「詩客」短歌時評

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短歌時評135回 汎化と特化:「短歌とポピュラリティ」を考える 浅野大輝

2018-08-02 09:17:50 | 短歌時評

I

 平成最後の夏が来た。いつだって夏は一回きりの夏のはずだが、「平成最後の」という形容にはどうしたって時間の重みを感じとってしまうもので不思議である。
 そんな夏の暑さのなか、短歌界隈にも平成という時間を振り返り、総括するような企画が目立ってきている。角川「短歌」2018年7月号の論考特集「短歌とポピュラリティ(前編)」はそのなかにあって多少異質だが、しかしそのテーマは平成を語るものとして避けては通れない、重要な視座であるだろう。


 だが、こうも言えるのではないか。そもそも「短歌」と「ポピュラリティ」とは、相容れない、あるいは親和性の必ずしも大きくはないもの同士なのではなかったか、と。自作の短歌を公にするに当たって歌人は、ポピュラリティを求めるべきではない、少なくともそれを第一の目標とすべきではないだろう。もし求めるとしてもそれは、現時点における束の間のポピュラリティではなく、未来における永遠性を孕んだポピュラリティであるべきだ。おそらくこれは、あらゆる文学ジャンルについて、いや全ての藝術について言える、創作行為に携わる者に普遍的な在り方なのではないだろうか。
石井辰彦「ポピュラリティという名の不名誉」[1]


 石井は若い世代の歌人たちの作品や歌集が手軽に読めるようになった現代に、短歌のポピュラリティの獲得を見出し、「喜ぶべきこと」と素直に賞賛する。しかしその一方で、時流にのって広まる短歌作品の質については「これら今を時めく作品群が『文学』と呼んでもよい水準にあるものかどうか、取り敢えずは疑問である」と苦言を呈する。上の引用は、そのあとに続く一連である。
 「文学」というなにものかをヒエラルキーの高みに据え、それに到達するためのスタンスを「こうあるべき」として提示する論調には反発を覚えないこともない。ただ、そこはいわば現代や若い世代に対する一種のポーズであって、論の本質ではないだろう。論の後半ではプルーストを引き合いに出しながら、「同時代の読者の多くに理解される望みは棄て、稀有な精神を持つに至るであろう未来の読者に望みを託すほかはない。天才に恵まれた歌人とは、そうした存在だと覚悟すべきなのである」と石井は語っている。あくまでも、石井の論点は「未来における永遠性を孕んだポピュラリティ」にあるのである。ここには、作品は時間を超えて届くのだ、そのために作者としてやれることがもっとあるんじゃないのか、という創作者への檄があるように思う。時間を超えて届く作品を目指すという姿勢には、共感を覚える人も多いのではないか。
 他方、現在の時点におけるポピュラリティを退けながら、未来におけるポピュラリティを求めるという部分に、なんとなく屈折したものを感じてしまう。もちろん、「現時点における束の間のポピュラリティ」という共時的な読者獲得と、「未来における永遠性を孕んだポピュラリティ」という通時的な読者獲得には、明らかな性質の違いがある。ただ、読者を獲得したいという作者の願いが見える点においては、両者は同質であろう。「いまの時代にそんなわかってもらえなくともいいんだ」と語りつつ、「でも、きっとこの先わかってくれる人が一定数いるはずなんだよ」とも願っている。そう読めてしまうこともあって、わかるなあと共感する反面、屈折してるなあとも思う。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
/石川啄木『一握の砂』

 近代歌人のなかでもっとも愛誦歌の多い歌人はと尋ねられれば、誰もが迷うことなく啄木と答えるだろう。(中略)
 青春の感傷性が現在の目から見るとやや過剰な所作とともに詠われている。(中略)しかし、一歩引いて考えれば、ある種の愛誦性を獲得するためには、このような過剰なまでに人々の心にベタに訴えかけるような俗世が必要なのかもしれない。
 総じて、啄木はいわゆる専門家人からの評価は低い傾向があるが、それはこのような過剰な表現が、世間一般に受け入れられすぎているところに起因するのかもしれない。しかし、歌は人口に膾炙して、いつも口ずさまれるような一般性を持っていないと、後世に残っていかないことも事実なのである。あまりにも芸術的、文学性が高くて、一部の人々にしか理解されないといった作品は、多くの場合、時代を越えて生き残る確率が低いと言わざるを得ない。むずかしい問題である。


