芋焼酎はいかがですか?

英国の情報交換の場であったコーヒーハウスで芋焼酎はいかがですか?

くさい話

2007-06-27 22:10:31 | Weblog
物は文化と強く結びついている。今回はくさい話と物との関係の話である。かつてフランスのベルサイユ宮殿にはトイレが常備されておらず、宮殿の周りにはウンコ等の排泄物で一杯であったそうである。モヨオス時には、もちろん当時の人たちも立ち小便などをしていた。もちろん大も。トイレがないのだから、小便や大便をする時のその姿を他者に見られてもかまわないように発達したのが、ドレスである。しかも、ウエディングドレスによく見られるような下部が半円形に膨らんでいるものである。それであれば、腰をかがめすそを大地につけることで立ったままで用をたす事が出来たのである。また、汚物で充満している臭い臭い対策に発達したのが香水である。確かに香水で有名なのはフランス製品である。また、当時は道には野ぐそが至る所に満ちていた。よって、それを踏みつけてしまう危険性大であったことは想像し易い。ウンコを踏んでしまってもすぐに靴についたウンコをふき取れる。そんな流れで発達したのがハイヒールである。よってピンヒールを履いているお嬢さん、ウンコを踏みつけても大丈夫ですね。すぐティッシュでふき取れますから。
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小さいのがお好き

2007-06-18 23:12:06 | Weblog
日本の物語には、小さいヒーローが大きな悪者を退治する話がいくつかある。「一寸法師」、「桃太郎」等はその代表例である。隣国である韓国では、そのようなことは全く無いと言う。大きな悪者には、同じくらいの大きさのヒーロー。柔道の柔ちゃんを見ていても、それは当てはまる。柔ちゃんでなくて俵ちゃんだったら日本人は、あれほどの思い入れた声援も送らないのかもしれない。ウルトラマンにしても、日頃は小さな地球人。巨大な怪獣が出てきても、最後まで小さな人間が戦おうとしているところが視聴者の心を掴んだのかもしれない。
山本直純という著名な指揮者が、チョコレートのCMで「大きいことはいいことだ」と叫び視聴者の心を捉えたのは記憶に新しい。
日本人は、小さいことに特別の思い入れがあったために戦後急激に発展してきたとも言えるのではないだろうか?かつては、「世界最小、最軽量」と言えば日本の専売特特許だった。しかしながら、バブルがはじけ日本経済が低迷すると小さいことがすきなことを忘れてしまっていたのかもしれない。今、経済が上向きである。家電量販店で、デジカメを見るとものの見事に小さくて、薄くて、そして軽いのである。えっ。薄型テレビは42型以上の大型が売れてるって・・・。でも、それも小さなウサギ小屋に入れるので薄く場所をとらない、しかもテレビから離れなくても目も悪くならないし、見やすいそんな小さな家向きの家電が売れているに過ぎないのである。あなたは、大きいのが好きですか?それとも小さいのがお好きですか?
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教育実習生

2007-06-18 22:44:47 | Weblog
ここ10日間程、咳が止まらない。夜は、止まっているのだが仕事に行くと胸が苦しくなり、気管がヒュウヒュウ、ゼイゼイしている。病院に行っていないので原因不明だが、一日中の咳は体力の消耗を激しくする。一日終わると、ぐったりである。家で咳も出てしまうのだが、パートナーには運動不足や趣味が明確でないのでストレスが溜まっての症状であると一喝されてしまう。咳も出していられない。
さて、今は6月。私の職場にも教育実習生が来ている。そして私は何年かぶりに実習生の指導をしている。咳とその加重の仕事から本当に疲れる毎日である。教育実習生と接していて強く感じることがある。それは、大学の教育についてである。問題点をあげると、「指導案が書けない」のである。よくよく話してみるとゼミでレジュメを作って発表することもあまり無いと言う。もちろん、卒業論文作成には取り組んでおらず、大学教授の研究の手伝いをしただけで単位をもらえると言う。これは、MG大学だけの問題ではないのではないだろうか。教育実習生の考えの甘さは、大学における教育実習に関しての考えの甘さでなないかとも思える。自動車学校の実習に置き換えて考えると分かりやすい。教育実習生は、実習期間を仮免取得における自動車学校内での実地と考えているようだ。それは、まだうまくできなくて当たり前という気持ちや考えが伝わってくる。それに反して、現場の指導教諭や現場の学校は実習期間を路上教習として捉えている。つまり、仮免は取得済み。公道の練習も可能であるという考えである。そのギャップから現場の教師からは不満の声が出るのであろう。「ワードができない」「「エクセルもできない」「プレゼンテーションが苦手と言っている」「言葉での表現が苦手」・・・。これでは、咳も止まらないのである。大学で仮免段階まで指導してほしいと熱望している受け入れ先教員の声は多いと思われる。私は、大学院1年時に三週間、インターンシップを体験した。そこは、K&L(http://www.klt.co.jp/)広告会社であった。そこでの一番の経験は、未完の学生が実習に来られても迷惑であるということである。理論をしっかりと修得し、まさにそれを現場で生かすための実習出なければ意味がないということばである。私は当時の広告学会の大御所八巻先生の弟子と勘違いされ、それなりの期待とプレッシャーを受けながら作品を仕上げたことがある。教育実習でも、インターンシップでも同じである。現場で実習するということは、公道で運転することと捉えて、大学でもぜひ教育してほしい。あるいは、学生にはしっかり本を読んで、それを人にしっかりと伝えられるような教育をぜひしてほしいものである。
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森林浴と盆栽

