「詩客」短歌時評

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短歌時評 第86回 オカザキなを

2013-01-29 21:48:51 | 短歌時評
2冊の本から考える短歌の読み/詠み/黄泉

 思いがけず時評のご依頼をいただきました。はじめまして、オカザキなをと申します。
 今は2013年1月後半、ちょっと前に角川短歌の授賞式が行われ歌壇賞も誌面で発表されたばかりです。じゃあ新人賞について書こうかな、と思ったものの、せっかくご依頼いただいたのだから、ちょっと違うものについて書くことにします。少し以前の話となりますが、私が所属している「かばんの会」の会員が昨年出した本2冊が面白かったので、今回はそれについて。

***

 まずは『世界中が夕焼け』(著/穂村弘・山田航、新潮社)について。穂村弘の50首の1首1首を山田航が読解し穂村弘が自注したという一冊です。
 つまり、この本では「他者から見た作品の姿」と、「作者から見た作品の姿」に同時に触れることができる。期待の若手歌人(山田)の読みvs.人気実力派歌人(穂村)の自注。2人ともメガネ男子という共通項こそあるもののそれぞれの立ち位置や歌壇での認知度は違う、とはいえ、2人の読みはどの違いを感じさせることなく同じ重みで掲載されています。

 そもそも短歌の読みは誰のものか。作者のものなのか、読者のものなのか、評者のものなのか。
 作者自注があると、ついそれこそが読みの正解だと思いたくなるけれど、そもそも作者は自分の作品をすべて把握していると言えるのか。歌会に行ったことのある方なら、自分でも気づかなかった作品の顔を示されて感心した経験ってありますよね?
 つまり、言葉は使っている本人にもコントロールしきれないところがあって、不意に無意識やそれまでの人生経験が顔を出してしまったりする。その一方で、その短歌を作っていった過程を知る作者だから見えることだってある。

『世界中が夕焼け』は、穂村と山田の読みのどちらかが正解というわけでもなく、どちらも正解であり、2人の読み以外にも正解があるだろうということを提示している。
 短歌は、短歌の読みは誰のものでもない。
 完成した短歌を前に、作者も作者以外の人間もそれぞれの受け取り方、読み解き方をするしかない。そうした受け取り方、読み解き方を通して、各自が「短歌の本質」に触れていく。
 「短歌の本質」は取り出すことはできないものだ。人の手が届かないところにあるからこそ、「短歌の本質」のまわりを誰もがぐるぐると巡り、それぞれのやり方で作品の向こうにその姿をかいま見る。読解の面白さというのはこの個々のやり方の違い、深め方にほかならない。

 『世界中が夕焼け』は読者にこうした短歌読解の自由さ、楽しさ、面白さ、怖さを味あわせ、ぞくぞくとさせてくれる。この本を手に仲間と集まって、
「この読み、どう思う? 私はさー」
「いやいや俺はこう思ってたよ」
「ここわかるよねー納得だよねー」
などとそれぞれの読みを話し合ったらさぞや楽しいだろうなあ。この本は穂村短歌に限らず、短歌そのものの面白さを語りそれぞれの短歌観を提示し合うきっかけさえ作ってくれそうです。

 ちなみに、1首の後にまず山田の読みが載り、続いて穂村の自注が入るという構成はどなたの考案なのかしら。この構成こそが、山田の読みが先に載ることで穂村の自注ばかりに目が行くのを防ぎ、読者に2人のテキストをフラットに受け止めさせる効果をもたらしています。穂村自注→山田読みという順ではこのフラットさは出せなかったはずです。

***

 続いて『うたう百物語』(著/佐藤弓生、メディアファクトリー)。佐藤による掌編とともに、春日井建や岡本かの子、前川佐美雄、石川美南、吉川宏志など様々な歌人の短歌が1首ずつ掲載されています。

 ご存じのとおり、百物語とは100の怪奇譚を語り合って怪異を呼び起こすという遊びのこと。そのため、この本の掌編はすべて怪奇譚です。その怪奇のベースとなっているのは、現実の事象や人への違和感、記憶への違和感。いわば、今目の前にあること/人/自分の現実感が揺らぐような話が展開されているのです。
 面白いのは、物語を呼び起こしたであろう短歌を先に載せるのではなく、掌編の後に短歌が載っているということ。掌編によってつかみどころのない奇妙な気分になったところで、短歌がきゅっとその気分を引き締めてくれるのです。
 この作りは何かに似ています。そう、詞書のついた短歌です。

 物語となっている長い詞書が連なり、1首がすっと屹立する。
 「百物語」ですからストーリーがメインだと思わせておいて、その実、主役は99首の短歌なのです。つまり佐藤は膨大な詞書を99首のために用意したということ。小説家ではなく歌人である佐藤だからこそできたことだと言えるでしょう。
 しかもこの本、短歌プロパーだけでなく掌編好き、怪奇譚好きからも好まれそう。つまり掌編好き、怪奇譚好きを短歌に出会わせる効果も持っているのではないでしょうか。

 面白かったのが、100話目には短歌がついていないこと。その最後の掌編にはこう書かれています。

物語は、かならず語り残すものです。揺曳する思いを、喜びも、苦しみも。こだまと呼んでもよいでしょう。こだまを受け止めてください。物語のこだまを言祝ぎ、あるいは弔う、あなたの歌をください。
あなたは、歌えたのだった。(中略)
 あなたはうたう。


 物語を面白がって読んでいたら、いつの間にか短歌に呼ばれてしまう。この本は、物語集の体をなした、短歌からの誘いの書です。いったい何人の人が呼び込まれてしまうことか。その短歌への牽引力こそが、百物語中いちばんの怪奇ではないでしょうか。

***

 短歌をよむ。読む、が詠むにつながり、時に詠む、が読むにつながっていく。
 小説であれば純粋読者もいますが、なぜか短歌に限っては、「読む」と「詠む」がいつしかつながりやすいようです。おかげで内輪ウケにつながりやすいという批判もあるけれど、つながってしまうものはしょうがない。
 この2冊の本を通して、そんな傾向をふと考えました。「かばんの会」は先生のいない自由な集団として知られていますが、その会員である3人もこの傾向からは自由になれなかった。それどころか、「詠み」と「読み」に関わるこうした本を出すに至った。
 この「読み」「詠み」傾向は短歌というものの特質から来ている、のでしょう、たぶん。答えを急いでもしょうがないので、それについての考察はまたおいおいにして、今日はここで文章の終わりとします。それでは、また(おおよそ)2カ月後に。



オカザキなを
1972年東京生まれ。歌人集団「かばんの会」会員。
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