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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(28)

2018-03-12 00:03:17 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(28)(創元社、2018年02月10日発行)

 「風景と音楽」は詩か、エッセイか。こういう文章がある。

 乗り物の中で移動しながら音楽を聞くのが好きだ。窓外を流れる
風景と音楽がひとつになる快さ。

 私はこの「快さ」を体験したことがない。乗り物の中で音楽を聞くのは、たぶん乗り物の中で何もすることがないときだが、私は何もすることがないと寝てしまう。音楽を聞こうとは思わない。
 風景と音楽で思い出すのは、映画である。映画ではいろんなシーンに音楽が流れる。自然には存在しない音が、映像につけくわえられている。私はあまり映画音楽にも興味がない。音楽がない方がおもしろいかも、と思ったりする。
 風景には風景の音があり、それで十分である。
 いまでもときどき思い出すのだが、フィヨルドクルーズの船を待っていたときのことである。どこかわからないが、滝の音がする。周り中に滝があり、どの滝の音か、私にはわからなかった。風があって、その風が旗を揺らしている。ロープがポールに当たり、カンカンと音がする。それは滝の音と非常によくあっていた。いつまで聞いていてもあきない透明感があった。そして、その滝の水だろうか、空気は雪解けの冷たい匂いがした。
 自然の中に「ある」音は、あるとき別の「ある」音と響きあう。それが音楽かどうかはわからないが、私はその「ある」の交渉がおもしろいと感じる。
 これが、私の体験。

 で、谷川の書いていることを、私は一度も体験したことがないなあと思いながら、さらに読み進むと、こうしめくくられる。

 グランド・キャニオン観光のヘリコプターの中で、リヒャルト・
シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』を聞いたことも
ある。ヘリポートを飛び立ってしばらくは平地の林の上を飛ぶ、そ
の間は「炎のランナー」が流れている。突如深さ一・六キロの谷が
真下に口をあける、その瞬間音楽が『ツァラトゥストラ』に切り替
わる。気がついたら驚いたことに自分の目からボワーッと涙が溢れ
ていた。

 うーん。
 映画のシーンについて書いたが、まるで映画だなあ。
 映画でなら、こういうシーンで感動するかもしれないが、実際の風景の中で私は感動できるかどうか、わからない。音楽を忘れて、風景の方に引き込まれていく。
 私は風景と音楽を一緒に楽しむという習慣がない。
 風景(自然)の中で歌を歌うというのは、なんとなく、わかる。「肉体」を「音」にして、自然と交わるという感じ。でも、自然の中で音楽を聞くというのは、気恥ずかしい感じがする。私には。たぶん、私の育った「山の中」では「音楽」というものが日常的ではなかったためだろう。




*


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目次

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河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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小津安二郎監督「麦秋」(★★★★★)

2018-03-11 21:13:28 | 午前十時の映画祭
小津安二郎監督「麦秋」(★★★★★)

監督 小津安二郎 出演 原節子、笠智衆、菅井一郎、東山千栄子

 1951年の映画。私の生まれる前だ。原節子なんて、知るはずがないなあ。あ、「東京物語」では老人夫婦をやっている笠智衆、東山千栄子が、この映画では母と子(長男)か。うーむ。などと、うなりながら見ている。
 で、この映画も「東京物語」もそうなのだけれど。
 原節子というのは、美人で「透明」そうな印象だけれど、実際はとっても「不透明」というところに魅力があるんだろうなあと、改めて思った。
 映画の中で淡島千景が原節子を批評して「あなたって結婚したら(結婚するなら)、暖炉かなんかがある豪邸に住んで……」みたいなことをいう。「絵に描いた」純情なお嬢さん、というわけだ。
 映画の中ではどこかの会社の専務(?)の秘書か何かをやっているが、まあ、苦労している庶民ではない。そういう暮らしが似合っている。そういう暮らしをしていても「不自然」に感じさせない。美人は、とても得だ。
 それが淡島千景がいったような「縁談話」を振り切って、兄(笠智衆)の病院の同僚と突然結婚をすることになる。それも同僚の母(杉村春子)に、「あなたみたいな人が息子の嫁に来てくれたらどんなにいいんだろうと思っていた」という一言で決意する。
 もちろん映画では、一緒の電車で通勤するとき語り合うというようなシーンも「伏線」としてきちんと描かれているが、原節子がその男のことをほんとうに好きなのかどうかは、あまりはっきりとは描かれていない。「不透明」に描かれている。
 そのくせ、その「不透明」が「結婚(婚約)」というところに「結晶」すると、やっぱりね、と感じさせる。
 こういうことを、「演技」というよりも、「存在感」として、そのまま表現できるというは、やっぱりすごいと思う。
 倍賞千恵子は「演技」としてはできると思うが、「素材」としては無理かなあ。あ、私は若くて美しい時代の倍賞千恵子を知らないから、そう思うのかもしれないけれど。
 で、この原節子の「存在感」を考えるとき(感じるとき)、それが日本の「家」の構造と似ているなあとも思うのである。障子やガラス戸などがあるけれど、それは完全に締め切られてはいない。たいてい明け離れていて、ひとつの部屋が他の部屋とつづいている。風通しがいい。「秘密」がない。「秘密」をもてない、という感じがある。ある意味で「透明」。たとえば、台所で料理をしている。その姿は食卓から見える。だれがどの部屋へ行ったか、それが見える、という感覚。
 でも、そこでも人はプライバシーをもっている。「秘密」をもっている。
 象徴的なのが、笠智衆が、「おい、妹(原節子)の縁談話はどうなった」と妻と話すシーン。原節子が部屋を出て行くと、となりで寝ている笠智衆がふすまを開けて「おい」と問いかけ、原節子がもどってくるのを察知するとすーっとふすまを閉める。間に合わなくて半分あいているとき、原節子がそっとふすまを閉めて出て行く。
 「知っている」と「知らない」が、とても微妙である。
 その微妙な感じを「構造」として抱え込んでいるのが原節子なのだ。「日本の家」が原節子なのだ。
 これを小津安二郎は、畳に座ったときの人の「視線」の高さで、さらにしっかりと構造化する。
 原節子の大足(と、思う)が、その畳を大地のように踏みしめて歩くのは、なかなかおもしろい。
 (中洲大洋スクリーン4、2018年03月06日)


 *

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(27)

2018-03-11 00:28:24 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(27)(創元社、2018年02月10日発行)

 「生きとし生けるものはみな」か。この詩では三回繰り返されている。

雪にしるした足あとは
いのちのしるしのけものみち
しるべもなしに踏み迷う
生きとし生けるものはみな

 これが一連目。三連あり、それぞれの最終行が同じ。ことばが、すべてその最終行に向かって動く。統一される。その「統一」に「音楽」があると言えるかもしれない。
 これに二行目の「……みち」という言い方も加わる。

息をひそめて立ちつくす
闇へとつづくわかれみち    (二連目)

夜のしじまに輝いて
はるかにめぐる星のみち    (三連目)

 「脚韻」のようなものが、最後に「生きとし生けるものはみな」におさまる。その「構造」がめだつのだけれど、この詩には、それとは別の「統一」もある。
 それぞれの連の三行目。

