芋焼酎はいかがですか?

英国の情報交換の場であったコーヒーハウスで芋焼酎はいかがですか?

湯治

2008-03-31 23:33:43 | Weblog
 以前、鬼怒川の書庫について追って詳しく書きますといったまま一年近くが過ぎようとしていますので今回は鬼怒川についての第二段です。ご承知のように鬼怒川温泉は、日光市にあります。浅草から約2時間の距離です。
 日光は観光地であり、東照宮、華厳の滝、中禅寺湖と言った東武とJR日光駅近辺に点在する観光地と日光江戸村、東武ワールドスクエア、鬼怒川ライン下りといった鬼怒川駅周辺に点在する観光スポットを有する場所です。そんな鬼怒川温泉のワールドスクエア近辺にあるのが私の書庫です。
 当初、渡辺先生の森の生活やソローの森の生活に憧れ、生まれ故郷にも近い御殿場の十里木高原や軽井沢も候補に考えたのですが、まとまった休日がなかなか取れないことや車以外の手段で目的地まで行くことができることを考慮して鬼怒川温泉に決めた次第です。
 ログハウスで暖炉の火を見つめながらコーヒーを飲むことはできませんが、いつでも温泉に入ることができることや、東京から電車で片道1500円で現地に行けること、そしてホテルが隣接されているのでちょっと豪華な食事を気軽に取ることができることに魅力を感じての購入でした。
 一介のサラリーマンが別荘を持つことはすごく贅沢であると思われそうですが、私が仕事でよくいくオーストラリアではより自然豊かな場所に週末をすごす為のセカンドハウスを持っていることは決して特殊なことではありません。豪華な建物ももちろんありますが、その殆どは小屋に近いものです。もちろん、私の別荘も小屋並みです。
 というわけで、鬼怒川で数日間ゆっくりしてきました。まさに湯治です。朝と夜に温泉に入ってのんびりしていました。たまには、そんなゆっくりと過ぎる時間の中で何も考えないで力を抜くことも必要だとせっかちな自分を自分で説得していました。心も体も準備万端です。明日からは4月に突入です。4月からは週一回大学に再度通学して、学びなおすことを決意しました。仕事にはもちろん迷惑をかけないで、大変だけれども、でも決めたことはやりとげたいと思っています。がんばります!へとへとになるまでやっても大丈夫な気がします。疲労は、温泉で治療すればいいのですから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書評 瀬沼文彰著 『笑いの教科書』 (春日出版、2008年1月)

2008-03-24 23:56:06 | Weblog
前回の『キャラ論』に続いての第二弾。キャラ論が学術的な香プンプンと強く感じられる内容であったものと大きく異なり、今回笑いの教科書は筆者の記述によると「笑いをとるためのマニュアル本」である。

日頃、学術書しか読まない中年の私としては、正直言ってあまりインパクトのある内容に溢れた作品ではなかった。「ジェットコースターのような感動」、上下、左右に回転するような気分は、私の最大の賛辞表現であるが今回の作品ではその表記は該当しない。

具体的には中年の私には事例が面白くないので笑えないのである。文中で「つかみの大切さ」を強調している筆者が「読者の心をつかみきれていない」ことに陥っているのではないだろうか。

「音楽を好む人は音楽に関する文献は読まない傾向が強い。」それと同様に笑いを好むひとも笑いに関する文献も読まない傾向があるかもしれない。もっともそれを理解したうえで、この本をあえてマニュアルと瀬沼さんはカテゴライズしているのかもしれない。

140頁にも述べられているように、中高年の世代は、今のお笑い番組について批判的な意見を持っている人は多い。その指摘は中年の一人である私の意見とも合致する。昨年、新宿のルミネザ吉本に行ったが何が面白いのか全くわからなかった。出演は、森3中、村上ショウジ、そしてインパルスというテレビ画面によく登場する芸人なのだが・・。ウケているのは多くの若い女性の観客たちだろうか。

しかしながら、この書にもとても同感できる部分もあった。プロの芸人を観察する時に「・・注意して見るべきところは、ボケの前のフリのセリフや、ボケるときの些細な動きや顔の表情」という舞台袖からの観察は元芸人の瀬沼くんの鋭い観察でなければ気付かない表現である。

また、芸人は「笑い」以外にも何か取り得や特技、あるいは人に誇れたり、珍しいアイデンティティを持つことを筆者は提言している。瀬沼くんは元お笑い芸人であり、現在大学教員、そして笑いの研究者である。私は今までは瀬沼くんを研究者であると思っていた。しかし、この書の読後の感想は違うものとなった。瀬沼くんは笑いという研究を特技としている現役の芸人なのかもしれない。

酷評、ごめんなさい。184頁に記載されている孤独の素晴らしさや孤独のなかから出てくる独特な考えや気持ちを書としたものを拝見できることを期待しております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皆さんの出版物

