「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評「わたくしの消去」について / 「東海歌壇 岡井隆講演」 夏嶋真子(中家菜津子) 

2014-04-03 21:14:46 | 短歌時評
わたくしの消去~「提案前夜」堀合昇平のリアリズムと「あそこ」望月裕二郎のノンセンス/3月30日東海歌壇 岡井隆講演会

 強力で特異な『私』というあり方は強力で特異であるがゆえに、消え去り見なくなる
『ウィトゲンシュタイン「私」は消去できるか』入不二基義


 昨年、書肆侃侃房から刊行された新鋭短歌シリーズ(本シリーズの概略と歌集出版の現在については、「時評第108回歌集出版の多様化~新鋭短歌シリーズ出版記念会で浮き彫りになったこと~山崎聡子」ぜひとも参照してほしい。)は筆者たちの活躍するフィールドがバラエティーに富んでいる。結社、同人誌、ネット投稿型フリーペーパー、学生短歌会(出身)など多岐に渡りそれぞれが強い個性を打ち出す。これまでの伝統的な短歌の場であった結社と、それ以外の場に所属することで作品そのものへ影響は強く表れるのだろうか。12冊を通読してそんな疑問が湧き、全く正反対の性質を持つ2冊の歌集が一冊は結社、もう一冊は学生短歌会出身で同人を活躍の場にする作者であることに気付いた。

 行間を読まねば読めぬ陽に焼けた手順書だったぺらぺらだった
 サワヤカナアサノクウキヲスイコンデラジオタイソウダイイチハジメ
 譲れない思いなどではないことを議論の最中気づくのでした
 反骨者(パンクス)のようにフロアを歩こうよネクタイ首に巻きつけながら
 失注の予感をぬぐう旋律を奏でて永久にあれシド・ヴィシャス
 一礼を終えて見上げた冬空に飛行機雲の交差するまで
 翳りゆく夏の路肩に置き去りのペットボトルに異国の水は
 剃刀の記憶のままにあてがえば微かに沁みる左の頬は
 市場にはデッキブラシの音だけが響いてふいに夏の気配が
 いっかいてーんにかいてーんさんかいてーんといいながら半回転をつづけるむすめ

堀合昇平『提案前夜』



 堀合氏の歌を十首読んだだけで、ネクタイを締め髭をそり、手順書や議論や失注に奔走するサラリーマンの姿がくっきりと浮び上がってくる。詩人の山田亮太氏は現代詩手帖2013年9月号で「歌を作ることと生活することとの幸福な連帯がここにある。優れたドキュメンタリー歌集だ」と評している。また、解説に加藤治郎氏はこのように書いている。

 今日この現実に生きて居る人間自体を、そのままに打ち出し得る歌」を「新しい歌」と近藤芳実が規定したのは一九四七年のことである。「この現実」とは何か。「そのまま」とはどういうことか。現代短歌はこのマニフェストに十分応えただろうか。(中略)
 未来すなわちリアリズムの磁場に堀合が引き寄せられたことは偶然とは思えない。そして、そのことを自覚したところからこの歌集は始まっているのである。


 実は、上の十首は秀歌を選んで抜き出したのではない。末尾が0となるページの一首目を機械的に並べたのだ。こうすることで見えるものがある。
例えば一首であれば、或いは連作であれば自分と全く違う者に成りかわって詠むこともできるだろう。しかし、数年、時には十年をかけて歌集は紡がれる。その時間経過を、自分を包み隠さず詩の真っ芯におくことで堀合氏は貫いている。一冊を通して読んだとき彼が歌集中のどの歌でも常に強力にわたくしであるがゆえに、逆に私という領域線が消え去って現代社会を生きるサラリーマンにまで普遍化されているのである。なぜそんなことができるのか。

 採血を待つ間に読めばポジディブにポジティブにあり日経WOMAN
堀合昇平『提案前夜』


 採血を待つ間に日経ウーマンを読んだ。男性が女性誌を読む姿はどこかユーモラスではあるがそれだけではこの歌は詩として成り立たない。「ポジティブに」のリフレインが雑誌の持つ肯定性を強烈に浮かび上がらせ、その影によって自身が否定される。しかし光源は眩くはあるが憧れではない、空疎なポジティブさへの批判精神に現代的な真のユーモアが含まれている。
 無私な観察により事実を「美しく」詠んだとしても、記録の域を脱出することはできない。堀合氏は現実の出来事の中から事実ではなくひとつの詩想とひとつの真実を見つめている、社会へと大きく開かれた目をもって。それを独自の文体で描くことでサラリーマン生活という日常が、詩性の備わったリアリズムへと昇華される。その集積が現代社会へ通じる普遍性をもたらしているのだろう。

