「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評第143回 欲望を超えるために 濱松哲朗 

2019-03-01 03:34:03 | 短歌時評


 結局はこの話をしなければいけないのだと思う。欲望についてである。
 東直子との共著『しびれる短歌』(ちくまプリマー新書、2019年1月)の中で、穂村弘はみずからが短歌を始めたバブル期を回想しながら次のように言う。

 短歌の世界に限定して言うと、俵さんとか加藤治郎とか僕がバラバラでありながら共通しているのは、欲望に対して肯定的だっていうこと。それが口語短歌と結びついていたから、初期に口語で出た歌人はみんなそうだと思われて、そんなにてらいなくていいのかお前らっていう、その違和感ですごく叩かれた。単に口語が異質だったっていうだけじゃなくて、その背後にあった欲望の肯定が受け入れられなかったんだと思う。
(『しびれる短歌』第六章「豊かさと貧しさと屈折と、お金の歌」p.157)

 80年代に登場した、いわゆるライト・ヴァースからニューウェーブに至る一連の作者たちの「ハイテンション」さについて、永井祐や斉藤斎藤といった後続世代が理解できないと述べる理由を考察する過程で穂村は、「僕らが岸上大作がなんであんなに青臭いのか理解できないっていうのと同じで、理解できないと言いつつ時代の中で見れば理解できるし、もちろん彼らだって時代の中で見た時の感触はわかると思う。だから「理解できない」というのは、自分たちには、受け入れがたいってことなんだよね」と指摘する(p.158-159)。その少し手前の箇所でも、戦後の土屋文明、バブル期の俵万智、平成の永井祐という三人を「時代の中で」読み解きながら、「土屋文明の頃はお金がないから、ほしいものや栄養価があるものが買えなくて、貧しくて苦しかった。単純に日本人の夢がかなった時代というのが八〇年代、俵万智さんの時代。そこから三十年たって、永井くんになると不思議な様相を帯びていて、もう一度、一周回った貧しさの中にいる。(…)大晦日にデニーズにいるというのが貧しいといえば貧しいし、豊かといえば豊かという」といった分析を見せている(p.140)。
 穂村のこうした見立てに、筆者は苦々しいほどの違和感を覚えずにはいられなかった。ここでは経済成長と「豊かさ」が純粋無垢なまでに順接で結ばれている。確かに平成の三十年とは、バブル崩壊後の深刻な不況、実感なき経済回復や格差の拡大といった右肩下がりの図式化によって語り得るものであり、だからこそ穂村は永井祐の作品を通じてこの時代を「貧しいといえば貧しいし、豊かといえば豊か」であると読み解いたわけだが、しかし「一周回った貧しさ」という認識は、本当に現代という時代に即したものとして、概念や認識を更新しつつ為されたものと果たして言えるだろうか。「永井くんは、そういう僕らの世代の口語の文体では、自分たちの生活実感は歌えないっていう確信があったと言っていて、それはそうだろうなと思う」という穂村の理解は、残念ながらバブル期という、経済成長のグラフにおける山の上から平成の永井祐を見下ろす形で為されたものでしかないのではないか。
 戦後の復興、高度経済成長を経てバブル期に至るまで見事な右肩上がりを描き、その後はバブルが弾けるとともに呆気なく下降するこのグラフは、経済的指標である以上に、穂村の言う「欲望の肯定」の度合いを世代や年代ごとに示したものであるようにも見える。だが、「貧しさ」と「豊かさ」の様相がそれまでの二項対立的把握に基づく言語では捉え切れなくなったというのに、このグラフはあくまで昔ながらの、戦後の香り漂う「貧しさ」や「豊かさ」で世界を切り取ろうとする。永井祐が先行世代の口語との文体的断絶に意識的であったのは、根底にある「欲望の肯定」の構造に対して賛同できないという静かな意思表示だったのではではないか。「豊かさ/貧しさ」という対立構造そのものが、経済不況の空気感を伴う形で脱構築されていったのが、平成という時代だったのではないか。その空気とは、例えば、こういうものである。

