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深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

我が内なるチェンソーエッヂ

2008-01-28 16:05:50 | Weblog
自他共に認める「根性なし」の高校生、山本陽介は、黒毛和牛1パックを万引きした夜にふと立ち寄った公園で女子高生、雪崎絵美と出会う。彼女は雪とともに現れる不死身のチェンソー男と、夜な夜な戦いを続けていた。彼女の戦いを目の当たりにした陽介は、いやがる絵美に協力を買って出る。協力といっても、陽介は全く戦力にならないので、彼ができることと言えば、絵美のために水筒にコーヒーを入れて持ってくること、そして戦いを終えた絵美をチャリンコで家まで送ること…。そんな二人が引かれ合い始めた頃、陽介がサッポロの学校に転校することになり──。

映画館で映画をたった一人だけで観たのは、もしかしたら相米慎二監督の『お引っ越し』以来じゃないだろうか。横浜で『お引っ越し』を観た時は、「こんないい映画なのに、どうしてこんなに客が少ないんだろう」と思って悲しかったが、今回の映画は納得できる気がする。TOHOシネマズ西新井では朝10:30から1回だけの上映とは言え、平日の朝からこんなわけのわからない映画を観に来る人間が、そんなにいるわけもなく…。ストーリーの概略を見る限り、そもそも20年くらい前のハリウッドの安手のホラー映画の、更に安手のパロディにしか見えないのだから。

しかし、チェンソー男と戦う女子高生は出てくるものの、この『ネガティブハッピー・チェンソーエッヂ』は決してホラーではない。青春映画である。陽介はバイク事故で死んだ友だちに「先を越された」という負い目を感じ、「これ以上ない最高のエンディングを迎える」ために──と言っても、もちろん理由はそれだけではないが──絵美の協力者になる。つまり陽介は「自殺することすらできない自殺志願者」であり、彼にとってチェンソー男は「自分をかっこよく死なせてくれるかもしれない道具立て」に過ぎないのだ。

そもそも不死身のチェンソー男とは何なのか? その戦いの果てに待っているものとは何なのか? 前者の答はここには述べないが、後者については私が考えた答を述べておこう。答は、「戦いの果てには、別に何もない」。そう、身も蓋もないが、「何もない」というのが答。映画の中でも、彼らは夜な夜なチェンソー男と死闘を演じていても、学校に行けば待っているのは、テストの成績が悪い、と先生に怒られる日々だ。

それでも彼らは戦う。正義のためでもなく、皆を守るためでもない(そもそもチェンソー男は絵美──と、彼女を助ける陽介──しか攻撃してこないのだから)。では、彼らはなぜ戦うのか? 多分、それはチェンソー男がそこにいるから。そう聞くとバカらしい、と思うかもしれないが、実は誰しも同じではないだろうか。さすがにチェンソー男と戦っている人はいない──か、いてもかなり少数──だろうが、みんな日々、何かと戦っているのではないだろう? 戦っても戦っても際限がなく、倒したと思ってもいつの間にか甦ってきて、また仮に倒したとしても別に何が変わるでもない、そんな何かと。チェンソー男の振るうチェンソーのエッヂは、いつでも我々の内にあって、攻撃の機会をうかがっている。

陽介は死んだ友だちを一瞬だが追い越して、その向こうにある何かに触れる。その何かを一瞬でも越える、そのことを我々は「成長」呼ぶのかもしれない。と言っても、陽介は最後まで相変わらずの根性なしのヘタレなのだが。

『ネガティブハッピー・チェンソーエッヂ』の公式HPはこちら。上述の通り、長くは公開されなさそうな作品なので、観に行くなら急げ! なお、この作品は滝本竜彦の同名の小説を映画化したものである。


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