2007-06-10 23:14:29 | Weblog
6月も中旬に近づくと私の職場にも多くのアメリカ人生徒が交流校からやってくる。国際交流に関連する担当者はまさに大忙しである。職場に有能な新人が入ってくる前は、私も何回も新東京国際空港に出迎えに行きホストファミリーへの引渡しをしたり、彼らはレイルウエイパスをもっているので日本国内の特急にも乗り放題という事情もあり、京都観光に向かう留学生たちを東京駅に見送りにもよく行ったものである。オ~、まさにツアコンのよう。
 さて、そんなアメリカ人学生からふと思い出したことを書いてみます。題して「森林浴と盆栽」。自然に対してアメリカ人は、その中に入って行くと言われている。身近な公園を例にとっても広大なバーべキュースペースがあり、気楽に家族で、あるいは友人と自宅近所の公園で予約なしに楽しい時を過ごせる。もちろん、身近にある森でもボーイスカウトやガールスカウトキャンプが手軽にできるような自然が多々ある。国定公園では、ボートハウスをレンタルしそこで寝泊りしながら長期休日を過ごすことも一般的なことである。ハリウッド映画にもそれらの状況がでてくるので、自然に入っていき自然を満喫するアメリカ人の感覚は我々日本人にも容易に想像できるのではないだろうか。まさに森林浴を楽しむアメリカ人たちです。
 それに対して日本人は、自然を自らのものに引き入れると言われている。具体的な例として盆栽や華道(フラワーアレンジメント)があげられる。自らの身に引き入れた自然を加工し、特には小宇宙として表現することもあるのである。京都の庭の美しさも日本人の自然を取り入れるという考えからすると納得しやすい。
かつては、国民性により北米系か日本的か分けることが可能であった。しかしながら、北米においては変化が無いものの、日本的と言われているものの衰退が進行中である。文化的なものは、意識して教育に折り込み後世に残していく必要があるかもしれない。
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アイデンティティ・クライシス

2007-06-04 22:54:45 | Weblog
昨夜一通のメールを受け取った。「何もかも捨てて消えてなくなりたいと思いました。私は何のために頑張るのか分からなくなり、もっと言うなら何のために生きていくのか分からなくなりました」だ。Rさんの許可を得ないで抜粋して転載しているので少々気が引けるが、ここに書き込む最大の目的は、Rさんにこのブログを見て元気を出してほしいからにほかならない。「この人の言っていることは本当か?」渋谷昌三、PHP、2007によると感情労働者に多い憂鬱に他ならない。感情労働者(エモーショナル・ワーカー)とは、技術や知識だけでなく、感情もサービスのひとつと見なされる労働に従事している人たちのことである。渋谷(2007)によれば看護師や航空機の客室乗務員がこれにあたるという。嫌な相手でも、自分の本音を押し殺し、笑顔でいなければならない辛さ、精神的負担のために不適応(アイデンティティ・クライシス)を起こしてしまうのだ。結果として、何のために働いているかわからない。人に対していったいどう振る舞えばいいのかわからなくなるという。渋谷によるとその解決策は「ウソつきになること」である。本音と建前(うそ)を上手に使い分けることができれば、アイデンティティ・クライシスはさけられるのである。また、それ以外に職場以外の「準拠集団」(同じ趣味の仲間、地域サークル、家族)をもつことがその解決に続くそうである。同じ価値観を持った人間に囲まれていると自分だけ逃げ出すことができないのである。苦しみが仕事から離れている時間も続くようなら、もっと気楽に考えようよ!ケセラセラ。なるようにしかならないと私は思う。最後に渋谷氏の言葉で〆ます。「私たちがみな幸せになれる世界は、ウソのない世界ではなく、ウソを言い合える世界」。
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好き!嫌い!

2007-06-03 22:58:10 | Weblog
好き!と嫌い!は表裏一体である。今までの大好きな恋人関係が崩れ、急にいがみ合って、大嫌いになったりする。時には、片方がストーカーに急変することもあるのはよくある話ではないだろうか。ある学者の説で、それを解明することを試てみると答えは意外に容易である。例えば、髪の毛の場合。時には染色し、毎日シャンプーし、艶を出すためにリンスを与え、そしてブラシを入れ、入念にブローされている。まさに髪の毛は身に着けた貴重品であるが、ひとたび頭皮から離れた瞬間にそれは、嫌悪の対象となる。持ち主不明。テーブルに落ちていたり、たまたま食べ物に混入などしていたら、気分が悪くなること間違いなしだ。その髪の毛の持ち主を探すことなく、自分の物である可能性もあるのにである。同じことは、便や尿にも言える。体内に入っているときには特に気にすることもないのに、体内から排出された瞬間に嫌悪の対象となる。便なども、便秘症で数日間大切に体内に保管されていた便も、排便とともに嫌悪の対象である。
人間関係もこれと同様かもしれない。今まで肉体関係をもってきた男女。肉体関係がなくなった時から、それは身につけていたものが離れること、つまり嫌悪の対象に変化する。いや、肉体関係などなくても精神的な結びつきさえ、ある会話の中の一言やあるきっかけで絆や結びつきのある人間関係においても遊離現象が起こるのではないだろうか?結ばれていることと離れることは、まさに表裏一体である。何とか結ばれていたいと願っても体毛のように意図しなく、離れていくものもある。好きと嫌い。特に人間関係におけるその問題は、人間にとってとても大きな課題ではないだろうか?
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