「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評37 森本直樹から鷹山菜摘「時空」へ

2019-03-31 13:00:26 | 短歌時評
おかえりと言うように気をつけている あなたの来る日は靴もそろえて

あなたの来ない日であっても、おかえりと言うように気をつけている。どのタイミングでかと言えばおそらく帰宅してすぐなのでしょう。ただし、普段靴は揃えない。
あなたが来る時は、一緒に玄関に入り、おかえりと言うのでしょうか、その後に靴を揃えて。
関係性が見えて面白いと思いました。


終わったよ 頭をなでる触れかたで眠りを白いシュレッダーにも
シュレッダーかけるべきものかけ終えて私の統べる部屋は清潔


終わったよ、は自分に対してもシュレッダーに対しても。ボタンをしっかり押すと言うよりはタッチパネルみたいな微かに触れるだけで反応するような、そんなシュレッダーを思いました。
そして、シュレッダーをかけるべきものとは何でしょう。具体的なイメージはまだわいてきませんが、シュレッダーにかけられるものはみな過去のもので。それら全てがなくなることで、清潔さを取り戻す。それは部屋から不要なものが減ったというより、過去の清算を終えた今、現在の私の清潔さでもあるのでしょう。
清潔な部屋で、清潔な現在の私は眠る。


生理中一応ひかえていたものを食べるよろこび、本能的な


一応、程度なので食べようと思えばいくらでも食べられたでしょう。それでも食べずにいたのは理性によるものでしょうか。生理が終わり、我慢をせずにすむことも本能的な喜びであれば、好きなものを食べることも本能的な喜びで。


「お墓には相続税が課されません。」蛍光ペンで線を引く箇所


お墓、相続税というのは不思議なもので。近しいものの死と生きている私との間にあるどこまでも現実的なもの、とでもいいましょうか。蛍光ペンで引かれた線は、特筆すべき事項を分かりやすくするもの、というだけでなく。生きている私にとって決して遠い位置にいない死を輪郭づけるもののようにも思えるのです。


なんとなく映画が観たいなんかいいやつがないかをググる なかった


なかったんかーい! とツッコミをいれたくなりますが、よく分かる感覚で。映画が観たい、それもシネマで。しかし観たい映画がないけど観たい。もしかしたら、映画が観たいというよりは、映画館という日常から切り離された空間に身を置きたいのかもしれません。


Cセットサラダとスープ昼食を抜いた日だけの帳尻合わせ


昼食を抜いた日は晩御飯にサラダとスープがついたセットを追加で頼む。
二句目までの名詞をとつとつと重ねた感じは、言葉足らずで気になるような。あるいは帳尻合わせのルーティーンとして、食べたいかどうかも関係なく頼む無感情さのようにも思えるような。ちょっとした危うさも感じました。


帰り道そっと車がすぐ横に 私あのとき死んだのでしょう


車が横を通り過ぎるとともに感じる風。ふっと、自分の魂が持っていかれるような。不思議な感じに死を重ねたように、想像しました。
横にの後に隠されているのは、(来る)や(いる)みたいな言葉かな、と思います。車が自分の近くを通り抜ける時の、車が自分の横に来たその瞬間に、何かのスイッチが切り替わるような。「あの時」と「無数の死」を越えて今の私はいるでしょうか。


カレンダーアプリを月曜始まりに設定するよそれだけの夜

月曜始まりか日曜始まりか、それを変えるだけで今までの自分の中にあったスケジュール感覚とでも言うべきものが全てずれ込んでしまうような気がします。
今まで日曜始まりでやっていたのを何らかのきっかけで月曜始まりに変えたのか。あるいは、新しくいれたカレンダーアプリが日曜始まりだったので正したのか。
なんとなく前者に思えてならないのです。自分の感覚が狂うようなことに対しても、それだけのと言ってしまえる夜。


誰のことも心配せずに玄関のタイルを磨く真昼 まぶしい


タイルも昼の太陽も、そして私の心もきっとまぶしい。
そして、こうも直接的に「まぶしい」と言われてしまうと、どうしても影の存在を深読みしてしまうことをお許しください。

一首目の「あなた」以降で初めて、「誰」という他者を現す言葉が出てきました。

おかえりと言うように気をつけている


という一首目の上句。これはあなたが来た時にちゃんとおかえりといえるかなという心配があったのでしょう。そして、今、おかえりと言っていたであろう玄関で誰のことも心配していない。
この連作の時間軸の中であなたとの関係の変化を感じてしまいました。
もしかしたら、シュレッダーで清潔にしたものとは、カレンダーの設定を変えたのは、もう一度連作を読み直していった時に、いくつもの考えが新たに浮かんできます。


生きることや生活に関することには、一歩引いたというか理性的で。あるいは人為的な潔癖さとでも呼べそうな感覚が存在しているように思えました。一方で死にしては漠然とながらも手触りが生な感じで伝わってくるようでした。
最後に、一番好きだなと思った歌は、

