わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第148回 ブロツキイ、ふたたび。-ヨシフ・ブロツキイ- 伊武トーマ

2015-05-08 19:16:19 | 詩客

インターネット、スマートフォン…
世界中リアルタイムにデジタル化は進んでいる。
すべては数値に変換され、データ化され、人間という人間…
やがて世界は、たったひとつの情報に集約されてしまうのだろうか。

 

誰にでも触れ得る身近なもの
たとえば音楽や映像。
クオリティーの高いものが二十四時間切れ目なく配信されているが、
音も画像もデータ化され、クリアになればなるほど
音は動きをなくし、画像は平面化され、
音も、画像も、瞬時に世界中を駆け巡りながらも奥行きをなくし、
空間は次第に閉ざされて行く。

 

エッジが鋭いだけのデジタルサウンドは難聴を招く。
遥か遠い木々の梢、そのシルエットまでくっきり見えるデジタル画像は、
いくら鮮明でも塗り絵に過ぎず、さらに自動車、電車、飛行機と
高速で移動することに慣れきった人間は、距離感をなくし、
風の匂いも嗅ぎ分けられず、
空間をとらえる力が急速に衰えつつあるようだ。

 

それは加工された音であって、自分の耳でとらえたものではない。
それは加工された画像であって、自分の目でとらえたものではない。
それはどんなに遠く移動しても、風の匂い嗅ぎ分け、風の匂いを頼りに
自分の足で移動したものではない。

 

スマートフォン片手に、ここにいながらにして
まるで世界を手中に収めたかのような感覚に陥った人間…
もはや、五感が閉ざされる一方の人間。
皮肉なことに、すべてを数値に変換するテクノロジーが進歩するほど、
人間の感覚は退化して行くかのようだ。
この空間をとらえる力の衰え。五感の退化。それはつまり、
芸術を産む側、芸術を受け取る側、双方の衰退といっても過言ではないだろう。

 

 

芸術とは何か?
それは、世界、国家、社会と、個人が対峙することだろう。
正面切って、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の足で歩き…
自身の五感、そのすべてをもって空間をとらえること。
それで初めて、インスピレーションが閃光のようにきらめき、
見えなければ見えないほどますます偏在化するものたちが介在する、あの
《永遠》と呼ばれる空間が開示される。

 

《永遠》を開示する行為そのものが芸術であり、その行為の痕跡が芸術作品であり、
ジオットが、グリューネヴァルトが、ゴッホが、ド・スタールが、ロスコが、
ミケランジェロが、ロダンが、ブランクーシが、ベルメールが、ボイスが、
ホメロスが、ダンテが、ヘルダーリンが、ツェランが、デュブーシュが、そして、
ブロツキイが… 画家、彫刻家、詩人、彼ら個々人が世紀を跨ぎ、世界、国家、社会と、
たったひとりで対峙し、ある者は血を流し、ある者は差別と迫害の茨の道へ放り出され、
ある者は無実の罪を着せられ亡命を余儀なくされ… どんな無残な目に逢いながらも、
この《永遠》という空間を開示する行為を継いで来たのだ。

 

個人情報保護!と叫べば、個人情報流出!と何かと騒がしが、ずっと以前から、
個人が個人であることを切望し、あたかも数値化、データ化、情報化を拒むかのように
画家、彫刻家、詩人、彼ら芸術家と呼ばれる者たちが継いで来た行為…
その行為の痕跡である芸術作品と向き合うとき、それは、まさに1対1の感覚である。

 

だが、1対1といっても、個人はより孤独になるわけではない。
個人は、世界から、国家から、社会から解き放たれ、より自由になり、
《永遠》に向かってはばたく。
より自由になれば、より幸福になれる?いや、
より自由になるほど不幸になるかも知れないが… はばたいた先にきっと、
見えなければ見えないほどますます偏在化するものたち、
あの神と呼ばれる者の片鱗。ルミネセンスをとらえることができるのだ。

 

詩という芸術行為について、ブロツキイは見事な言葉で言い当てている。


 それは、他の人たちはともかく、詩人は俗に「詩神(ミューズ)の声」と呼ばれるものが、実際には言語の命令であるということを常に知っているからなのです。つまり、詩人が言語を自分の道具にしているわけではありません。むしろ、言語の方こそが、自らの存在を存続させるための手段として詩人を使うのです。(「私人」ヨシフ・ブロツキイ:沼野義充訳)

 

ブロツキイはまた、数値化、データ化… 一切の情報化を拒むかのような詩人の魂、
その魂の感覚が、まぎれもなく1対1の感覚であることにも触れている。


 人がこの詩という形式に頼ることになるのは、きっと、無意識的に擬態への衝動が働くからでしょう。一枚の白い紙の真ん中に、垂直な言葉の塊。それはどうやら、世界の中に自分が占める位置、自分の肉体に対する空間の比率を人間に思い出させるようです。しかし、人間がどのような理由によってペンを取ろうとも、そのペンの下から生み出されるものが読者にどんな印象を与えようとも、またその読者がどれほど多くとも少なくとも、詩を書こうとする行為からただちに生ずる結果は、言語と直に接しているという感覚です。(「私人」より)

 

さらに芸術行為のダイナモとなる一瞬の眩いきらめき、インスピレーションについても、


 詩を書く者が詩を書くのは、言語が次の行をこっそり耳打ちしたり、あるいは書き取ってしまえと命ずるからです。詩を書き始めるとき、詩人は普通、それがどう終わるか知りません。そして時には、書き上げられたものを見て非常に驚くことになります。というのも、しばしば自分の予想よりもいい
出来ばえになり、しばし自分の期待よりも遠くに思考が行ってしまうからです。これこそまさに、言語の未来が、その現在に介入して来る瞬間に他なりません。(「私人」より)

 

《永遠》という空間。そこに介在するルミネセンスについて…
敬愛して止まない詩集、ブロツキイ「ローマ悲歌」(たなかあきみつ訳)より。
最終篇をそのまま書き写して締め括りとする。


 Ⅻ  身を屈めよ。私はおまえの耳許で何ごとか囁くだろう。私は
    あらゆるものに感謝する。鶏の小軟骨に
    私にぴったりの真空を――それはおまえの真空でもあるゆえに。
    早くも切り取っている鋏のジョキジョキに。
    真空が真っ暗闇であっても構わない。そこでは何ひとつ
    手も顔も、顔の楕円形も象られていなくとも構わないさ。
    あるものが眼に見えなければ見えないほど、ますます信憑性をおびてくる、
    それがかつて地上に
    存在していたということが、ましてやそれはくっきりと偏在化してくるばかり。
    おまえは身をもってこれを体験した最初の男だったのではないか。
    二で割り切れないものだけが
    そのまま釘付けになっている。
    私はローマに滞在した。ひかりにずぶ濡れになって。そう、
    破片だけが夢見ることができるように!
    私の網膜に浮かぶのは、燦然たる円形(コイン)。
    あたり一面の暗闇にはこれで充分だろう。

 


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