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若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

正論を語る才媛

2006年06月04日 | Weblog
 時ここに至り『スマート・ビューティー』達のスマートな主張に素直に耳を傾けてみようと思う。これは平成18年6月3日産経新聞の「正論」に寄稿された衆議院議員で弁護士の稲田朋美氏の気高き主張である。
 「一行読み一行ごとのごもっとも」なのである。これ程の理路整然とした靖国理論を展開した国会議員は他にあるまい。男性軍もしっかりしなくちゃね~。


 首相の靖国参拝は安全保障問題 本質見極め矮小化議論を排せ

 侵略に屈せずの意思表明:

 首相の靖国参拝について、その是非がしばしば論じられるが、何のためかという視点を欠いている。国の代表が、国難に殉じた人々に感謝と敬意の祈りを捧げなければならないことは今更議論するまでもない。重要ななのは、この問題が我国の安全保障、ひいては国としての存立にかかわる問題だといういう点である。国益を論ずるのであれば、まず「国」でなければならない。
 昔も今も国際紛争を最終的に解決する手段は、不幸なことではあるが物理力である。平和憲法を有する我国についても例外ではない。もし仮に、他国が我国に攻め入ってきたら、武力を行使して自国を防衛することは憲法第9条の下でも当然に許されている。
 この厳然たる事実を受け入れることが首相の靖国参拝を論ずる前提である。国のために命を捧げた人々が感謝も敬意も払われず、まるで犬死のように扱われ、または忘れ去られるようでは、一体誰が国のために血を流して戦うのかという問題なのである。
 靖国参拝に反対する政治家、財界人はもっともらしい理屈をさまざま挙げてはいるが、要は、たとえ他国に攻め込まれても血を流してまで国を守る覚悟はないし、ともかく中国を刺激してはならないと主張しているに等しい。
 小泉首相は就任以来、毎年欠かさず靖国神社に参拝してきた。これは総理個人の内心がどうであれ、他国の侵略に対して我国は、血を流してでも守る覚悟であることを内外に表明することである。
 首相が靖国に参拝することの意味は「不戦の誓い」だけではない。「他国の侵略には屈しない」「祖国が危機に直面すれば後に続く」という意志の表明であり、日本が本当の意味での国であることの表明なのである。この点に触れずに、靖国問題を政教分離や対アジア外交の問題に矮小化することは、戦後体制の歪みそのものである。

 単純にすぎる戦争責任論:

 首相の靖国参拝に関連して、民主党の小沢代表は、自分たちが政権をとれば、いわゆるA級戦犯を霊璽簿から抹消するとの暴論を展開している。その小沢氏が党首討論で「占領政策」「戦後体制」による歪みを指摘するのは自己矛盾である。A級戦犯の正当性(正しくは不当性)の源である東京裁判は、まさしく「占領政策」「戦後体制」の中心であり、東京裁判史観の克服無しに戦後体制の歪みを是正することはできないからだ。
 いうまでもなく、東京裁判はポツダム宣言と近代法の大原則(罪刑法定主義)に違反した二重の意味での国際法違反である。その不当性は、たとえサンフランシスコ平和条約で「受諾」しても減殺されるものではない。当時の成人日本人の圧倒的多数が東京裁判の不当性を認識していたことは、日弁連が中心となって展開した戦犯釈放署名運動4千万人の国民が署名たことからも伺える。
 だとすると、なぜ今更この不当極まりない東京裁判で裁かれたA級戦犯について、同じ日本人がその戦争責任(人によれば敗戦責任)を糾弾し、墓を暴くようなまねをするのか。A級戦犯がいたから日本が無謀な戦争に突入し、そして敗れたというような単純なものではない。無数の偶然と必然、そして歴史の大きな流れの中で日本は戦争に突入し、未曾有の敗戦という悲劇を迎えたのであって、その責任をA級戦犯だけに帰すことはできない。ましてうち7人は自らの命でその責任をとっているのである。

 本当の国になるかの問題:

 A級戦犯の合祀と昭和天皇の参拝中止の間に因果関係がないことも、この際指摘しておく必要がある。
 昭和天皇が昭和50年11月21日を最後に参拝を中止されたのは、その年の8月15日に参拝した三木首相が「私的参拝」と奇妙な言い訳をしたことに始まる。
 「公的か私的か」の不毛な論議が沸き上がり、昭和天皇が参拝された前日の国会(参議院内閣委員会)で社会党の議員が昭和天皇参拝の憲法問題を指摘し、激しいやり取りがなされたからでる。
 A級戦犯を分祀すれば天皇陛下のご参拝が実現するなどという嘘にだまされてはならない。この嘘は、靖国神社が分祀できないことを知った上で、難きを強いて首相の靖国参拝を阻止したい勢力の戦略にすぎないのだ。
 靖国問題の本質は歴史認識でも政教分離でもアジア外交でもない。日本が戦後体制の中で今後も「国ごっこ」を続けるのか、それとも本当の「国」に生まれ変わるのかという問題であり、ここに議論の意味があるのである。

  
 私も最近ではタイピングスピードが些か上がったとはいえ、甚だ疲れましたわい。稲田氏の益々のご活躍に期待するものである。