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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(22)

2018-03-06 10:41:16 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(22)(創元社、2018年02月10日発行)

 「あのひとが来て」は最終連に「音楽」ということばが出てくる。それまでは「あのひとが来て」はじまった一日が語られている。
 きのうは長い感想になったので、きょうは短い感想にしたい。
 最終連だけを取り上げる。

夜になって雨が上がり星が瞬き始めた
時間は永遠の娘 歓びは哀しみの息子
あのひとのかたわらでいつまでも終わらない音楽を聞いた

 この「音楽」とは何か。ベートーベン、モーツァルト、ショパンの曲を指しているわけではない。具体的な音を指してはいない。実際には聞こえない「音楽」、つまり「沈黙の音楽」を指している。
 それはどこにあるか。
 「対比」が「音楽」となって響く。

時間は永遠の娘 歓びは哀しみの息子

 この一行にはいくつかの「対比」がある。「娘(女)」と「息子(男)」の対比はわかりやすいが、ほかにもある。そのことはあとでふれることにして、

夜になって雨が上がり星が瞬き始めた

 から見ていく。
 「夜になって」の「夜」は書かれていない「昼」ということばと「対比」することができる。「昼」は、詩の前半に書かれている。「なる」という「動詞」が「昼」を呼び出し、同時に否定する、あるいは超えていく。
 「雨」と「星」は共存しない。これも「対比」といえる。雨が「上がり」は「晴れる」。そのあとに星が瞬く。「上がる」という動詞が「対比」を「移行」(変化)として書かれているので、見落としてしまいそうになるが、「対比」である。「動詞」が「対比」されているものを接続している。連続させている。この「接続」には「雨が上がる」(雨がやむ)という「中断」が含まれている。「断絶」が「上がる」という「動詞」で「接続」されるという、おもしろい構造になっている。この構造は「暮らし」に密着しているので、ついつい見落としてしまう。
 「夜になって」が「夜になる前は昼だった」ということを意味するのだが、そういうことをいちいち意識しない。ここにも「暮らし」のなかにある「接続と切断(切断と接続)」がある。
 この「切断と接続(接続と切断)」は、

歓びは哀しみの息子

 ということばの奥にも隠れている。「哀しみ(母)」からやがて「歓び(息子)」が生まれる。それは「生む」ということばでは正確には伝えられない「変化」なのだが、私たちは確かに「哀しみ」がずっーと「哀しみ」のまま人間を苦しめるのではなく、どこからともなく「歓び」がやってくることを知っている。歓びは哀しみを超えていく。そこには「切断と接続」がある。間にあるのは不思議な「時間」である。
 その「時間」から、

時間は永遠の娘

 を読み直すと、そこに書かれているものがとても複雑になる。
 「時間は永遠の娘」ということばを単独で読んだとき、「時間」は「一瞬(いま)」と読むことができる。「永遠」という「長い時間」のなかの「一瞬(いま)」は、「永遠」という「母」から生まれた存在。「娘(瞬間)」は「母(永遠)」につながっている。
 でも、その「時間」は「瞬間」であると同時に、「永遠」ではないけれど「幅(長さ)」をもった「時間」であることもある。「幅(長さ)」があれば、そのなかで「変化」が起きる。「切断と接続(接続と切断)」も起きる。
 この「変化(動き)」を起点に考え直すと「時間」は動くが「永遠」は動かないということになる。動くものが動かないものを浮かび上がらせる、とも言える。「永遠は時間の娘」と言っていいかどうかむずかしいが、私は、一瞬混乱する。
 どちらが「母」、どちらが「娘/息子」とは言えない。
 「哀しみは歓びの息子」というようなことも「暮らし」には存在する。「遊びすぎているから、そんな痛い目にあうのだ」「怠けているから、そうなったのだ」というような言い方は「暮らし」のなかに根付いている。
 「対比されるもの」、「対」になっているものは、ときには「入れ替え」が可能なのだ。むしろ、それは固定化せずに、入れ代わるものとして「対」そのものとし把握しないといけないのかもしれない。
 そうすると「対比」とは結局何になるのだろうか。
 「対比(対)」とはことばによって「つくりだされたもの」にならないか。
 「対比(対)」という意識によって整えられないかぎり、それはただ「ある」だけのもの。
 「対比(対)」は「ことば」によってつくりだされる。「ある」だけのものが、ことばによって「対(対比)」に「なる」。