 現在四〇代である私たちの世代は、ロスジェネとか氷河期世代とか呼ばれた。非正規雇用率が高く、未婚率が高く、子どもを持つことの少なかった世代である。
 いちばん働きたかったとき、働くことから遠ざけられた。いちばん結婚したかったとき、異性とつがうことに向けて一歩を踏み出すにはあまりにも傷つき疲れていた。いちばん子どもを産むことに適していたとき、妊娠したら生活が破綻すると怯えた。(…)先行世代の女性学や男性学が扱ってきた「女性/男性であること」の痛みは、まるで贅沢品のようだった。正社員として会社に縛り付けられることさえかなわず、結婚も出産も経験しないまま年齢を重ねていく自分というものは、「型にはまった男性/女性」でさえあれず、そのような自分を抱えて生きるしんどさは言葉にならず、言葉にならないものは誰とも共有できず、孤独はらせん状に深まった。
 
(貴戸理恵「生きづらい女性と非モテ男性をつなぐ小説『軽薄』(金原ひとみ)から」「現代思想」2019年2月号)

 1978年生まれの社会学者である貴戸が示すのは、それまで当然のごとく受け入れられてきた「」が、バブル崩壊以降の平成不況の煽りを受ける形で一気に使い物にならなくなったという当事者的認識だ。これを読んだ上で、再度、「欲望の肯定」の最大値としてのバブル期という穂村の見立てに視線を戻してほしい。「豊かさ/貧しさ」や「欲望」といったグラフによって時代を見ようとすることそのものが、現代の多様かつ拡散した内情を見て取ろうとするのにはもはや不適合であると言わざるを得ないのではないか、という疑念がおのずと湧いてこないだろうか。
 一見理解を示しているように見えるが、実はその視点そのものが明らかな分断要因であった――。そうした事態を穂村の評論中における「歌語の開発」の中に見出したのが、寺井龍哉の評論「穂村弘の公式(フォーミュラ)―歌語の開発とその周辺」(「歌壇」2019年2月号)だった(声に出して読みたいタイトルの評論である)。「棒立ちの歌」や「武装解除」といった穂村流の批評用語や、「改作例」を示すことで「自説を補強する」穂村の方法は、前提として「読者と作者が作歌法に関する規範的な意識を共有することを要請」していると寺井は指摘する。

 穂村は「共通意識」のもとで互いに「武装」し、格闘することを期待していたのだ。そして裏切られた期待は、新たに登場してきた作品に「棒立ち」や「武装解除」の名を与え、その戦意の希薄さを特徴づけた。いずれの用語も争闘すべきものが争闘しようとしていない、という含みを多分に持つ。「共通意識」のうえで格闘することを望む穂村は、それを共有できず、かつ戦意も認められない「若者たち」の歌に苛立ち、迂遠なかたちで宣戦していたのだ。
(寺井龍哉「穂村弘の公式(フォーミュラ)―歌語の開発とその周辺」「歌壇」2019年2月号)

