「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評21 桝屋善成から嶋稟太郎「底に放せば」へ

2018-04-01 11:13:58 | 短歌相互評
 嶋さんとは同じ「未来」に所属しているので新年会や大会で会うことが多く、一緒に酒を飲んだり、カラオケで歌ったりもしてとても親しくさせてもらっている。
そういった機会に歌の話はもちろん、ほんのすこしだけ個人的な話もしたりする。
 嶋さんが歌を始めて、桜井登世子さんの講座で学び、「未来」に入会することになった話はなんとも言えぬ味わいがあり、大げさに言えば奇跡的な出来事だ。
 桜井さんといえば、近藤芳美に直に接してきた歌人であるので、嶋さんは「未来」の幹である近藤芳美直系の歌人だ とも言える。
とはいえ、本人にそういった意識があるかといえばそんな感じではなく、自由に歌っているように思える。
 そんなことを思いながら「底に放せば」を読んでいきます。

空洞がわれにもありや鉄塔は空の青さに貫かれ立つ

 この歌の情景は不思議で、鉄塔が空の青さを貫いているのではなく、鉄塔が空の青さに貫かれているのである。これは鉄塔の骨組みのようなものの間から見える空の青さのことであり、「青さ」が貫くことで力を得て鉄塔が立っているようである。自分のなかの空洞もなにかに貫かれているおかげで空洞がただの空洞にならずに立っていられる、というような感覚か。

向かい合うわが手の中を偶然に真水のみずは通り過ぎたり

 この歌は一首全体の言葉 の使い方にどこか落ち着かないところがあり、それが魅力であるとも言えるし、不完全燃焼とも言える。「向かい合う」という言い方には「手」がみずからの意思で向かい合っているようであり、それが現実的ではないようにも思える。また「手の中」も分かるようでいて実は分かりにくい表現なのではないだろうか。

遠き日のジュラ紀に絶えし種のありて里芋六個わが前にある

 実家から送られてきたのか、どこかで買ってきたものか里芋が自分の前に置かれている。それも六個という指定までされている。ここには具体的に示されたものが存在している。その具体的なものに対して上の句では「ジュラ紀に絶滅した種」が提示されている。このあまりにもかけ離れた時間のスパンを面白いと思うか、ど うか。ジュラ紀を言うのであれば「遠き日」は不要と思えるし、「遠き日」を残すのであれば、具体的に絶滅した種を言った方がよかったように思う。

たちまちに水濁りつつ銀色の器に水が増してゆくなり

 「銀色の器」が何なのか具体的には提示していない。全体的になにかを喩えているのだろうか。器に満たされていく水はたちまちに濁ってしまうのだから、器に満ちていく水も濁った水ということになる。どこか世相のようなものを感じさせる。

ふと覚めて傾く部屋のしばし見ゆ草刈る音の遠ざかりゆく

 目覚めの瞬間の夢かうつつか定まらない時間を詠んでいる。そのため眩暈のような感覚を覚え部屋が傾いているように思っている。そのように視覚や平衡感覚がおぼつかない時にあ って聴覚は研ぎ澄まされ、屋外で草刈り機が唸っている音が移動していくことに気づいている。「草刈る音」が大雑把なようにも思えるが、その音が遠ざかっていくというのはとてもよく分かる。

ふるさとを遠く離れて東京の吾が家の湯に柚子ひとつあり

 「ふるさと」という言葉から思い起こされる言葉や情景には誰にでも共通するものが多い。この歌の場合は「家」であり「柚子」という二つのものが連想されている。「わがや」ではなく「わがいえ」と読ませることによって「家」というものを強く意識させる。それは観念的な「家」であり、かつ、より物質的な「家」でもある。その物質的な「家」に刻み込まれた家族の生活や歴史や地域との関わりのようなものを感じる。翻って東京の「家」に は「ふるさとの家」にはあった様々なものが無く、観念的にも物質的にも不安定さがつきまとい、ただ生きていくためだけの器としての「家」のように思える。
そういった不安定さを「柚子」が補い、「ふるさとの家」に奥深いところで繋ごうとしているようである。

柚子の実を底に放せばゆずのみがやがてあらわる膝の間に

 ひとつ前の歌に続いて入浴の場面で、柚子が浴槽の底に一度沈んで再び浮かび上がった時に作者の左右の膝の間に出てきたという、何でもない歌である。ただ、前の歌の解釈の流れでいえば、一度浴槽の底に沈むということが、地の底を通じてふるさとまで行って帰って来た、という感覚にもなる。柚子を媒介として故郷と繋がるというショートショートである。
とはいえ 、この歌はうまく掴みきれないところがあり、私としてはやや残念な感じもする歌である。
まず「底に放す」という部分であるが、「放す」だけでは浮力で浮かび上がってくるので底には届かないような気がするし、「膝の間」も分かるようであるが大雑把な言い方とも思える。「底に放せば」というタイトルにもつながる重要な歌であるのでなおさら勿体無いように思う。

月面に着陸したる人思う何も持たずに浴室を出て

 浴室から脱衣室のようなところに出て行くときに月面に着陸した人を思っているのだが、むしろ逆のように思える。浴室から出て、脱衣室で服を着てリビングに行くということは日常の空間に戻るようなものである。月面着陸などという非日常的なことを思うのであれば、浴室 に入っていくときの方が相応しいように思うのだが、どうだろうか。また、わざわざ「何も持たずに」と言っているところも掴みきれないもどかしい感じである。浴室を出るときに「何も持たない」のは当たり前だと思う。人によっては、スマホや本を持ち込んだりすることもあるかとは思うが、そういったものは浴室から出るときには一緒に持って出るのではないだろうか。
ただ、月面に着陸した人のことを想像するというのはとても面白い。

縦に長き硝子の窓はぼんやりと明るくなりぬ靴紐を結う

 玄関でのごく普通の光景なのだろうが、「縦に長いガラス窓」が小さな世界観というようなものを思わせる。そして五句めは外の世界に向かおうという小さな決意がうかがえる。日々の何気ないあり ふれた生活であっても、いくつかの「小さな決意」を積み重ねて成り立っているのである。

両の手を広げるほどの窓あれば地上の雪は吹き上げにけり

 この歌では、上の句と下の句の関係性や下の句の表現の不安定さがやや目についてしまう。まず三句めの「窓あれば」から下の句への繋がりが分かりにくい。そして下の句の表現も情景が想起しづらい。これは二首めの「向かい合う」の歌と同じように表現の不安定さが疵になっているように思う。

 以上です。嶋さん、また歌おうね。 
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