「詩客」短歌時評

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短歌時評 第99回 星の歌 田中濯

2013-08-02 00:00:00 | 短歌時評
 藤原定家がいま、流行っている、
 というのは冗談だ。
 もちろん、「百人一首」絡みの話題を加味しても、冗談にもならないのであるが、つい最近には、以下のようなニュースが報じられているのだった。

 京都大学(京大)は7月2日、藤原定家が『明月記』に記録した超新星「SN1006」が非対称にゆがんだ爆発をしていたことを発見したと発表した。
http://news.mynavi.jp/news/2013/07/04/021/index.html

 ゆがんだ爆発をしたからどうなんだろう、そりゃ、超新星にもゆがんだ奴はいるさ、と私ごときの素人は思うものであるが、ここでの「食いつきどころ」は『明月記』である。こんなところで定家卿の日記を眼にするとはなあ、という思いがしたものだが、実は『明月記』には天文事象の記述が多く、考古天文学の分野では実に重宝されている資料とのことである。
 『明月記』は、なにしろ時代背景が「平氏滅亡」「鎌倉幕府誕生」「平安朝終焉」「源氏将軍途絶」、という、日本史上屈指の大激動期であり、それだけで日曜歴史家の血が騒ぐのだが、残念ながら、私には原文を読む能力はないので、もっぱら『定家明月記私抄』(堀田善衛)を読むことになっている。この「SN1006」についての堀田の記述を見ると、1230年10月、定家69歳の話であるようだ。この年は前年に続く大凶作で、京の都も大荒れ、群盗が跋扈していたとのこと。そんなときに天に「客星」、つまり超新星が出現したものだから、これは凶兆に違いない、そういえば昔にも物凄い客星が出現したことがあるぜ、という流れで「SN1006」を定家はメモったようである。
 一方で、定家自身は、そのような天変地異の折にも猟官活動をしており、「中納言になれないなら死んだほうがましだ」(堀田による意訳)などと書き残している。彼はとにかく出世が遅かったひとで、出世したくてしたくてたまらなかったらしい。そんな俗物の彼と、天の星に想いをはせる彼と、あるいは彼の歌が、同居していることが文藝のひとつの面白味ではあります。
 前置きが「うなぎ」に続いてまたしても長くなってしまったが、定家の「客星」の記述に敬意を払い、本稿では短歌の一種の鬼門ともいえる「星の歌」に着目することにした。万葉以来、月の歌はあれども星の歌はない、というのが定説で、現代短歌でも星の歌はたいへん少ない。これには、都市化であるとか、農業・漁業や航海・気象に星が関わらなくなったことなど色々な理由が推察される。とはいえ、ここでは難しいことはあまり考えず、最近刊行された優れた歌集のなかから、いくつかを選んで紹介してみようと思う。

月も君、星も君ゆゑ哀れとはああ、われといふ哀しみならん
小島ゆかり『純白光』


この歌には『建礼門院右京大夫集』所収の有名歌である

月をこそながめなれしか星の夜の深き哀れを今宵知りぬる


が引かれて詞書として付けられている。建礼門院右京大夫の歌は、従来、「月についてはよく眺めていて知ってはいたが、星空の良さについては今夜初めて思い知ったことだ」という解釈がなされている。小島の歌は、この読みをさらに進めたもので、建礼門院右京大夫が見ていたものは確かに「月」であり「星」ではあったが、それは実のところ「君」を見ていたのであって、このふるまいこそは人間存在そのものにある哀しみである、というものである。この解釈は、まったくもって仰る通りであり、『建礼門院右京大夫集』というと、セレブな美男美女の悲恋であるとか、はたまた星の歌人であるとか、私はなにかと先入観のもとで歌を読んでしまうので、マンネリだし良くない、と反省した次第である。

部屋に雨匂うよ君のクリックに〈はやぶさ〉は何度も燃え尽きて
大森静佳『てのひらを燃やす』


 『てのひらを燃やす』は期待の新人の第一歌集である。全編ほぼ全てが相聞という思い切ったつくりをしていることが特徴であるが、肝心の「君」についての情報やパーソナリティについては、最後までほとんど判明しない。大森の歌における「君」は、自身の内面の鏡であることが徹底され、それゆえに、成功しているとは即座に判断できないが、他者である「君」は近くに居るがはるかに遠い存在となり、読者の「叙情機械(マシン)」を駆動させてゆく。挙げた歌はこの歌集に数多い佳品のひとつである。〈はやぶさ〉についての説明はよいだろう。ここでは動画をひとつ紹介するに留める(*1)。「雨」は実際の雨であるかもしれないし、動画を改めて見たあとでは、それは〈はやぶさ〉の破片の匂いであるかもしれないとも思う。また、クリックしているのは確かに「君」だが、それは「君」の意志なのだろうか?「われ」が「君」にせがんでいる、と解釈したほうが、この歌集の場合には自然であるように考える。おそらくは大森こそが、みずからのてのひらと同じく、〈はやぶさ〉を何度も何度も、燃やしているのである。

七月はあんず見上げてゐるわたしつひに変はらぬ何ものかある
目黒哲朗『VSOP』


この歌には星は出てこないが、その代わりに「見上げる」われが居て、あんずがある。『VSOP』には他にも数首、あんずの歌があり、平仮名表記であることも考えると、あんずは目黒にとってとても大切なものであることが理解される。りんごやぶどうは歌語として成立し、手垢もかなりついているが、あんずはかなり貴重なのではないだろうか。本歌集を読むときのキーワードのひとつとして提示しておきたい。挙げた歌については、おそらくは七月こそは目黒の誕生月であり、つまりは「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」を踏まえたうえでの感慨であるだろう。また、読みを超えて、調べと歌の姿が美しいと思う。この歌集は「わたし」についての冒険もおこなっており、それは見どころでもある。「わたし」もまた、この歌集ではありふれてはいないものであるから、キーワードのひとつとして、強く注意を喚起しておきたい。

 以上、三首三歌集について「星の歌」を見てみた。「星」は、遠すぎるし、小さすぎるし、個性にも乏しいので、たとえば、『純白光』に大量に出てくる「猫」と比べると、これはずいぶんと分が悪いのかなとは思うところである。けれども、星には星の味わいがあるのだし、「客星」のように、ごくまれに出現するのではなく、もう少し頻繁に、歌集のなかで輝いていてほしいとも勝手ながら思うのである。

*1
http://www.youtube.com/watch?v=2faNGDT7C2k

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