 闘ってくれる相手が見つかって良かったね、等と皮肉を言っている場合ではない。「共通意識」のもとで互いに「武装」し、格闘することを期待」するという行為は、換言すれば短歌的・批評的「欲望の肯定」の発露である。穂村の批評用語が「自身の批評の方法の挫折を契機として、異質なるものを位置づけるための命名の結果」として現れていること、それらの用語が「従来的な批評の方法が挫折させられてしまうことへの苛立ちと揶揄の調子を不可避的に含み込」んでいる事実を指摘する中で、寺井は穂村の言説に含まれる短歌的「欲望の肯定」を、視点の多元化を導入することで無効化しているのである。付言すれば、ここに見られる穂村の「共通意識」への希求や「武装」への意志は、「欲望の肯定」の最大値というある種の極点において自己を形成した者による、対象を見下ろす姿勢を含んだ言説として捉えられ得るものだ。そこには規範化ないし歴史化に対する純粋なまでの従順さと欲望とが含まれている点は、見逃してはならない傾向だろう。シンポジウム「ニューウェーブ30年」で、かつてニューウェーブが「まるでわれわれが意図した運動体であるかのように誤認され」たことがむしろ「われわれにとって好都合だった」(「ねむらない樹」vol.1、2018年8月)等と、極めてしたたかな発言をしていた根底には、穂村の「欲望の肯定」への意志が渦巻いていたと言えるのではないだろうか。
 「打開策はまず、問いの形式の転換だ」と寺井は言う。そして「なぜかつてはそうだったのか」を問いながら「過去の自明を現在の眼で解き明かすこと」が重要なのは、何も評論や批評に限った話ではない。例えば、ニューウェーブと同時代の女性歌人について「女性歌人はそういったくくりのなかには入らない、もっと自由に空を翔けていくような存在なんじゃないかと思う」、「天上的な存在」(「ねむらない樹」vol.1、2018年8月)等と言ってしまう加藤治郎は、男性中心主義の社会において錬成された「男の子の国」的欲望の肯定によって為される差別の再生産について、「現在の眼で解き明か」せては決していない(「男の子の国」の概念は斉藤美奈子『紅一点論』からの援用である)。「加藤治郎の「天上的な存在」という言葉は、葛原妙子を「幻視の女王」、山中智恵子を「現代の巫女」と呼んで封じ込めたものと同じ圧力を持っている」と、加藤や穂村と同世代である水原紫苑は一刀両断していた(「前を向こう」「ねむらない樹」vol.2、2019年2月)。
 残念ながら、筆者は『しびれる短歌』のライトな語り口にも、「欲望の肯定」の度合いの一番高いところから観測されているような違和感を覚えてしまった。そもそも第一章の「やっぱり基本は恋の歌」という章題や、そこに含まれた暗黙の相聞歌待望論、更には「抑圧されてないからテンションが上がらないということもあるけれども、何でそうはしゃぐようなことなんですか? みたいな感じでしょう。飢餓感がないというか」(穂村、p.35)、「私たちの時代は、恋への夢とか憧れとかはまだロマンがあったんだけど、恋愛があまりにもカジュアルになりすぎて、彼女たちにはもうそれがない感じですね」「ものすごく美味しいものを紙皿で食べてるみたいな気がしないでもない」(東、p.36)等という発言の端々に、穂村・東両名における「欲望の肯定」の意外なまでの深さと、後続世代との断絶の深さを思わずにはいられない。こういう話題になるとすぐに、岡崎裕美子の「したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ」(『発芽』所収、そういえばこの『しびれる短歌』には引用歌の出典表記が一切無い)が持ち出しされる、という図式そのものにも後続世代は既に飽きているだろう。
 そんな中で、錦見映理子が『めくるめく短歌たち』(書肆侃侃房、2018年12月)の中で、飯田有子『林檎貫通式』(2001年、BookPark)を穂村が評論「酸欠世界」(『短歌の友人』所収、初出は角川「短歌年鑑」2004年版)で提示した読みから解放する試みを示したことは、非常に意味のあることだった。錦見との巻末対談の中で、「歌集をまとめるというときに、初期や中期の作品は全部カットされていて、限定された世界を作っていた。そのときに彼女の決意を読み取るべきだったんだろうけど、僕もそこまでキャッチできなかった」と述べる穂村は、既に飯田有子に対して「現在の眼で解き明かす」作業を、錦見の飯田有子論を経由することで行っている。「現在の眼」はだから、決してある世代に特権的な視点ではなく、誰もが実践可能な考察と自省に対する方法の方法、メタ的な方法論であると言えよう。
 「わがまま」や「棒立ち」が90年代以降に登場した世代を括るような批評用語に必ずしもなり得なかったのは、「平成」という時代の著しい変化とともに「欲望の肯定」への姿勢が一変したことで新人たちの作品が敏感に反応した一方で、批評の側が「武装」の姿勢を変えなかったために、作品と批評、作者と評論家の間に深い断絶が生じていたからではないか。小説においてもここ最近、藤野千夜『少年と少女のポルカ』や松村栄子『僕はかぐや姫』といった、90年代に登場した作家の初期作品の文庫復刊が顕著だが、これらも歌壇の現状と同様、批評する言葉がようやく「作品」に追いついた、ということを意味していると筆者は考えている(そういえば「J文学」もマッピング的文芸の代表的失敗例だと言える)。「現在の眼」によって語る言葉を探る過程で、私たちはこれから言葉という最悪の構造と何度も刺し違えることになるだろうが、それでも、錆びかけの構造に追従することで、見失われ、貶められ、無かったことにされてしまうものが目の前にある限り、私たちは、これまでとは別の仕方で、言葉を紡いでいくことを願うだろう。
 私たちの言葉は、永遠の途上にある。