「お墓には相続税が課されません。」蛍光ペンで線を引く箇所

でした。ありがとうございました。

短歌相互評36 鷹山菜摘から 森本直樹「からっぽ」へ

2019-03-31 12:54:35 | 短歌相互評
森本さんは私と同じ未来短歌会の方で、年齢も近いことを今回知りました。相互評を担当できて嬉しいです。

眠りたくなくて来ている喫茶店のケーキケースの下段からっぽ

閉店が近いのだろう。ケース下段のケーキたちは既に売り切れたか、片付けられてしまっている。カ行の連続のメロディにのせて、どんなケーキがあったのか想像させられる。連作「からっぽ」で展開する世界は、眠りたくないときに来るような、この喫茶店が出発地点となる。

ブレンドコーヒーフレッシュなしと書かれたる伝票用紙が折りたたまれる

いちばん文字数が多いために目立つ一首。破調部分は店員が注文内容を読み上げるように一気に読みたい。「ブレンドコーヒーフレッシュなし」という、短歌に使うには長い言葉だからこそ、伝票の折りたたまれている様子が表現されている。

シャッフルで流れる曲のあいみょんの愛称なんだと思っていた名前

これはそのまま「わかる」歌(私もアーティスト名と曲のイメージの差に驚いたひとり)。事実を知った以前・以後の自分ははっきり分かれてしまう。その分断を、偶然に曲が流れたとき噛みしめている。もう戻れない過去がある。

パチンコ屋の前に並んでいるうちの一人がマンホールを撫でている

実際にその光景を見たらぎょっとするはずだ。道路掃除でもないだろうし。験担ぎか何かでそういうのがあるのか。並んででもパチンコ屋に行く人の世界を目撃してしまった。

ペットボトルを捻り潰せば手のひらに浅くくい込むいくつかの尖り

普段のペットボトルは手にやさしい形なのに、ひねりつぶすと確かにバキバキになる。それでも凶器とはなり得ない。「浅く」を逃さなかった、手の感覚が敏感であることがわかる。

コインランドリーの手前のごみ箱にやたらと捨ててあるレジ袋

似たような場所を知っている。ごみを入れたレジ袋がたくさん捨ててあるのかと思ったが(地域によっては指定ごみ袋でなくてもいいところもある)、中身のないレジ袋自体が山積みになっているのかもしれない。人間がつくった便利さに人間がついていけていない世の中。どことなく全体的に白い歌。

古着屋の暗やみに立つマネキンがあまりに痩せているような気が

このマネキンはかわいそうなマネキンなのだろうか。それとも古着屋だから、暗いから、そんな気がするだけなのかと自分の感覚を疑う。「暗やみ」の表記にこだわりを感じる。

いつの間にか小雨が降っているなかの私の肩にシャツがはりつく

指を鳴らし損ねてしまう短めの息継ぎほどの音を残して
なんとなくうまくいかない毎日。現実に負けそうなとき、現実との間にすこし距離をとって、非現実感を混ぜることでほんのり夢をみているような感じ。連作の中の主人公として、そうやって人生に立ち向かっているんだな、という人物像が見えてくる。

コンビニの前に立ちたる逆光の人が誰かに手を振っている

私は大学時代にコンビニでアルバイトをしていたので、コンビニ関連の楽しい短歌が好きだ。姿のよく見えないふたりがコンビニで集合なのかコンビニで解散なのか(どちらもよく見るし、私もする)、どちらにせよほっとするやりとり。それを見ている、自分。「逆光の人」も「誰か」も、自分を含む誰もがそうでありまた誰でもない、というイメージが「コンビニ」の言葉に託されている

好きだった音楽が耳に馴染まないそんな時間が来る、唐突に

私の翼であったはずのものたとえば自転車あるいは珈琲
外部を描写する歌が多い中で自分自身の変化も描かれる。変化に気づいたときにはもう、既になにかが始まってしまっている。ケーキケースがからっぽだったことを思い出す。

鍵穴に鍵を差し込むひとときに傷つきあっている音がする
生ぬるい水道水にむせ返る気恥ずかしさが溢れるように
フライパンの底に圧されてたわみたる青白い色の炎を思う

帰宅してからも日常的な行為を冷静に捉え直している。鍵に暴力のイメージを重ねることはしばしばあるが、それは一方的なものではないと表現するのがこの主人公のパーソナリティである。むせるときのあの苦しさも、気恥ずかしさが溢れる現象だったのかと納得してしまう説得力がある。普段の暮らしの中で、自分にコントロールされている炎にひそむエネルギーを思うときの、何かが起きてしまいそうな予感を「思う」にとどめて連作は終わる。

すてきな作品でした。「からっぽ」というタイトルで、明るい言葉も出てこないのに、むなしさはない。逆に「いっぱい」になっていては何も出入りする余裕がなくて、これからを生きていけないからでしょう。からっぽなのは、地味な現実の先にある、これからやってくる運命を迎え入れるためだと受け取りました。私も人生の過渡期にある人間です。そのような境遇の主人公が、本人は気づいていないかもしれないけれど、自身の内部で静かな思いを燃やしていて、希望を感じられる連作です。

週末は冷蔵庫がからっぽな鷹山菜摘より
森本直樹様「からっぽ」によせて