しるべもなしに踏み迷う

あしたを知らずに夢を見る

よりそいながらそむきあう

 「踏み迷う」「夢を見る」「そむきあう」という「動詞」で終わっている。この三行は、それぞれが倒置法で、主語は「生きとし生けるものはみな」ということになる。
 そして、この「動詞」は、私には何か「悲しい」ものに聞こえる。「苦しい」と言い換えてもいい。「歓び」というものがない。「夢を見る」は明るいことばなのかもしれないが、「あしたを知らずに」という否定的なことばが先にあるために、「生き生きとした夢を見る」とは読めない。
 「音楽」で言えば「短調」ということになるだろうか。「短調」で統一されている、と感じる。「音」ではなく「意味」が響きあっている。





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近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」

2018-03-10 15:10:31 | 詩(雑誌・同人誌)
近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」(「ぶーわー」39、2018年03月10日発行)

 近藤久也「暮れに、はみ出る」はローストチキンが食いたいと思い、骨つきチキンを買ってきて料理するときのことを描いている。

フライパンに油ひき
大きな骨付きチキン二個並べ焼きたいのだが
窮屈窮屈はみ出してしまう
無茶だ無理だ無茶苦茶に
知恵の輪見たく思案してたら
69にはまりこんだはめこんだ
タレつけ、こんがり焼きあげて
白地の皿に69で盛りつけて
はにかむ姿絵、シャイな抽象、シックスナイン
(ああ、おお)
乱れながら整えて
内気な欲望の
自画(自我)と自賛を密やかに盛りつける

 「窮屈窮屈」からはじまることばのリズムが、火のついたフライパンの上で悪戦苦闘している感じで楽しい。「69」を挟んで、「はまりこんだはめこんだ」がいいなあ。「はまりこんだ」のか「はめこんだ」のかわからない。
 これって、「69」のどちらが「6」で、どちらが「9」かわからないのと同じ。
 それはそのままセックスにつながる。この体位のとき、どっちが6、どっちが9? そんなことは区別しない。
 でもおかいしね。
 焼き終わったら「69」にこだわることはない。けれども「69」にこだわって皿に盛りつけている。一枚に一個の方が食べやすいんじゃない? なんて、チャチャいれたらいけないんだろうねえ。
 「69」まで書きながら、「はにかむ」「シャイ」「内気」と言いなおして「自画像」にしてしまう。「自画自賛」してしまう。
 なんでもないのだけれど、楽しい。



 和田まさ子「主語をなくす」の詩は久しぶりに読んだ。そして、ああ、つまらない、と思った。
 「壺」を「現代詩手帖」の投稿欄で読んだのは何年前だろうか。とてもおもしろかった。「金魚」の詩もおもしろかった。『わたしの好きな日』『なりたいわたし』は好きな詩集だ。だが、それ以後は知らない。
 今回の詩。

目が覚めて
夢の尻尾の色を考えない
振りきって今日の方に傾く
目の前にある余白が何を呼んでも
たじろがないでいたい
新世界はここからはじまるのだから

 「余白」は古くさい「現代詩」の流行語だ。こういうことばを好む人がいるかもしれないが、私はぞっとする。「新世界はここからはじまる」の「新」もつまらない。
 以前の和田は「新世界はここからはじまる」というような「客観」を語らず、ただ「いま/ここ」を和田しか知らないことばで語っていた。つまり、無意識に「新世界(独自世界)」をとらえていた。「新世界」と思っていなかったのかもしれない。そこが、たぶんおもしろい要因だった。
 この詩のことばは、「展開」が予測できる。その分、安定していると評価されるのかもしれないが、つまらない。

駅前に行く途中
敷石につまずき
迷い込んだ帝国の夏

 「つまずく」「迷い込む」が定型である。「帝国」もその延長である。
 なんとなく新井豊美の詩の変化を連想させる。『いすろまにあ』はとてもおもしろかった。でも、その後の作品は私はおもしろいとは思わない。
 最終行だけ

魚のように泳いでやってくる電車のなかの人になる

 と昔に書いたようなことばをつないでもねえ。
 昔の和田なら、電車の中で魚になってそのまま泳いでいただろうに、と思う。あるいは他人を魚にしてしまっていただろうと思う。「主語」をなくさずに、「主語」をまもったまま、「魚になる」というのがおもしろいところだったのに、と残念でならない。
 「主語をなくす」というような「現代詩のことばづかい」を「学習」したのが、詩をつまらなくさせている原因だ。
 もちん「主語をなくす」というような「現代詩流通語」が好きな人は、いまの和田の作品を高く評価するだろうけれど。



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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(26)

2018-03-10 11:01:49 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(26)(創元社、2018年02月10日発行)

 「目と耳」の一連目。

見たくないものには
目をつぶればいい
だが聞きたくないものに
耳をふさいでも音はもれてくる

 「意味」はわかるが、私はつまずく。
 「音はもれてくる」? 音は耳に入ってくる、ではないのか。目をつぶれば、目には見たくないものは入ってこない。しかし、耳を(手で)ふさいでも、大きな音は耳に入ってくる。見たくないものは「拒める」。でも聞きたくないものを「拒む」というのは、「耳(聴覚)」にはむずかしい。「対」構造で考えると、そうなる。
 私自身の「肉体」で体験できることは、そういうことである。しかし谷川は「音はもれてくる」と書く。
 うーむ。
 これは、「音」が「もれてくる」というよりも、「聴覚」が「肉体(耳)」の中から外へ出ていって(もれて)、「音」そのものをつかんでしまうということなのか。もしそうだとすると、「視覚」についても谷川はそう考えているのかもしれない。「視覚」が「肉体(目)」のの中外へ出て言って対象をつかんでしまう。
 「目をつぶればいい」には、「目をつぶれば、見たくないものは目に入ってこない」とは書かれていない。ふつうはそう考えるが、谷川は「目をつぶれば、見たくないものの方へ視覚(目)はもれていかない」と考えているのではないのか。
 「世界」が見える、聞こえる。それは「世界」が自分の「肉体」のなかに入ってくるからではなく、自分の「肉体」のなかにあるものが、「肉体」の外へ出ていって、「世界」と出会う。「見る/聞く」は「肉体」の拡張である。「見えたもの/聞こえたもの」、その「接点」までが「肉体」である。こう考えているのではないだろうか。
 私は、実は、そう考えている。だが、それをどういう「動詞」を使えば言い表わすことができるのか、いままで思いつかなかった。谷川の「耳をふさいでも音はもれてくる」という一行、その「もれてくる」という「動詞」に出合い、そうか、こういうことだったのか、と気づいた。
 ここから、二連目をつづけて読んでみる。

はるか上空のドローンは
暴力を映像に変換して地上に送る
だが破壊の音をドローンは聞かない
ヒトの断末魔の呻きも

 ドローンはカメラを搭載している。カメラは「肉体」の延長である。「視覚」が「肉体」を抜け出し、はるか上空までのぼり、そこから地上を見つめる。それを「映像」にして地上に送ってくる。
 「音」についても高性能のマイクを搭載すれば、収集が可能かもしれない。必要な音だけを「拡大」し収集するマイクというものができれば、「映像」と同じように「音声」を地上に送ってくることが出きるはずだ。「聴覚」については、科学がそこまで追いついていないだけなのだろう。
 この二連目の「映像」を「目(視覚)」、「音」を「耳(聴覚)」と読み直すと、ドローンが「肉体」を拡張したものであり、拡張した「肉体」を利用して世界をとらえようとしていることがわかる。「地上」とは「自分本来の肉体(拡張される前の肉体)のことである。

はるか上空のドローン(拡張された肉体)は
はるか遠くにある暴力を「拡張された目(視力)によって」見ることができる
だが破壊の音を「拡張された耳(聴力)」は聞くことができない(耳は、まだ拡張されていない)
ヒトの断末魔の呻きも「拡張された耳(聴力)」は聞くことができない(耳は、まだ拡張されていない)