 一 方で全く逆の立場をとる歌人として早稲田短歌会出身、同人誌「町」の望月裕二郎氏をあげたい。同じく新鋭短歌シリーズの「あそこ」を読むと作品からは、わたくしが注意深く消し去られている。
 その解説に東直子氏はこう記す。

 短歌が培ってきた肉体的なリアリティーに対する挑戦として言葉の裏をめくり、異空間に繋がる独自の世界を探りつづけているのだ。
 これが短歌なのか?と眉間に皺を寄せる人もいれば、これが短歌なのか!と膝を打つ人もいるだろう。いずれにしても現代短歌に風穴を空ける存在であるに違いない。


 リアリズムに根底に置く短歌よりも、むしろ現代詩に彼の思索との共鳴を感じた。本題からはややそれるが、歌人に馴染みの深い人名が現代詩ではどう書かれているか、吉増剛造氏の詩集「ごろごろ」から引用する。

モーキツ(茂吉)ハ、ク、チ、ブ、エ、ヲ(尾)、フ、イタ、ロー、カシ、ラ、…。
茂吉(モーキツ)ノ、ク、チツ、キ、デ=ク、チブ。エ、……


 この詩集は意味らしい意味を追うことができない。意味が言葉を使役するのではなく、まるで吉増氏の脳内が裏返ってごろごろと言葉の転がる広野を晒しているような圧倒感がある。シニフィエからシニフィアンを剥離して立ち上がってくる彼の内的世界の渦は言葉でありながら意味によらす形象を形象のまま手渡そうとしているかのようだ。望月氏の作品にはこれとは別の方法であるが、言葉に対する純粋な思索がみられる。

 短歌の評ではよく、「わかる、わからない」という言葉が使われる。歌を始めてから非常に驚いたことのひとつだ。一語一語まで厳しく分析して主題を捉えてゆく歌の評の明晰さには感銘を受けたし、詩と比べるとはっきりとした良し悪しの基準があり、わからないということはその歌は不十分なのだ。しかし歌を言語による表現として一つ外側の枠で眺めたときに、一見わからなくても従来の価値観を破り言葉そのものを揺るがすような作品が必ずあるはすだ。

 もう少しわかりやすいところで、みなさんはノンセンス詩というジャンルをご存じだろうか。ルイス・キャロルやマザーグースといえばお分かりになる方も多いだろう。詩の中に高度な押韻や言葉遊びが散りばめられ、明確な意味や主張は持っていない。すいすいと泳ぐような韻律に由来するユーモアがあるのだが、無意味といっても抽象概念や曖昧な情緒ではなく具体的な事柄によって批判性を持ってそれは語られる。

 一切空ちゅうお婆さんがどこかしらにござった。
 豆っちょろのお家に納まり反ってござった。
 そこへ誰だかがぬうと出で、
 くわっと口をあけ、すう、ぱくり。
 お家もお婆さんも一切空。

マザーグース 北原白秋訳



一切空とはNothing-at-allにあてられた訳である。そういう名のお婆さんが誰かに食べられてあとには空が残った。虚無をぱくりと食べて笑い飛ばすことができるのは、それより外側に立つ批判精神ではなかろうか。

 なでさするきもちがいつも電柱でござる自分をあいしてよいか
 繰り返し自分の名前をつぶやけばそれは自分の名前でなくなる
 玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって
 分析というかだまって無意識をみてるだけ(って虫がなくかよ)
 おもうからあるのだそこにわたくしはいないいないばあこれが顔だよ
 <きれいな眼、お母さん似> 羽虫とのキスで始まる春の静けさ
 百万歩ゆずって犬はやめにしようゆずるのに半年はかかるが
 あそこに首があったんだってはねられるまえにふけった思索のうるさい
 吉野家の向いの客が食べ終わりほぼ同じ客がその席につく
 君は本を読まないけれどものすごく美しくレモンティーを注ぐよ

望月裕二郎 「あそこ」

 

 少し乱暴ではあるが、望月氏の作品を私はノンセンス短歌と位置付けたい。日本語で韻律を書き表そうとしたときに短歌はまたとない詩型だ。器は作らなくてもすでにある。望月氏はそこに主体によるリアルな物語ではなく、注意深く言葉のもつ手触りを生かしながら、自己を一つ外側から見た批判精神を注いだのではないだろうか。彼の作品は慣用句や文学作品、短歌的な具体描写や本歌取りのような名言からの引用、様々なものを散りばめることで、読者との共通認識をつくり、その上で意味を言葉から乖離させている。短歌の韻律の上に独特の語調を重ねてユニークなリズムをつくりだし、わたくしの肉感をすっかり消し去ることにより、ノンセンスな言葉の思索の中で存在への疑問をつきつけることができるのだ。そして無意味さや空虚さに諦念や抒情を加えるのではなく、マザーグースの引用の詩のように皮肉めいたユーモアを喚起して批判精神を生み出す。無意味さはけして出鱈目ではないのだ。彼自身は読者にことばを丁寧に手渡している。わかる/わからない/意味/無意味の壁を取り去って、言葉のあてどない世界をあなたは探求できるだろうか。そもそも人の生はあてどないものなのだ。
言葉に植え付けられた意味からの軽やかな離反。「あそこ」はどこにあるのだろうか?タブーのラベルをぺらっと剥がして、捲れた世界にはっきりとした「あそこ」を彼は用意してくれている。

