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スゲー
、映画館にこんなに人が並んでいるのを見るのは久しぶりだ。以前は、ほとんどの映画館では客席は自由席だったから、いい席に座ろうとすると早くから行って並ぶしかなかった。しかし、最近は多くの映画館で指定席になったから、あらかじめ自分の座る席は決まっているわけで、並んで待っている必要なんかないはずなのに…。結局、次の回の上映30分前に行ったにも関わらず、次の次の回の座席を取ることになってしまったのは、いい席が残っていなかったからだけでなく、あの行列を見てしまったからかもしれない。それにしても、いかに連休中とは言え、『パンズ・ラビリンス』がこんなにも人気が高いとは…。
『パンズ・ラビリンス』は、『ハリー・ポッター』、『ロード・オブ・ザ・リング』など、ファンタジー映画全盛の今、「そもそもファンタジーとは何か?」という重い問いを突きつけるものかもしれない。少なくとも、これはファンタジー映画のカテゴリーに属するものではあるが、軽い気持ちで楽しめる作品では全くない。「ワクワク楽しいファンタジー」を期待するなら、決して観るべきではない。この映画は、観る側の“覚悟”が問われる作品である。
舞台はフランコ独裁下のスペイン。ナチズムに共鳴し、ドイツ、イタリアの支持を受けたフランコ将軍と、反ナチズムを標榜し、ソ連の支持を受けた人民戦線との間で内戦が勃発したのが1936年7月。それは第2次世界大戦の前哨戦となり、ゲルニカでは非戦闘員をも巻き込む無差別爆撃が行われた(ピカソの代表作『ゲルニカ』は、そのニュースを知ったピカソが怒りを込めて描いたもの)。この内戦は当初、人民戦線側が優位に立っていたが、1938年8月、フランコが30万の部隊を率いてバルセロナを陥落させ、人民戦線を支持する市民の多くがフランスに逃れたことにより戦況が逆転。翌年2月に英仏、5月にはアメリカがフランコ政権を承認。ここにフランコ独裁体制が確立する。その後、フランコ政権は人民戦線の残党に対する激しい掃討作戦を展開していく。『パンズ・ラビリンス』に描かれるのは、この頃のスペインである。
仕立屋だった父を失った少女オフェリアは、フランコ政権下の正規軍大尉ビダルと再婚することになった母カルメンともに、ビダルが支配を任されている土地へと赴く。そこはゲリラと化した人民戦線の残党との一触即発の地であった。おとぎ話が好きだったオフェリアは、そこで妖精を見つけ、その妖精に導かれるままにパン(牧神)と出会う。パンはオフェリアに言う、「あなたは地底の魔法の国で王女となるべき筈だった人かもしれない」と。そしてオフェリアに1冊の本を手渡し、「王女となるためには、その本で指示される試練をパスしなければならない」と告げる。
かくして物語は、フランコ独裁下スペイン過酷な現実と、オフェリアの王女となるための試練とが同時進行する形で展開していく。個人的には、この現実の生活とファンタジーの中の試練とが、もっと相互にリンクし合う形で進んでいくべきだったと思う。その部分が弱いために、現実とファンタジーの両方を生きることになるオフェリアの哀しみのようなものが、あまり響いてこない。そういう意味では、この『パンズ・ラビリンス』は、同じフランコ政権下で現実とファンタジーの両方を生きる少女の物語、ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』には及ばない。しかし、それは同時に『パンズ~』の主人公の少女の年齢が『ミツバチ~』より上であり、より現実を現実として認識している、ということでもあるだろう。
『パンズ~』について、オフェリアは辛い現実から目をそらすためにファンタジーの世界に逃げ込んだ、と考えるなら、それは誤りである。オフェリアの入っていくファンタジーは、ワクワク楽しい子供だましの世界ではなく、ある意味、現実以上に暗く、不気味な、容赦のない世界である。本当のファンタジーとはそんな甘いものではないのだ。オフェリアにとっての本当の試練とは、実は現実とファンタジーの両方の酷薄な世界を生きていくという、まさにそのことだったのかもしれない。オフェリアは全ての試練を乗り越えて、最後には魔法の国の王女となることができたのだろうか? それをここで語ることはできない(単にネタバレになるから、とかそういうことだけでなく…