 そして、ここには、もうひとつ注目しなければならないことが書かれている。谷川は「音」を「爆発音」と「呻き(声)」と二種類にわけて書いている。「爆発音」は大きい、「呻き」は小さい。大きいものは遠くからでも認識できる。小さいものは近くに行かないと気づかない。これは聴覚(耳)だけではなく視覚(目)にも当てはまることである。
 「視覚(目)」の方は高性能カメラ(拡張された肉体)によって、この対象との「遠近」の問題を克服しているかのように見える。二連目では。
 でも、それは錯覚かもしれない。そのことが三連目に書かれている。

テレビが毎日映しだす数えきれない顔
その腹の中はカメラでは見えない
秘密の囁きも聞こえない
一瞬で金を運ぶ電子の素早い動きも

 カメラ(拡張された視力)であっても「腹の中」は見えない。胃カメラとから、内視鏡というものもあるが、それはこの詩に書かれている「腹の中」ではなく、「生理的、物理的な肉体の内部」を見るだけのものである。
 簡単に言えば「こころ」が見えない。
 その「こころ」を「腹の中」と「肉体」を指し示すことばで言いなおしているところが、とてもおもしろい。
 「こころの変化(こころの中)」は表情になって顔に表れることがある。だから、それは「カメラ」を通して見ることができるともいえるけれど、それがほんとうに「こころの中」かどうかはわからない。「見えない」というしかないものになる。
 「秘密の囁き」は、聞こえないように発する「声」である。
 「こころの中」には、同じように、見えないように隠している「表情」がある。
 「隠している」ものがある。それは見えない、聞こえない。
 けれども、それは「もれる」こともある。
 ここで私は、突然一連目に引き戻される。「もれる」という「動詞」と「肉体」の関係へ引き戻される。
 「視覚/聴覚」は「肉体」の外へ出てゆき、「世界」をつかむ。「こころ」もまた「肉体」のい外へ出てゆき「世界」になる。「視覚/聴覚」というものは「こころ」と同じように、ある「動き」を語るためにある「便宜上のことば」であって、「実体」ではない。見たり聞いたり、感動したり不安になったりということは「日常的」なことなので「視力/聴力/こころ」というものは「もの」のように「ある」と思ってしまうが。
 「視覚/聴覚/こころ」は「ある」にはあるが、その「ある」はあいまいだ。「ある」けれど「ない」ようにも動く。「ない」ように装う(隠す)こともできる。逆に「ある」を強調することもできるだろうなあ。

 あ、私は、何を書いているのかなあ。
 最初に書こうと思ったこととは少しずつずれてきている感じがする。書きながら考え、考えながら書くので、どうしてもずれてくるのである。

耳を疑え 目を信用するな
たとえそれが自分のものであっても
音楽にすら時に嘘がある 偽善がある
聞こえない見えない魂を失くすな!

 「耳を疑え 目を信用するな」の「耳」は「耳で聞いたもの(音)」、「目」は「目で見たのも(映像)」と言いなおすことができる。つまり、「音を疑え 映像を信用するな」である。谷川は「目」と「映像」、「耳」と「音」を入れ替え可能なものとして書いている。自分の「肉体」を起点にするとき「耳と目」になり、「肉体の外」(拡張された肉体)を起点にするとき「音と映像」になる。
 二行目は、「たとえそれが自分の耳、目であっても」あるいは「自分の耳で聞き、自分の目であっても」、つまり「体験したものであっても」という意味であると同時に、「自分からもれたもの(出ていったもの)であっても」になる。言い換えると、自分で「視覚化したもの(描いたもの)」、自分で「音(ことば)にしたもの」であっても、ということである。
 「音楽にすら時に嘘がある 偽善がある」なら、詩(自分で発したことば、音)にも嘘があり、偽善があるかもしれない。
 それを「疑え」「信用するな」と谷川は書いている。
 ここに書かれている「音楽」は、谷川がいちばん信用しているもののことである。音楽は人間がつくりだしたもの。最高の存在だけど、そこには「嘘」「偽善」がないとは言い切れない。

 ふーむ。

 最後の一行、「聞こえない見えない魂を失くすな!」に、私はもう一度つまずく。谷川に限らず、多くの人が「魂」ということばをつかうが、私は、これがわからない。私は「魂」が存在するとは思えない。考えることができない。
 「こころ」も実は「耳」「目」のように、これが「こころ」と指し示す形では存在が「ある」とはいえない。「視覚/聴覚/こころ」などは、「動き」をあらわす便宜上のことば(方便)だと思っている。「こころ」「魂」と、二つに分けていう必要性を感じない。私の周辺(親、兄弟)では、だれも「魂」ということばをつかわなかったということも原因かもしれない。なじめないのである。
 「耳をふさいでも音はもれてくる」も、最初はなじめなかった。でも、ことばを動かしていると「なじめる」ものになる。というか、これが正しいと思う。「魂」は、しかし、どうしてもなじめない。
 だから、ここでは「魂」を、それが何なのか特定しないままに読む。

聞こえない見えない「何か」を失くすな!

 と読む。「聞こえない」「見えない」のだから、それは「特定」できない。「何か」としか言いようのないものである。「聞こえない」「見えない」は、しかし「何か」が「ない」ということではない。「ある」。けれども「聞こえない」「見えない」。
 このとき、それは何にとって「聞こえない/見えない」なのか。「主語」は何なのか。谷川の書いていることばをつかえば「魂」になるのだろうけれど。
 「主語」を「どこに」、「いつ」と言い換えると、どうなるだろう。「きこえない見えない何か」は「どこに」「いつ」あるのか。「私という肉体」の「外」にあるのか「内」にあるのか。「私」という存在が「肉体」を超えて、「外/内」の区別のないものなら、「私と一緒に」「ここに/いま」と言いなおすことができる。
 「私と一緒に」「ここに/いま」「ある」。そのまだことばになっていないものを「失くすな」と言っている。
 これでは抽象的すぎる。ことばが、ただ、ことばを追いかけて動いているだけだ。
 「聞こえない」「見えない」は、この詩の中で、どうつかわれていたか。「動詞」に戻って読み直さないといけない。どう、つかわれていた。

その腹の中はカメラでは見えない
秘密の囁きも聞こえない

 「腹の中」「秘密」は「見えない」「聞こえない」。「魂」とは、「腹の中」であり「秘密」なのだ。「腹の中」や「秘密」を「失くすな」と谷川は言っていることになる。
 抽象的(哲学的?)なことではなく、とても「現実的」な「処世訓」としてもよむことができるのだ。

 「私と一緒に」「ここに/いま」「ある」には「聞こえない見えないもの(腹の中の秘密)」のほかに「見たくない」「聞きたくない」ものがある。これは一連目に書いてあったなあ。この一連目と最終連の一行は、どういう関係にあるのだろうか。
 「聞こえない見えない何か/言いたくない何か(腹の中の秘密)」を守るために「見たくない」「聞きたくない」と思うのかもしれない。「言いたくない何か(腹の中の秘密)」を「失くさない」ために目をつぶり、耳を塞ぐ。
 そのとき。
 では、「もれていく」のは何だろう。
 目をつぶれば視界は「暗闇」。真っ暗。無。耳を塞げば、理想的には「無音」。静けさ。沈黙。
 「音はもれてくる」ではなく、「沈黙」がもれてくる。そのもれた「沈黙」の「場」を「音」が塞ぎに来る、ということかもしれない。
 そうであるなら、「聞こえない見えない魂を失くすな!」は「沈黙と闇」を失くすな、ということになる。
 (あ、ここからは、また「抽象」だなあ。疲れてくると、ことばは抽象へ傾く。)
 「沈黙」は「音楽」と固く結びついている。「沈黙」が「音楽の嘘/偽善」をあばくのかもしれない。「沈黙」が一緒に存在しない音楽は嘘である。