 リアリズムの堀合昇平氏は強力に私を押し出すことで、逆に私という枠を消し去り社会の中へ普遍化した。ノンセンスの望月裕二郎氏は断固として私を消し去ることで、言語の中への私の普遍化を試みたのではないだろうか。二人とも批判精神とユーモアを携えて。

 歌集につていは一区切りして。

 
3月30日に朝日新聞社主催の「東海歌壇 岡井隆講演会」が開かれた。聞き手は加藤治郎氏である。岡井氏は東海歌壇とその前身のあいち歌壇の選者を35年間務め、今春、加藤氏にバトンが渡った。その記念の講演会だ。ここでは講演の中で、この時評の読者であろう若い世代に向けられた岡井氏の発言の趣旨をお伝えしたい。

現在、若い世代の間では短歌を詠み、投稿し、歌会を開き、発行物を発表する場がネットを媒介として様々な形で開かれる。こうした流れは短歌の裾野を広げる上で流行というよりは、もはや欠かせない存在だ。個人個人の繋がりである関係は自由で束縛もないが誰かの企画力に依存する側面も大きい。短歌を継続して学んでいきたいと思った時に結社に入るというのは一つの有効な方法である。
岡井氏はせっかく短歌の情報の宝庫である結社を自分の知識を深めるためになぜ活用しないのかと語り、結社を誰にでも開かれた教育機関と位置付ける。例えば両氏が所属している未来には、毎月の歌の選を受ける以外にも第一線で活躍する歌人も参加する歌会、批評会や新年会、大会など濃厚な学びの場が用意されている。結社は結社誌に歌を載せるためだけの機関では決してないのだ。加藤氏は入会した頃、先輩方の雑談の中に伊藤左千夫、社会性といったキーワードをひろい、家に帰ってそれを勉強したのだという。結社は港のようなもの。自由に暴れていつでも帰ってこられる場所なのだと語る。結社がデータバンクとしてあるいは人と歌、人と人を結ぶ場所として有効であるという点に関して、師弟関係でもある二人の意見は一致した。その絆は強いものがあるようだ。

岡井氏は現在をどう見ているのか。2000年代~の短歌については、革新の気風が失われ、生温いというか穏やかで細やかな歌が多くなったと感想を漏らす。短歌に限らず音楽や文学、あらゆる文化にその傾向がみられる。それは決して悪いことではないが、とやや不満をのぞかせた。前衛短歌の旗手として常に時代をリードしてきた岡井氏が現状を淋しく思うのは当然のことだ。これに対し加藤氏は、現在を多様性と豊かさの時代と返す。それはまさに新鋭短歌シリーズの示すところでもある。私は結社を伝統の場としたが、今が真に多様性の時代であるならば結社で革新を目指すという手もありではないだろうか。

 若い歌人が第一歌集を出しても次がなかなか続かないことがある、一生短歌を続けようという気概をどうしたら持ち続けられるだろうかという岡井氏の投げかけには、加藤氏から個人の表現への欲求にとどまらず、現代短歌というモチーフそのものへの情熱が必要なのではないかという問題提起がなされた。

岡井氏はきっぱりと言う。「短歌詩型とは一体何なのか」そのことを思索していってほしいと。

最後に次の言葉をみなさんにお届けしてこの文を結びたい。東海歌壇の前身であるあいち歌壇の選者となった岡井氏のはじめてのあいさつの言葉である。
講演会の資料としてこの記事を見た岡井氏は過去の自分の言葉が今の自分の指針になることもあると語った。

 旅をしてよその土地へ行くと、なんでもない人の動きや風景が、ひどく新鮮にみえることがあります。短歌のような短い詩の場合、大切なのはそういう小さなものに対する新鮮な心の動きだと思います。いつも新しい気持ちで風景や物や人にむかいあっている。そうするためには、現実を旅するのもいいが例え旅をしなくても心の中で見慣れた家や家族や職場の一隅(ひとすみ)をゆっくりと幻想旅行するのも一つの方法でしょうか。
岡井隆 1979年3月25日朝日新聞あいち歌壇選者のことば

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