わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第112回 -フランツ・カフカ-倉田比羽子

2013-11-19 00:56:56 | 詩客

カフカの「観察」

 

 世界は風景のなかに生きている──。この歳になると日々、ぼんやりと外を眺める時間のなかで暮らしているせいかこの思いは強くなる。わたしたちは断片的にしか生きることはできない、ある日ひょいと生まれて未知の時間をめぐって一瞬一瞬無限にわけ入ってゆくひとつの試みであり、およそとらえがたい何かにすぎない。そう思うと不安な気持ちにすっと風が過ぎる。秋の薄日、日没ともなると目の前の名も知らぬ緑木の濃蔭や雨音、風の香、声低い呟き、路上を走る音の波動、廃庭に飛びこんでくる小鳥たちもふいに羽を止める、地面のうえをのそりのそり這う茶褐色の蟷螂に吸い寄せられてぎょっと、息をつめる、静かな死がそこにある。外は滔々と躍動的で空無がみなぎっている、こころを襲う緩慢な動きに無関心な宙吊りの内部が反応して自然に流れるようにほの暗い光りのなかにカフカのことばをかさねていた。わたしの夢見の世界をみたしてきた「ぼんやりと外を眺める」──。


 「いま急速に近づいて来るこの春の日々に、ぼくたちはなにをすればよいのだろう?今朝、空は灰色だった、けれどもいま窓辺へ行くと、ぼくは驚いて、頬を窓の把手に寄せかけるのだ。
 下の路上では、歩きながらふと振り向いた小さな女の子の顔に、もちろんもう沈んで行く太陽の光が射すのが、そして同時に、女の子のうしろから急ぎ足でやって来る男の影が落ちるのが見える。
 男はもう通り過ぎてしまい、女の子の顔は明るくかがやいている」

(全文)(「カフカ全集1」円子修平訳新潮社)


 思えば長い間、詩、散文などと分けることなく書かれたままに直截に読んできた。ことばをもって書かれたものの核心にはことばそれ自体のもつ初源のポエジーがひそんでいる、それはことばによる思考として解釈することが不可能にちかい何かである、もっというとことばはわたしたち生命体としての原初的な存在の郷愁感覚のようなものからやってくる。だがその無根拠な意識の流れはよくわからない、ただこうしてやってきたことばはわたしを慰藉してやまないこころあたたまる何かなのである。
 詩という固定的な枠組みを外して、わたしはカフカといっしょにぼんやりと外を眺める。世界は風景のなかに生きていて、わたしたちはその何かにすぎない。


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