2008-03-21 22:43:25 | Weblog
 渡辺潤教授が執筆された朝日新聞(多摩版)のキャンパス・ブログが3月17日から始まりました(毎週月曜計5回連載)。新聞読者に向けたいへん親しみのわく、わかりやすい文体で書かれていますから是非皆さん一読してみてください。また、実際の新聞紙面にはゼミ生のUmiさんが文章内容に合せて描いたイラストが添えられているそうです。そちらも併せて楽しんでください。
 渡辺先生を始め、ゼミ生の活躍がこのところ目立つ。特に、出版という形での活躍には頭が下がる。このブログでも以前紹介したS君は「キャラ論」に加えて、第二弾「笑いの教科書」を出版。未だ20代の若さなのにすごい。5日ほど前に「笑いの教科書」をアマゾンに注文したのだが、未だ手元にそれがない。実のところ、今回のブログではそれについての書評を書こうと思っていたのだが、急遽変更してゼミ関係者の作品紹介になっている。ぜひとも、近日中に書評を書きたいと思う。酷評するかもしれませんが・・・。
 さらにミュージシャンでありゼミ生のMさんは「ライブハウス文化論」を5月に青弓社ライブラリーから出版予定だ。同じゼミ生として彼らの活躍にはとても刺激をうけている。同じことは出来ないが、同じようなことは私にも出来るかもしれない。以前にもこのブログに書いたが出版は無理としても、自分が興味を持って調べたいことは自分の出来る方法で文字にして発表してくつもりである。4月から新年度が始まるが渡辺ゼミ共同プロジェクト以外に何か一つをプラスして形にすることが来年度の目標である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニックネーム

2008-03-13 22:12:44 | Weblog
 今、子どもたちの間であだなで呼び合うことことが減っているという。身体的特徴を捉えていじめに発展することがあるので、小学校では「くん」や「さん」付けで呼ぶことが奨励され、強い指導が行われている。その影響もあってあだ名で呼び合うことが減少していると識者は指摘している。
 確かに、小学生だけでなく、中学生や高校生においてもそれらで呼び合うことが減少しているようだ。
 私の場合を例にとると故郷に帰ると昔の子供であった頃に戻ってしまう。もちろん、今でもあだ名で呼び合っているのである。
 マッカツ(正勝という名)、ジイヤ(若さを感じなかった。爺さんとも呼ばれた)、少年(高校生の頃、幼さが残っていたので)、フテツ(学校に置きっ放しにしていた体操着に茶色の錆びのようなものが付着していたので)、コマッチャン(小松という苗字の響きから)、ミっチャン(学校に行く途中、便意をもよおし紙が無いので手で拭いたのではない?)、オックウ(奥山くんなので)、ヒデ、裕ちゃんと様々だ。
 「くん」、「さん」で呼び合う子供たちの人間関係には何かよそよそしさや関係の希薄性を感じてしまう。あだ名で呼び合える人間関係はお互いを信頼しあっている関係である思う。年を重ねてくると強く感じるのであるが、あだ名で呼び合っていた友人たちとの結びつきは強固である。つねに待ちうけのスタンバイ状態の友人関係とは明らかに異なっている。ケータイ電話を体の一部のように肌身離さず所有し、常に人間関係をスタンバイ状態にしている若者とはまったく違うのだ。つまり、完全にオフの時期が続いても、ひとたび関係が結ばれれば、その紐帯はかつての強い結びつきに一瞬に戻ってしまう。
 いじめは勿論よくないが、これも危険、あれもダメと学校が子供の人間関係にまで口出しすることが必要なのかどうかは疑問に感じるブブンもあるのである。
 ちなみに私は、先ほど例示した中学校までは「みっちゃん」であり、高校では一部フミチ(不倫という言葉が流行し・)と呼ばれていた。大学では苗字のみ。職場では、「ミエハルクン」(先輩の女性に)、「ミチ」(職場の外国人に)そして「うんぬん」(一時期の子供たちに)と呼ばれていたような気がする。頭にくるようなことはなく、それはそれでいいのではないだろうか。
 子供たちは子供たちなりに社会を形成し、そこからニックネームが自然に発生してくることにはどちらかというと私は良いことだと思うのである。皆さんはどのように思われますか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市立川口

