わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第102回 -豊原清明 -小峰慎也

2013-07-05 22:50:03 | 詩客

 ぼくがはじめて、年下の人の詩集として、それを意識させられたのは、久谷雉『昼も夜も』(2003)と三角みづ紀『オウバアキル』(2004)である。ほぼ同時期に熱中して読み、なにかが起こっていることを感じた。ぼくにとって、詩が、先行しているものにあこがれる、というものから、ほんとうの意味で、未知のもの、やってくるもの、に切り替わった瞬間である。
 この2冊の詩集は、どちらも中原中也賞を受賞したものだ。
 (詩にかぎらず)いい、わるいの判断に自信がなく、ベスト10とかそういうものが好きな自分としては、あたらしくておもしろい詩集を知る入口として、中原中也賞の発表は、たのしみであった。
 第1回の受賞者、豊原清明も、年齢はぼくより下だが、彼の年齢を意識したことはない。


満月

 

ライトが懐かしい
こわれてしまった
このボロ自転車で僕は
吸い込まれるようにお母さんの方へ
走って行った
「あなたが産んでくれたのですか」と
何度も何度も
聞いてみたけれど
返事はナシ

あ!月が光った              (『夜の人工の木』より)


 ぶっきらぼうで、不用意に、鉈(なた)をふるっているようなことばづかい。
 詩集をめくってどれを引用しようかとさがしていると、あれもいい、これもいいというようなことになってくる。これも引用していいですか。なにかとても好きなので。


ゼツボウの雲

 

夏になって
扇風機をもってきて
あたってみる
今日も
人が殺された
こわいという思い
よかったという思い
もう生きていかなくてよかった
自殺ではなかった
青い青いさわやかな雲と
そっくりの
死。
死というものを
まぢかに見たことのない
僕は
扇風機の中に
ソーセージを入れて
切断した
なんかうまそうで
おいしい。        (『昼と夜のてんまつ』より)


 「夏になって/扇風機をもってきて/あたってみる」、このはじまりかたのすごさ。比喩でいえば、拳法の真の達人(老師)が、強すぎるがゆえに、拳法が強い、ということととは違ったものになっているときの、たたずまいのようなものがある。まあ、それでは、よくわからないが、行の運びに、つねになんらかの断念、あるはずの可能性を感じながらも、それを捨てていこうとした結果でてきた、シンプルさが感じられる、ということだ。
それで、「今日も/人が殺された」の急展開である。とても自然な急展開だ。扇風機をもってきてあたっていることと人が殺されていることはならべていいのだ。ならべられて、ほとんど同じことになっている気がする。
 そのあとの「こわいという思い」がいい。わりとふつうの感想がすぐにつながる。それがよかった。つぎの「よかったという思い」は、それにつづく、「説明」が必要なほど、ちょっと「変な」感想で、この「変な」感想がもし、いきなり「今日も/人が殺された」につづけられていたとしたら、これは、ただの、特別な人の特別な感じ方の詩になってしまう。わりとふつうのことを思ったということ、で、それを書けたということ、「ふつうじゃねえか」と笑いがもれる、コミカルな感触。
 この、ふつうそのままの感覚がはしっている、というのが、「拳法が強い、ということとは違ったものになっている」という状態であり、最後の、数行、扇風機の中にソーセージを入れて切断する、ということの「こわさ」をなりたたせているのだ。それは、「なんかうまそうで/おいしい。」。くどくど説明することでもないけど、「うまそう」ということは、食べる前の状態であり、「おいしい」というのは、実際に食べてたしかめてみないとわからないことである。いや、食べてなくても、おいしいとされるものならあるだろうけど。この場合は、なんだろう、改行した時点で、時間の省略みたいなものがはたらいて、その省略のなかで「食べている」のかもしれない。と、そういうような、「不自然」な書き方が、死を思って、なにげないふつうの感覚で、ソーセージを扇風機の中に入れてみた、その「こわさ」の、帰結のほとばしりのようなもののあらわれと読めるから、おもしろい。笑える。


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