永田和宏『近代短歌』(岩波書店、2013年)


 ポピュラリティを得ることと、作品における俗をはなれた質を確保することの両立、という話を聞くと、上に引いた永田和宏の言を思い出す。永田は啄木を愛誦性のある作品を多く残した稀有な歌人と評価しつつも、その過剰性やある種の俗っぽさを指摘する。啄木の作品は他にも多く取り上げられているが、こうした苦々しさを感じる言及は他の作品についても見られ、例えば「たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽きに泣きて/三歩あゆまず」については「同業者としては、本当はこの一歩手前で表現を抑制して欲しかった」と述べる。評価しつつ、でもちょっと俗っぽいよね、と苦言を文章化してしまいたくなる気持ちは共感してしまうところもあるが、でもよく考えるとこの感覚はなんなのだろう。何かしらの形で読まれたい、だからといって大衆に俗っぽく迎合したくはない。わかってもらいたい、けれどわかってもらいたくない、そんな微妙なゆれうごきが、歌人という存在のなかには蠢いているかもしれない。
 論考特集「短歌とポピュラリティ」は、すでにその後編が角川「短歌」2018年8月号に掲載されている。様々な歌人が行うポピュラリティへの考察を、ぜひ読んで欲しい。



 ところで、「短歌とポピュラリティ」は、短歌作品が一定のポピュラリティを獲得しうるということには触れるものの、短歌作品と同様に短歌の世界の少なからぬ部分を担っている短歌評論については、ほとんどそのポピュラリティを検討していない。テーマ設定も影響しているのだろうと思うが、少しもったいないような気がする。
 短歌評論におけるポピュラリティとは、どのようなものになるだろう。
 ポピュラリティという語を、例えば『大辞林』に従って「世に広く知られていること」と取ってみる。評論にとってどこまでが「世」なのかは様々な捉え方があるとは思うが、評論の読者が一般的にはその批評対象に関心がある者であることを鑑みるなら、ひとまずは批評対象に関わる界隈を評論にとっての「世」とみても、不自然ではないだろう。そう考えると、評論にとってのポピュラリティとは、批評対象に関係する界隈における評論の認知度・知名度ということになるように思われる。つまり、批評対象を扱う分野で知られたり、利用・引用されたりすることが増えれば増えるほど、評論はポピュラリティを獲得できたということができるのではないか。これは学術的な論文の影響力が、その論文の引用件数の多さで語られることがあるのと似ているかもしれない。
 このような意味でのポピュラリティを短歌評論は獲得しうるだろうか。いくつかの例を考えてみるなら、ポピュラリティは獲得できる、というのが答えになると私は感じる。


 レベル①「私」…一首の背後に感じられる「私」(=「視点の定点」「作中主体」)
 レベル②「私」…連作・歌集の背後に感じられる「私」(=「私像」)
 レベル③「私」…現実の生を生きる生身の「私」(=「作者」)


 普段曖昧に用いられている「私」という言葉をこのように三つの「私」に区別し、定義し直してみると、読者の「読み」の枠組の分析が容易になってくるだろう。

大辻隆弘「三つの『私』——近代短歌の範型」[2]


