「本の雑誌」4月号は、<短歌の春>という特集を組んだ。
表紙には、<百年で一番の「短歌の春」がやってくる!」>なんていう惹句もあって、何というか微笑ましい。
果たして、皆さんのまわりには今年、百年で一番の<短歌の春>はやってきたか? なんていう話題はさておくとして、その特集では、木下龍也、東直子、穂村弘の三氏による座談会が組まれている。そのなかの、穂村の次の発言に注目した。
文体が変わったことで、歌壇のシステムの全体が変わっていくんだということがだんだん可視化されてきている。今まではたとえば結社とか、ピラミッド型の教育システムだから、先生がいて上手な先輩がいて初心者がいて時間とともに少しずつ上達する、と。選ぶ人がいて添削してくださいみたいな世界だった。それはやっぱり文語が前提で成立していたからで、最初から口語でセンスがあれば書けるという話になると、その構造が崩壊する。
(「本の雑誌」2023年4月号)
穂村は、短歌が文語から口語へと文体が変わることで、結社に代表される歌壇システムの全体まで変わるという。
なぜなら、文語は、先生や先輩に教えてもらうもので、添削をしてもらったりして上達するシステムだったから、結社のようなピラミッド型の教育が成立していた。他方、口語というのは、先生に教えられるものではなく、センスがあれば書けるものだから、ピラミッド型の教育システムのような構造は消滅する、というのだ。
さて、こうした穂村の主張について、どう考えよう。
つまり、短歌の文体が文語から口語に変わったことで、結社に代表される歌壇のシステムも変わる、という主張について、その通りと考えるか、そうじゃないと考えるか。
まずは、結社について考えてみよう。
短歌の世界の結社とは何なのか。
結社といっても、今は、主宰者によるゴリゴリの権威主義的な運営なんていう時代じゃないから、きわめて民主的な風体を装っていて、短歌愛好家が集う親睦団体みたいなものと思いがちだが、そんなことはない。結社はあくまでも結社であり、同人とかサークルとかとは、組織としての目的を異にしている。
それが今の時代でも、はっきりと分かるのが結社誌の発行だ。
じゃあ、結社誌と同人誌やサークル誌との違いはなにか。
というと、違いは2つ。
「選歌」と「添削」があることだ。
結社誌にはこの2つが必ずある。
では、なぜ、結社誌には「選歌」と「添削」があるか。
というと、これは、会員の作品をその結社らしい歌にするためだ。今は、あからさまには言わないけど、添削をすることで、添削者である主宰や編集者の歌風に近づけていく。会員は、添削を受けることで短歌が上達すると思って構わないが、添削は添削者によってやり方が違うんだから、つまりは、作品に手を加えることで、その結社らしい歌へしていく、ということだ。
「選歌」も同様で、主宰のお眼鏡にかなった歌が、結社誌に掲載される。こちらも、今は薄められて、紙幅の都合上、○○欄の人は○首までなんて言い方になっていよう。しかし、そもそも「選歌」は、良い歌なら何首でも載せていいはずだ。ただし、良い歌の基準なんて存在しないから、結社の主宰者や編集者のお眼鏡にかなったものが良い歌となり、選ばれる。
この「選歌」と「添削」というシステム。これが、結社の存在理由だ。
短歌の世界のピラミッド型の教育システムは、この2つによって成立しているといっていいだろう。
では、これを踏まえて、穂村の主張を検討してみよう。
穂村の言うように、こうした結社の教育システムが成立しやすいのは、文語の文体で叙述された短歌であることは、そうだろうと思う。
けど、実は、それは当然といえば当然といえるのではないだろうか。なぜなら、現在の結社の主宰者というか編集者のほとんどは、そもそも文語脈の歌人だからだ。
だから、「添削」があることで文語単価が上達するというのは、そもそも単価で文語の文体が主流だったからなのではないか。これが、今後、短歌文体の主流が文語から口語へと移って、口語脈の歌人が結社の主宰や編集者になっていくようになれば、そうした口語文体の歌人の歌風におのずと「添削」されていくんじゃないか、と思う。
次に、「選歌」について考えてみよう。「選歌」もまた結社の教育システムには重要だ、ということについては、先に述べた通りだ。
そして、この「選歌」というのは、結社誌のみならず、新聞・雑誌の投稿や各種コンクールで日常にやっていることだ。
穂村も新聞歌壇や雑誌、各種コンクールで選者として数多くの「選歌」をしていよう。そのとき、どうやって「選歌」しているか。
というと、自分が良い歌だと思う歌を選んでいよう。であるから、この「選歌」は、そもそも文語も口語も関係がない。
文語だろうが口語だろうが関係なく、自分が良いと思う歌を選んでいるのだ。
この自分が良いと思う、というのが重要だ。つまり、良い歌の基準はどこかの外にあるのではない。すべては選者の内にあるのである。であれば、先ほど述べたように、結社誌では主宰者のお眼鏡にかなった歌が選ばれるように、新聞や雑誌や各種コンコールもまた、その選者のお眼鏡にかなった歌が選ばれるのだ。
そりゃあそうだろう。そうでなかったら、そもそも選者なんてのは必要ないじゃないか。いろんな選者のいろんな基準があるから、この短歌の世界は多様な歌であふれているのだ。
そういうわけで、結社のような教育システムが歌壇に存在しているのは、文語だとか口語だとかいう、文体によるものではない、というのが筆者の主張だ。
そして、良い歌の基準が選者の内に存在しているうちは、短歌文体が口語だろうが、結社に代表される歌壇の教育システムというのは崩壊しないだろう。
ただし、良い歌の基準が、選者の内ではなく、外に存在するようになったら、話は別である。
例えば、良い歌の基準が、売れるか売れないか、とか、そういう商業主義的な基準になったら、選者の権威性に拠っていた歌壇のシステムなんてのは、わりとあっさりと崩壊するとは思う。
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