 「抽象」ついでに、さらに考えてみる。
 「聴覚がもれる」を「沈黙がもれる」と言いなおせるのならば、「視覚がもれる」は何と言えるだろうか。「沈黙」に相当するのは「闇」だが、「闇」がもれだせば世界は暗くなり、何も見えない。だから「視覚(目)」からもれだすのは「闇」ではなく「光」になるかもしれない。いや、そうではなくて、「闇」がもれだして、その空いた部分に「光」は入ってきて、それが「映像」になる。
 やっぱりだめだ。
 だんだんわからなくなってきた。
 目も痛くなり、考えるのが苦痛になってきた。
 「肉体」のなかから何かが出て行く。かわりに何かが入ってくる。そういう「交渉」が、たぶん生きるということなのだろう。
 と、書いて、きょうの感想を閉じておく。


*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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「一般人」とは?

2018-03-10 07:32:21 | 自民党憲法改正草案を読む
「一般人」とは?
             自民党憲法改正草案を読む/番外184(情報の読み方)

 2018年03月10日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の3面。森友学園文書問題をめぐり、佐川国税庁長官が辞任した。その関連記事の見出し。

森友 幕引き遠く/文書書き換え 曖昧なまま

 そのなかに、こういう部分がある。

政府・与党としては、辞任で佐川氏が一定の責任を負うことで、野党の(国会)招致要求を少しでもかわしたい思惑がある。自民党の森山裕国会対策委員長は9日夜、「(佐川氏は)一般人になったので(招致は)難しくなった」と語った。

 「難しくなった」のではなく「難しくさせる」ために辞任させたのだろう。「思惑」どころのことではない。
 それにしても。
 「一般人」とはなんだろうか。「一般人になった」ということは、どういうことだろうか。
 今後、佐川は「元国税庁長官」「財務省出身」というような「肩書」をいっさいつかわないということだろうか。今後の就職活動をするとき、ハローワークの「求職票」には、どう書くのだろうか。「減給処分を受けた」と書くだろうか。「一般人」と同じように、求職活動をするとは思えない。
 「元国税庁長官」という肩書をいかして就職活動をし、またその肩書ゆえに採用されるのだとしたら、「一般人」とはほど遠いだろう。
 どうして証人喚問ができないのだろうか。
 さらに、森友学園のもう一方の籠池の方はどうなのか。「森友学園理事長」という「肩書」があったから「一般人」にはあたらないのか。どの「肩書」から「一般人」と「一般人ではない人」の区別があるのか。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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ギリーズ・マッキノン監督「ウイスキーと2 人の花嫁」(★★★★★)

2018-03-09 21:33:33 | 映画
ギリーズ・マッキノン監督「ウイスキーと2 人の花嫁」(★★★★★)

監督 ギリーズ・マッキノン 出演 グレゴール・フィッシャー、ナオミ・バトリック、エリー・ケンドリック

 あ、この手のタイプの映画は、一番好きな映画だなあ、と見ながら思った。
 何が好きか。
 役者がのびのびしている。楽しんでいる。「作品の意図」というのはどういう作品にでもあるだろうけれど、それはそれとしてそれに縛られない。好き勝手というのではないけれど、こういう「役」はこれくらいでいい、という軽い感じ。「役」を演じると同時に「自分」を解放する。
 ちょっと「堅物」の「大尉」が出てくる。島民に規律を守らさせようとしている。妻が、そこまでしないていい。もっとみんなに溶け込んでほしいと思っている。で、妻からもちょっとばかにされている。いいようにあしらわれている。こういう「役」で自分を出すというのは、なんというか、「ばか」をさらけだすようであまり「特」とはいえないのだが、軽く立ち回っている。
 もちろん、そういう「損」な役以外の人は、もっと楽に演じている。いっしょに「作品」を楽しんでいる。「共同体」をつくっている。ルノワールとか、タビアーニ兄弟の映画には、こういうのが多いなあ。ウディ・アレンの「世界中がアイ・ラブ・ユー」も、そうだなあ。役者と知り合いになった気持ちになる。この人、知っている、という感じ。
 で。
 ウィスキーにまつわる映画で、飲むシーンもとっても多い。それが、とてもいい感じ。いいなあ、飲みたいなあ。ピートの香りの違いが楽しいだろなあ、なんて思うのだが。
 クレジットの最後の最後に、「撮影中は飲んでいません」という註釈が出る。
 えっ、うそだろう。飲んでるから「飲んでいません」というんだろう、とツッコミたくなる感じなんだなあ。
 と、書けば、たぶんこの映画の楽しさがわかる。

 ということとは別に、私がこの映画が好きな理由はもう一つある。
 舞台はスコットランドの島なのだが、海の色がとても美しい。スコットランド(イギリス)やアイルランドの海、空気の感じは、私が育った海の感じに似ている。見ていて、なつかしく感じられる。これが海の色だよなあ、こういう湿気のある空気なんだよなあ、と思う。
 最初の海の色は、氷見沖(富山湾)にある虻が島のまわりの海の色に似ている。ちょうど寒流と暖流が交錯するようなところなのだが、その「寒流」の色に近い。あ、この色、見たことがある、となつかしくなる。
 昼の海も、夜の海も、太平洋や地中海とは違う。
 ものに対する「感性」は、大人になるまでにつくられてしまうんだなあ、と思う。
 この映画の舞台の島の人は、やはり、やっぱりここで「感性」をつくる。ウィスキーを飲まないこどもまで、ウィスキーの「文化」を身につけて育つ。飲み始めてからウィスキーを知るのではなく、飲む前からウィスキーが「いのちの水」であることを知る。
 そして、その「感性」が共有される。
 こういうことと関係があるかどうかわからないが。
 座礁した船からウィスキーを盗み出すとき、島から船を出そうとすると日付がかわり日曜になる。そうすると神父が「日付が変わった。安息日だ。何もしてはいけない」と出港する船を止めてしまう。これにみんなが従う。盗んだウィスキーは神父も飲むのに、「日曜は安息日」ということだけは守るのである。
 この「文化」がおもしろい。「文化」が「感性」を作り上げていく。これが、さりげなく描かれている。
 (KBCシネマ1、2018年03月09日) 


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(25)

2018-03-09 08:18:09 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(25)(創元社、2018年02月10日発行)

 「なんにもしたくない」の最終行は「歌うたうのももうやめた!」。それまでの行が「歌」になる。

ああなんにもしたくない
カツ丼なんか食いたくない
友だちなんか会いたくない
女となんか寝たくない
話したくない聞きたくない
(略)
ああなんにもなんにもしたくない
お日さまかんかん蝶々ひらひら
どこかで赤ん坊が泣きわめく
いまは三月それとも四月
それとも真夏の昼下がり
歌うたうのももうやめた!