2008-03-10 21:59:51 | Weblog
・元教え子の女性に復縁を迫ったとして、埼玉県川口市立川口高校校長の市川和夫容疑者(56)が脅迫容疑で逮捕されたことが報道されている。埼玉県の名門、市立川口高の卒業生、在校生、保護者、教職員等の関係者は驚きと落胆と怒りが入り混じった感情であろう。被害者の女性から30歳以上も離れた年齢の校長の常軌を逸した行動にニュースのコメンテイターの指摘が集中している。ワイドショーのネタとしても視聴者に受けそうな内容であるので、しばらくはこれに関する報道が続きそうである。週末のオジサンを対象としたニュース番組としては外せない話題である。
・この事件は明らかに酷い事件であるが、あえて私が気になったことをここで指摘させていただく。
・被害者の女性が警察に訴えたのが1月上旬であり校長が逮捕されたのが3月8日ということだ。何が不透明化といえば、あまりにも逮捕までの期間がかかっていることである。市立川口高校では1月には推薦入試、2月には一般入試が行われている。そして一般入試の合格発表は3月6日だ。さらに3月8日の午前中には卒業式が行われ、夕刻にこの校長が逮捕されている。
 訴えがおこされた1月に校長逮捕となれば、市立川口高の生徒募集に何らかのマイナスの影響があったことは想像できる。また、学年末の定期考査は一日順延になったようだが、卒業式は予定通り実施されたことを考えると埼玉県警は意図的に3月8日に逮捕することを決めていたのではないかと疑ってしまう。また、その逮捕予定日を教育委員会は事前に知っていたのではないかとも。あくまで疑いであるが、合格発表日や卒業式が避けられているように推測してしまう。私のように疑いを感じる視聴者もいるはずだ。ぜひとも特にニュースキャスターやコメンテイターは私が疑問に感じるるようなことも視聴者の代弁者として取材をしてほしいし、実際の番組でコメントをしてほしい。「教育者としてあるまじき行為」というコメントだけでは終わってほしくない。
 追伸:この学校のホームページには事件についてのお詫びがいち早く掲示されている。http://www.sch.kawaguchi.saitama.jp/kawaguchi-h/このような対応は、学校の危機管理においては必須の対応事項である。このような対応がすぐ出来る学校であれば、この問題からも直ぐに立ち直ることは間違いない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おはよう!

2008-03-06 12:19:36 | Weblog
 ついにこのブログも本格稼動してから一年が経とうとしている。この切っ掛けを与えてくれたhttp://umiyorke.blog.shinobi.jp/さんのお陰だ。今晩、アルタ前で会う予定(ナマカと一緒)だが面と向かってい言いづらいのでこの場を借りてお礼を言いたい。「ブログ更新してくださいよ!!見てるんですよ!!」そんな言葉がけがなかったら1年も続かなかったと思う。どうも有難う。
 こんな素直な感謝の言葉がシャイな私でも伝えられる。メールでは言える。書き言葉の特性ですね。
 このようにブログに書き込みをしていると知人・友人はじめ見知らぬ他者もこの文章を読んでいることを時に忘れてしまう。自分の意識としては日記感覚。つまり「自分にむけての内容を書いている私」と「それを読んでいる私」という感覚に陥ってしまうのだ。
 そんな時、「ブログ見てますよ。」よいうチョッとした一言が我に返らせてくれる。「そうだ。特定少数の読者がこれを読んでいてくれるのかもしれない」と。
 ブログは、理論的には不特定多数へ向けての記事であるが、実態は特定少数であると思っている。特に、タレントのショコタンのように膨大なアクセス数を誇るブログは特定多数の多くのファンに向けてのブログであるが、私のようにさしたるアクセスがないブログはやはり特定少数だ。
 昨日職場のA田村さんは私のブログを読んだことがあると突然に言ってきた。職場では、ネット内に職場についての誹謗・中傷が掲載されていないかどうかを定期的にチェックしているらしい。そのセンサーに私のブログが引っかかったかもしれない。内容ではないと思うが・・・。しかし、気にすることはない。"It doesn't matter."だって私の意志で公開しているのであるから。
 話は変わるが私は社会学を勉強してよかったと時に思うことがある。例えば、教育の現場では挨拶運動が盛んだ。しかし、挨拶を元気よくしない状況が発生すると、多分心理学では「子どもが挨拶をしない要因はなんだろうか?」という科学的な分析を行う。専門家ではないのでわからないが、それは難しそうだし私自身興味がわかない。
 教育の現場では、「朝ごはんを食べてこないから挨拶する声が小さい」とか、「夜更かししているから起きれないのでは」とか、「親の教育がなっていない」とか根拠に基づかない検証を経ない常識や直感に基づく「しろうと理論」に満ちている。
 社会学のある視点からこの問題を考えてみるとまったく違った考え方が発生する。例えば、それは関係性だ。教師が挨拶をしても、元気よく挨拶が生徒から返ってこないのはその生徒に教師との関係を結びたいという意思(関係を結びたくない)がないという表明なのである。そのような考え方もありえることがわかるだけで、物事を多角的に捉えることができる気がする。冬の寒い屋外で飲むコーヒーのようだ。心がホッとする。確認しておきますが挨拶はもちろん元気よくする、させることに賛成ですよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする