「(覆された宝石)のような朝」とは、西脇順三郎の詩「天気」のあまりにも有名な一行であるが、僕が小笠原鳥類の詩をはじめて目にしたとき、まさしくこの「覆された宝石」感覚だったように記憶する。
いやキラキラと眩い煌きが目を細めるという朝の清々しい感じではなくて、世界中に散らばっていた思いもよらない言葉たちの軍勢が一挙に真っ白なシーツに駆け集まってきて、縦横無尽に色を塗りはじめたという驚きか。
言葉がそれぞれの色を帯びていて、物体の形をとっていて、配列するたびに大きな絵になっていき、その絵の端がどこにあるのかわからないままに目を泳がせていくと、(ここが仰天すべきところだが)全く見たことも聞いたこともない世界が出来上がっていてなおかつ蠢いていていつのまにか僕自身もそこにいるようで、しかもその世界は言葉で作られている詩なのだとハッと気づきなおす不思議な体験。
詩(だけではなくあらゆる文章)を読んでこんな体感をするのははじめてのことだったし、他に近しいものはあるかと考えれば、それは音楽(歌詞のない演奏だけの)を聴くときの感動にとても似ている。特にオーケストラの大規模な楽器編成による管弦楽曲。一つ一つの楽器の奏でるメロディやリズムが次第に全体を繋ぎ一つの巨大な物語を音で綴り、聴く者の時間を完全に奪ってしまうあの異次元的な体験。
実際小笠原鳥類の書く詩は、詩的技法としての様々な喩法を駆使して表現を完成させているというよりも(あるいはそういった技法分析をしてみるよりも)、作曲技法である音列の変形や対位法などをあてはめた方がしっくりするような気もしてしまう。小笠原鳥類の詩には一切の比喩はないのではなかろうかとさえ僕は思っている。際立つ異能さは、瞬間にクリーチャーを生み出す創造力とそれらへの緻密な観察力だ。
小笠原鳥類の書く詩はまるで音楽のようだ、と言ってしまうと少々月並みであざといキャッチになってしまうのでここでは、「小笠原鳥類の詩は音楽までも楽しめてしまう」、とでも言い切っておこう。畏敬の念をこめて。
哺乳類鳥類の魚眼的鳥瞰(楽器付き)の詩。
特に好きな詩の部分を以下に少しだけ。いずれも詩集『素晴らしい海岸生物の観察』から。
打楽器が聞こえるああああ打楽器が聞こえる。時々怪物も撮影される
ポメラニアンのような粉のような、崩壊する崩壊しない緊張のコリー、
犬オリンピック。磨かれた置かれたたけのこのように白い季節の味覚
が小魚。歯応えは食べる。ベクトル動物ゼリー粘菌・集合する城は木
材のような怪物。水槽表面は粘膜に覆われデザート・ふるえる虹色ゼ
リー。ひっひっ、食べると舌の上で白いお菓子、動くアルピノチョコ
レート白、プラスティック・蠟・犬・見える。泳いでいる犬。犬のふ
るえる舌の菓子。手足が動く妖怪おかしい、白い洗う冷えた。エディ
アカラ霊媒。水面でひねる平坦な図形は肉ペースト。虹色に乱反射こ
むぎこ。天井ももちろん覆われ、時折したたってくる混合動物のブイ
ヤベース。カラシン。人体ペースト、すりつぶして塗る。湿地の泥は
酢・酢酸につけて人、緑色の、時折、緑色に塗られた床に人も塗られ
て、熟成されたおさかなシルバー銀色皮膚、ふわふわ塩味クッキー。
魚醤・攪拌、調味料を置いた。塗ったのだ、浮かぶサッカー・ゲーム
靴も動く海老の甲殻が見え、破片・緑色の冷たい、冷えた雪は調味料。
甲殻は甲殻の菓子が置かれた。魚は化石になる透明にくねくね浮かん
で中味は色彩。貝殻は化石化以前・魚調味料保存。緑色ペンキ状アク
リル緑色色彩のある味覚の雪。腐敗水族館の空気を呼吸し、味覚を楽
しむ遊んだ、期待の金属の。何にでも使える水槽。完全水槽だったと
いう、結晶クリスタル、さまざまに並ぶ深海魚の深海の底。泥は水に
溶けて泳げる。腐敗水族館の中で行進する行進する。
{「腐敗水族館」より}
ああ、音楽が立ち上がってくる。一枚の絵が蠢きながら描かれていく。この疾走する展開。創られる風景の速さ。自ら指揮台に立ちタクトを振ると様々な物体が音響を携え、シンフォニーのクライマックスに向かう。
動物は人間にはできない動きをすることがある。このよ
うな関節の数、
このような関節の、軟らかい液体の種類
(「このような犬が」より)
この愉快で奇妙な情景はきっとクラリネットとピッコロの掛け合い。
そこにある、温かく明るく青い脳油に
包まれた一冊の書物、優しい歌、水の
すすぎご、波、虹色脳油、ながれ・・・・耳を
澄まさなければならない、私は脳油に
含まれる物語を書かなければならない、
死鯨の砕けた頭から流れ出した脳油が
歌となり、言葉となって全海水を温めている、
冬でも凍らない奇跡、その物語を・・・・
(「虹色脳油、ながれ」より)
ファゴットが悲しい旋律を奏でて、美しく静かに閉じていく。
(了)
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