 例えば上に挙げた大辻の「私」のモデル化は、近年様々な批評・評論において引用・利用されている。原文を読んだことがなくとも、別の評論中でこの大辻の考えを読んだことがある、という人も多いのではないか。そう考えると、これはひとつの評論(正確には、その発想の一部)がポピュラリティを獲得しえている状況と言って良いように思われる。
 現代においても多く参照される評論というなら、他にも数多く例を挙げることができる。いまぱっと思いつくものであれば、穂村弘「〈わがまま〉について」(角川「短歌」1998年9月号)、小池光「句の溶接技術」(「短歌人」1981年7月号)、永田和宏「『問』と『答』の合わせ鏡I」(角川「短歌」1977年10月号)、岡井隆・金子兜太『短詩型文学論』(紀伊国屋書店、1963年)など。釈迢空の一連の女歌論や、斎藤茂吉「短歌に於ける写生の説」(「アララギ」1920年)、正岡子規「歌よみに与ふる書」(「日本」1898年)や、さらに遡って紀貫之「古今和歌集仮名序」もそうだろう。原文を読んでいなくとも、そのなかのフレーズや考え方などを別の文献を通して知っているということは非常に多い。これも一つのポピュラリティであると言えるだろう。
 これら評論がポピュラリティを獲得しているのはなぜか。少し考えてみると、これらはそれぞれ全く違う内容について論じていながら、ある共通の性質を持つことに気がつく。その性質とは、短歌の議論における汎用性である。つまりこのそれぞれの論には、短歌に向かう際の思考の枠組みを提供する部分がある。それが多くの論者にとって活用に耐えうるものであったがために、結果としてポピュラリティを獲得しえたのではないか。
 例として、もう一度大辻の「三つの『私』」を見返してみる。この「私」の分類は、時折指摘されるように大まかなものであってそのまま適用可能なものではないかもしれない。ただ、多くの人にこの「私」の分類が利用可能なのは、その大まかさや抽象性の高さによってこそなのではないだろうか。大まかに捉えているが故に、個別の事象の細やかさについて掬い上げることができないことはある。ただし、大まかに捉えているが故に、細やかな部分については、これを利用する各論者が自身の判断でさらにチューニングして利用することもできる。思考の枠組みの一つとして大辻の論があり、他の論者はそれを各自チューニングして活用することで、自身の論を構築しやすくなったのではないか。
 上に例示した他の論もまた、大辻の論と同様の構造でポピュラリティを得ているように私には思える。フレームワークとしての汎用性の高さが、論のポピュラリティにつながっているのである。
 論理的な思考を展開していくときの基本的なフレームワークとして、一般に演繹法と帰納法がよく挙げられる。演繹法は、何らかの一般的な法則や前提から出発して個別の結論を得る。対して帰納法は、複数の個別の事象から一般的な法則や前提を得る。前者は法則から事象へと特化していく思考であり、後者は事象から法則へと汎化していく思考であると言い換えることができる。この特化と汎化の両方向の動きを繰り返すなかから、汎用性のある理論や、個別の事象に対する細やかな着眼が生まれてくる。そして汎用性ある理論は、その汎用性ゆえに広く活用され、ポピュラリティを獲得し得るのではないか。



 翻って、現在の短歌評論の様相を見回してみる。
 大辻の「三つの『私』」のように、汎用性の高い論は少なからずある。ただ、現代においてそうした汎用性ある評論を生み出すことには、ある困難がつきまとっているように思えてならない。
 例えば、短歌とジェンダーの関わりについて評論を書こうとする。短歌というのもよく分からない大きな括りだが、ジェンダーというのもそのままでは非常に大雑把な括りであろう。一口にジェンダーと言ってみても、内実を見れば様々なジェンダーの視点がある。これらジェンダーの数々の視点を捉え、汎用性あるフレームワークを提供することは可能だろうか?
 あるいは、短歌と労働というテーマで評論を書こうとする。労働といっても、現代においてはその問題とするものが数多く存在する。それら諸問題を統合し、汎用性ある短歌の理論を構築することは可能だろうか?
 これらは決して不可能ではないのかもしれないが、非常に難しい課題となることだろう。一般に汎化すればするほど、その捉え方は大雑把なものになりやすい。汎化には汎化の弊害がある。もちろん、難しいからといって問題を放り出してはいけないのだが、多様性が拡大していく現代において、汎化の弊害は恐ろしい。多様になれば多様になるほど、そのそれぞれの差異を細やかに認識していくことが必要になる。その状況下において、「細やかな差異を見落としうる」という汎化の性質は、大きな抵抗感を持って受け止められるだろう。
 そうした視点で現在の評論を眺めてみる。それぞれの論者が知力を尽くして執筆している論ではあるのだが、必ずしもポピュラリティを獲得しうるような、汎用性あるものばかりではない。むしろ、上記のような汎化の弊害を避けるため、ひたすらに個別の事象の差異を細やかに認識しようとする特化の思考が強いのではないだろうか。それは各人の良識によるものでもあると思うが、本当に特化の思考を中心に据えて大丈夫なのだろうか?
 特化には特化の弊害がある。特化とは、基本的に汎用的であることから逃れていく思考である。それゆえその議論は、非常に限られた人々のみが受容・参加するものになりやすい。いわば議論の島宇宙化を促進する側面があるわけである。この状態で行われる議論は、いずれ袋故事に迷い込んでしまう危険性がある。
 こうした島宇宙化は、別の問題を引き起こすことにもなる。評論は多くの場合、自分が思考し理解するために書かれるだけではなく、他者に自分の思考を受容してもらうためにも書かれる。しかし、特化によって議論が島宇宙化することが進むと、必然的に評論を受容してもらえる機会は減少する。受容されることを求めながら、その受容が満たされないという負の状況に陥る構造がここにはある。この状態は受容されることの価値の高騰など、さらに別の困難を引き起こすことにもなるだろう。
 さもすれば特化重視に大きく偏りそうな多様性の時代ではあるが、多様であるからこそ汎化できる論点を意識的に探すということもまた、大切ではないだろうか。特化しきったものがなにか具体を超えて一般性を帯びるということももちろん考えられるのだが、そこにあるのもまた汎化の働きであろう。汎化するということは、いわば分断を拒否し、多くの人との共通理解を作り上げようとする試みでもある。特化によって対象を注視し、そこで浮かび上がってきたことがらのそれぞれを汎化によって俯瞰する。そのゆれうごきが、いつの時代も新鮮な論を形成する。短歌評論のポピュラリティは、そうした汎化と特化の振動に発生すると、私には思われる。



