わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第135回 夢の強さ-立原道造- 海東セラ

2014-11-09 11:06:43 | 詩客

 はじまりは夏の教室。プリントに見つけたソネット「のちのおもひに」は、国語の先生のチョイスだった。


夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへった午さがりの林道を

 

 先生の思惑は当たったとも言える。けだるい教室から涼しい林へ、眠気は吹き飛んだが授業はそっちのけ、水引草や草ひばりなどの高原アイテムを追いかけて目が詩を繰り返すうち、やさしいはずの道に迷って背の裏がスッと冷えていた。


うららかに青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた
――そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……


夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまったときには


夢は 眞冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう


 ふいに飛びだす(日光月光)に、高校生の私は意表をつかれた。教科書的知識において薬師寺や菩薩像を思いうかべ、にっこうがっこうと呟くと、恥ずかしな がらカッコウ、ブッポウソウなど連想して生き物めく。島々や波や岬まで渡ってきた目と耳は、月と日の光に収まらず、空の枠外に放たれた。やがて(――そし て私は)の主体まで、人以外のものに思えてくる立原ワールド。だれもきいていないのに語りつづけるなんて、鳥や虫が鳴くのと同じ。光と同じ。声や動きは あっても、美しい均衡をたたえて宙づりの、どこにもない時間に詩は硬く鎖された。

 1939年、肺結核の悪化によって24歳で早逝するまでに、立原が全方位に向けたエネルギーは激しく、最後まで旅にあって多くの文学者と交流し、猛烈に 手紙を書いた。戦争に向かう時代だった。遺された手作り詩集、パステル画、建築図面などはどれも彼自身の手による具体であり、新しい発想と造形の試みにあ ふれている。闊達な線や文字、豊かな色彩と細部へのこだわりも、夢の強さを語っている。

 生家は日本橋の木箱製造業。3階屋根裏の自室は、秘密工房のにおいもする。コレクションは東京市電乗換切符3000枚、緑色系のパステルばかり200色。夜になると洋燈を点し、望遠鏡で天体を眺め、いたずら好き、お菓子大好き、ラジオのダイヤルを札幌に合わせて北の天気を想像したり、マニアッ クでウィットに富む。文学のはじまりは短歌だった。


あのとき、ちょつぴり笑った顔が感傷をたきつけるのだ、白い歯列(ルビ はならび)!

誰に會ひたいのか知ってる、知らないふりをする!夕方が嘘を教へる

 

 このとき立原は高校生。短歌男子の歌は切なくて新しくて、夏の教室を、また目ざめさせる。

 

※立原道造:1937年東京大学工学部建築科卒業。
※「のちのおもひに」:詩集『萱草に寄す』(1937年刊)所収。初出「四季」第22号では藤原定家の歌を詞書に置く。
※短歌:「詩歌」第12巻第9号、10号に掲載
※参考/立原道造全集(角川書店)、季刊チルチンびと8号(風土社)、企画展「造形家 立原道造 パステル画から自装詩集まで」「立原道造が遺したものたち 愛蔵品を中心として」(立原道造記念館・文京区弥生、2011年閉館)


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