短歌時評第142回 2018年に読まれた歌集・歌書から-新しい扉- 大西久美子

2019-03-01 03:29:37 | 短歌時評

   
「短歌往来」2019年3月号の「50人に聞く2018年のベスト歌集歌書」は、50人の歌人各々が2018年に刊行された歌集歌書から3冊の歌集歌書をあげ、歌集歌書、あるいは、2018年の収穫についてコメントをつけ、内、一冊をタイトルとする特集である。 

今回、私も寄稿させていただき、加藤治郎歌集『Confusion』(書肆侃侃房)、谷岡亜紀著『言葉の位相-詩歌と言葉の謎をめぐって』(角川書店)、栗木京子歌集『ランプの精』(現代短歌社)をあげ、タイトルを『Confusion』加藤治郎歌集とした。

『Confusion』を開けば、大胆なレイアウトにまず、驚く。緩急、ではなく、急急。
視線が上下左右に絶え間なく動くデザインのレイアウトである。
読者は、自らの視神経、脳にかすれるような疲れを覚えながら、歌を追い続ける。この肉体の覚える疲れは、今、という時代に対する漠然とした(あるいははっきりとした)不安や不信を自覚する時にぶわーっと沸き起る感覚に近い。「いぬのせなか座」の計算されつくしたレイアウトマジックの効果により短歌作品が走り出し、時代の流れに急かされるような気持ちを覚える。

加藤治郎がレイアウトを「いぬのせなか座」に一任する際、再現可能としてほしい、という希望以外の注文は全くつけなかったという。それゆえ『Confusion』は、「いぬのせなか座」が感受し、解釈したというアピールの込められた歌集といえよう。読者は「いぬのせなか座」が施す視覚的なフィルター(レイアウト―読み取り―)を受け取る。そして共感、あるいは戸惑いながら否応なしに歌集の世界に巻き込まれてゆく。

晩白柚(ばんぺいゆ)喰うべかりけり家族いはひとつ平らな食卓がある       p40

検査機の後ろに青い穴がある1234(ワンツースリーフォー)ファイバースコープ p61

短歌作品に添える大きな太字のルビ、その衝撃性にも驚く。
強い意志を感じるルビの存在感に圧倒される。

「いぬのせなか座」の山本浩貴にレイアウトを依頼する始まり(依頼はTwitterを通して行われた)が歌集に納められている。ここから加藤治郎の仕事と「いぬのせなか座」の仕事がそれぞれ独立していることが分る。歌集の中でオープン化されているのだ。
分業ではない。ファクトリーの仕事でもない。レイアウトが施されたテキストが初めて「いぬのせなか座」から戻ってきた時の加藤治郎の驚きと喜びはいかばかりであったろう。

