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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡ひろこ『柔らかい檻』

2022-10-10 18:30:02 | 詩集

 

渡ひろこ『柔らかい檻』(竹林館、2022年08月15日発行)

 詩集を読みながら、この詩の感想を書こうと思い、付箋を挟んでおく。私はたいてい付箋だけではなく、メモを書き残すのだが、渡ひろこ『柔らかい檻』にはメモがない。付箋だけがある。「迎え火」「シンクロニシティ」「忘却」。「迎え火」は56ページ、つまり途中に付箋が挟んである。何を書きたかったのだろうか。思い出せない。

ふとお供えを見やると
ついさっきなみなみと淹れたばかりのお茶が
湯呑み茶碗半分にまで減っている
茶碗のふち一杯だったのに…

「嗚呼、きっと会いに来てくれたんだね」
大好きだった玄米茶
湯気をそっと啜っていったのだろう
知らぬ間に痕跡を残していった母
名残惜しいのか 送り火はなかなか点かなかった

 いま思うのは、「名残惜しいのか 送り火はなかなか点かなかった」という行のなかにある、「主語の交錯」である。名残惜しいのは、だれ? 母? それとも作者? 「送り火」をつけるのは作者である。そうであるなら、「名残惜しい」の主語はやはり作者であるのか。まだまだ帰ってほしくない。ここにいてほしい。しかし、ふつうは黄泉の国から帰って来た母が、この世が名残惜しくてなかなか帰れない、のだと思う。その母の気持ちと、作者の気持ちが交錯する。「文体が乱れる」というと言い過ぎなのかもしれないが、このちょっとわからない部分、正確に読もうとすると、何が正確か断定することがむずかしい部分、こういうところが、私は好きだ。
 ちょっと、作者になった気持ちになる。
 書くというとは、何から何までわかって書くわけではない。書きながら、何かを発見し、あ、これを書きたいと思ったとき、いままで書いていたことをふと忘れ、飛躍するような瞬間がある。それが、読んでいて、あ、ここだな、と感じる。そういうことば。
 だから、というと変だけれど。

今年も母を乗せた灯籠が
小名木川をゆっくり流れていく
堪えきれない想いがはらはらと落ちて
水面に小さな波紋を描いては消えていった

 堪えきれずに落とした涙が川面に波紋をつくり、消えていく。美しいね。でも、それは美しすぎるというか、美しさがわかりすぎてしまって、何か「ゆらぎ」がないのが、妙に残念な気がするのだ。
 「シンクロニシティ」は

私も思わず柩の花を掬ったが、手を差し入れても奥行きが深く底に届かない。
掻き混ぜても花びらが舞い散るだけで、亡骸は何処にもなかった。

 夢の描写なのだが、柩の底まで手を入れる。さらに掻き混ぜる。この動作(肉体の動き)が、とても不気味である。夢のなかでしかできないことだろう。少なくとも、私は、現実にはそういうことはしないなあ。だからこそ、この「手を差し入れても奥行きが深く底に届かない。/掻き混ぜて」という手の動きが鮮明に迫ってくる。
 夢のつづきで言うなら、私は、そこで目が覚めるだろう。
 でも渡は、そこでは目を覚まさない。そのことが、忘れられなくて、たぶん付箋を挟んだのだと思う。
 「忘却」は「秘め事」を隠しておく詩である。

いつの日か発掘され
真っ二つに割れたなら
右は曖昧な手のひらに
左は寡黙な唇に

 この「手のひら」と「唇」の対比がいいなあ、実際にあったんだろうなあ、と思う。つまり、手のひらが曖昧に動き、そのとき唇は声を出さずに、手のひらの動きのつづきを待っている。それが「秘め事」。そのあとにつづいて起きたことよりも、と私は思う。エロチックな、はじまりの一瞬。それから先は、まあ、たいてい同じだからね。

 

 

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三木清「人生論ノート」

2022-10-09 23:01:25 | 考える日記

「人間の条件について」(前半、254-257ページ)
本文を読む前に、まず「人間の条件」とはなにか、を考える。
人間に必要なもの。「いのち」。これがないと人間ではない。「いのち」の反対のものは「死」。

そのうえで、まず一行目に出てくる「集中」について考える。
「集中」とはどういこと? どういうときに「集中」ということばをつかうか。ここから「集める」が出てくるのだが、「集めて、何をする? 何のために集める?」ここから「形成する」も出てくる。それは「関係をつくる」ということ。
その反対は? 「ばらばら」「つながりがない」(関係がない)。ここから「分解」「要素」ということばが関係してくる。(分解、要素は「関係がある」)

似たことばと、反対のことば。
そのなかで、いちばんむずかしいのは一回しか出てこないことば。
何かを形成する、何かと何かを関係づけて、ひとつのものにする。そのとき大切なのは?
三木清は「秩序」ということばをつかっている。
これを探し出せるかどうか。

私といっしょに三木清を読んでいるイタリアの高校生は、これが、できた。
いやあ、びっくりした。
何かを集めて、形をつくる(形成する)、つまり、ものとものとの関係をつくる。しかし、関係自体は、どういうときでも「できる」。できてしまう。
たとえば、スニーカーの上にチョコレートを置き、そのうえにキャベツを置く。これは「現代芸術」なら表現としてありうるかもしれないが、日常では「ばらばら」(でたらめ)。だから、、、、「ばらばら」「でたらめ」にならないために、何かが必要。「区別」が必要。靴は「履物」であり、「食べ物」ではない、チョコレートと野菜は「食べ物」だけれど、ひとつは加工品、ひとつは加工されていない。で、こういう「区別」をほかのことばで言えるか。
「秩序」ということばを三木清はつかっている。「関係」がうまく「形成」されるためには「秩序」が必要である。

「秩序」さえあればいいのか、というと、これはまた別の問題だが。
それにしても、キーワードのひとつとして「秩序」を、この文章のなかから見つけ出し、それを全体と関連づけることができるというのは、たいへんな能力だと思う。

しかし、三木清の文章はおもしろいねえ。
書き出しの「どんな方法でもよい、自己を集中しようとすればするほど、私は自己が何かの上に浮いているように感じる。」わかります?  「浮いている」? この「比喩」めいた表現はいったいなんなのか。書き出しだけに、すぐには意味がわからない。
これがしばらくすると「海」と「泡沫」の関係として語られ、その「海」と「泡沫」は次の段落で「無数のもの」と「要素」と言い直される。「泡沫」は海の一部(要素)であり、海がなければ泡沫はないが、泡沫がなければ海もない。その「泡沫」としての人間。それが「浮いている」のなかに隠れている。人間は泡沫のようなものだ、という比喩だね。それが書き出しにもどってくる。

この「往復」のなかに、

「生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。虚無を掻き集めて形作られたものは虚無ではない。虚無と人間とは死と生のように異なっている。しかし虚無は人間の条件である。」

こういうかっこいい文章が出てくる。ここでの「虚無」を「死」と読み替えると、三木清が「死について」で書いていたことが、くっきりとよみがえってくる。
こういうときの「興奮」、覚えていますか? 昔読んだことが、突然、「いま」を支えてくれる。わからなかったものが(わかったつもりになっていたことが)、より鮮明にわかるようになる。その喜び。
こういうことは、私は、イタリアの青年(少年と言ってもいいかもしれない)といっしょに楽しんでいる。
自分が若がえっていくのがわかる。

私は、本のなかの活字よりも、書き込みの方が多いんじゃないかと思うくらい書き込みをする。書き込みをすることで、ことばを整理するのだが、イタリアの青年は、書き込みなしでこれをやってしまう。いつか、私の方が、彼から日本語を習うときがくるかもしれない。 

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇209)Obra, Laura Iniesta

2022-10-09 14:56:03 | estoy loco por espana

obra de Laura Iniesta, Mixed media on paper, private collection.

¿Es esta obra de Laura uno cuadro o dos cuadros?
Por supuesto, dos cuadros son un conjunto, pero ¿por qué Laura no los pintó en un palel desde el principio?

Me gusta pensar en ello de esta manera. Me siento así.
Laura pintó primero el cuadro de la izquierda. Pero durante el proceso de pintura, quiso ampliar el mundo más a la derecha.
Y no es tanto "un deseo de visual" como de "un deseo de físico". La mano que dibuja, el cuerpo, ellos desean pintar más, hacia más el lado derecho. Laura no puede controlar la fuerza y la energía de la mano que sostiene el pincel para pintura.  Lo "físico" traiciona lo "visual". El "movimiento físico" tiene prioridad sobre la "visión". Lo que siento en la obra de Laura es el poder del deseo del cuerpo de pintar.

Este cuadro ya ha desbordado dos hojas de papel. Un tercer mundo está esperando a ser dibujado encima del cuadro de la derecha.

Laura no puede dejar de dibujar. Sus cuadros serán cada vez más grandes.
Esto se transmite a través de esta foto, pero será aún más claro cuando realmente, podria saber, me enfrente al cuadro. 
¿Cuándo podré ver la obra de Laura con mis propios ojos?


このLauraの作品は、1枚なのか、2枚なのか。
もちろん2枚で一組の絵なのだが、では、Lauraは、なぜ最初から一続きの絵として描かなかったのか。

私は、こう考えたいのだ。私は、こう感じているのだ。
Lauraは最初左の絵を描いた。しかし、描いている途中で右側にもっと世界を広げたくなった。
そして、それは「視覚」の世界というよりも、「肉体の運動」の世界である。描いている手が、からだが、右側にはみだしていく。絵筆を持った手の力、エネルギーを抑制できない。「肉体」が「視覚」を裏切る。「肉体の運動」が「視覚」よりも優先する。
Lauraの作品から私が感じるのは、その描きたいという肉体の力だ。
それは、この絵をすでにはみだしている。次の作品へとつながっている。

Lauraは描くことをやめられないのだ。彼女の絵は、どんどん巨大になっていくだろう。それは写真を通してからも伝わるが、実際に、絵に直面するともっとはっきりするだろう。つまり、私は圧倒されてしまうだろう。
いつ、私自身の目でLauraの作品を見ることができるだろうか。

 

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「詩はどこにあるか」オンライン講座

2022-10-08 23:25:29 | 現代詩講座

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谷元益男『越冬する馬』

2022-10-08 16:22:43 | 詩集

 

谷元益男『越冬する馬』(思潮社、2022年09月01日発行)

 谷元益男『越冬する馬』のなかの「種子」。

芽を出すはずの
種子は
鍬を肩にした農夫に
踵で踏まれ
踏まれている胚芽は
土に隠れ 根を深く鎮めて
蛇のように うずくまる

種子は土で眠ることだけを
願っている
土の塊が闇と同じ重さとなり
皮に亀裂がはしるとき
わずかに のびる殻の先が
空の把手に手をかける

 どこからかこぼれた種子が、踏まれながらも、やがて芽を出す。「土の塊が闇と同じ重さになり」は思考をじっくりと動かす。まるで、「種子」になった気持ちになる。「わずかに のびる殻の先が/空の把手に手をかける」は芽生えの美しさを描いていて、鮮烈である。
 そうはわかっても、私は、この世界にすんなりとは入っていけない。一連目の「鍬を肩にした農夫」ということばにつまずいたままだ。いま、こういう農夫を見ることはむずかしい。「肩にした」には、実際に鍬を担いだことがある人だけがよせることのできる思いがある。そう理解すれば、なおのこと、そう思う。
 農夫自体がこぼれた種子、踏みつけられる種子である。そうであるなら、こぼれた種子、芽を出した種子は、この農夫でもある。
 だから、詩は、こうつづいていく。

水にうたれ
一斉に吹き出る芽
黒い水面から 顔を上げると
遠くの硬い手が
振り子のように 騒いでいる
播かれなくても
のびるしかないのだ

 「遠くの硬い手」が、この段階では何の「比喩」なのかわかりかねるが、種子が延ばす手(二連目)があるなら、種子があたらしい種子をつけるとき、そこに延ばされる「手」もある、ということである。しかし、それは「遠い」し、「硬い」。
 この連を、つまりふいに書かれる「遠くの硬い手」を起点にして、詩の世界は反転する。

ひとつの季節が終わると
次の時期に向かい
ひかりを帯びたものだけが生き続ける
木々は切り倒されて死ぬが
種子は あるとき地面に
陰が長くなる陽炎な日に
飛び下りる

死んだ農夫の
手には 種子が固く握られ
掘り起こした土のにおいが 辺りに
静かに広がった
やがて 種子は激しく打ち付けられる雨に
流されていった

殻を破れないものは
はじめて自分が種であったことに
気付くのだ

 種子ではなく、これは種子と共に生きた農夫のことを描いていることがわかる。そして、種子は生き続けることができるかもしれないが、農夫はそうではないことがわかる。農夫の子は、かならずしも農夫になるわけではない。農夫は「種」(谷元は最後に「種子」ではなく「種」と書いている)として生きたのである。そうわかったとき、「種子/種」と「農夫」が入れ替え可能な「比喩」となって詩のなかを動いていることがわかる。
 と、書いて。
 私は、どうしても、つまずいてましまう。この「農夫」を私は捨ててきた。それは「種子/種」を捨ててきたということである。私は鍬を担いだこともあるし、鍬で畑や田んぼを耕したこともある。それは、私の周辺では、ごくあたりまえの生活であった。私はとても病弱な子供時代を過ごしたが、病弱だからといって、そういう仕事をしないでいいわけではなかった。(鍬で田畑を耕す仕事は、「毎日」あるわけではないのだから。)そして、こういう暮らしを捨てたのは、私だけではなかった。日本中が、それを捨てた。その「証拠」を私は、私の故郷に見ることができる。集落の戸数は半分に減り、暮らしている人は何分の一に減ったのか、もうわからない。五分の一以下に減っているはずである。そして、そこに残された人は、この詩のなかに書かれている「農夫」のように、倒れ、死んでいくしかない。あと二十年すれば、私の住んでいた集落に人はいなくなるに違いない。私の家の前には、原発事故にそなえてつくられた道路だけがつづいている。だれも通らないのに、その事故の日に備えて、道は整備され続ける。
 この時代に、「種子/農夫」の悲しみを、悲しい記憶としてだけ残すということを「意味」を私はつかむことができない。共感できない。谷元は、「怒り」を感じないのか。私は、すでに私自身の集落(故郷)を捨ててしまった人間だが、どうしても「怒り」を覚えてしまう。それは「捨てる」ものに対する「怒り」であると同時に、それは「捨てられる」のではなく、古い自己を「捨ててしまわない」人間に対する「怒り」でもある。私のなかには「矛盾」があり、そのために、何もなかったかのようにして、「詩に感動した」とは書けないのである。
 谷元は、いったい、だれに向けて、この詩を書いているのだろうか。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇208)Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes

2022-10-07 21:09:40 | estoy loco por espana

obra de Jose Manuel Belmonte Cortes

¿Por qué me atrae el relieve de Belmonte?
La razón es sencilla. Porque hay una mentira en relieve.
Me gustaría decir "mentira", aunque "mentira" es un término equivocado.
La "verdad" que corresponde a esta "mentira" es, en el caso de Belmonte, una "escultura de tamaño natural". Tamaño natural" significa "verdad".
Por supuesto, hay una "mentira" en "tamaño natural". En la obra con Luis como modelo, el hombre parece tener "demencia". Pero no tiene demencia. Así que ahí también hay una "mentira".
No sé el nombre de la modelo para el relieve, pero sé el "papel" (mentira) que interpreta. Ella es Eva. Y su "cuerpo" lleva la "mentira" de no ser de tamaño natural al mismo tiempo, pero a nadie le importa esa "mentira". A nadie le importa que "no sea de tamaño natural (no es realmente tridimensional)".
¿Qué es una "mentira" para el arte? ¿Qué es "verdad"?
El trabajo de Belmonte es aparentemente "real". Así que, cuando me pongo a pensar en esta cuestión, me quedo atascado  en un laberinto.