 「つくりだす」という「動詞」から「音楽」を振り返ってみる。
 谷川は「自然の音」と「音楽」を対比して、「音楽」を「人間が創るもの」と定義していた。「人間が創るもの」が「音楽」ならば、「つくりだされた対比」もまた「音楽」ということになる。「楽器」や「声」によって表現される「音楽」ではなく「ことば」でかかれた「音楽」ということになる。
 この「音楽」と「沈黙」の関係はどうなるか。「音楽」と「沈黙」は切り離せないもの。同時に固く結びついて存在するもの。

夜になって雨が上がり星が瞬き始めた

 この一行に戻ってみる。
 「雨」と「星」を「対比」させていたのは何か。なにがそれを接続し、また切断したのか。「上がる」という「動詞」である。
 「動詞」は不思議だ。「雨」や「星」は、「それ」と指し示すことができる。でも「上がる」という「動詞」は指し示せない。「動き」を「方便」として「上がる」と呼んでいるが、それは「固定」できない。
 「上がる」と「ことば」にしているが、「雨」や「星」に比べると、それは「存在」とは違う。「動き」は存在するが、それを固定化すると「動き」ではなくなる。「動詞」は、「沈黙」に相当しないだろうか。「名づけられていないもの」にならないだろうか。「動詞」は「名詞」を生み出すための、「ことばにならない」何かということにならないか。

あのひとのかたわらでいつまでも終わらない音楽を聞いた

 最終行の「終わらない」は「動き続ける」ということである。
 「あのひと」と「私」は別個の存在である。つまり「切断」されている。けれども「触れる」ことができる。「接続」できる。二人の間で「切断と接続(接続と切断)」は繰り返され、終わることがない。「切断と接続」は、その都度「対比(対)」を浮かび上がらせる。「対」を生み出し続ける。
 それが「音楽」だ。
 「あなた」と「私」は、それぞれ個別の「音」。そのふたりの「あいだ」に「沈黙」がある。「音のない間」がある。それが「動く」。「沈黙」が動き、「あなた」と「私」という「音」を変化させる。いや、「沈黙」そのものが変化するとも言える。
 楽器ではないもの(沈黙)が奏でる「音楽」がそこにある。



 

*


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目次

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河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
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     *
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(21)

2018-03-05 00:58:36 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(21)(創元社、2018年02月10日発行)

 「音楽のとびら」は詩か、エッセイか。「ことば」であることにかわりはない。ⅠとⅡにわかれている。
 Ⅰのテーマは「言葉は音楽を語る事が出来ない」、あるいは「音楽は言葉を語れない」であり、「音楽は言葉を語る必要はない」。
 そのなかに、「音楽」を離れて、こう書いてある。

 言葉は精神と肉体を分ける。精神すなわち肉体、肉体すなわち精神という言葉をわれわれは未だ、或いはすでに持ち合わせない。

 これについては、異議を申し立てたい。
 ことばは確かに「精神」と「肉体」という表現をもっている。けれども、私は「精神即(すなわち)肉体」「肉体即精神」と思っている。切り離せないし、そのふたつのことばは入れ替え可能である。あるとき「精神」といい、別なときに「肉体」といい、さらには「精神と肉体」、あるいは「肉体と精神」という具合につかいわけるけれど、これは「方便」である。「ひとつ」の「何か」から、「何かの都合」にあわせて「精神」と「肉体」ということばが出てくる。そう考えている。
 たぶん、ここが谷川と私の考え方のいちばんの違いだと思う。
 で、ここからこんなことも思うのだ。
 谷川は「言葉」と「音楽」を、「精神」と「肉体」のように分けている。先の引用は、