短歌史の議論はざらりすれ違い若き日は雲のかなたに薫る  p39

2018年5月に『Confusion』は刊行された。加藤治郎と「いぬのせなか座」の挑戦は衝撃を伴いながら読者に届いた。反応は様々だろうが、この挑戦に続く人々は今も生まれている。今後も、増えてゆくことだろう。
 
              ***
2018年9月より、3回に渡り、「短歌時評」を担当させていただきました。
今回が最後となります。
ご高覧いただきましたことを感謝いたします。ありがとうございました。

短歌相互評第35回 阿部圭吾から本多真弓「バスがくる」へ

2019-03-01 03:22:06 | 短歌時評

作品 本多真弓「バスがくる」http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2019-02-02-19859.html

評者 阿部圭吾

「バスがくる」は、街の風景の回想とともに、変わっていく時代を見つめている主体をロードムービー的に描いた一連だ。それぞれの歌にどこか遠くを見つめるような主体の目線が通底しており、一連が滑らかに進んでいく。全体的に抒情性を保ちつつ、主体の身体感覚がリアリティを持って伝わってくる歌が多い。一首一首に描かれた情景はシンプルながらも、比喩や形容の仕方にたしかな手触りがあり、読んでいて自然と言葉が身体に流れてくるような安心感があった。ひらがなが多用されており、漢字による意味性が薄まる分、音そのものが心地よく響いてくるような歌たちだった。次に引いた冒頭の歌もひらがなを効果的に使った一首だ。

   こぬかあめこもれびこどもひかりつつ空から落ちてくるものは詩語

 連作の中で一番好きだったのがこの歌。こどもは(イメージとして受け入れられるものではあるが)本来空から落ちてくるものではない。しかしながら、こぬかあめ、こもれびといった空から光を伴って柔らかく降り注いでくるものと共に並べられることによって、こどももまるで空から落ちてくるものであるかのように読者に感じさせる。一首を読み下す際の下へ向かう視線の動きや、「こぬかあめこもれびこども」というK音の連続・543と短くなっていく韻律も、光が落ちてくるイメージをより強く印象付ける。ひらがなで単語を羅列することにより、言葉の意味がほどけながら主体のもとに落ちてくるイメージもある。それを詩語という捉え方をすることで、その言葉が持ちうる詩情を主体が感じ取り、掬い取っているような印象があった。私は歌に詩語という抽象的かつメタ的な意味をはらむ語を使うのは少しこわいと思ってしまうのだが、この歌の中では言葉がほどけながら落ちてきて詩になるような、言葉自体に詩情を見出す主体の言葉に対する目線が感じられた。

  神殿の名をもつ映画館ありき若きわたしのはるか渋谷に
  神殿は破壊されにき星を抱く五島プラネタリウムとともに


2003年に解体された東急文化会館(現在その跡地は渋谷ヒカリエ)の映画館、渋谷パンテオンを詠んだ二首。神の住居であり厳かなイメージがある神殿と、たくさんの人が暗闇の中で静かに映像に集中・没入し、時に感情を発露する場所である映画館は、どちらも異世界とつながる場所であるという点からも親和性が高いように感じた。描かれているのが渋谷パンテオンであるということを知らなくとも、「神殿の名をもつ映画館」という表現によりそのイメージは十分伝わるだろう。またこの歌では「若き」が「はるか」遠いことから、主体が自身を若くないと思っていることが示されており、この後の歌の「青年」「年下」「肩は凝る」といった言葉へとつながる。一連の中に幾度も描かれている主体自身の年齢の変化に対する意識も、この連作の一つのテーマだろう。
 下の歌も同様に渋谷パンテオンを詠んだ歌で、こちらは建物が解体された情景が描かれている。(ちなみに五島プラネタリウムは東急文化会館の最上階にあって、ビルの上部に半球状に飛び出していた。)
プラネタリウムの丸い形状を、「星を抱く」という言葉で表しているところに惹かれた。プラネタリウムを外から見た情景であることがこの表現から分かるし、何より神殿が破壊される/された様子を外側から見つめる主体像が浮かび上がってきて、破壊に対して見ていることしかできない、立ち入ることが出来ないどうしようもなさがここから伝わってくる。また、この歌では「映画館は破壊されにき」、ではなく「神殿は破壊されにき」、と書かれている。神殿が破壊されるというのは信仰者にとっては許しがたい、受け入れがたいものだろう。神殿の名をもつ映画館もプラネタリウムも、言ってしまえば作りものだ。しかしながら「神殿」、「星を抱く」と言いきることによって、主体にとってこの破壊が単なる一映画館の消滅ではなく、かけがえのないものの消滅だったということが伝わる。下の歌で映画館を神殿と表現したのは単なる省略や言い換えではなく、主体自身の記憶の中にある、もう戻ることのない映画館に対する、なにか信仰とも呼べるような感覚が表現されているのだろうと感じた。