なぜ、レリーフに魅せられるか。
理由は簡単だ。そこには「ウソ」があるからだ。
「ウソ」というと語弊があるが、私は「ウソ」と言いたい。
この「ウソ」に対応する「ほんとう」は、ベルモンテの場合、「等身大の彫刻」である。「等身大」が「ほんとう」ということ。
もちろん「等身大」にも「ウソ」はある。それは「大きさ」が「ほんとう」というだけで、その訴えかけてくるものは「肉体の正確な大きさ」ではなく、「肉体がもっている精神」である。Luisをモデルにした作品では、男が「認知症」に見える。だが、彼は「認知症」ではない。だから、そこにも「ウソ」がある。
レリーフのモデルの名前は知らないが、彼女が演じている「役(ウソ)」ならわかる。イブである。そして、彼女の「肉体」は「実物大ではない」という「ウソ」を同時に抱え込んでいるのだが、その「ウソ」を気にする人はいない。「等身大ではない(ほんとうの立体ではない)」を気にする人はいない。
芸術にとって、「ウソ」とはなにか。「ほんとう」とはなにか。
ベルモンテの作品は、見かけが「リアル」であるだけに、この問題を考え始めると、迷路にはまり込む。

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Estoy loco por espana(番外篇207)Obra, Eduardo Honrubia

2022-10-07 18:09:36 | estoy loco por espana

obra de Eduardo Honrubia


El crepúsculo, o las llanuras de España.
El uso del verde es muy impresionante.
Los colores del cielo se reflejan en la tierra.
La tierra refleja los colores del cielo, al igual que el mar refleja el cielo.
Es como si los colores del cielo impregnaran el aire transparente del suelo.
No es que la tierra refleje el cielo, sino que el aire se tiñe del color del cielo.
Los colores cambian alrededor de los verdes olivos, arraigados en la tierra.
¿El agua exhalada por las aceitunas (el agua de la tierra) induce el cambio?
Esta fluctuación de color es hermosa.
El cielo de la imagen es de un solo color en este momento, pero probablemente cambiará en unos minutos para reflejar los colores cambiantes de la tierra.
Siento un misterioso intercambio entre el cielo, la tierra y el aire entre ellos.
El verdor lo está moviendo.
El verde con negro (o quizás un verde que se niega a ser blanco) sugiere la noche tranquila que pronto llegará.

 
夕暮れの、スペインの平原か。
緑の使い方がとても印象的だ。
空の色が大地に映っている。
まるで海が空を映すように、大地が空の色を映している。
地上の透明な空気に、空の色が浸透しているかのようだ。
大地が空を映しているのではなく、空気が空の色に染まっているのだ。
大地に根を張るオリーブの緑のまわりでは、色が変化する。
オリーブの吐き出す水分(大地のなかの水分)が、変化を誘うのか。
この色の揺らぎが美しい。
描かれた空はいまは一色だが、やがて大地の色の変化を映すように、これから変わっていくのだろう。
空と大地、間にある空気の不思議な交流を感じる。
それを緑が動かしている。
黒を含んだ緑(白を拒んだ緑かもしれない)が、やがてくる静かな夜を暗示している。

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Estoy loco por espana(番外篇206)Obra, Joaquín Llorens

2022-10-07 12:05:21 | estoy loco por espana

obra de Joaquín Llorens.@Centro Cultural La Asunción de Albacete 

Oh, Ola!

Nacido de un océano gigante
Creciendo hacia el cielo gigante

Oh, Ola!

Lo que pertenece al mar apoya desde abajo
Lo que está en el aire, tira desde arriba

Oh, Ola!

Se divide en dos y vuelve a uno
Vuelve a uno y se divide en dos

Oh, Ola!

Una danza interminable
El poder arde como el sol

Oh, Ola!


おお波

巨大な海の中からあらわれ
巨大な空を目指してのびあがる

おお波

海に属するものは下から支え
宙にあるものは上から引っ張る

おお波

二つに分かれ、ひとつに戻る
ひとつにもどり、二つに分かれる

おお波

終わりのないダンス
太陽のように沸騰する

おお波

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鍋島幹夫『帰りたい庭』

2022-10-06 21:09:35 | 詩集

鍋島幹夫『帰りたい庭』(書肆侃侃房、2022年07月20日発行)

 鍋島幹夫『帰りたい庭』は遺稿詩集。
 私は鍋島幹夫に二度会ったことがある。最初は「nobady あるいは浮かぶ人」という作品のなかに出てくる柴田基孝が、まだ柴田基典だったころ、柴田が引き合わせてくれた。大濠公園にあるレストランで昼食を食べながら、であった。「ここのパンはうまいんだ」と柴田がいい、三人とも(個別にだが)パンを選んだ。しかし、なぜか、鍋島にはご飯(ライス)が出てきた。このとき鍋島は、黙ってご飯を食べた。「パンがうまいのに」と柴田は、もう一度言った。「私もパンを注文しました」とウェイターに一言言えば交換してくれるのに、それをしない。とても静かな人だった。それしか私は覚えていない。それ以外、何を話したか、私は何も覚えていない。私は、なぜか奇妙なことだけを覚えている人間なのかもしれない。二度目は、どこで会ったのか、だれが一緒にいたのか、まったくわからない。
 なぜ、こんなことを書いたかというと。
 「帰りたい庭」に、こんな行がある。

子供たちの顔の上をすべっていく
草色の雲
この解像途中の あるいは 接続をやめた残像 みたいなものは
回線の向こう岸に見る 村々や校舎への 敵意のなごりだ

 これは鍋島の意識かというと、そうとは言い切れない。すぐ「という人もいるが/それはちがうと思います」という行がつづくからだが、逆に、否定の形で印象づけようとしているとも言える。「意味」は、いつでも自由に変更できるものだからである。
 私が、この部分を引いたのは、そこに「解像(途中)」「接続(をやめた残像)」ということばがあるからだ。
 あらゆる現実は、ひとそれぞれの「意味」に従って「解像」される。そして、その「解像」というのは、何と「接続」するかによって違ってくる。鍋島は、そういうことを考えていたし、そういう「ことばの操作」を詩と考えていたのだと感じるからだ。
 これは柴田のことばの運動にも似ているが、ただ「解像」も「接続」も、ことばの選択は違うね。
 脱線したが「接続」は「切断」と切っても切れない関係にある。何かと接続するときは、他方でそれまでの接続を切断しないとできないときがあるからだ。その「切断」は「食卓」のなかで、こうつかわれている。
             