 われわれは言葉と音楽を分ける。言葉すなわち音楽、音楽すなわち言葉という「考え方(ものの把握の仕方/思想)」をわれわれは未だ、或いはすでに持ち合わせていない。

 と言い換えることができる。「われわれ」は、「人間は一般に」ということだろうが、厳密に言えば「谷川」である。
 私は、そうではないとらえ方があるのではないか、と思う。ことばと音楽には「即」といえるものが隠れているのではないか、と思う。これは予感のようなものであって、実感ではないのだが。

 こういうことは考え始めると、とてもむずかしいのだが。
 たぶん、どういう環境で育ってきたかということも影響していると思う。
 すでに書いたが、私は「音楽」というものを非常に遅くなってから知った。小学校に入学して、オルガンにあわせて歌を歌うのを聞くまでは「音楽」というものを聞いたことがなかった。両親は歌を歌わないし、歌も聴かない。兄弟とは年が離れているので、歌を聴いたことも一緒に歌ったこともない。「子守歌」めいたものは聞かされたかもしれないが、たぶん「歌」ではなく「声(呼びかけ)」としてしか私の「肉体」には聞こえていない。
 「音楽」が生まれたときから周囲(家庭)にあった谷川とは、考え方がどうしても違ってきてしまう。
 私は「音楽」というものと、「精神」のようにして「出会った」のである。「精神」はいつでも、どこでも存在しているが、子どものときは「精神」ということばを知らない。「精神」ということばを聞き、それを使いこなせるようになるまでは「精神」というものは、私には存在していなかった。「音楽」が小学校で「音楽」ということばで聞かされるまでは、私にとっては存在していなかったというのに似ている。
 「音楽」はなかったが、「音」はあった。山の中で育った私は、自然の音を聞いていた。でも、それは「聞く」という感じではない。「聞く」とは意識しなかったと思う。それは、ただ「ある」。田んぼや畑、道や、草木が「ある」のと同じ。それを「見る」とは、わざわざ言わない。ただ「ある」のだ。
 ことば(声)は、かなり違う。それは「聞く」ものだった。ことばは「精神」と「肉体」を動かす。「肉体」は、そのときあまり意識されない。「精神」ということばはおおげさだから、「気持ち」と言いなおした方がいい。ことば(声)を聞く。つまり「何か」言われる。それに対して「気持ち」がまず動き、そのあとで「肉体」が動く。
 自然のあれこれ(見えるもの、聞こえるもの)も「精神」と「肉体」を動かす。働きかけてくる。けれど、そのとき「精神」はあまり意識されない。「肉体」が反応している。川の水が音を立てて流れていると、その中には入らない。落ちないようにする。それは「精神」で判断しての動きではない。「肉体」の、一種の無意識の動きである。
 どんどん脱線してしまう。どこまで断線していいのか、わからなくなるのだが、とりあえず、そういうことを書いておきたい。Ⅱで谷川が書いていることと、少し関係があるからだ。

 Ⅱの中心的なエピソードというか、テーマは、信州の山奥でフォークソングを聞いたときの谷川の「反応」である。
 自然の音は聞いていた。(聞こえていた)。けれど「音楽」聞かない日々がつづいた。そんなある日、フォークソングのグループがやってきて、歌を歌った。その音楽に谷川は「圧倒」された、という。

 音楽は、それら自然の音とは最初の一音から別物だった。それは思わず顔が赤らむほどぶしつけなものだった。あつかましく図々しく高原の空気の中に響きわたり、私を犯した。ひとつひとつの音が、人間の肉の訴えに満ちており、トルストイがクロイツェルソナタについて言ったことを、私はまざまざと想い起こしたのである。

 この文章で私が感じるのは、「音楽」と「自然の音」というものが、私の感覚とはまったく逆であるということだ。
 「音楽」を「ひとのつくったもの」と谷川は言うが、「音楽」は谷川にとって生まれたときからそばにあった。先天的だ。「自然の音(信州の山の音)」は都会育ちの谷川にはあとからやってきた。後天的だ。
 この「先天的」と「後天的」は、「肉体」と「精神」という具合に言い換えることができる。「肉体」と「精神」はいっしょにあるもの(切り離せないもの)だが、ふつう「肉体」が先天的にあり、「精神」はあとから学ぶもの(気づくもの)だろう。
 さらに言い換えると、谷川にとっては「音楽」は「肉体」であり、「信州の山の音」は「精神」なのだ。
 「音楽」が「肉体」であるからこそ、谷川を「犯す」。
 「おかす」という動詞は「侵す」と書けば「精神を侵す」「自由を侵す」ともつかうけれど、「犯す」ならば「肉体」を「犯す」である。自然の音は「肉体」ではないから、谷川を「犯す」ことはない。
 「音楽」は谷川にとって「先天的」であり、「肉体」そのものである。
 だからこそ、こうも書く。

美と快楽と慰めに結びついているからこそ、音楽はますます奥深いものになるのである。

 これは「肉体」と結びついているからこそ「音楽は奥深いものになる」であり、「音楽の美と快楽」は「肉体の美と快楽」そのものである。「後天的(人工的)」なものではなく「先天的」なのものなのだ。

 音楽そのものが本来、理性への挑戦という一面を含んでいるのだ。音楽の精神性も、それを踏まえて考えることなくしては、単なる通俗教養主義に堕してしまうだろう。

 谷川にとって「音楽」が「先天的(肉体/自然)」だからこそ、それは「理性への挑戦」になる。「理性」は「後天的」であり「人工的」だ。「音楽」の「精神性(後天的/人工的)」なものというのは、「理性」でつくる「精神」ではなく「肉体」が本能的に身につける「身のこなし」のようなものなのだ。

 こう考えてくると、大問題が起きる。

 「自然の音」と「音楽(人工の音)」のどちらが先天的(肉体的)かという部分で、私と谷川は決定的に違う。
 この違いを超えて、詩を読み続けることはできるのか。違いを抱えたまま読み続けると、そこに何があらわれてくるのか。
 そこにあらわれてくることばは、谷川について語っているのか、私について語っているのか。
 区別がむずかしくなる。
 わけがわからなくなりそうだが、わけがわからないことを利用して、Ⅰに戻ってみる。谷川は、

音楽は言葉を語る必要はない

 と語っていた。その「音楽」を「肉体」と書き直してみよう。

「肉体」は言葉を語る必要はない

 実際、「肉体」が動くとき「ことば」を必要としない。「肉体」は「動き」を通して「他者」と交渉する。「ことば」はなくても「肉体」が何をしたいかはわかる。つたわる。
 さらに「言葉」は「後天的」に学ぶもの、「肉体」は「先天的」に存在するものだから、これはこういう具合に読み直すこともできる。

「先天的存在である肉体」は「後天的なもの」を語る必要はない

 「先天的なもの」は「ある」。「ある」だけで十分なのだ。完結している。
 これは、私の「感覚」である。「音楽(人工の音)」を知らずに育った私の「実感」に非常に近い。
 もうひとつ、私が「異議申し立て」をした部分の文章はどうなるか。

 言葉は精神と肉体を分ける。精神すなわち肉体、肉体すなわち精神という言葉をわれわれは未だ、或いはすでに持ち合わせない。

 この「肉体」を「音楽」と言い換えてみよう。

 言葉は精神と「音楽」を分ける。精神すなわち「音楽」、「音楽」すなわち精神という言葉をわれわれは未だ、或いはすでに持ち合わせない。

 私は書きながら、「肉体」がぐらりと揺れるのを感じる。
 谷川はむしろ、

精神すなわち「音楽」、「音楽」すなわち精神

 ということが「肉体」にしみついてしまっているのではないだろうか。「肉体」にしみついてしまっているから、それをことばにする必要がない。
 「音楽」を「人工的なもの」(後天的なもの)と言いなおすと、肉体よりも後天的な「精神」と「即」でしっかり結びつかないか。

精神(後天的なもの)すなわち「人工的なもの(後天的なもの)」

 「後天的なもの」という「同じことば」が「即」そのものになる。

 「音楽」について谷川は「私を犯した」と書いていた。「音楽」は「肉体」であった。だから、いま「音楽」と書き直した文章をもう一度「肉体」と書き直すことも可能なはずである。
 そうすると、どうなるか。

精神すなわち肉体、肉体すなわち精神

 谷川は、こういうことばを「持ち合わせない」と書いているが、私は谷川の詩に「精神すなわち肉体、肉体すなわち精神」という「思想」が隠れてると感じる。「すなわち」のかわりに「音楽」があいだに入って「精神」と「肉体」を結びつけている、入れ替え可能にしていると感じている。

精神=音楽=肉体

 記号をつかって書けば、こういう関係があると感じる。
 「音楽」を媒介として挟み込むと、谷川にとっては「精神即(すなわち)肉体」にならないか。そしてまた「音楽」を媒介とすれば「言葉即肉体」ということも言えるのではないか。
 うまく整理できないが、私が谷川から受け取るのは「言葉(精神)=音楽=肉体」という「ひとつ」のものである。
 私は「正式な音楽」というものを知らないが、ことばのもっている「音の響き/声の響き」と「肉体」は切り離せないものだと感じている。私は「音楽」のかわりに「響き」を媒介にして「ことば(精神)=響き/声=肉体」を「ひとつ」のものと考える。
 私は谷川が「音楽」と呼んでいるものを「響き(そこにある音の肉体)」と自己流に「誤読」して、谷川の詩と向き合っているのかもしれない。

 (書いているときは、何かがわかっているつもりだったが、読み返すと何が書いてあるかわからない文章になった。)


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クリント・イーストウッド監督「15時17分、パリ行き」(★★★★★)

2018-03-04 23:53:27 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 アンソニー・サドラー、アレク・スカラトス、スペンサー・ストーン

 「実話」の映画である。「実話」の核心はとても「劇的」なものである。しかし、これが実にあっさりと描かれている。
 映画は(あるいは、あらゆる芸術は)、時間と空間を自在に変形させる。「編集」といった方がいいかもしれないけれど。たとえば昨年評判になったクリストファー・ノーラン監督「ダンケルク」は三つの時間を「ひとつ」にしてクライマックスまで観客を引っ張っていった。これは極端な例だが、たいていの映画はクライマックスをいろいろな角度で「時間」を重複させたり引き延ばしたりしてみせる。イーストウッドの「ハドソン川の奇跡」も同じシーンが繰り返されている。(この反復は、裁判での「再現」ではあるが。)
 ところが、この映画ではイーストウッドは、そういう「劇的」にみせる手法をあっさり捨ててしまっている。「一回性」をそのままに、ぱっと再現している。カメラのアングルは考えられているが、カメラが「演技」することを拒絶し、あの瞬間を、あの瞬間のまま、ぱっとつかみ取っている。
 だから、とても奇妙な言い方だが、「はらはらどきどき」しない。「はらはらどきどき」しているひまがない。映画で「はらはらどきどき」するのは、実は、感情を楽しむ余裕があるときなのだ。「現実」は「無我夢中」のうち終わってしまう。「無我夢中」ということさえ、わからないうちに終わってしまう。
 とても特徴的なのが、列車内での銃撃を試みた「犯人」の人間像が、まったくわからない。銃をもって列車に乗り込み、乗客を殺そうとした、という以外のことを、乗客も(観客も)知らない。だから、映画ではその映像がとても少ない。
 うーむ。
 私はうなってしまう。「映画」であることを、やめている。あ、もっと、そのシーンを見たい。このシーンはこれから起きるストーリーの展開と、どうつながるのか。そういう「なぞとき」をさせない。このシーンで「はらはらどきとき」したい、というような観客の感情もあおらない。(とはいうものの、止血のために指で押さえているシーン。スペンサー・ストーンが看護師と交代する一瞬などは、とてもしっかりと描写している。どうしてスペンサー・ストーンが素手で犯人に立ち向かえたのか、という伏線はきちんと紹介されているが。)
 その結果、どういうことが起きるか。
 「一回」しか起きない事件そのものに立ち会っている感じがするのである。この「立ち会っている」という感じがすごい。「映画」であることを忘れる。
 どのシーンも「一回」しか撮影していないのではないかと感じさせる。
 でも、そうではない。予告編を見た人は気づくと思うが、列車の中のスナックタイム。コーラを注文するのだが、予告編では「コーラがちっちゃい」「フランスだから」というようなやりとりだったが、本編では「フランスだから」という台詞にはなっていない。何度か撮り直し、そのなかから一番いいシーンをつないでいる。しかし、とても、そうは思えない。そういう不思議さがある。
 ストーリーというか、クライマックスとは無関係の子ども時代のシーン、列車に乗るまでの旅行のシーンさえも同じである。あらゆることが、ごく普通に起きる「一回性」をそのまま浮かび上がらせる。「一回」だけれど、忘れらないことがある。それを「一回性」のまま映画にしてしまっている。これは、すごい。
 (ユナイテッドシネマ・キャナルシティスクリーン8、2018年03月04日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(20)

