昨日今日明日

きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

トン・チン・カンの音がする

2006年06月05日 | Weblog
内閣不信任案 民主が検討も 菅氏表明 (産経新聞) - goo ニュース

 日本国もかくして破壊されていくのである。称して、『民主頭(民主のあたま)を叩いてみればトン・チン・カンの音がする』これは些か端折(はしょった)った言い方であるので、その意味するところをつまびらかにする必要がある。明治維新のとき「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」とは我々の世代が教科書で習った明治の心意気であったのだが、それに肖ったのである。

 トン=O掟、チン=平和の使者、カン=説明の必要なし。因みに中国人ウォッチャーのために「トン・チン・カン」をどのように発生すべきをつまびらかにしておこう。彼の国の住人におかれては、「屯・請・干」と読んでくれたまえ。これが中国語で読む日本語である。

 辞書を紐解いてみると、「トン・チン・カン」とは刀鍛冶が日本刀を鍛える時に使う道具の発する音だというのである。トンとは餅をつく時に使うような大槌の音をいい、チンは大方の形を整える小槌の響きである。カンというのは師匠の「教育的指導の掛け声」である。これが、日本の国語辞典が説明する刀を鍛える時の不協和音について解説する文言である。本来の意味は不協和音を意味するものだというのだが、それで日本刀に「日本精神」が篭ったというのか国語学者の先生方よ!。
 
しかしである。道元禅師が江戸時代に広められた「曹洞宗」の流れを汲む者にとって、「トン・チン・カン」とは死者を冥土に送る三種の仏具の鳴り様にしか聞こえない。トンとは太鼓の音、チンとは鐘の音、カンとはシンバル(中国ではこれをルオというそうである)の音である。本来なら、チン・トン・カンというべきであろうが、使い古されているうちに訛って、文字通り「トン・チン・カン」という表現になったものと察しられる。私としてはこの自説に自信を持っているのだが、信州の永平寺のご見解があれば「トラックバック」をお待ちしようと思う。

 焼きが入ったトンちゃん(元村山首相もこのように呼ばれていたと記憶しているが)の恥知らずぶりを日本国民が「呆れた奴」とレッテルを貼り付けないとでも思っているのか。『民主丸呑み共謀罪』審議拒否とは、恥知らずの照れ隠しにすぎない。彼らに思考能力はないのだ。これぞ誠の『恥の上塗りである』良識ある日本国民の脳裏に深く刻み込まれた『政権担当能力無き烏合の衆』の実体を証明する痴戯であった。

 私がもし、小泉首相の立場にあるなら、ここで「トン・チン・カン」どもをギロチン台に送り込む作戦に出る事だろう。突如会期を延長するとすると宣言し、民主党の提出した「教育基本法」を丸呑みにするから成立させようと言ってのけるのである。そうすれば、烏合同舟の船体はたちまち泥舟となり、自民の草刈場と化すのである。
 総理総裁にはこれ位の『才覚』が求められているのである。

正論を語る才媛

2006年06月04日 | Weblog
 時ここに至り『スマート・ビューティー』達のスマートな主張に素直に耳を傾けてみようと思う。これは平成18年6月3日産経新聞の「正論」に寄稿された衆議院議員で弁護士の稲田朋美氏の気高き主張である。
 「一行読み一行ごとのごもっとも」なのである。これ程の理路整然とした靖国理論を展開した国会議員は他にあるまい。男性軍もしっかりしなくちゃね~。


 首相の靖国参拝は安全保障問題 本質見極め矮小化議論を排せ

 侵略に屈せずの意思表明:

 首相の靖国参拝について、その是非がしばしば論じられるが、何のためかという視点を欠いている。国の代表が、国難に殉じた人々に感謝と敬意の祈りを捧げなければならないことは今更議論するまでもない。重要ななのは、この問題が我国の安全保障、ひいては国としての存立にかかわる問題だといういう点である。国益を論ずるのであれば、まず「国」でなければならない。
 昔も今も国際紛争を最終的に解決する手段は、不幸なことではあるが物理力である。平和憲法を有する我国についても例外ではない。もし仮に、他国が我国に攻め入ってきたら、武力を行使して自国を防衛することは憲法第9条の下でも当然に許されている。
 この厳然たる事実を受け入れることが首相の靖国参拝を論ずる前提である。国のために命を捧げた人々が感謝も敬意も払われず、まるで犬死のように扱われ、または忘れ去られるようでは、一体誰が国のために血を流して戦うのかという問題なのである。
 靖国参拝に反対する政治家、財界人はもっともらしい理屈をさまざま挙げてはいるが、要は、たとえ他国に攻め込まれても血を流してまで国を守る覚悟はないし、ともかく中国を刺激してはならないと主張しているに等しい。
 小泉首相は就任以来、毎年欠かさず靖国神社に参拝してきた。これは総理個人の内心がどうであれ、他国の侵略に対して我国は、血を流してでも守る覚悟であることを内外に表明することである。
 首相が靖国に参拝することの意味は「不戦の誓い」だけではない。「他国の侵略には屈しない」「祖国が危機に直面すれば後に続く」という意志の表明であり、日本が本当の意味での国であることの表明なのである。この点に触れずに、靖国問題を政教分離や対アジア外交の問題に矮小化することは、戦後体制の歪みそのものである。

 単純にすぎる戦争責任論:

 首相の靖国参拝に関連して、民主党の小沢代表は、自分たちが政権をとれば、いわゆるA級戦犯を霊璽簿から抹消するとの暴論を展開している。その小沢氏が党首討論で「占領政策」「戦後体制」による歪みを指摘するのは自己矛盾である。A級戦犯の正当性(正しくは不当性)の源である東京裁判は、まさしく「占領政策」「戦後体制」の中心であり、東京裁判史観の克服無しに戦後体制の歪みを是正することはできないからだ。
 いうまでもなく、東京裁判はポツダム宣言と近代法の大原則(罪刑法定主義)に違反した二重の意味での国際法違反である。その不当性は、たとえサンフランシスコ平和条約で「受諾」しても減殺されるものではない。当時の成人日本人の圧倒的多数が東京裁判の不当性を認識していたことは、日弁連が中心となって展開した戦犯釈放署名運動4千万人の国民が署名たことからも伺える。
 だとすると、なぜ今更この不当極まりない東京裁判で裁かれたA級戦犯について、同じ日本人がその戦争責任(人によれば敗戦責任)を糾弾し、墓を暴くようなまねをするのか。A級戦犯がいたから日本が無謀な戦争に突入し、そして敗れたというような単純なものではない。無数の偶然と必然、そして歴史の大きな流れの中で日本は戦争に突入し、未曾有の敗戦という悲劇を迎えたのであって、その責任をA級戦犯だけに帰すことはできない。ましてうち7人は自らの命でその責任をとっているのである。

 本当の国になるかの問題:

 A級戦犯の合祀と昭和天皇の参拝中止の間に因果関係がないことも、この際指摘しておく必要がある。
 昭和天皇が昭和50年11月21日を最後に参拝を中止されたのは、その年の8月15日に参拝した三木首相が「私的参拝」と奇妙な言い訳をしたことに始まる。
 「公的か私的か」の不毛な論議が沸き上がり、昭和天皇が参拝された前日の国会(参議院内閣委員会)で社会党の議員が昭和天皇参拝の憲法問題を指摘し、激しいやり取りがなされたからでる。
 A級戦犯を分祀すれば天皇陛下のご参拝が実現するなどという嘘にだまされてはならない。この嘘は、靖国神社が分祀できないことを知った上で、難きを強いて首相の靖国参拝を阻止したい勢力の戦略にすぎないのだ。
 靖国問題の本質は歴史認識でも政教分離でもアジア外交でもない。日本が戦後体制の中で今後も「国ごっこ」を続けるのか、それとも本当の「国」に生まれ変わるのかという問題であり、ここに議論の意味があるのである。

  
 私も最近ではタイピングスピードが些か上がったとはいえ、甚だ疲れましたわい。稲田氏の益々のご活躍に期待するものである。
 

歴史再認識(第十二話)

2006年06月03日 | Weblog
 平成18年6月2日産経新聞「正論」に上智大学名誉教授、渡部昇一氏が日中戦争史を研究する上でキ-ポイントとすべき観点について書かれているのがとても印象的且つ誠に当を得たものであると感服致し書き留めて置くものである。
 渡辺先生が指摘されていることとは:

 (1)支那事変(日中戦争)は昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件で始まったのではなくて、同年8月13日始まったのだ」。・・・という趣旨のことを、故ライシャワー駐日大使が話したことを伝え聞いたというのである。そして、ライシャワー大使のお兄さん、ロバート・ライシャワー氏は8月13日から始まった第二次上海事変に遭遇し遇えなくで死亡したのだそうだ。
 支那軍が日本の領事館や軍艦・船舶などに爆弾を投下したほか、フランス祖界地の市街も爆撃した。支那民衆の娯楽センターであった「大世界」にも命中して4人以上が死んだほか、イギリス人経営のパレスホテルやカセイホテルにも命中し、外国人を含めて200人以上が死亡したという。ロバート氏はカセイホテルに滞在していた時にこの災難に遭遇したのだ。だから、ライシャワー元駐日大使の発言には愛おしき兄の命を奪われた当事者としての思いが篭った発言として重く扱われなければならない。
 また、この第二次上海事変における支那軍の理不尽な攻撃については、トレバニアンという作家の「シブミ」という小説に詳細が描写さえているということである。
 そして、この事件については、現在、国際的に時の人であるユン・チアンの『マオ』の中でも同様の検証がなされているという。
 連綿と日本人の血を継承する私たちは「敵方のプロパガンダ」を無防備に受け入れ、贖罪意識だけを醸成しては、当時歴史の中で、日本人のとしての有り様に血を賭した勇者を蔑ろにすることであり、「断じて許されることではない」と心致すべきなのだ。

 (2)次に、日中戦争(当時中国などという国は存在していない)すなわち「支那事変」は誰の意志で画策されたのかといえば、コミンテルンであったという。なんぼ中共が偉そうな口を叩こうが、毛沢東にさほどの知恵はなかった。結果として毛沢東の実績とは自国民一億人の命を「文化大革命」の名の元に奪い去ったというだけであるが、これ程凄まじい『人間』に対する大儀なき殺戮が行なわれたのは『支那大陸』を置いて他にない。
 支那事変というは、支那人の幼稚な脳で思索されたものではない、この事件は、コミンテルンの手先であった張治中という将軍が、国民党蒋介石の命令に反して起こしたもので、上海事変で支那は、驚くなかれ73師団40万人以上の精鋭部隊を投入したという。当時このよう莫大な数の日本軍が支那に駐留していたとも思えない。
 そして、共産党軍の薄汚い作戦とは、戦争に発展させるべく工作(最初に日本軍と国民党軍が戦争状態に間違いなく及ぶだろうという下拵えを完璧に行なったうえで自分たちは高見の見物を決め込む)をすることに余念がなかった。
 このように、盧溝橋事変といい、上海事変といい、そこで戦闘を起こしたのはコミンテルンの指示を受けた支那共産党の将軍達とその部下であることは今や隠れもない事実であると「中国と朝鮮半島」を除く、全世界から認知されようとしている『中国史』の真実なのである。

 (3)東京裁判で被告人席に立たされ、みせしめ裁判の犠牲者となられた大日本帝国元首相東条英機氏は、宣誓供述書の中で、「支那事変以来、日本は常に受身であった」という趣旨のことを述べている。そして、裁判中に行なわれた検事との応答では、いつも元首相が勝っているという印象があり、この時ばかりは東条嫌いの人たちの間でも彼の評価は上がったという。

 (4)馬鹿にも劣り蛆虫レベルの「日本進歩的文化人」の群れというものも始末に悪い。彼らの内で最底のレベルとは「の~べる文楽賞」という勲章に尽きるのだが、日本語も理解しない害国人が与えた栄誉であるからして、国粋の側からの評価は越中富山の薬売りスタンダードである。言い換えれば「鼻くそ丸けて万金丹」である。ところで、森下仁丹はまだご健在か?。
 敗戦当時、東京裁判で日本を断罪するように指令し、その裁判の法源であったマッカーサー元帥が、裁判終結の約二年後にはアメリカ上院の軍事・外交委員会という公式の場で、東条英機元首相の主張に沿ったような発言をし、しかもその発言を「(我々とて日本が戦争せざるを得ないような状況に追い込んだのも事実であるが)、従って日本が戦争に突入したのは、主として自衛のためにやらざるを得なかった」と言って締めくくったことは、日本人すべてが知るべき歴史上の事実である。


