「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評20 山城周から 山階基「梃子と鉄橋」へ

2018-03-02 21:09:34 | 短歌相互評


 歌のうまい人だな、というのが山階基の歌を初めて読んだときの(多分、短歌研究新人賞の候補作になっていた「炎天の横顔」の)印象だったということを、「梃子と鉄橋」を読んで思い出した。一首が持ちうる情報量に過不足がなく、読み手を不安にさせない。
 短歌を読むとき不安になることはけっこうある。作者が手渡そうと手放したものをこちらは受け取っているのだろうか?と思ってしまう。あるいは、受け取ってほしいことは分かるんだけど受け取りたくないなあと思ったりとか。その点で山階基の歌は、職場でよく話すけど、休日に遊んだことはないくらいの人がくれる気の利いた旅行のお土産みたいな感じだ。
 
 「梃子と鉄橋」の持つ魅力はマクロとミクロのバランスで、読者である私を心地良く歌の世界に招いてくれる。主体がとても透明なのもひとつの魅力だ。シミュレーションゲームの主人公のようなもの、と捉えるには意思や視点の定め方に規則性を感じるのだけど、でもわりと近い。一連には短歌的主体にとてもよく用いられる〈わたし〉や、短歌的客体にとてもよく用いられる〈あなた〉が登場こそするが、どういう人なのか、という、フレーズの定めみたいなことをさせない強さがある。

  バス停のようにぼんやり立っている夏のわたしの旅先として


 連作の一首目。あとの歌を読んでからもう一度読めば、〈立っている〉のは〈あなた〉とするのが妥当だと思えるのだが、どうにも〈わたし〉であるかのように誤読したくなる(誤読は、異世界への入り口として、短歌の世界を広げるという意味で“適切な”鍵だ)。それほどに〈夏のわたし〉は、まるで夏全体であるかのように大きく透明さを持っている。天からの視点も感じる。マクロだ。力点は〈ぼんやり〉だ(梃子を動かすときに動かすところが力点だろう、おそらくは)。
 連作中の歌ではほかに、

  長くなる答えはすべて宛て先を書いて切手を貼るものだった
  しゃぼん玉ずっと割るのがおもしろいよその子供に吹いたしばらく
  はじめての部屋のでかさにピングーのような旅装をほどいてすわる
  ビル風に染めっぱなしのばさばさの髪をひたすら吹かれて笑う
  ほころびるけれどわたしに手記があることがときおりしなやかな梃子
  さきに逝くならばはるかな指となりあなたの走馬灯を回そう


これらの歌における〈すべて〉〈ずっと〉〈でかさ〉〈ひたすら〉〈ときおり〉〈はるかな〉が〈ぼんやり〉と同じ役割を担っている。
 最後の一首は、そういえば走馬灯って回すものだなとまず思って面白かった。そして〈さきに逝く〉の唐突なのに穏やかな初句がすごくて、主体は言うまでもなく、読者である私も死を受け入れるしかないところにけっこうびっくりする。死に対して感情を持たない(ように見せる)というのは、生きている人間には難しい。それからやはり〈はるかな〉がすごくて、もうこのときに主体とか〈あなた〉はわりとどうでもよくなった。ほとんど神じゃんと思ったけど、もっと無意思の自然物と考えた方が適切か。指だけの妖怪とか。死人が生きている人の走馬灯を回してくれるみたいな言説って既存なのかなとWikipediaを読んだら、なかった。
 ミクロの話をする。短歌を読んでいるとしばしば、私とあなた、という二人の人間で構成された世界がこの世界の最小単位のように勘違いしそうに私はなるが、いやいや、最小の世界って私と世界で構成された世界だよなということを思い出させてくれる歌もこの世にはある。山階基の歌にあるミクロはそういうミクロだ。

  ちゃん付けで呼ばれるときが鳩尾をいっぱつ殴られたように来る
  彼らいまキャンプを終えて行くところジープは砂利を軽く鳴らして
  めずらしい雨にあなたの町を出るバスが遅れてすこし話した
  ほころびるけれどわたしに手記があることがときおりしなやかな梃子
  イヤホンがはずれて音のなくなったビデオ通話にまずはうなずく
  手の甲にしょうゆと書けば書くときのわずかな痛みごと忘れない


ミクロの歌を並べた。〈いっぱつ〉〈軽く〉〈すこし〉〈しなやかな〉〈まずは〉〈わずかな〉がミクロの歌の力点だ。最初の一首は特徴的で、ここで主体は、傷付けられる瞬間を予測して身構えている。けれど傷付けてくる他者をあらかじめ非難したり、悪意で応戦したりはしない。性善説でもノーガード戦法でもなく、あきらかな悪人はここにはいないことになっている。丁寧に悪を取り除いた世界を読者に見せたいのだろうという意思を感じる。最後の一首は、せせこましい日常への賛歌としてかなり上等だ。すごいと思う。

  はじめての部屋のでかさにピングーのような旅装をほどいてすわる
  バスタオルかぶって行けば待っている両手に井村屋のあずきバー

 特に好きだと思った二首。コミカルだけど嘘ではないなと思える。〈あずきバー〉一択なんだ……と脱力するように笑った。

  起きてくるあなたの肩に散りかけた地味な花火のような歯型よ

 反面、性愛の歌と分類しうるこの一首のような歌は、いらないなと思った。〈地味な花火〉という見立てはさすがなのだけど〈歯形〉の持つ肉感へ、疎ましさに近いものを覚える。多分山階基の歌における性愛の要素を、透明さを損なうものとして私は嫌っている。

 冒頭で言及した「炎天の横顔」(『短歌研究』2012年9月号で読める)から少し引く。

  いままでの角度で液が出なくなる少しきつめに揺すらなくては
  二回着て二回洗へばぼんやりとわがものになる夏服である
  死ぬときはポケットすべて裏返し失せた切符を探すみたいに
  乗るたびに減る残額のひとときの光の文字を追ひ越して行く


今気が付いたけどこのときってまだ旧かななのか。と思ったけど、『早稲田短歌』41号(2011年発行)の連作「近いうちに」を読んだら新かなだった。せっかくなので二首引く。

  買ってから一度も開けたことのない瓶が出てきた日のゆうごはん
  朝なのでめざめるのですかめざめたら朝なのですか 傘なのですか

 
 新かな→旧かな→新かなという変遷を経ているのか。いずれ誰かが、あるいはすでに、山階基の作風や文体の変化についてまとめてくれるのだろうけど、私に分かることは「炎天の横顔」や「近いうち」に比べれば、「梃子と鉄橋」は明らかにやわらかく、作品世界が豊かだ。豊かというのはモチーフやテーマが色々あるという意味ではなく、むしろ、ひとつのモチーフやテーマを何度も歌にする、みたいな方がイメージとして近い。“ひとつ”とは何であるかを一語で言い表すことはできないが(できたら短歌は要らなくなってしまう)。
 あと、山階基の歌の魅力といえばひらがなの使い方だろう。「梃子と鉄橋」の一連におけるひらがなの量自体は、「炎天と横顔」より多く「近いうちに」より少ないくらいだと思うが、ひらがなが使われているなあという印象が一番強く、かつ、使い方にある種の確信があるのだろう。会話体の表現や、無垢さ、幼児性、そこから転じての聖性の演出のような使い方ではない。聖性からくる全肯定みたいなあり方の歌が私はわりと嫌いなのだが、そうではない肯定のやり方としてのひらがな、なのかもしれない。前述した悪の取り除き、とも繋がる話だ。今までの山階基の歌も、本当は(本当は?)もっと世界を肯定した賛歌になるはずが、陰鬱、退廃、自虐を好む短歌的“しぐさ”がそれを回避させてしまっていたのかなと思えた。

  イヤホンがはずれて音のなくなったビデオ通話にまずはうなずく

<まずはうなずく>ことは、決してイエスマン的パフォーマンスではなく、何があっても自分は<通話>の相手をひいては世界を肯定をするという意思で、その確かさにこちらこそうなずいてしまう。

 そんなわけで、「梃子と鉄橋」は今まで読んできた山階基作品の中で最も良かった。気の利いたお土産をどうもありがとう。
 


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