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「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

『エヴァ』という物語

2012-12-13 13:19:54 | 趣味人的レビュー

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』と『巨神兵東京に現わる』の2本立てを観に行った映画館は、平日の昼間だというのに人でいっぱいだった。売店にはさまざまな「エヴァ・グッズ」があって、それなりによく売れている様子。Food&Drinkコーナーにはポップコーンとドリンクにエヴァのフィギュアのついた「エヴァ・セット」まで。

他にもさまざまな企業がエヴァ・タイアップ商品を出していて、まさにエヴァは、不況にあえぐ日本経済にとって救世主的な意味合いまで帯びているようにさえ見える。


さて、肝心の『Q』だが──

エヴァ・フリークというわけではないにしても、1人のエヴァ・ファンとして、今回の『Q』の公開を楽しみにしていた。(事前にテレビ公開されたもので視ていたが)いきなり大気圏外での戦いで始まる『Q』の冒頭にはワクワクした。

日本アニメ界の到達点を示すかのような映像表現。そして相変わらずの謎に満ちたストーリー。それに活動休止中のハズの宇多田ヒカルがこの作品のために作った新エンディング・テーマ『桜流し』──コンテンツとして鉄壁を誇る作品といえた『Q』。

でも、観ていて何かとても違和感を感じた。


『序』は基本、テレビ・シリーズのリメイクだったから、特に意識することはなかった。『破』は、少年が1人の自立した存在としての自己を獲得していくシーンが感動的だった。だが『Q』は…どう言えばいいのだろう…何かひたすらとらえどころのないものに思えた。

何事かを語っているようでいながら、何を語っているのかわからないような…あるいは、実は何も語っていないかのような…そこには何かがあるはずなのに、何かがあると思われるのに、掴もうとしても何も掴めないような…そんな感じ。それはストーリーが謎めいているとか、まだ完結編を残してるからとか、そういうものとは違うものだった。


それが何なのか、うまく言語化できないでいたが、ネットで押井守が『エヴァ』について述べている記事を見た時、それがわかったような気がした。その記事の中で押井守は

『エヴァ』という作品は、まるで明治期の自然主義文学の如き私小説的内実を、メタフィクションから脱構築まで、なんでもありの形式で成立させた奇怪な複合物であります。

とまず述べた上で

 かくも奇怪な作品がなぜ成立するかといえば――要するに表現すべき内実、庵野という人間に固有のモチーフが存在しないからであって、それ以上でもそれ以下でありません。
 「テーマがないことがバレちゃった」という宮さん(編集者注:宮崎駿監督)の物言いは、その限りおいて全面的に正しいことになります。

と書いている。

卓越した映像表現と希薄な物語性──その異様なギャップが私の感じた違和感だったのだ。

押井守は記事の始めに

僕は『エヴァ』に関しては、シリーズを何本かと、最初の映画版(「春エヴァ」?)以外は全く見ていません。

と断り書きを入れているので、これは『Q』に対する批評として書いたものではない。だから「物語性が希薄」という点では(押井守的には)「エヴァはずっとそうだった」と言えるのかもしれないが、今回、私ですらそう感じたということは、『Q』ではそれが、ある臨界点を越えてしまったということなのかもしれない。


だが仮にそうだったとしても、それは『エヴァ』という作品の価値を高めるものであっても、決して傷つけはしない。なぜなら、そもそも『エヴァ』が社会現象になるほど広く受け入れられた理由は、『エヴァ』がそもそも「語るべき何か」を持たないことにあったと思えるから。

「語るべき何か」を持たない『エヴァ』は、それゆえにそれを見る1人ひとりが自身を投影して物語を補完し、エヴァに仮託した「自分の物語」をそこに構築するための、いわば「依代(よりしろ)」だったのだ。それは確固とした物語を持ち、その物語への共感と共有を軸に支持が広がっていった、『魔法少女まどか☆マギカ』のような作品とは真逆のベクトルを有するものだ。

そして『エヴァ』という依代を介して集まった、中心を持たない、明確な像も結ばない「自分の物語」の集合体は今、社会のある一角に意識の場、そして力の場──例えば電磁場のような──を形作り、そうして作られた場──それは「エヴァ場」と呼んでもいいかもしれない──は、紛れもなく社会の中である影響力を持つ存在になっている。


「新劇場版」は次作で完結となる予定だが、それでも『エヴァ』という物語が終わることはないだろう。『エヴァ』とは「語るべき物語を持たないがゆえに、永遠に終わることのない物語」なのだから。

だとするなら、永遠に消えることのない「エヴァ場」はこの先、社会意識の深層の一角をどのように形作っていくのだろう。私の興味は、その1点にある。


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2 コメント

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あけましておめでとうございます (加藤)
2013-01-16 18:29:14
アニメの当時チルドレンと同学年だったじぶんは今やミサトやリツコと同じ年になりましたが、ある意味サザエさんやちびまるこなんかの国民的なアニメとおなじなのかなと思えてしまいます、所で神のみぞ知る世界みましたか?アニメでまたやるらしいんですけど、今初期のを借りて夜ひとりで酒飲みながら見てねてます
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はてしない物語 (sokyudo)
2013-01-17 11:13:21
>加藤さん

明けましておめでとうございます。今年もよろしく。
『エヴァ』の本放送は視てませんでしたが、放送当時、私はもう会社員になっていたので、今ではもうゲンドウを追い越してますね、多分。
『サザエさん』も『ちびまるこちゃん』も永遠に同じ時間の中を生きる「はてしない物語」のようなもので、『エヴァ』もある意味、同じなのかもしれません。

『神のみぞ知る世界』は視てません。今、面白く視ているのは『新世界より』と『絶園のテンペスト』かな。そして春からは『進撃の巨人』がいよいよアニメに登場です。
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