 そして、私を含めた日本人よ!、先の大戦は確かに負け戦意外の帰結はなかったというのも事実である。しかし我が父祖達は、敢然と世界史に挑戦した、負け戦の結果を父祖に転化しようなど愚の骨頂である。讃えるべきは、何としても民族の活路を切り開こうとしたその「心根」である。「民族の血」をもって惚れろ!『我が民族のその心根に!』。

踊るヘッポコリン

2006年06月02日 | Weblog
「明るい兆し」訴えに躍起 猪口氏、出生率低下で (共同通信) - goo ニュース

 私は、この猪口国務大臣は冗談の人かと思っていたのだが、実は真摯に困難に立ち向かう「ジャンヌ・ダルク」と称するべき逸材であると再認識した。遠く「支那(ジーナァ)」が輝いていた頃、彼の国の孟子という聖人は「自らかえりみて直くんば、千万人といえども我行かん」とのたまったそうな。

 四面楚歌などものともせずに中央突破を試みるなどの勇猛さは、我が先人の近くにありては大東亜戦争時の「玉砕」と同様の勇ましさである。もはや理性を通り越した感情の人、いやいや大和魂(やまとだま)の神髄を実践なさる人である。そういう一途さが先の大戦の災いを招いたのであるが、私としてはこういう女傑が大好きである。

 いつものように話は変わって、日本の「進歩的文化人」など、そういった「大和魂」を否定する「自虐という惨めさ」をを世界に訴えることによって「ノーベル賞」を戴いたと、日本人を屁馬鹿にすることしきりである。今や、日本人に愛想をつかされた誉れ高きそのお方は、「ノーベル賞」を崇め奉る韓国で絶大なる「権威」をひけらかしておられるという。この「可愛そうな日本の英雄」を韓国人は放って置くのであろうか。早く韓国人にしてあげるべきである。

 まったく酔っ払いの話というのは採り止めのないものであるが、猪口女傑に申し上げたいことは、軍国主義において最高司令官が命令すれば、所謂「サラウンディングス」までも変えることができるかのような心理学的な「錯覚」に陥って居られるのではないかと思う。ここは共産国中国ではないのである。内地としての「日本国」の話をすべきであると思う。
 
 日本国においても有史以来病疫とか国内の内乱で人口減少をきたしたことはあったかも知れない。しかし平和な世の中において人口減少という憂き目を見るのは始めての経験である。
 これは、環境の変化に起因するのかというと、そうではあるまい。おそらく日本人の意識の変化によるものであろう。この奇異な現象は近くて口喧嘩が絶えない韓国においても深刻な問題である。
 この近くて中の悪い両国に共通な歴史的事実というのは、戦後共通に『So Americanize』されたという現実がある。我々はありもしない『自己の尊厳』を希求し過ぎたために、子孫を残すという民族の存続に関わる根本事項さえ忘れ去ってしまったのである。
  
 日本の人口再興プロセスとは、戦前の「生めよ増やせよ」の子沢山ルネサンスに立ち返ることなのである。一案に過ぎないのであるが、田舎で広い家屋敷があるものには大家族で暮らすメリットを与えたまえ!。

songzhaoのボケ封じ数学講座第16講

2006年06月01日 | Weblog
 副題:ジュリアス・シーザーの贈り物

 今回は、現在私たちが使っている太陽暦(グレゴリオ暦)ついて考察しよう。

 ジュリアス・シーザー(カエサルBC102~BC44)といえば、ヨーロッパ版の「始皇帝」とも言うべき歴史上の大人物であるが、戦士としての才覚もさることながら、文化に対しての憧憬もたいへん深い人で、文化面においても多大な業績を残した英雄であった。
 その一端が、当時としては画期的な太陽暦(ユリウス暦)を採用したことである。これは、後の人類への『素晴らしい贈り物であった』彼はキリスト誕生直前の人でもあったのだ。
 以後、このユリウス暦は、キリスト教会によって綿々と護られ、1603年にローマ教皇「グレゴリウス十三世」によって、長期にわたる使用で生じた誤差を修正され現在に至っている。
 こんなことを聞きつければ、中国あたりから、シーザーよりも1000年も前に中国人は太陽暦を知っていたというぐらいの横槍が入りそうであるが、はっきりと歴史に対しての貢献という立場で物申さば、「単発で上がった花火(或いは線香花火)のような発想にはまったく価値は無い。継続継承があってこそものの価値は生ずるというその意味を咀嚼してこその価値が問われる」と反論すべきである。 
 残念ながら中国には、文化の継承という概念は無い。あるのは破壊と革命である。