  つるぎたちみにそはねどもまぼろしの春とギターを青年は負ふ

つるぎたち(剣太刀)は「身に添ふ」にかかる枕詞。つるぎたちの大きく長いイメージが「みにそはねども」という言葉で一度引き離され、その大きさ、長さのイメージが青年の背負っているギターと重なっていく。「まぼろしの春」の儚さは青春のイメージにもつながり、青年が持つ若さに対する一種の憧憬のような視線を感じる。

  気がつけば渋い感じの男優も崖より覗くごとく年下
  生首をのせてわたしの肩は凝るうごく歩道に乗らずに歩く


主体の身体感覚を詠んだ二首。「崖より覗くごとく」「生首をのせてわたしの肩は凝る」という表現から、主体の年齢の変化やそれに伴う身体感覚が生々しく伝わる。「渋い感じの男優」はいつの時代にもいて、生活の中でその年齢について考えることはあまりないことだと思う。ふと気が付いた自分の年齢と男優の年齢の差異から、「渋い感じ」という自分の感覚と自分の年齢との断絶を感じたのだと思う。崖の端にいるイメージが唐突に出てくることによって、断絶に気がついた瞬間の、急に年齢が上がったような感覚を読者に追体験させる。
下の歌は、自分の頭を生首という客観的な捉え方をしている視点が面白いと思った。本来であれば自分自身の生首を見ることはできないが、意識がどこか浮遊して自分自身を客観視するような目線があるからこそ、自分の頭を意識から切り離された物体として捉え、頭の重さが肩にかかっている感覚が捉えられる。「うごく歩道に乗らずに歩く」という行動から、自身が年齢を重ねること、またそれによる疲労感に対して悲観的ではなく、受け止めようとする主体の様子が伝わる。

   自裁した人の日記を本にした本の残りがあと数ページ

「自裁した人の日記」の本を読むとき、結末を知らずに読む読書とは違い、読者はのちに自裁することを知りながら本を読み進める。そして本を読んでいる間は、その人物が主体にとってはまだ生きているような気持ちになる。そのため、残りの数ページを読み切ってしまうということは、主体の世界で生きていたその人物が死んでしまうことを意味する。この本を読むとき、読者は否応なく死を意識するだろう。そして死を意識すると同時に、その日記を書いた人物がたしかに生きていたという生への意識も生まれる。本の最後の数ページは、死が限りなく近づき、生が限りなく希薄になってしまっている状態だろう。逃れようのない死がたしかに手の中にあることに、主体はどうしようもないやるせなさを感じているのかもしれない。「本にした本」というリフレインによって印象付けられる本という言葉からは、本来個人的なものである日記、そしてその人物の死が多くの人に読まれる本として流布し、自分の手の中にあることに対する戸惑いのような感覚があるのではないかと感じた。

