未知野道「いまからおもふと」、池井昌樹「あたし」「金色」(「森羅」10、2018年05月09日発行)
未知野道「いまからおもふと」もまた池井昌樹の作品だろう。
「まっくろ」と「よい」の組み合わせ、「よい」と「さけび」の組み合わせ、「あまくあまく」「ねつねつ」「たんたん」という音の繰り返しにも池井の嗜好(思考/指向)が伺える。
嗜好/思考/指向は、厳密には区別できない、ということを、別な角度から見直してみる。
「……ながら」ということばが繰り返される。
「……気がする」も繰り返される。「ゆめのなみだにひたっていたような気がする」は一行がそのまま繰り返されている。
「繰り返し」は何のためなのか。
書きたいことを離れないためである。ことばを動かす(書く)ということは、ことばの動きに従って、「肉体(自分)」そのものが動いていってしまうこと。自分が自分でなくなることを意味する。もちろん「動いた総体(軌跡)」を自分(肉体/思想)ととらえることもできるが、そうした場合、「思想」は自分のなかにある、自分だけのものということにもなる。
もちろんそれでかまわないのだけれど(というか、そう考えるのが一般的なのだと思うけれど)、池井は、それでは「満足」できない。
「思想(永遠)」というものは、自分にはない。どこか別なところにある。そしてその「永遠/思想」が自分を選んでくれている。選ばれた人間として、その思想(永遠)と向き合うのが詩人(池井)の「生き方(思想)」であるからだ。
こういう「姿勢」をあらわしているのが「……ながら」なのである。池井は「……」をする。それをしながら、自分ではないものの「存在(永遠)」をみつめつづける。みつめつづけることで、みつめられる。「……ながら」というのは、池井自身の「行動」を説明しいるのではない。複数の行動を「する」ということを明らかにするために「……ながら」と書いているのではなく、「……ながら」が可能なのは、それを許す「永遠」がどこかにあるからだ、というのである。
池井の側に「……ながら」があれば、他方「永遠」の方には「やら」「やら」「やら」がある。「夜空やら」「星星やら」「月やら」と、それは人間の制御をはなれた「永遠」である。
「……ながら」を繰り返し、その繰り返しのなかに、自分の「肉体」を超えるもの、超越的な「永遠」をひきこむためである。分散させながら引き込む。引き込みながら分散させる。「論理」を複合的につくりあげるというよりも、「永遠」という単純な「論理」のなかに、世界をつくっている「存在」そのものを「複合」させると言えばいいのか。
「離れながら、離れない」ということばの動きは、池井昌樹「あたし」「金色」にも見ることができる。
「散文」なら、こういう繰り返しは「不経済」である。詩でも、「不経済」と呼ばれるかもしれないが、その「不経済」こそが池井の詩である。離れながらもどる。その往復のなかに「世界」が生まれる。
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評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
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未知野道「いまからおもふと」もまた池井昌樹の作品だろう。
いまからおもふと
まっくろなかおりのよい
こおろぎのインクつゆにしめりながら
ゆめのなみだにひたっていたような気がする
網膜か体の中にある黒いガーゼの蜘蛛の巣のような
ゆれないひえた儒教ぼんさんの木々の透き間に
列車の一本のよいさけびを聞きながら
ぱろんとしためろん平面の夜空やら
かけらの星星やら月やらをながめながら
あまくあまくうつむいてた気がする
目の裏の皮と体の中の僕の胆嚢だけを
トラホーム色にねつねつひからせながら
ゆめのなみだにひたってたような気がする
からだも夜にはひるとなくなっちまい
目の下にしめった土ころだとかいもむしの糞ばかりがたんたんとあかるんでいて。
「まっくろ」と「よい」の組み合わせ、「よい」と「さけび」の組み合わせ、「あまくあまく」「ねつねつ」「たんたん」という音の繰り返しにも池井の嗜好(思考/指向)が伺える。
嗜好/思考/指向は、厳密には区別できない、ということを、別な角度から見直してみる。
こおろぎのインクつゆにしめりながら
列車の一本のよいさけびを聞きながら
かけらの星星やら月やらをながめながら
トラホーム色にねつねつひからせながら
「……ながら」ということばが繰り返される。
ゆめのなみだにひたっていたような気がする
あまくあまくうつむいてた気がする
ゆめのなみだにひたっていたような気がする
「……気がする」も繰り返される。「ゆめのなみだにひたっていたような気がする」は一行がそのまま繰り返されている。
「繰り返し」は何のためなのか。
書きたいことを離れないためである。ことばを動かす(書く)ということは、ことばの動きに従って、「肉体(自分)」そのものが動いていってしまうこと。自分が自分でなくなることを意味する。もちろん「動いた総体(軌跡)」を自分(肉体/思想)ととらえることもできるが、そうした場合、「思想」は自分のなかにある、自分だけのものということにもなる。
もちろんそれでかまわないのだけれど(というか、そう考えるのが一般的なのだと思うけれど)、池井は、それでは「満足」できない。
「思想(永遠)」というものは、自分にはない。どこか別なところにある。そしてその「永遠/思想」が自分を選んでくれている。選ばれた人間として、その思想(永遠)と向き合うのが詩人(池井)の「生き方(思想)」であるからだ。
こういう「姿勢」をあらわしているのが「……ながら」なのである。池井は「……」をする。それをしながら、自分ではないものの「存在(永遠)」をみつめつづける。みつめつづけることで、みつめられる。「……ながら」というのは、池井自身の「行動」を説明しいるのではない。複数の行動を「する」ということを明らかにするために「……ながら」と書いているのではなく、「……ながら」が可能なのは、それを許す「永遠」がどこかにあるからだ、というのである。
池井の側に「……ながら」があれば、他方「永遠」の方には「やら」「やら」「やら」がある。「夜空やら」「星星やら」「月やら」と、それは人間の制御をはなれた「永遠」である。
「……ながら」を繰り返し、その繰り返しのなかに、自分の「肉体」を超えるもの、超越的な「永遠」をひきこむためである。分散させながら引き込む。引き込みながら分散させる。「論理」を複合的につくりあげるというよりも、「永遠」という単純な「論理」のなかに、世界をつくっている「存在」そのものを「複合」させると言えばいいのか。
「離れながら、離れない」ということばの動きは、池井昌樹「あたし」「金色」にも見ることができる。
ねえかあさん?
かあさんといてうれしいな
こんなすてきなおへやでくらし
こんなすてきなおなまえもらい
たべるものならいつでもあるし
あつくもないしさむくもないし
だけどこのごろなんとなく
なんとなくものたりなくて (あたし)
ふかくあたまをさげていた
ふかくあたまをさげていた
はたらきつづけたほんやにむかい
きえさってゆくほんやにむかい
ふかくあたまをさげてから
ぼくはどこかへたびだって (金色)
「散文」なら、こういう繰り返しは「不経済」である。詩でも、「不経済」と呼ばれるかもしれないが、その「不経済」こそが池井の詩である。離れながらもどる。その往復のなかに「世界」が生まれる。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
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