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曽田修司の備忘録&日々の発見報告集

シンポジウム「演劇と学校教育をむすぶ」

2005-03-06 22:12:42 | アーツマネジメント
本日、横浜市高等学校演劇連盟、横浜ふね劇場をつくる会、STスポット横浜の共催で「演劇と学校教育をむすぶ」というシンポジウムが開催された(於:神奈川県立平沼高校)。参加者は、神奈川県内の高校の先生方が主体であったようだ。
途中、地元横浜を代表する劇団である横浜ボートシアターの演出家遠藤琢郎氏が、「アートは本来毒を持っているもの。近頃アーティストがやたらに教育者を気取っているように見えるのは胡散臭い」という趣旨の発言をされた。それに続けて、「アーティストはもっとなりふり構わず必死になって作品を創り出すのが本来のあり方だ」という趣旨の発言もあった。(注:言葉づかいは必ずしも正確ではない。)
指摘された点は確かにそのとおりであろう。また、これまでのアーティストの「教育」現場に対する実感に沿ったものでもあると思う。現実に教育現場とアーティストの創造現場では、これまで価値観が違う部分が大きかったのだから、両者がたやすく協同できるという考え方を無批判に前提とすることを戒められたものと理解できよう。
そして、氏の指摘によって、少なくとも私にとって明らかになったことは、社会が「教育」に対して何を求めるのか、が今まさに少しずつ変わりつつあるのだ、ということである。
これまで、教育という言葉の意味するところは、(建前はともかく)実質的には、「(生徒を)型にはめる」「矯める」ということであり、学校とはそのための機関であった、と言って大筋では間違いでないだろう。
ここで改めて指摘するまでもなく、以前と比べ世の中のありようは大きく変化している。そして、それにも関わらず、実際に行われている「教育」の中身はなかなか変わって行きづらい。そのことが問題なのだ。
では、そのような「教育」の場に、「アート」や「アーティスト」が入っていくということはどういうことなのか。
先回りして私なりの結論を述べてしまうと、「アート」が「教育」の場に入っていくことによって、「教育」の中身は、生徒を「型にはめる」ことや「矯める」ことではなく、生徒ひとりひとりに「生きる力を与える」、あるいはもう少し平たく言えば、「自信を持たせる」ものになりうるはずである。
STスポット横浜が「アートを活用した新しい教育活動の構築事業」(略してアート教育事業)を行っているのは、そういう考え方からである。そして、ここでのポイントは、STスポット横浜というNPO法人と行政(神奈川県)、教育委員会との連携による民・官の共同事業としてこの事業が成立しているということである。言うまでもなく、行政や教育委員会の関与なしに「教育」の大きな変化を実現していくことなど出来ない相談だ。同時に、行政や教育委員会の側から見れば、民間アートNPOの企画力と機動力があって初めてこの事業の実施に動き出せた、という側面がある。
以前、このブログでも紹介したように(→お金としくみとコーディネーターと)、私たちSTスポット横浜だけでなく、民間のNPO団体にはアートと学校教育の連携のコーディネーターとして積極的な取り組みを行っているところが最近増えてきている。このアート教育事業は、それらの団体の貴重な実践の蓄積の上に立って、ある種の実験事業として成立していることに改めて言及しておきたい。
繰り返しになるが、私たちが、今年度(平成16年度)のアート教育事業の現場での取り組みを通して発見しつつあるのは、このように、社会の変化によって「教育」の機能が変わらざるを得なくなってきているということ、そして、今後、民・官の連携によって、実際にそれを変えていける可能性があるのではないか、ということである。



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