   いちねんに二度くらゐあふともだちがひとりだけゐてわたしをささふ

日常の中で、ささいなこと・ものの存在に支えられる、救われるということはままあることだ。多くの人々は年齢を重ねるにつれて昔の友達、知り合いに会うことが少なくなるように思う。それと同時に友達と呼べる人を獲得する機会は、学生時代などに比べると格段に少なくなるのではないだろうか。社会的な立場を得ることによって、人間関係の中で人を友達である認識することが少なくなると思うからだ。(例えば会社で出遭う人たちのことは、仲が良くなったとしても友達というより同僚、同期といった認識の方が強いだろう。)この歌に描かれているともだちが昔の友達なのかは定かではないが、この主体は年に二度だけ会う人のことをともだちだと言いきる。距離が離れてしまってもそう呼べる関係性は、たしかな強度を持っていると思う。そのような関係性が持続していくことは、たとえひとりだけでも、生活の中に占める時間がわずかなものだとしても、主体を支えるのに十分な強さを持っているのだと思う。ひらがなの中に置かれた「二度」という回数も、離れすぎず近すぎない微妙な距離感が、主体の感覚に実感を生んでいる。この直前の自裁の歌を踏まえると、「わたしをささふ」という言葉がより切実なものに感じる。

  予告編(トレーラー)あへてみないでみる映画えいぐわみたあとみるくわんらんしや

 予告編をあえて見ないのはどういうときだろう。予告編はその映画を見るかどうか決める一つの判断基準になる。しかしながら予告編には、観客の興味を引くために物語の重要なシーンやモチーフを盛り込むことが多々あり、それゆえその場で初めて体験することによる衝撃や、映画への没入を阻害することがある。おそらく主体は見ることを心に決めた映画があり、余すことなく映画を味わいたいと思うからこそ予告編を見ないのだろう。映画に没入することは意識をどこか遠い別世界に移すような感覚があると思うのだが、「えいぐわみたあとみるくわんらんしや」には、映画を見た後の、意識がまだ遠くにあるような感覚が表れていると思う。観覧車を見上げる時の空の遠さ、ゆったりした観覧車の動き、それらを見つめる主体のぼんやりとした意識が、漢字をひらいたことによる意味性の薄まりと合わさって、この下の句で表現されている。

  海はわたしを待たないけれどどうしてもポートサイドへゆくバスがくる

最初に一連をロードムービー的、と書いたが、この歌は帰路の歌だと思って読んだ。一連の中では、生活のさまざまな場面から過ぎていく時間の流れに対する主体の目線が描かれていた。この最後の歌は、そういったどうしようもなく過ぎ去っていくものに対する、主体の思いが映し出されているのだろうと感じた。
一首の情景としてはシンプルで、ポートサイドゆきのバスがくるというだけだ。しかしながら、そこに主体の「海はわたしを待たない」という海への認識と、バスがくることに対する「どうしても」という意識が描かれることによって、自分の立場や感情に関わらずに進んでいくものに対して、置いけぼりにされたような感覚が伝わってくる。たとえ「わたし」が一つのバスに乗らない選択をしたとしても、バスは決められた時間にきて、決められた時間に人々を乗せて出発し続ける。生きている限り主体の生活は続いていき、そのためには今いる場所にい続けることはわけにはいかず、進んでいくしかない。そのようなどうしようもなさを、帰るためにポートサイドゆきのバスに乗らなければならないことと重ねて合わせているのではないだろうか。

タイトルにもなっているこの「バスがくる」という言葉に象徴されるように、一連からは過ぎ去ってしまう時間、進んでいく時間への諦めや過去への憧憬、それでも今生きている自分の生活を受け入れ歩んでいくことへの思いが感じられる。何かを諦めることと受け入れる感情は、表裏一体だ。諦めと受容、その間にあるとても微妙な感情を、丁寧に掬い取って手渡してくれるような連作だった。

短歌相互評第34回 本多真弓から阿部圭吾「手のひらの海」 へ

2019-03-01 03:12:05 | 短歌相互評

作品 阿部圭吾「手のひらの海」http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2019-02-02-19854.html