2018-03-04 09:30:20 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(20)(創元社、2018年02月10日発行)

 「ケトルドラム奏者」。ケトルドラムを私は知らない。ドラムの一種だろう。

どんなおおきなおとも
しずけさをこわすことはできない
どんなおおきなおとも
しずけさのなかでなりひびく

 「どんなおおきなおとも」で始まるからケトルドラムは大きな音が出るドラムなのだろう。一連目は「おと」を主語にして語っている。「しずけさ」を「こわすことはできない」「なりひひびく(ことしかできない)」。四行目に「できない」を補って読むと、「おと」と「しずけさ」では「脇役」を演じている「しずけさ」の方が「力がある」ということがわかる。
 ここから主語(主役)が逆転して二連目へつづく。

ことりのさえずりと
みさいるのばくはつとを
しずけさはともにそのうでにだきとめる
しずけさはとわにそのうでに

 一連目の「おと」は「ことりのさえずり」(小さな音)と「みさいるのばくはつ」(大きな音)と言いなおされ、「しずけさ」の「うで」のなかにおさまる。「しずけさ」は「おと」よりも「大きい/広い/強い」。
 だが「おと」に「大きい」「小さい」があるなら、「しずけさ」にも「大きい」「小さい」があるかもしれない。
 「ことりのさえずり」をだきとめる「うで」は「大きい」のか「小さい」のか。小さな「しずけさ」でだきとめるのかもしれない。
 「みさいるのばつはつ(音)」をだきとめる「うで」はどうか。「大きい」か「小さい」か。「おおきいおと」をだきとめるのだから「おおきい」のかもしれない。
 「おと」が「大小」を自在に変えるように、「しずけさ」も「大小」を自在に変える。だきとめる「うで」が自在に大きさ(広さ、強さ)を変えるように、自在に変化するかもしれない。
 「自在な変化」があって「ともに」が生まれ、「とわに」も生まれる。
 「ともに」と「とわに」という音(ことば)の響きあいが、「意味」を一気に広げる。

 一連目の最終行に「できない」が省略されていたように、この連の最終行には「だきとめる」が省略されている。さらにそこに「できる」を補って読む必要がある。「だきとめることができる」と。
 一連目が「できない」ということばで「おと」の「不可能性」を描いていたのに対し、二連目は「できる」と「しずけさ」の「可能性」を描いている。
 この「音」と「静けさ(沈黙)」の関係は、この詩集で繰り返されるテーマだが、この詩から別のことを考えてみることができる。
 「音」は単に「沈黙」のなかで鳴り響くだけなのか。
 前に読んだ詩の中では、こういう行があった。

 ジャズのドラマーたちは、騒音をつくっているのではない。彼等
は沈黙に対抗するために、別の沈黙をつくっているのだ。

 音は「沈黙」を「音」そのもののなかにつくりだす。そしてその「音」は自然発生的なものではない。「音」を生み出す人がいるのだ。ジャズなら、ドラマーが。
 この詩ではケトルドラムの「奏者」がいる。
 ところが、この詩には「奏者」はなかなかみつからない。一連目は「おと」と「しずけさ」の関係を抽象的(?)に語っているだけのように読んでしまう。二連目も「ことりのさえずり(小さな音)」「みさいるのばつはつ(大きな音)」と「しずけさ」の関係だけを語っているように見える。
 でも、二連目の「しずけさ」に「そのうで」ということばがあることを思い出そう。
 「しずけさ」に「うで」はあるか。私は見たことがない。それは「比喩」である。「しずけさ」そのものは「うで」をもっていない。そこに「ない」からこそ「比喩」が動き、そこに「うで」を生み出す。
 言いなおそう。
 二連目は、

