からなる学術論文ですね。
・渡辺先生の作品を読んだ後の爽快感はなぜ起こるのでしょうか。
 それは数多くの文献研究に裏づけされているので、文章の内容の深さを感じます。そして心理学ではなく社会学から徹底的にアイデンティティを考え抜いて書かれていることが理由なのかもしれません。
 ところで私は、血液型占いを信じません。
 加えて、占星術や宗教、そして細木数子も。
 そんな私が、それらを信じていることと同様のことを体感していると思います。
例えばこのような文章が本文中にあります。
 「人間関係に対するわたしたちの意識の根幹には、じぶんをよりよいものとして相手に印象づけたいという欲望がある。わたしがわたしであるためには、それを承認し、尊重し、時には誉めたたえ賛美してくれる他者が必要である。しかも自尊心、名誉、優越感といった感情は、他者との関係のなかでくりかえして確認されねばならない。」
 抜き出した文章のようにインパクトがある表現が多々出てきます。
 そうそう。
 それだ。
 自分自身が同意できるのです。
 よって結果的に答えではなくても自分を確認することが出来るのだと思います。
 自分とは何か。今自分が置かれている社会とは?渡辺先生の講義で学んだこと、また先生が課題にあげられている参考文献などを通じて既に知っている以外にも多くのことを知り、そして新たに考えることが出来ました。
 私のこの本は、既に付箋だらけの状態です。
 占い師に支払う3000円を考えると2500円のこの本は、お買い得ですよ。 ぜひ、一読してみてください。
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龍王峡

2007-11-12 22:09:41 | Weblog
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場所を消費する

2007-11-05 23:33:05 | Weblog
 秋も深まり紅葉シーズン真っ盛りです。先日、仕事を休んで鬼怒川温泉側の「龍王峡」という観光スポットに行きました。その目的は紅葉狩りだったのですが、まだその色づきは期待していたものとは程とおく、色づき始めたという表現がマッチする風景でした。そこには、滝があり、渓谷があり、川周辺には遊歩道もあります。何度か、虹見橋からの鬼怒川の自然とその風景を堪能したことはあったのですが、今回は一人で遊歩道を1時間程かけて探索してみました。
 龍王峡には、あまり観光客がいません。それは、この時期は紅葉がりに日光東照宮や華厳の滝、そして中禅寺湖に行く観光客が圧倒的だからです。この時期は、道路の大渋滞。地元のタクシー運転手も商売上がったりであると愚痴をこぼしていました。
 それに反して、龍王峡は寂れた観光地の臭いが漂っています。駐車場周辺には、いまどき、どんだけと思うような売店が軒を連ねています。ジョン・アーリの『場所を消費する』という書籍がありますが、まさに龍王峡は消費されてしまった観光地なのかもしれません。ジョンによると「国際的なツーリストによって、年間2090億ドルが投下され、少なくとも6000万人分の雇用が生み出され、1050万人分のホテルのベッドが一杯になっている。」そうです。まさに観光は経済と結びついているのです。消費されてしまった後の観光地のそばには、廃墟となった巨大なホテルが点在して、その町の疲弊した姿を象徴しています。まさに、鬼怒川温泉もその現象が現れているのです。
 かつてこのプログでも紹介したオーストラリアの十二使徒のある国定公園には売店はまったくありません。公衆トイレのみが用意されているのみです。自然を売りにしている観光地には、売店はいらない。何処どこへ行ってきました。その証拠の品としての土産は、ディズニーランドに代表される人工的な遊園地に任せておけばいいのではないかと思う。龍王峡を「遣い捨て社会」における飽きられた観光地にしておくにはもったいない。でも、龍王峡にあまり多くの観光客が殺到しても迷惑である。私しかしらないとはとても言い切れないが、それに近い感覚。子供の頃に楽しんだ秘密基地に似たものを感じる場所である。
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