 「したくない」(正確には「たくない」か)が繰り返されている。声に出すと自然にリズムができる。これが「歌」か。「うたう」か。
 「ジャズドのラマー」に、「われわれは人間の肉のリズムを拍ち、それに酔う」ということばがあった。「声」がリズムをもつと、やはり人はそれに酔う。どんどんことばがあふれてくる。
 繰り返しは「したくない」だけではない。「カツ丼なんか」「友だちなんか」「女となんか」の「なんか」。それに「なんにもなんにも」もそうだが、「ないないづくし」の「ないない」「お日さまかんかん」の「かんかん」、「蝶々ひらひら」の「ひらひら」。よく見れば「蝶々」も「ちょう」の繰り返し。(「蝶」単独でも意味は同じだからね。)「それとも」も繰り返し。
 しかし、

どこかで赤ん坊が泣きわめく

 には繰り返しがなくて、リズムが変わる。それが「終わり」を予告しているかもしれない。
 ここが、谷川の「本能」のような部分だね。
 黙読していても、はっとするが、朗読ならば黙読よりもはっきりと変化がわかると思う。
 ここに「音楽」がある、と言えるかもしれない。
 「変化」もまたリズムの重要な要素だ。
 「音楽」を知らずに育った私がいうと信憑性がなくなるが、谷川はどこまでも音楽的なのだ。



*


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河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
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樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
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「特殊性」という表現

2018-03-09 07:30:33 | 自民党憲法改正草案を読む
「特殊性」という表現
             自民党憲法改正草案を読む/番外183(情報の読み方)

 2018年03月09日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の一面に、朝日新聞がスクープした「森友文書」書き換え問題の続報が載っている。
 メインの記事(見出し)は

森友文書/「書き換え」言及せず/野党反発 財務省コピー提出

 財務省は、近畿財務局が作った決裁文書のコピーを4種類提出したが、「書き換え」には言及しなかったというもの。
 気になったのは、その「本記」につづいてい書かれている小さな記事(見出しは1段)。

別の文書には「特殊性」表現

 朝日がスクープしたのとは別の文書には「特殊性」という表現がつかわれていたという。こう書いてある。

 読売新聞が情報公開請求で入手した内部文書(2016年4月作成)では「本件は売買予約契約書を締結しているなど、特殊な処理を行った案件」と記載。

 しかし、これが何を意味するのか、読売新聞の書き方ではわからない。
 考えられること。
(1)別の文書にも「特殊性」の表現があったから、朝日がスクープした文書に「特殊性」があったということは、ありうることである。(森友学園を巡る文書には「特殊性」ということばが頻繁に、あるいは恒常的につかわれていた。)
(2)したがって、文書を整理する際に「特殊性」を省略したとしても問題にならない。他の文書で説明ずみなので、重複表現を避けただけであり、文書の「改竄には当たらない」と言いたいのか。(これは、朝日新聞への「反論」にあたる。安倍よりの主張である。財務省側は、おそらくこういう「言い訳」をするだろう。)
(3)あるいは、別の文書にあったのだから、問題の文書の「原本」にもあった。それを削除するのは「改竄に当たる」と言いたいのか。(これは、朝日新聞のスクープを補足することになる。)
 (2)なのか(3)なのか、読者にわかるように書かないと、記事の意味がない。
 「改竄に当たるのか」「改竄に当たらないのか」ということには触れずに、読売新聞は、こう書いている。

 近畿財務局は学園と土地の貸し付け契約を結ぶ際、将来学園が土地を購入することを前提に、通例は3年間である貸付期間を10年に延ばしており、「特殊処理」と呼んで財務省本省の承認を得ていた。こうした処分方法について「特殊性」と記していた可能性がある。

 この場合、こういう「特殊性」の事例がどれだけあるかが明示されないと意味がない。森友学園以外とでも、同様な「特殊性」をもった契約をしているのなら、この「特殊性」は許容範囲(?)におさまるかもしれない。しかし、森友学園だけに適用された「特殊性」ならば、なぜ森友学園だけに適用されたのかという問題が起きる。
 これは森友学園問題が起きたときから問題視されたことである。
 「特殊な何か」が裏で働いているのではないのか。
 で、ここから考えられること。
(1)読売新聞のこの記事は、もう一度、森友学園問題の「特殊性」を明るみに出すために書かれたのか。
(2)「特殊性」という表現は、「裏で何かが動いている」ということを暗示するものではなく、単に契約が他の契約と違っていた、と言いたいのか。
 読売新聞の書き方は(2)のように読むことができるが、その場合でも(1)の問題、なぜ森友学園だけが「特殊」な処理をしてもらえたのか、という疑問が消えるわけではない。

 それにしても。
 一連の動きの中で麻生(あるいは安倍もか)が繰り返す「大阪知見の捜査に影響を与える可能性があるので、答弁できない(答えられない)」(2日)とは、どういうことなのだろうか。
 私は何かの捜査対象になったことはないので、わからないが、しばしば映画などで見る「証言拒否」は、自分が不利になるから、そのことについては証言を拒否するというもの。不利にならない、あるいは有利になると判断すれば、積極的にそのことを語る。(ときには、捜査を誘導するために積極的に語ることもある。)
 文書が「改竄である」とわかれば、財務省の関係者が逮捕される。だから「改竄である」という「証拠(原本と国会に提出した文書は別のもの)」は出せない、ということなのか。「関係者」が「個人」ではなく「集団」と判明したら大問題になるので、答えられないというのだろうか。
 麻生は、

捜査の最終的な結論が出る前の段階も視野に入れつつ、できるだけ早期に説明できるよう省を挙げて最大限努力したい。(8日)(3面)

 と態度を変化させているが、これはいわゆる「とかげの尻尾切り」(財務省の誰かを処分して、問題を終結させる)ための方向転換か。改竄を職員の「個人的犯罪」にしてしまうことで、「背景」への追及をまぬかれようという狙いがあるのか。




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*

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(24)

2018-03-08 10:58:24 | 詩集
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(24)(創元社、2018年02月10日発行)

 「よろい戸の奥」。どこに音があり、どこに音楽があるか。

壊れかけたよろい戸の奥の暗がりに
煙草の煙が薄く流れて
そこにいるあの人

 とはじまり、最終連は

壊れかけたよろい戸の奥の暗がりに
衣ずれの音がかすかに聞こえて
そこにいるあの人
どうして恋が生まれるの
こんな時代に

 この最終連に「衣ずれの音」が出てくる。
 さて、この「音」を聞いている「私(書かれていない)」は、どこにいるのか。よろい戸の外にいるのか。たぶん、そうとらえるのが自然かもしれない。
 でも、「よろい戸の奥の暗がり」に「その人」と一緒にいるともとらえてみることができる。「いま/ここ」にいるのだけれど、それを離れた場所から「客観的(?)」にながめている。
 そうすると、「どうして恋が生まれるの?」は「あの人」への質問なのか、それとも自分自身への問いかけなのか、わからなくなる。
 「こんな時代」、恋なんかできるわけがない。でも、恋してしまう。なぜなんだろう。この疑問は他人に向けられるとき「批判(非難)」になるが、時分に向けるときは「批判(非難)」とは簡単に言いきれない。
 それこそ「どうして」としかいいようのない「何か」である。
 「わからない」ものに突き動かされて、「いま/ここ」に「ある」。たぶん、「本能」が「私」を突き動かすのである。
 この「本能」と「音楽」がどこかで通じている。
 というのは、強引な「読み方」。「誤読」になりきっていない。むりやり書いている感想、テストの回答欄に書いたことばみたい……。