ことりのさえずりと
みさいるのばくはつとを
しずけさはともにだきとめる
しずけさはとわに(だきとめる)

 でも「意味」はかわらない。
 なぜ「うで」という「比喩」をつかったのか。「だきとめる」という「動詞」が「うで」を生み出したのだとも言えるが、ここに「ケトルドラム奏者」が反映されていると読むべきなのではないだろうか。
 この詩には具体的に「奏者」の姿は書かれていない。けれどタイトルに「奏者」がある以上、どこかで「奏者」は意識されている。
 それが、「うで」という「肉体」となって、ここにあらわれている。
 ここから、この詩をこんなふうに「誤読」することができる。(つまり、谷川が書いていないことを勝手に捏造しながら読み進むことができる。)
 ジャズドラマーが「沈黙と対抗するための、別の沈黙をつくっている」のだとしたら、「ケトルドラム奏者」も「沈黙」をつくっている。その「沈黙」は「ことりのさえずり」をだきとめることができる。「みさいるのばくはつ(音)」もだきとめることができる。ドラムをたたく、「そのうで」で、だきとめることができる。
 一連目から二連目への変化を「おと」から「しずけさ」への主語(主役)の変化として読んできたが、実は「ドラム」から「奏者」への変化でもあったのだ。「できる」の「主語」は「うで」をもった「奏者」である。

 「音楽」、人間のつくりだす「音と沈黙の結合」は、そうやって「世界」を変えていく。谷川は「音楽」にその可能性を見ている。





 

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河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(19)

2018-03-03 11:44:44 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(19)(創元社、2018年02月10日発行)

 「奏楽」は「音楽」と「息」の関係を書いている。

きららかの
黄金の楽器に
憤る
息を吹きこめ

冴え渡る
銀の楽器に
憧れの
息を吹きこめ

ぬくもりの
木の楽器には
忘却の
息を吹きこめ

 最初の修飾語は「黄金」「銀」「木」にかかるのだが、あえてその行を飛ばして「憤る」「憧れ」「忘却」と結びつけるとどうなるだろうか。「きららか(な)憤り」「冴え渡る憧れ」「ぬくもりの忘却」。さらに言い換えて「憤りの輝き」「憧れの冴え渡り方」「忘却のぬくもり」。私には「ぬくもり」と「忘却」の結びつきが一番納得できる。「怒り」と「輝き」も納得できる。でも「憧れ」と「冴え渡る」(透明?)はなんとなくしっくりこない。「冴え渡る」を「透き通った」と読み直すと、「憧れる」ときの一途さとつながるかなあ。
 「息」との関係をみると、どうか。
 「怒る」とき「息」は燃える。だから、輝く。きらきら。
 「憧れる」とき「息」は静かだ。この「静寂」が「冴え渡る」なのかな?
 「忘却」のとき、忘れてしまったとき、「息」は複雑かもしれない。「悲しみ」も含まれるし、「なぐさめ」のようなものも含まれる。いちばん「人間的」かなあ。ひとの「ぬくもり」は、「忘却」(あるいは思い出)とともに動いている。
 金管楽器、木管楽器はあっても、銀管楽器がない。それなのに「金」「銀」「木」とことばを動かしているために、「無理」が動いているのかも。
 でも、この詩の力点は「楽器」ではなく、「奏楽」の「奏でる」の方にある。「息を吹きこめ」の方にある。
 だから、このあと「主語」がやってくる。

肉に
ひそむこころを
解き放て
地平の彼方

 「肉」には「ししむら」というルビがある。古い言い方だね。ことばが「いま」ではなく、「長い時間」へと遡っていく。「時間」の奥に「ひそむ」ものを暗示させる。その動きがひきつがれ「ひそむこころ」となる。
 「肉(体)」と「こころ」。「二元論」である。「肉(体)」のなかに「こころ」がある。その「肉体」が遠い過去とつながっているなら、「こころ」もまた遠い何かとつながっているだろう。
 この連には「息」ということばがないが、「肉」と「こころ」が結びついているのが「息」だからだろう。「息」を「肉」と「こころ」と言いなおしているのである。
 このとき「肉体」は「肉管楽器」かもしれない。