評者 本多真弓

 水族館(すいぞっかん)、と言うとき君の喉元を光りつつゆくイルカのジャンプ


「すいぞっかん」のルビに、くらくらした。これまで「水族館」という文字を見た時、わたしの脳内で再生される音はいつも「すいぞくかん」だったから。


あらためて声に出してみる。たしかに「く」の音は明瞭にはあらわれない。わたしはこの言葉を他者にむけて発話する時、そうとは意識することなく「すいぞっかん」と発音し続けてきたのだ。大袈裟に言えば、この歌と出会うことで、わたしの人生は、すいぞっかん以前/以後に分けられてしまった。


耳のいい作者である。鍵かっこなしで、目の前にいる「君」が発声した言葉だとわかる、すいぞっかん。


  車窓から本当の海を眺めつつ海に似ている場所へ向かった
  潮風は吹くけど帰る場所がないここで生まれたという子アザラシ



この一連を統べるのは、Aに限りなく近いがAではない、【A´】のトーンだと思う。


海を眺めながら、実際に向かうのはあくまでも海に似ている場所。子アザラシが生まれた場所は、これからも生きていける環境ではあるが、アザラシ本来の棲息地ではない。


そこが君とでかける、すいぞっかん、なのだ。


  退化だね、って君と笑って潜りゆく水族館は命のにおい
  マグロ回遊水槽ゆがむ群泳の痛いくらいに光、まぶしい



初句七音にも関わらず「退化だね」の歌は軽やかである。ふたつの促音が弾むリズムを作り出す。
「マグロ回遊水槽」の歌は一転、どこで切るべきかわかりにくい、すりあしで進むようなべったりとした韻律だ。それが結句の「光、まぶしい」で、意味とともにぱっと開花する。鮮やかだ。


  水槽に触れてかすかな深海がたしかに手のひらにあったこと


ひとのからだのままでは潜ることのできない深い深い海。この歌では深海魚用の水槽にぺたりと手のひらをつけることで、かすかな深海を手に入れた瞬間が描かれる。水槽に手を触れても、水そのものに触れるわけではない。ここにも【A´】のトーンがあるように思う。


それから「たしかに手のひらにあったこと」という、自分に言い聞かせるかのような歌いおさめ方。わたしはここに、淡いかなしみのようなものを感じてしまう。おそらく作者には、かなしみの意識はなく、かなしみを感じたのは、わたしの残り時間の少なさのせいだろう。


  たましいのようにクラゲは揺れていて本当は溺れているかもしれない


今回、一番好きだった歌。たましいは見たことがないけれど、この歌の「ように」にはすんなり説得される。下の句の大幅な字余りの不安定さも、計算されたものだろう。「溺れているかもしれない」ものは、クラゲでもあり、ふたりのたましいでもある。


  ペンギンのにおいをかげば思い出す記憶として君とここにあること


「君とここにあること」の現在性がパッケージ化された、面白さとかなしさがある。未来においてこの記憶を思い出す時、はたして「君」は、いまと同じようにそばにいるのだろうか。


  生まれ直すようにのぼった階段で名付けあうところから始めたい


「名付けあう」というフラットな関係が涼やかだ。名付ける/名付けられるという世界からの解放。それも「始めよう」という他者への呼びかけではなく「始めたい」という。ごくささやかな願いが美しい。


  手のひらの海であなたに触れるとき遠くで生まれ続ける波の


この歌にも、不思議な【A´】感がある。あなたに触れるのは、手のひらそのものではなく、手のひらの海。触れている、という距離にもかかわらず、波が生まれ続けるのは遠い場所なのだ。「波の」のあとに続く情景も感情も、読者にゆだねられたまま、この一連は終わる。


春になったらわたしも、すいぞっかん、へ行こうと思う。作者からゆだねられたものを壊さないよう、ゆったりと胸に抱えて。