 ユリウス暦とはどのようなものかというと:

 アレキサンドリアの天文学者ソシゲネスの助言を受けて行なった改暦であったが、当時ソシゲネスが天文学的観測を基に計算した1年間というのは、365日と四分の一であった。紀元前後にこれ程の精度で、太陽の周りを回る地球の公転周期が計算できていたとは驚くべきことである。
 この時点で、1年目から3年目までは一年を365日とし、4年目に閏日を1日追加することで、1日分の修正を行なうという現在のパターンが出来上がった。因みに閏日は2月に繰り込まれるという習慣もこの時が起源である。
 
 しかし、年経るごとに、1年が365.25と定義したソシゲネスの計算値と現実の実相との間に誤差があることが判明していったのである。実際の地球の公転周期は365.24220であることが現在では知られている。
 したがって、ユリウス暦においては1年につき『365.25-365.2422=0.0078日』実体よりも暦のほうが進んでしまう。すなわち、1(日)/0.0078(日)=128.2012・・・(年)に1日の割合で暦のほうが早く進んでしまうのである。
 グレゴリウス十三世がユリウス暦を1583年に修正した時に10日のくるいが生じていたということであるから、最初にユリウス暦を採用してから少なくとも、128(年)*10=1280年の歳月が流れていたのである。

 それでは、グレゴリウス十三世はどのような修正をユリウス暦に対して施したのであろうか:

 グレゴリオ暦:

 当時使用されていたユリウス暦は一年の平均日数が365.25であったため、この暦法に従って閏日を置いていると100年で18時間、100年で8日近く実際の季節と創意をきたし、真の春分は暦上の春分よりそれだけ早くなる。
 16世紀終わりごろになると、325年にニカイヤ宗教会議で定められた3月21日の春分は3月11日となり、10日も早まった状態となった。
 時のローマ法王グレゴリウス十三世は、1582年の春分が3月21日となるように10日間を省いて「、10月4日の次を15日とし、将来相違が起きないようにするため、4年に一度閏日を置いたそれまでの置閏法を改め、「西暦起元源数が4で割る切れる数を閏年とする。ただし、100で割り切れる年のうち4で割り切れない年は平年とする。閏日は2月28日の次に置く」とした。これを「グレゴリオ暦」という。この置閏法によると1年の平均日数は『(365日*303回+366日*97回)/400回(年)=365.2425』となり、100年に0.03日、1万年で3日進む計算となる。このグレゴリオ暦の制定に当たっては、聖職者でもあり数学者でもあったクラビウスが大いに関与したといわれている。
 現在このグレゴリオ暦が世界各国で採用されているのであるが、今から、3000年の未来に人類は更に1日閏日を設けるのであろうか。そのようなことは我々の遥か先の子孫に委ねられているのである。現在の政治的不安定さを見るにつけ、その時まで人類が命を繋いでいてくれるかどうかのほうが余程心配である。

 最近では、大学生でさえ分数の計算もできないのだという。だから、(365*303+366*97)/400の意味を説明をしておこう。
 1から400のうちで100で割り切れ、かつ4で割り切れる数とは100、200、400である。したがって、400年に三回の割合でこの条件を満たす場合が出現する。この三回分は閏年に含ませないのであるから、400年につき、303回の平年と97回の閏年が出現するという意味である。本来の数学であれば最初の年が閏年の場合とか2年目が閏年の場合とか考察しないといけないのであるが、この場合は所謂、大数を扱う時の確率的な数値であるということを認識した上で、400年につき 303回の平年と97回の閏年というふうに認識するのである。 お分かりであろうか。そして、ミニマム400年周期で計算したとき、一年が365.2425日となるのである。(日本大百科全書を参照した) 

 私も暇でもあれば暦に関するコンピューター・プログラムを組んでみたいと思うのだが。何時の日になることやら。