葉っぱ一枚で 世界はさえぎることができる
しかし 葉の裏に描かれた夏の回路は
ことごとく 切断されるであろう

 ここには、同時に「回線」(「nobady」)に通じる「回路」ということばがある。「回路」は何かと何かを「接続」ものである。「接続」することで「解像」が進む。したがって、「解像」への「回路」に「接続」できなかったものは、「残像」として「切断(接続をやめた)」ものの先に取り残される。(なくなりはしない。きっと「解像」のための「現像液」のようなものだろう。)
 「解像」は「ジャガイモ畑を越えて」にあらわれる。

見渡すかぎり乾いた土--解像度は良好。

 しかし、これは、唐突でわかりにくいね。だから、鍋島は、二連目でこう言い直している。

蛍光色に光る目の中を、ネズミに追われて方向を変え、畑を越え、葉
裏沿いにのびていく一本の道。急に立ちはだかる陽炎の三叉路で、淡
色の枠に囲まれた謎が解かれる。

 「謎を解く」。これが「解像する」ということにつながる。
 すべてのことばは、切断と接続を繰り返し、あたらしいことばの回路をつくることで、そこに新しい世界像を浮かび上がらせる。謎に満ちた世界を、「解像する」。
 では。
 その「解像された世界」(解像)は、わかりやすいか。そうとは言えない。何かがわかるが、同時に何かがわからないものとして残る。残像にも、深い「意味」がある。
 「雪玉ともち」は、このことを「童話」めいた「寓話」として語っているが、ちょっと「意味」が強すぎるかもしれない。
 「犀を見た日」を引いておく。この詩集のなかでは、私はこの詩がいちばん好きだ。

白い山が動いた
砂の柱が歩いた
動けなかった
夏の日の正午
だれもいない檻の前で

母の乳房がかたい
祖母が揉みしだく
動けなかった
夏の日の昼下がり
女だけの家の中

熱い乳を捨てに行く
乳は谷を白く染めた
じっと見ていた
熱い熱い夏の日
水の中を動く犀

 「解像」されたのは「犀」か。それとも「母の乳房」か。「残像」はどれか。谷を染めて流れる白い乳の柱か。「夏の日の正午」は「夏の日の昼下がり」へ、さらに「熱い熱い夏の日」と「回路」の描写を変えていく。
 パンではなく、ご飯を食べた鍋島(これは残像か)を思い出すように、何年かたって、私が思い出すことばは、いったいどれだろうと想像してみる。

 

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Estoy loco por espana(番外篇205)Obra, Javier Messia

2022-10-06 10:24:39 | estoy loco por espana

obra de Javier Messia "lapsus"

La luna se ha puesto en el mar.
La luz de la luna permanece sobre el mar.

Me has dejado.
En mi cuerpo, tu deseo permanece.

La memoria es cruel.
La memoria es amable.

La luna está en el mar, pero el mar busca la luna.
Tú estás en mí, pero yo te busco.

月は海に沈んだ。
海の上には、月の光が残っている。

君は、私から去って行った。
私の肉体には、君の欲望が残っている。

記憶は残酷だ。
記憶はやさしい。

海のなかに月があるのに、海は月を探している。
私の中に君がいるのに、私は君を探している。

*

El "lapsus" de Javier.
Es difícil de distinguir en la foto, pero creo que el cuadrado dorado es convexo. (Analogía de otras obras).
Esas plazas son ligeramente diferentes. Hay cuatro filas una al lado de la otra, pero son ligeramente diferentes cuando se comparan la parte superior y la inferior, o la izquierda y la derecha.
Me gustaría llamar a esto una "gradación de formas".
Esto se combina con la gradación del color del azul profundo.
La rareza en este punto es interesante.
El centro del gradiente del azul tiene luz.
Al contrario, la gradación del pan de oro es brillante en la izquierda, la derecha y la parte superior. Y, el centro y la inferior carecen de claridad de forma y color.
Cuando veo estos cambios (gradaciones), ¿en qué me baso?
¿El color más oscuro o más brillante del azul? ¿El color claro u oscuro del oro? ¿O el cambio de forma?
Hay cosas que intentan mantener su existencia actual, y hay cosas que intentan abandonar su existencia actual y cambiar.
Este movimiento, lo me parece hermoso. Siento que quiero verlo cada vez más.
Lo que acabo de escribir sigue siendo conceptual. Cuando este concepto cambie de forma y encuentre otra palabra que no sea "bello", será el momento en el que pueda decir que realmente he encontrado esta obra.
No basta con ver la foto, verla por internet. Las palabras no se convertirán en ideas a menos que vea realmente esta obra con mis propios ojos.
Me gustaría ir a ver esta obra.


