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生と権力

2024-06-12 11:27:09 | 趣味人的レビュー
最近、政治についていろいろ思うところがあり、檜垣立哉の『生と権力の哲学』を読んでみた。檜垣はそこでミシェル・フーコーの〈生政治学〉をキーワードに、後期フーコー哲学からドゥルーズ、アガンベン、ネグりらの哲学まで援用しながら、政治・社会システム論と、ネットワーク論、セクシュアリティー/ジェンダー論、生命論がクロスオーヴァーする地点を見据えた立論を試みている。

ここではさまざまな分野を横断する非常に刺激的で魅惑的な論が展開されているのだが、残念ながら私にはそれらを十分咀嚼し理解することができていない。なので、本来ならこのレビューは本書で展開された論の全体像を明らかにし、それをトータルで評価する形になるべきだが、到底そんなレビューは書けそうもない。ということで、そうしたレビューは別の人に譲り、私は檜垣が目指したものとは無関係に、読んでいて個人的に注意が向いたいくつかの部分について述べるに留めたい。

まず、本書の主題とも言える〈生政治学〉だが、伊藤計劃(けいかく)の『ハーモニー』を読んだ人なら、この言葉から『ハーモニー』に出てくる〈生府(せいふ)〉という言葉を容易に連想するだろう。〈生政治学〉について檜垣は
〈生権力〉以前の権力の働きにおいては、権力は最終的に「死」をもって、ひとびとの振る舞いを規制し、禁止するというかたちでしか機能しえなかった。しかし、空間的なテクノロジーを重視し、超越的な特権者を最終的には想定しない(想定しても、きわめて非人称的なものものでしかない〈生権力〉においては、権力は禁止するものでも殺すものでもない。まったく逆である。それは、権力の網の目のなかに存在する個人をどのように「生かす」のかを主眼とする。「死」を与えるのではなく、「生かす」ことをそのものを目的とし、ひとびとの振る舞いをつくりだしながら、規律を監視の機能を働かせるのがこの権力である。(中略)
フーコー自身は、このように素描される〈生権力〉の姿を、規律訓育型の権力をさらに越えて、ポリス(警察国家)や福祉国家における、より透明で適応度の高い権力のかたちに見いだしなおしていく。つまり、人口としてひとびとの生を調整し、衛生的な福祉を充実させ、それによって清潔で安全な社会をつくりあげる権力の新たな戦略としての〈生政治学〉へと結びつけていくのである。
と述べているが、それは『ハーモニー』における〈生府〉そのものである。
私は不勉強で、伊藤計劃がフーコーの哲学を学んでいたのかどうか知らないが、仮に彼がフーコーを全く知らないまま『ハーモニー』を書たのだとしたら、伊藤とフーコーはそれぞれ全く違う地点から同じ結論を導いていたことになり、そうだったら面白いのにと思う。

またフーコーの代表作の1つ『狂気の歴史』について
『狂気の歴史』は、十六世紀以降の西洋社会における、狂気に関する認識論的な位相を描き、狂気の側からノーマル=正常なものがどのように成立したのかを、医学的、制度論的、文化論的な観点も含め考察した大著である。その記述のクライマックスは、十八世紀における「狂人保護院」の成立にある。「狂人保護院」とは、一種の収容施設であるが、その成立を支えている発想は、「理性」に対する「非理性」の無作為な「排除」ではない。(中略)
そこでの論点は二つある。それは、ともに十八世紀的な規律訓育型権力の問題意識に結びついている。
ひとつは、これらの運動は、まさに狂人を「解放」し「自由」にすること、つまり彼らを正当に扱うことから構成される点である。それをフーコーは、別の仕方での「排除」と捉えていく。「解放」し「自由」を与えることは、まさに「真理」と、それにもとづく「善」によって、社会を統制することの基本になる。だがフーコーにとって、それは新たな、そして実はいっそう強力な、狂気の監禁の開始を意味するのである。
もうひとつは、まさにその内容に関わっている。こうした「解放」とは、狂人を客観的に種別化して分析することを意味するだろう。それをフーコーは「有罪性」の組織化と語っている。狂気はここで、ただ「排除」されるものではなく、積極的に分析されるべき対象として提示され、罪あるものとして現れるのである。
この檜垣の分析を読んで、これをそのままなぞったような物語があることに気づいた人もいるだろう。そう、夢野久作の『ドグラ・マグラ』である。夢野が『ドグラ・マグラ』に描いた「狂人の解放治療場」は、まさにフーコーが『狂気の歴史』に述べたもの、そのものだ。夢野は1889~1936、フーコーは1926~1984なので、夢野がフーコーの影響を受けたはずはなく、またフーコーが夢野の『ドグラ・マグラ』を読んでいたとも思えないので、この2つの相同性は興味深い。

更に〈生政治学〉において鍵となる権力のヴィジョンは、監視と管理である。檜垣は
そこでは、誰が誰を規制しているのかは実際にはよくわからない。誰が誰を管理しているのか、誰が誰の利益のために動いているのか、そうしたことが明確にできない点が、このシステムにつきまとう薄気味悪い切迫感を生み出していく。
と述べた上で、アガンペンの主張を紹介する。
アガンペンは、徹底的に権力側と非権力側が鮮明に区別できるようなアウシュヴィッツの強制収容所という極限状況においてさえも、それら両者を分離することが困難である位相を明らかにしていく。アウシュヴィッツの「証言」は、生き残りのユダヤ人によって伝えられる。殺されたものの声はそもそも誰にも通じない。しかし生き残りのユダヤ人とは、誰かを裏切った者のことではないのか。ナチスの作業を肩代わりすることで、ある種の生存を確保したユダヤ人達もいる(ゾンダーコマンド)。ナチスの収容所の職員と、ゾンダーコマンドであるユダヤ人とが、「村のグラウンド」で和やかにサッカーをしている戦時下の光景の不気味さという、アガンペンの強調する場面は象徴的である。しかしそうした者でなくても、生き残ることとは、そもそもが何かを誰かに売ったことによって成り立っているのではないか。
これは、この部分で檜垣が言わんとしていることと大きくズレてしまうだろうが、私はアガンペンの「生き残りのユダヤ人とは、誰かを裏切った者のことではないのか」という洞察の中に、現在のイスラエルという国家の行動原理を理解するための重要なポイントが含まれていると思う。
 
※「本が好き」に投稿したレビューを採録したもの。

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