 一休み。

 音楽は「音」と「音」との出会い。その「音」と「音」の間に「沈黙」がある。あるいは「背後」に。さらには、「音」が出会う瞬間に、それまで存在しなかった「沈黙」が生まれる。
 人と人は音楽の「音」のように出会うか。
 「私」と「あの人(あなた)」は、どう出会うか。
 それとは別に、人間には「私」が「私」と出会うという瞬間がある。「私はなぜ、こんなことをしているのだろう」。
 自問である。
 自問でも「ことば」は動く。「どうして恋が生まれるの/こんな時代に」と。けれど、その「ことば」は他人には聞こえない。自分にだけ聞こえる。
 自問の中には「声」と「沈黙」が同居している。
 これが「音楽」のあり方に似ているかもしれない。


*


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どさくさの「改憲案」(2)

2018-03-08 10:45:38 | 自民党憲法改正草案を読む
どさくさの「改憲案」(2)
             自民党憲法改正草案を読む/番外182(情報の読み方)

 2018年03月08日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の一面に自民党改憲案の「続報」が載っている。見出しは、

災害時対応/国民義務規定 見送り/自民改憲案 内閣が緊急政令

 07日の夕刊の見出しは、こうだった。

大災害時 内閣が緊急政令/法律と同等 自民、改憲案明記へ

 「内閣が緊急政令」はすでに見出しになっているの。だから「国民義務規定 見送り」を見出しにしたということなのかもしれないが、どうも腑に落ちない。
 「2012年の自民党改憲案」では「緊急事態条項」の新設が批判を集めた。特に、

緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。

 の「義務規定」が批判された。
 そういう「経緯」もあって、「国民義務規定 見送り」ということになったのだろうが、これはなんとも「ずるい」アピール方法である。
 批判を浴びた「国民義務規定を外したから、緊急事態条項に問題はない」と錯覚させる。緊急事態条項については、もう議論は必要がない。議論はすんだ、と錯覚させることをねらったものだろう。
 こんな「手口」に簡単にのせられ、それをそのまま「見出し」にしてしまう(ポイントは、ここ)と紹介してしまうのは、あまりにも危険ではないだろうか。
 「見送り」もなにも、「緊急事態条項」も「国民の義務規定」も、現行憲法には存在しないことを忘れてはいけない。
 記事には、国民の義務規定」は、

他党や国民からの反発が予想されるため、執行部案に入れなかった。

 と書いてある。
 これは、言い換えると「緊急事態条項」を盛り込んだ改憲案を成立させるために、今回はとりあえず除外したということに過ぎない。
 「緊急事態条項」をいったん憲法書き加えれば、条文は次々に増やされていくだろう。

 また、第災害時、国会が開けない。必要な法律をつくっている時間がない。だから政府の権限を強化し、「緊急政令」を出せるようにするというのは、もっともらしく見えるけれど、「平時」から逆に見ていく必要がある。
 昨年の通常国会のあと、安倍は、野党の要求にもかかわらず臨時国会を開かなかった。森友問題、加計問題の追及を恐れたからである。やっと秋に臨時国会が開かれたかと思うと冒頭解散で、実質的には開かれなかったに等しい。
 国会を開かない、議論をしない、というのが安倍独裁政権の特徴である。
 「災害時対応」というが、何を「災害」というのか。「安倍辞めろ」デモが国会周辺で繰り返されれば「安倍にとっての災害」ということで、「政令」で取り締まりをするということが起きるかもしれない。
 「政権に権限をあたえる」のが憲法ではなく、政権の暴走をとめるのが憲法である。
 「国民に義務を課す」のが憲法ではなく、「政権に義務を課す」のが憲法である。
 自民党の改正案は、憲法の理念を逸脱している。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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石毛拓郎「藁のひかり」

2018-03-08 10:00:50 | 詩集
石毛拓郎「藁のひかり」(「飛脚」19、2018年02月25日発行)

 石毛拓郎「藁のひかり」は水郷の灌漑溝に落ちた子どもを助けることが書いてある。石下が祖母から聞いた話だという。祖母は子守のマサさんから聞いたのだという。
 仮死状態である。多くの人はもうあきらめている。けれど、あきらめない人がいる。

ああ どんなであろうとも
助けてやりたい
--この、ぐずがぁ~!
近親者は みな集まってミトリをしている
もう 脈はねえ
もう 死んでる
--この、ぐずがぁ~!
--マサァーはやぐ、藁ば、もってこうや!

 「方言」が書かれている。これが、なかなか、いい。「方言」というのは、その土地でしかつかわれていないことばである。「方言」に触れると、その「土地」に引きずり込まれていくのである。
 その「土地」には、その「土地」にしかわからないことがある。
 そういう「細部」を取っ払う人もいるが、取っ払わない人もいる。
 そこから「細部」を取っ払って合理的に生きる人にはわからないことが起きる。

火の上に ぐったりと息がない手足をかざし
揺すりはじめる
すでに もう意識もない
--はやぐぅ、もっともっと、いっぺぇ、焚げぇ~!
水郷の子守は 急かされながらも
落ちつきはらって
藁のひかりを 浴びせつづけている
夢の処方で
藁のひかりを当てた 死に体の
腹と頭に
ひかりが 滲みこんでいくのがみえる

 さて、どこまでがマサさんのことばで、どこまでが祖母のことばか。「はやぐぅ、もっともっと、いっぺぇ、焚げぇ~!」はマサさんが直接聞いたことばだろう。それはそのまま祖母にもつたわり、石毛にもつたわっているだろう。
 そのあとの描写は、なかなかむずかしい。
 「標準語」だからね。
 マサさんが、石毛の書いているとおりに「発音」したとは思われない。祖母も同じ。祖母から聞いたことを石毛が再現しているのだろう。再構成が含まれているかもしれない。でも、その「再構成」に引き込まれていくのはなぜだろう。
 藁の、

ひかりが 滲みこんでいくのがみえる

 この「細部」の描写の力だ。
 マサさんは「細部」を見ていた。その「細部」はことばにしないとわからない「細部」である。
 この「細部」が引き継がれている。
 これが、美しい。
 この「救命術」が最終連に、こう書かれている。

水郷田園の子守マサは 小さい時分に知った
ひとつ覚えの救命術を
使ってみただけだった--。

 子どものときは藁を集め、火を焚く役目だったマサさんが、あるときこどもを助けた人のことを思い出し、こんどは同じ方法で助けた。そういうことがあったのかもしれない。よくわからないが、そこに

ひとつ覚え

 ということばがあって、ここで私はまた立ち止まるのだった。
 ここから「誤読」になるのだが、石毛はマサさんのことを「ひとつ」覚えている。それは、子どもが溺れて仮死状態になったとき、藁の火を焚いてこどもの体を温める。それは、でも「行為」のことではない。そういう「行為」のなかにある「気持ち」を覚えているということだ。「気持ち」は「ひとつ」。行為(救命術/救命方法)時代とともにかわるが、「気持ち」は「ひとつ」のままかわらない。
 で、どんな気持ち?
 書き出しに、戻るのだ。

ああ どんなであろうとも
助けてやりたい

 これが、「この、ぐずがぁ~!」という声になって動き、「はやぐぅ、もっともっと、いっぺぇ、焚げぇ~!」にもなっていたのだ。「ひとつ」がどんな「細部」になっていったか。石毛は、それを書いている。
 いや、こんなことよりも。
 こういう真剣なとき、「この、ぐずがぁ~!」という侮蔑が侮蔑にならないのは、なぜなんだろう。ののしられていても、ののしられている気持ちにならない。思い出すのは「ののしられた」ということではなく、むしろ、「勢い」に引き込まれて「助けてやりたい」という気持ちと「ひとつ」になった感じが強いからだろう。
 「ひとつ覚え」の「ひとつ」は「術」ではなく、むしろ、そのときの「気持ち」だ。
 