Javierの「lapsus」。
写真ではわかりにくいが、金箔を張った四角の部分は、凸になっていると思う。(他の作品からの類推)
その四角は、少しずつ違う。横に四列並んでいるが、上下を比較してみても、左右を比較してみても、微妙に違う。
これを「形のグラデーション」と呼んでみたい。
これに群青の色のグラデーションが組み合わされる。
このときの変かがおもしろい。
群青のグラデーションは中央が明るい。
金箔のグラデーションは、左右と上部は明るい。しかし、中央と下部は形も色も明瞭さを欠いている。
この変化(グラデーション)を見るとき、私は何を基準にしているのか。
群青の暗い色か、明るい色か。金色の明るい色か、暗い色か。あるいは形の変化か。
いまの存在を維持しようとするものと、いまの存在を捨てて変化していこうとするものがある。
この動きを、私は、美しいと感じる。もっともっと見ていたいと感じる。
いま私が書いたことは、まだまだ概念的だ。この概念が姿をかえ、「美しい」という以外のことばに出会ったとき、それがこの作品と本当に出会ったと言えるときだろう。
それは写真ではダメだ。やはり、実際に、この作品を肉眼で見ないかぎり、ことばは思想に変わらない。
ぜひ、見に行きたい作品だ。

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Estoy loco por espana(番外篇205)Obra, Luciano González Diaz

2022-10-05 08:33:55 | estoy loco por espana

obra de Luciano González Diaz "La rueda de la vida"

¿Qué hará este hombre ahora?
No puedo dejar de pensar en ello, porque no hay camino delante del hombre.
Si ahora pisa con el pie izquierdo, se caerá. Y el círculo comenzará a girar. ¿Se aferrará el hombre al borde del círculo?
Cuando vi esta obra en vídeo, me sentí ansiedad. Pero ahora no .
El hombre pone el palo que sostiene bajo su pie. Camina hacia delante, utilizando el palo como puente. Puedo ver su figura.
El reflejo de la luz en la parte superior del círculo, arriba a la izquierda, está guiando al hombre como la esperanza.
El cuerpo flexible del hombre, sus gruesas piernas y sus torneadas nalgas demuestran su confianza. Lleva ya muchos tiempos caminando. Confianza en que puede seguir caminando.

¿Qué debo elegir entre un mundo de cosas mezcladas?
Hoy, Luciano me ha enseñado a elegir la esperanza.
"Usa lo que tengas. Entonces se abrirá el camino". Me dice Luciano.

この男は、これからどうするのだろう。
考えてしまうのは、男の前に道がないからだ。
いま左足を踏み降ろせば、男は転落するだろう。そして、円は回転を始めるだろう。男は円の縁にしがみつくだろうか。
ビデオでこの作品を見たとき、私は不安になった。しかし、いま、私は不安を感じない。
男はもっている棒を足の下に置く。棒を橋にして前へ歩いていく。その姿が見える。
円の上部、左上の光の反射が、希望のように男を導いている。
男のしなやかな身体、太い足、そして形のいい尻には、男の自信が感じられる。これまでも歩いてきた。これからも歩いていくことができる、という自信だ。

いろいろなものが混在する世界から、私は何を選ぶべきか。
きょう、私は希望を選べとLucianoから教えられた。
「自分がもっているものを、なんでも使え。そうすれば道は切り開かれる。」Lucianoは、そう言っている。

 