 汎化と特化という発想で再び短歌作品を眺めてみると、短歌という詩型それ自体が実は汎化と特化のぶつかりあう境界であったかのように見えてくる。
 短歌に特徴的なのは、5・7・5・7・7を基調とする定型の存在である。この定型の存在が短歌を短歌たらしめているが、一方でこの定型以外の部分では、短歌を短歌たらしめているようなルールのようなものが、あまり見当たらない。おまけに、この唯一のルールである定型でさえ、ざっくりと5・7・5・7・7のリズムを想起させるものであれば良い、というくらいの寛容なものである。言葉の拍数によるリズム、それをさらに拡大解釈して捉えていくような機能が定型にはあるが、こうした定型の抽象度の高さが、あらゆる個人の心情や発想を作品化するのに役立っている。定型というものを通して個人が個人を超えていくような、汎化のプロセスが存在しているとも言えるだろう。
 また、短歌作品を読者として読み解き、自身の言葉で語るという場面を考える。作品という汎化された存在を、ある読者の語りに落とし込むというのは、まさに特化のプロセスと呼べる。批評や評論が特化の思考をまといやすいのは、読みという行為自体が特化の方向に向かうものであるからと考えることもできる。
 汎化によって広く人々に伝播していくことを期待しながら、汎化の過程における細やかさの損失に疑問を感じて特化を求めたり、さらにその特化の弊害についてなんとか避けられないかと苦慮したりもする。短歌のポピュラリティを語る際に生じてくる心のゆれ——わかってもらいたい、けれどわかってもらいたくない、そんな微妙な心的振動は、短歌における汎化と特化のせめぎ合いに起因するのではないか。作品にせよ評論にせよ、自身のなかの汎化と特化の振動に対して意識的になることが、単なる共時的なポピュラリティという枠にとどまらない、豊かな作品・評論を生み出していく鍵なのかもしれない。

■註
[1]角川「短歌」2018年7月号・論考特集「短歌とポピュラリティ(前編)」所収
[2]大辻隆弘『近代短歌の範型』所収

■参考文献
[1]石井辰彦「ポピュラリティという名の不名誉」(角川「短歌」2018年7月号・論考特集「短歌とポピュラリティ(前編)」所収)
[2]永田和宏『近代短歌』(岩波書店、2013年)
[3]大辻隆弘『近代短歌の範型』(六花書林、2015年)
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不易流行 (芭蕉)
2018-08-04 13:27:34
去來曰はく「蕉門に千歳不易の句、一時流行の句といふあり。これを二つに分けて教へ給へども、その元は一つなり。不易を知らざれば基たちがたく、流行を知らざれば風新たならず。不易は古によろしく、後に叶ふ句なる故、千歳不易といふ。流行は一時一時の変にして、昨日の風、今日よろしからず、今日の風、明日に用ひがたき故、一時流行とはいふ。はやる事をいふなり」。

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