*


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マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
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どさくさの「改憲案」

2018-03-08 00:35:48 | 自民党憲法改正草案を読む
どさくさの「改憲案」
             自民党憲法改正草案を読む/番外182(情報の読み方)

 2018年03月07日の読売新聞夕刊(西部版・4版)の一面

大災害時 内閣が緊急政令/法律と同等 自民、改憲案明記へ

 という見出し。
 朝日新聞がスクープした森友学園文書捏造問題や南北朝鮮の対話の陰に隠れてめだたないが、まるで世間の大騒ぎのすきに「改憲案」をどんどん増やしている。
 安倍は最初①自衛隊を憲法に明記する②教育費の無償化の2点を「改憲案」と言っていた。
 ところがそれに③参院選の合区の解消④緊急事態時の国会議員の任期延長を加えた。
 ④は、2012年の自民党改憲案にある「緊急事態条項」に含まれている。
 これまでは「緊急事態条項」とは言っていなかったが、突然、「緊急事態条項」を言い出した。まるで、それが「既成方針」であるかのように、すでに「公約」で言っているかのように、である。
 記事は、こう書いてある。

 自民党憲法改正推進本部(細田博之本部長)は7日午前、党本部で執行役員会を開き、緊急事態対応に関する改憲案について協議した。大災害で国会を開けない場合、内閣に緊急政令の制定を認める規定を盛り込む方向でおおむね一致した。

 「2012年の自民党改憲案」は「緊急事態条項」に非常に問題がある。9条改正よりも問題が多いと指摘する人もいる。

 これまで「改憲案」の「小出し」することで、様子をみていたのだろう。
 12月に打ち出した「④緊急事態時の国会議員の任期延長」が、それほど反撥を招かなかったので、それじゃあ「内閣が緊急政令を出せる」というのも盛り込もうというのである。これは実質的に「緊急事態条項」の追加である。
 自衛隊を憲法に明記するだけではなく、「緊急事態条項」そのものを新しく書き加えることを、安倍はねらっている。
 いつでも、かってに「緊急政令」を出す。つまり「独裁」で、したい放題をするということだ。
 「2012年改憲案」の「緊急事態条項」には、首相が閣議を経て緊急事態を宣言すれば、国民に、国や地方自治体の指示に従う義務を課す規定がある。これは反撥が予想されるため、今回は見送るという。

 で、この「緊急事態条項」のポイントを読売新聞は、こう「整理」している。(番号は、私がつけたもの。)

(1)大災害で国会を開けない場合、内閣に法律と同じ効力の緊急政令制定権を与
える
(2)国政選挙を実施できない場合、国会議員の任期延長を認める
(3)国民に国などの指示に従う義務を課す規定は見送る方向

 (1)も(2)も問題があるのだが、わざわざ(3)で「見送る方向」と書いている点に注意しなければならない。
 (3)はことばを補えば、

国民に国などの指示に従う義務を課す規定は「今回は」見送る方向

 あくまで、「今回は」見送るのである。
 憲法を改正し、「緊急事態条項」を新設、それが新設されれば即座に「国民に国などの指示に従う義務を課す」という条項を追加するつもりなのだ。
 なし崩しに、次々に「改憲」をすすめる。
 「2012年改憲案」にあっと言う間にすりかえる作戦である。

 このずるい作戦を許してはいけない。
 すでに「教育費の無償化」は「無償化」ということばを外している。「教育環境の整備」というような表現に変わっている。「教育環境の整備」というのは、とらえ方によってはどうとでも「解釈」できる。
 何度も書いているが、安倍の気に食わない学問(たとえば、安倍政権を倒すためにはどうするべきか、というような学問)は禁止される。安倍に都合のいい人間だけにする、という「洗脳教育」も「教育環境の整備」という名目で実施できる。学問の自由がなくなるのだ。
 安倍が最初に打ち出した「改憲2項目」はすでに「4項目」に膨れ上がっている。そして、そのうちのひとつは「緊急事態条項」に「格上げ」されている。
 「改憲」の項目が増えれば、増えた分だけ、それを点検する時間が必要になる。議論し、どこに問題点があるか、国民みんなが理解しないといけない。けれど、安倍は、「時間」を確保しようとはしない。逆に、時間を区切っている。短時間の中に多くの議題を放り込み、議論が熟成するのを妨げる作戦である。

 それにしても。
 批判の多い「国民に国などの指示に従う義務を課す規定は見送る」ということで、「緊急事態条項」は「安全」だという「印象操作」をしようと思いついたのはだれなのか。
 「これなら、まあ、大丈夫かも」と油断させる作戦は、あまりにも巧妙である。


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(23)

2018-03-07 09:11:03 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(23)(創元社、2018年02月10日発行)

 「おまえが死んだあとで」は、どんな具合に「音楽」と関係があるのか。二連目に「歌声」ということばがある。しかし私には「歌声」は聞こえない。単なる「ことば」として、そこにある、という感じしかしない。私が「音楽」を感じるのは、別なところである。

おまえが死んだあとで
青空はいっそう青くなり
おまえが死んだあとで
ようやくぼくはおまえを愛し始める
残された思い出の中で
おまえはいつでもほほえんでいる

 「通俗的」な歌、古い歌謡曲を思わせる。「おまえが死んだあとで」が繰り返されるところも歌謡曲っぽい。書かれている「意味(内容)」も通俗的かもしれない。二行目の「青空はいっそう青くなり」は、そのなかでは少し変わっている。だから、あ、ここがおもしろい、と思う。
 もし谷川の詩の特徴について語るならば、ここかなあ、と考えたりする。
 二連目は、一連目を繰り返しながら別なことばも動く。繰り返しと変化(変奏)が「音楽(歌謡曲)」という印象をいっそう強くする。

おまえが死んだあとで
歌声はちまたに谺して
おまえが死んだあとで
ようやくぼくはおまえに嘘をつかない
残された一通の手紙に
答えるすべもなく口をつぐんで

 「おまえが死んだあとで」とは別に、連をまたいで繰り返されることばがある。「ようやく」と「残された」である。こういう繰り返しの構造が「歌(音楽)」の感覚を呼び覚ます。繰り返しながら変化している。そのリズムが「歌(音楽)」である。
 この連では「おまえが死んだあとで/ようやくぼくはおまえに嘘をつかない」が「意味(内容)」として刺戟的である。「嘘をつかない」ではなく、「つけない」というのが現実である。「おまえ」が「いない」のだから、嘘をつきようがない。現実を別の角度から言いなおすと、そこに詩があらわれるのかもしれない。
 レトリックだね。

おまえが死んだあとで
人々は電車を乗り降りし
おまえが死んだあとで
ようやくぼくはおまえを信じ始める
残されたくやしさの中で
ぼくらは生きつづけひとりぼっちだ

 「ようやくぼくはおまえを信じ始める」は「ようやくぼくはおまえに嘘をつかない」を思い起こさせる。これも繰り返しと変化(変奏)のひとつである。
 そう思って読むと、この「変奏」の「繰り返し」にも微妙な違いが見えてくる。
 「ようやくぼくはおまえを愛し始める」「ようやくぼくはおまえを信じ始める」は「ようやく……始める」なのに、「ようやくぼくはおまえに嘘をつかない」には「始める」がない。けれど、これは「ようやくぼくはおまえにほんとうを語り始める」と言いなおせば「始める」が隠されていることになる。
 「繰り返し」も「変化」も、あまりにも自然に見えるが、どちらも「つくられたもの」(人間が創ったもの)であることがわかる。「工夫」が隠れている、というのが「つくりもの」の証拠である。
 「残された思い出」は「一通の手紙」「くやしさ」と言いなおされる。「思い出」を「感情」にまで凝縮していくところも「工夫」だし、「ちまた」を「電車」と言いなおすのも「変奏」である。
 と、読んできて。
 最後に、私は、「わっ」と声を出しそうになる。