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岸田の所信表明演説

2022-10-04 20:41:10 | 考える日記

 ほんとうは、別のこと(物価高)について書きたかったのだが、そのことについて書くために岸田の所信表明演説を読んで、びっくりした。読売新聞(2022年10月04日、14版、西部版、3面)によると、
↓↓↓
 首相は就任後、3回行った国会演説では、過去の例に倣い、勝海舟やジョン・F・ケネディ元米大統領らの言葉を引用した。政府関係者によると、今回も先人の言葉を引いて「国難」を乗り越える思いを示す案が浮上していたが、「ただ愚直に仕事に打ち込む姿勢を打ち出した方が危機感が伝わる」との判断から最終的に外したという。
↑↑↑
 ということで、とても短くなっている。短くなったのはいいのだが、これはねえ、単に岸田のゴーストライターが「手抜き」をした、ゴーストライターさえも岸田から離れ始めているということじゃないのかなあ。だれかのことばを引用するには、そのことばを読んでいる必要があるが、岸田がほんとうに先人のことばを読んでいるとは思えない。「聞く力」というが、岸田はもともと「聞く力」などもっていない。他人のことばの「読み方」を知らない。
 それは、所信表明演説を読むだけでわかる。この所信表明演説もだれかが書いたものだが、それを読んで「このままではわからない」(順序を変えないといけない)という判断もできずに、岸田はそのまま読んでいる。
 そのことを指摘しておく。読売新聞の「章立て」にしたがって紹介すると、①はじめに②政治姿勢③経済政策④新型コロナ、という具合につづいていく。私が注目しようとした経済政策(物価対策)は、①物価高・円安対応②構造的な賃上げ③成長のための投資と改革と三つにわけて対策が発表されている。この③の部分に、岸田の「理解力のなさ」があらわれている。
 ここから、突然「カタカナ」が増える。まず、こう書いている。
↓↓↓
社会課題を成長のエンジンへと転換し、持続的な成長を実現させる。この考えの下、科学技術・イノベーション(技術革新)、スタートアップ(新興企業)、GX、DXの4分野に重点を置いて、官民の投資を加速させます。
↑↑↑
 「カタカナ」が増えるのは、官僚の作文の特徴だが、「イノベーション」「スタートアップ」には「技術革新」「新興企業」と、日本語(?)で言い直されている。なんとなく、わかる。でも「GX」「DX」って、何? よほど経済政策に関するニュースを読んでいないとわからないだろう。「イノベーション」「スタートアップ」はなんとなく英語からも見当がつくが、「GX」「DX」って、なんなのさ。「カタカナ」でさえない。
 その説明は、あとに出てくる。
↓↓↓
 第三に、グリーントランスフォーメーション、GXへの投資です。
 年末に向け、経済・社会・産業の大変革である、GX推進のためのロードマップの検討を加速します。
↑↑↑
 最低限「GX=グリーントランスフォーメーション」であることは、最初に「GX」ということばを発したときに言っておかないと、なんと言ったかさえわからないひとがいるかもしれない。で、そのグリーントランスフォーメーションって、なんなのさ。
↓↓↓
 その中で、成長志向型カーボンプライシング、規制制度一体型の大胆な資金支援、トランジション・ファイナンス、アジア・ゼロエミッション共同体。これまで申し上げてきた政策イニシアチブを具体化していきます。
 同時に、GXの前提となる、エネルギー安定供給の確保については、ロシアの暴挙が引き起こしたエネルギー危機を踏まえ、原子力発電の問題に正面から取り組みます。
↑↑↑
 「カタカナ」だらけで、これまた、わからない。でも、きっと、だれにでも「エネルギー危機を踏まえ、原子力発電の問題に正面から取り組みます」はわかるな。原発を増やす、と言っている。原発を増やさなければならないということを言うために、カタカナでごまかしている。これが官僚の政策なのだが、エネルギー源に原発を活用すると言わずに、変なことばで、演説を聞いているひとをたぶらかしている。
 「そのことば、わかりません。説明してください」「わからないのは、おまえが勉強していないからだ。何も知らない人間は、だまって、知識のある人間(カタカナことばをつかえる人間)の言うことを聞け」
 これが官僚の「口癖」のようなものだが、岸田も「聞く力」を発揮して、それをそのまま受け入れ、「書かれた文章」をそのまま読んで、知ったかぶりをしている。
 岸田自身が自分で文章を書いたなら、少なくとも「GX=グリーントランスフォーメーション」は最初に言う。何のことかわからないから、「質問」もできず、そのまま読んでいるのだ。
 「DX」は、こうである。
↓↓↓
第四に、デジタルトランスフォーメーション、DXへの投資です。
↑↑↑
 そうか、Dはデジタルの略だったのか。それならそうで、これもやはり最初に言うべきだろう。いまどき「デジタル」ということばを知らない人間はたぶんいない。最初に「デジタル」ということばを出すだけで、演説を聞いていて、内容が推測できる。そういう「効果」を岸田は知らない。
 でも、つづきを読む(聞く)と、どうか。(途中にマイナンバーカード活用のくだりがある。原発とおなじように、じつは、これが目的か。)
↓↓↓
 また、メタバース、NFT(非代替性トークン)を活用したWeb3・0(ウェブスリー)サービスの利用拡大に向けた取り組みを進めます。
↑↑↑
 これは、いったいなんなのか。何の説明もないまま、
↓↓↓
 産業のコメと言われ、大きな経済効果、雇用創出が見込まれ、経済安全保障の要でもある半導体は、今後特に力を入れていく分野です。
↑↑↑
 と、突然、だれもがわかるようなことばで視点をずらす。
 ということは、と私は、再び読み返し、考える。
↓↓↓
 また、メタバース、NFT(非代替性トークン)を活用したWeb3・0(ウェブスリー)サービスの利用拡大に向けた取り組みを進めます。
↑↑↑
 ここには多くの人が疑問をもっている「マイナンバー」以上に危険なことが隠されている。それを知られたくないから、教えない。「えっ、そんなことも知らないの? 遅れてるなあ。わからなかったら、知っているひとの言う通りにすればいいんだよ」がここに隠されている。
 これから問題になる「デジタル化」の問題は「メタバース、NFT(非代替性トークン)を活用したWeb3・0(ウェブスリー)サービス」と、私は、私の文書を読んでいる人に「警告」しておく。私はこういうことばに疎いから、実際にどういうことがこれから起きるか想像できないが、とても危険なことが「メタバース、NFT(非代替性トークン)を活用したWeb3・0(ウェブスリー)サービス」としておこなわれる。それは「マイナンバーカード」どころの騒ぎではない。
 この問題は、岸田自身も理解していない。理解していて、それでなおかつ隠している、隠蔽している、とは思えない。岸田は、何度でも書くが、とても口の軽い男である。(私は口が軽いので有名だが、たぶん、私の比ではない。私から見てさえ、岸田は口が軽い、のだから。)
 で、その「口の軽さ」は、この所信表明演説にもあらわれている。つまり、わかりもしない「GX」「DX」を、そのまま知ったかぶりをして最初に言って、あとからカタカナで言い直しているところにね。少し慎重なら、「GX=グリーントランスフォーメーション」「DX=デジタルトランスフォーメーション」と言っておこう、と思うはずである。

 で、ついでに書いておくと、この所信表明演説を書いたのは「ひとり」ではない。複数の人間が手分けして書いた。問題の部分も「前文」
↓↓↓
社会課題を成長のエンジンへと転換し、持続的な成長を実現させる。この考えの下、科学技術・イノベーション(技術革新)、スタートアップ(新興企業)、GX、DXの4分野に重点を置いて、官民の投資を加速させます。
↑↑↑
 はだれか「経済対策」のリーダーが書き、「イノベーション」「スタートアップ」「GX」「DX」は別人に割り振ったのだ。だから、前後の統一性がなくなっているのだ。具体的に「GX」「DX」の部分を担当した人は「前文」を書いたひとの部下。だから、上司に対して「GX」「DX」の説明は、最初に言った方がいいのではないでしょうか、と提言もできない。そういうことも、この所信表明演説からは見えてくる。