)。ただ、観終わった後、胸の中に残るこの感じは、『パンズ・ラビリンス』でしか味わうことのできないものだ、とだけ書いておこう。
メインテーマはぜひ聴いてみてほしい。公式HPにアクセスするとBGMとして流れるが、とにかくデータが重いので、ご注意。
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『パンズ・ラビリンス』は、『ハリー・ポッター』、『ロード・オブ・ザ・リング』など、ファンタジー映画全盛の今、「そもそもファンタジーとは何か?」という重い問いを突きつけるものかもしれない。少なくとも、これはファンタジー映画のカテゴリーに属するものではあるが、軽い気持ちで楽しめる作品では全くない。「ワクワク楽しいファンタジー」を期待するなら、決して観るべきではない。この映画は、観る側の“覚悟”が問われる作品である。
舞台はフランコ独裁下のスペイン。ナチズムに共鳴し、ドイツ、イタリアの支持を受けたフランコ将軍と、反ナチズムを標榜し、ソ連の支持を受けた人民戦線との間で内戦が勃発したのが1936年7月。それは第2次世界大戦の前哨戦となり、ゲルニカでは非戦闘員をも巻き込む無差別爆撃が行われた(ピカソの代表作『ゲルニカ』は、そのニュースを知ったピカソが怒りを込めて描いたもの)。この内戦は当初、人民戦線側が優位に立っていたが、1938年8月、フランコが30万の部隊を率いてバルセロナを陥落させ、人民戦線を支持する市民の多くがフランスに逃れたことにより戦況が逆転。翌年2月に英仏、5月にはアメリカがフランコ政権を承認。ここにフランコ独裁体制が確立する。その後、フランコ政権は人民戦線の残党に対する激しい掃討作戦を展開していく。『パンズ・ラビリンス』に描かれるのは、この頃のスペインである。
仕立屋だった父を失った少女オフェリアは、フランコ政権下の正規軍大尉ビダルと再婚することになった母カルメンともに、ビダルが支配を任されている土地へと赴く。そこはゲリラと化した人民戦線の残党との一触即発の地であった。おとぎ話が好きだったオフェリアは、そこで妖精を見つけ、その妖精に導かれるままにパン(牧神)と出会う。パンはオフェリアに言う、「あなたは地底の魔法の国で王女となるべき筈だった人かもしれない」と。そしてオフェリアに1冊の本を手渡し、「王女となるためには、その本で指示される試練をパスしなければならない」と告げる。
かくして物語は、フランコ独裁下スペイン過酷な現実と、オフェリアの王女となるための試練とが同時進行する形で展開していく。個人的には、この現実の生活とファンタジーの中の試練とが、もっと相互にリンクし合う形で進んでいくべきだったと思う。その部分が弱いために、現実とファンタジーの両方を生きることになるオフェリアの哀しみのようなものが、あまり響いてこない。そういう意味では、この『パンズ・ラビリンス』は、同じフランコ政権下で現実とファンタジーの両方を生きる少女の物語、ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』には及ばない。しかし、それは同時に『パンズ~』の主人公の少女の年齢が『ミツバチ~』より上であり、より現実を現実として認識している、ということでもあるだろう。
『パンズ~』について、オフェリアは辛い現実から目をそらすためにファンタジーの世界に逃げ込んだ、と考えるなら、それは誤りである。オフェリアの入っていくファンタジーは、ワクワク楽しい子供だましの世界ではなく、ある意味、現実以上に暗く、不気味な、容赦のない世界である。本当のファンタジーとはそんな甘いものではないのだ。オフェリアにとっての本当の試練とは、実は現実とファンタジーの両方の酷薄な世界を生きていくという、まさにそのことだったのかもしれない。オフェリアは全ての試練を乗り越えて、最後には魔法の国の王女となることができたのだろうか? それをここで語ることはできない(単にネタバレになるから、とかそういうことだけでなく…
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