ぼくらは生きつづけひとりぼっちだ

 「ぼくら」って、だれ?
 一連目は、「おまえはいつでもほほえんでいる」と「おまえ」が「主語」。二連目は「答えるすべもなく口をつぐんで」と主語は書かれていないが「ぼく」だろう。

残された一通の手紙に
「ぼくは」答えるすべもなく口をつぐんで(いる)

 と、ことばを補うと、繰り返しと変奏がわかりやすくなる。
 そうすると、三連目の「ぼくら」は、こう言いなおすべきなのだ。

「おまえ」と「ぼく」は生きつづけひとりぼっちだ(でいる)

 「ぼく」が「生きつづけ」「ひとりぼっち」というのは、「おまえが死んだあと」なので当然のことである。でも

おまえは生きつづけひとりぼっちでいる

 はどうか。「死んでいる」のに「生きつづける」は矛盾している。非論理的だ。しかし、ここに「残された思い出の中で」「残された一通の手紙の中で」「残されたぼくのくやしさの中で」とことばを補うと、どうなるだろう。
 「思い出の中で人が生きつづけている」という言い方は、しばしばだれもが口にする。人は死んでも「思い出の中で生きつづけている」。その人が「ひとりぼっち」なのは、「思い出」と「現実(いま)」が、接続しながら切断しているからだ。「思い出」に閉じこめられて、そこから出て来られない。「思い出」のなかで「ひとりぼっち」。
 ここには、「おまえ」と「ぼく」が切り離せない形で結びついている。「接続と切断」が、そこにある
 「おまえ」を「沈黙」、「ぼく」を「音」と言いなおしてみれば、これは谷川が語り続けている「音楽」の「構造」そのものになる。
 繰り返しと変奏という、感覚的につかみやすい部分だけを読んでいて、最後に、突然、「ここに音楽がある」と「音楽」をぶつけられたような衝撃を受ける。

 

*


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草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
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池井昌樹『未知』(2)

2018-03-06 12:08:44 | 詩集
池井昌樹『未知』(2)(思潮社、2018年03月20日発行)

 「螢狩」という作品。その前半。

こんやはほたるがりだから
あさからこころときめいて
ごはんもおふろもうわのそら
ほたるがりとはなんなのか
だれからおしえられたのか
だれもしらないほたるがり

 「だれもしらないほたるがり」に思わず傍線を引いた。
 ここに書かれていることは、学校文法にしたがって読めば、「ほたるがり」とは「何か」、「ほたるがり」を「だれからおしえられたのか」を知らないということになるのかもしれないが、それをほっておいて

だれもしらないほたるがり

 だけを読むと、池井以外の「だれもしらないほたるがり」、池井だけが知っている「ほたるがり」とも読むことができる。一行をまわりの行とは無関係に読むというのは学校ではやらないだろうが、ある一行だけに惹かれる、ということは私の場合しばしば起きる。その惹かれる部分、引きつける力に身を任せてしまう。
 これは先走りしすぎた「誤読」ということになるかもしれないが。
 こんな「誤読」をしてしまうのは、「ほたるがり」が何であるかを私は知っているからだ。「ほたるがり」というような「おしゃれなことば」を私はこどものときにつかったことはない。「ほたるをつかまえにいこう」が最初のことばであり、こども時代をすぎると「ほたるを見に行こう」になった。捕まえる(狩り)が欲望として最初にあり、あとから「見るだけ」という気取った態度にかわった。そういう自分の中で起きた変化も含めて「ほたるがり」とは何かを私は知っている。たいがいの人は知っているだろう。
 「だれからおしえられたか」ということは、ちょっとむずかしい。特定できない。教えられたというよりも、なんとなく知ってしまうものである。炊いた白米を「ごはん」と呼ぶことを「誰から教えられたか」なんて、だれも知らないのと同じである。「誰から教えられたか」なんて、知る必要がない。
 では、なぜ、池井は「(だれも)しらない」と書いたのか。
 「しらない」けれど「ある」と言いたいのだと思う。「しらない」まま、「ある」ものはたくさんある。そして池井は「しらない」ということを「知っている」と言いたいのか。いや、そういう面倒くさいことを池井は考える人間ではない。(これは、個人的に池井を知っている私の「独断」であって、根拠はない。)
 
 池井は、

だれもしらないほたるがり

 が「ある」ことを知っている。このときの「だれもしらない」には池井も含まれる。「完璧な」といえばいいのか、だれも体験したことのない「ほたるがり」というものがある。
 「ほたるがりとはなんなのか/だれからおしえられたのか」というような「こざかしい質問」を叩きこわしてしまう「完璧なほたるがり」がある。まだ見たことがないけれど、また見たことがないからこそ、今夜見ることができるかもしれない「完璧なほたるがり」。
 それはどんな「ほたるがり」か。

まなこしずかにとざしたら
まんてんのほたるのあかり
とおのいてゆくあおい地球

 「地球」には「ほし」というルビがついている。地球(池井が生きている場所)が、「ほし」になって、ほたるのように飛んで行く。ほたるの群れが地球になって見える。地球とほたると星の区別がつかなくなる。
 空にあるのは「ほたる」、地上にあるのは「ほし」。
 放心して、そんな世界に迷い込む。「だれもしらない」ほたるがりは、そういう形で「ある」。

 あ、でも、どうして池井はそれを知っているのか。
 わからない。
 私にわからない以上に、池井にはそれがわからない。だから詩を書く。
 「わからない」けれど「ある」ものは「ある」。この「ある」を「だれもしらない」けれど、池井は「わかっている」。
 「知る」と「わかる」には、「説明」しにくい違いがある。

 「夕暮時は」には、こういう行がある。

ゆうぐれどきは かえりたくなる
だれかがぼくを まつあそこへと
それがどこだか しりはしないが
だれがまつのか しりはしないが

 「しらない」が「わかっている」のだ。
 「階」には、こういう行がある。

あのなないろのきえたあたりに
だれもしらないところがあって
だれかがまっていることを
たしかにまっていることを

 「しらない」けれど「ある」、「だれか」が「いる」。それは「たしか」である。この「たしか」が「わかる」ということだ。
 そして、「もういいかい」には、こういう行がある。

ぼくがだれだったのかさえ
それさえももうわからない
しろいとばりのたれこめて
ここがどこかもわからない

 この二つを比較してみると、池井にとって「しらない」ことは重要ではない。池井が知らなくても「だれか」が「知っている」。その「だれか」に向き合うとき、「しらない」ものが「ある」ことが「わかる」。
 「もういいかい」は、「だれか」を見失った詩である。
 池井は、困惑している。「ある」を教えてくれる「誰か」がいないのだ。「待たされている」のである。「もういいかい」と、池井は池井を待たせている「だれか」に向かって叫んでいる。

もういいかい
もういちどだけいってみる
もういいよ
というこえがする
しろいとばりのあちらから
まあだだよ
というささやきもする

 「もういいよ」と「まあだだよ」が同時に聞こえる。
 よく思い出せないが「わからない」ということばを池井はいままでに書いてきただろうか。非常に気になる。「もういいかい」は私の胸に、ずきんと響く。




 

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