 思想というか、考えていることは、単につかうことばだけではなく、そのことばのつかう順序(文脈構成)からもわかるものである。岸田がどういう人間であるか(彼の思想がいかに他人任せの借り物であるか)がよくわかる「所信表明演説」である。
 こんなことは国会では審議されない。だからこそ、書いておく。こういうことは、書かれている「内容(テーマ、意味)」以上に重要である。なんといっても「思想」の根本にかかわるからである。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇204)Obra, Laura Iniesta

2022-10-04 10:26:27 | estoy loco por espana

LAURA INIESTA in ART LONDON BATTERSEA ART FAIR,20-23 October

Cuando miro un cuadro, inevitablemente miro algo más que el "cuadro". Siento algo distinto de lo que se representa allí, algo distinto de lo que existe.
Por ejemplo, el trabajo de Laura. Este cuadro es probablemente una obra pequeña, pero parece que tiene más de tres metros de largo. ¿Por qué? Porque no siento que Laura esté pintando con las manos cuando pinta esta obra. Por supuesto, está sujetando el pincel con la mano. Pero no sólo mueve las manos. Siento que está pintando con todo su cuerpo.

Alain Delon practica la falsificación de firmas en "Full of Sunshine". Utiliza un proyector para que todo su cuerpo memorice los movimientos de sus brazos. Cuando las manos se mueven, las piernas y la espalda también se mueven. Cuando se copian los movimientos, las manos copian naturalmente la firma. Cada línea está relacionada con los movimientos de todo el cuerpo.

La fuerza y la vacilación de las líneas de Laura muestran el movimiento de todo su cuerpo. Aunque la mano esté ligeramente alterada, todo el cuerpo la corrige. Esta sensación de todo el cuerpo, la sensación de que el movimiento del propio cuerpo es el cuadro, hace que la obra parezca más grande.
Estoy seguro de que sus enormes cuadros son maravillosos. Creo que cuando pinta una obra de gran tamaño es cuando se abre todo su abanico de posibilidades.

絵を見るとき、私はどうしても「絵」以外のものを見てしまう。そこに描かれているもの、存在するもの以外のものを感じてしまう。
たとえばLauraの作品。この絵はたぶん小さい作品だと思うが、縦の長さが3メートルを超えている作品にも見える。なぜか。私は、この作品を描くとき、Lauraが手をつかって描いているようには感じないからだ。もちろん手で絵筆をつかんでいる。しかし、手だけを動かしているのではない。全身を動かして描いていると感じる。

アラン・ドロンが「太陽がいっぱい」のなかでサインの偽造の練習をする。そのときプロジェクターをつかって、腕の動きを全身に記憶させる。手が動くとき、足や背中も動いているのだ。その動きをコピーするとき、手は自然にサインをコピーする。どんな線も、全身の動きと関係する。

Lauraの線の強さ、ためらいのなさには、そうした全身の動きが感じられる。手が少し乱れても、全身がそれを修正する。その全身という感じ、肉体の運動そのものが絵になっているという感じが、作品を大きく見せる。
彼女には、きっと巨大な絵が似合う。彼女の力量が全開に開くのは、巨大な作品を描くときであると思う。

 

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三木清「人生論ノート」を読む(怒について)

2022-10-02 20:26:33 | その他(音楽、小説etc)

きょうは「怒について」を読んだ。

まず、どんな時に怒るか、という質問をしてウォーミングアップ。
「自分が否定されたとき」という返答があった。
それから「怒り」に似たことばに何があるか、反対のことばに何がある。
似たことばに「恨み」「憎しみ」、反対のことばに「仲直り」「愛」など。

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Estoy loco por espana(番外篇203)Obra, Joaquín Llorens

2022-10-02 09:21:13 | estoy loco por espana

Obra de Joaquín Llorens

La música siempre es audible en la obra de Joaquín.
Esta obra trata de la música en sí misma.
El hombre está acostado y tocando la trompeta.
El sonido de la trompeta se extiende. La forma en que se extiende no es en círculo, sino como si fuera una esfera. Poco a poco se irá haciendo más grande, envolviendo al hombre que toca la trompeta en una esfera, que luego se convertirá en un universo que abarcará este bosque y la tierra.
Junto con esa música, la luz cambie también. La luz, que empieza a inclinarse en otoño, se vuelve transparente al estirar las sombras de las cosas. Las sombras se alejan de la luz y  la ésta se vuelve aún más transparente.
La música favorece este movimientode la luz y las sombras.
La luz se hace transparente, la música se hace transparente, la soledad de un hombre se hace transparente.
En un día de otoño como éste, me gustaría tumbarme junto a este hombre en el bosque, usando las hojas muertas como cojín, y contemplar el cielo. Quería sentir el viento, sentir la luz cambiante y escuchar la música que resuena allí.

Joaquínの作品からはいつも音楽が聞こえる。
この作品は、音楽そのものをテーマにしている。
寝ころがってトランペットを吹いている。
その音が広がっていく。その広がり方は円を描くのではなく、球になるように広がっていく。それはだんだん大きくなり、トランペットを吹いている男を球の中に包み込み、さらにこの森を、地球を包む宇宙になるだろう。
その音楽と共に、私は、この作品では光の変化を楽しむ。秋の傾き始めた光が、影を伸ばしながら透明になっていく。光の中から影が押し出され、光がいっそう透明になる。
音楽は、その動きを促している。
透明になる光、透明になる音楽、透明になる男の孤独。
こんな秋の日、森の中で枯葉をクッションにして、この男の横に寝そべり、空を見つめてみたい。風を感じ、光の変化を感じ、そこに響いている音楽を聴きたくなる。

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