我等また
風に鳴る笛
野に立って
息を待つ

 「笛」は「楽器」、「肉管楽器」。それは「息」を吐きだす、つまり他の楽器に「息を吹きこむ」のだが、同時に「息を吹き込まれる」ことを待っている。「怒り」か「憧れ」か「忘却」か。「私ではない人の息」を待っている。

星々の
はた人々の
たえまない
今日の吐息を

 「星々」という「宇宙」につながることばが動くのが谷川だ。「人々」よりも先に「宇宙」があらわれる。「宇宙」を引き寄せてしまう。
 でも、「吐息」かあ。
 「吐息」は「吹きこむ」ものかなあ。「洩らす」ものである。「忘却」のとき、ふと「吐息」が漏れるかもしれないけれど、あるいは「憧れ」のときも「吐息」が漏れるかもしれないけれど。
 うーん、
 「吹きこめ」の強さがなくなっている。息が乱れている。




 

*


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河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
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池井昌樹『未知』

2018-03-03 10:47:26 | 詩集
池井昌樹『未知』(1)(思潮社、2018年03月20日発行)

 池井昌樹『未知』は57篇。今回の詩集の特徴は「花」にあらわれている。

このよにはなのあることの
なんというふしぎさだろう
ああきれいだな
ふりむくこころ

 「このよ」「ある」「ふしぎ」「ああ」は、これまでの池井の詩に通じる。「このよ」とはいま、生きている世界。そのとき、池井の生いっしょに、池井以外の生が「ある」。これを池井は「ふしぎ」と考えている。「ふしぎ」以上に「わかる」ことをしない。「ふしぎ」のままにしておくのが池井の「思想/哲学」である。「わかる」かわりに、「ああ」と放心する。放心することで「世界」と一体になる。そのとき「このよ」の「枠」ははずれる。「世界」は「このよ」に限定されない。
 これに、今回は、

ふりむくこころ

 が加わっている。「放心」は「こころ」のあり方だが、その「こころ」に「ふりむく」という動詞がつけ加わっている。
 ここが特徴。
 これまでも池井は、「いま」ではなく「過去」からの「血」の流れを受け止めているし、「過去の誰か」を見つめてはいる。けれど、それは「ふりかえる」ではない。「過去(いのちの源)」をみつめることはあっても、それには「方向」はない。「放心」そのままに、どこを向いているか「限定」されていない。「過去」は「いま」であり「未来」である。いっしょに結びついていて、その全部に開かれているのが「放心」である。
 「過去(いのちの源)」を見ていても、それは「過去」を見ることではなく、「過去」を「いま」をとおして「未来」の方向へあふれさせることである。どこをみつめても、それは必ず「前」になってしまう。それが「放心」というものである。
 その「放心」が、「全方向」を失って、一点に向いている。「こころ」はその「動詞」の起点になっている。
 この四行は、こう繰り返される。

はなをきれいとおもうこころの
なんといううれしさだろう
はなときれいと
こころとひとと
このよにともにあることの
なんとふしぎなよろこびだろう

 「はなをきれいとおもう」の「おもう」は「わかる」である。「了解する」。そしてそれは、「こころ(肉体)」が「はな」に「なる」ことである。「こころ(肉体)」は、「おもう(わかる)」とき、「はな」として「ある」。
 こういう「変化」を「うれしい」と池井は呼んでいる。「うれしい」は「こころ(肉体)」が「他の何か」と「ひとつ」になったときの感情の「呼び方」だ。
 「はな」と「きれい」が切り離せないもの、一体のものと書いたあと、池井は、

こころとひとと

 と言いなおしている。「ひと」とは「他人」か。池井以外の人間か。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。でも私は「他人」と限定せずに「池井の肉体」であり、また「いのちの源」と呼んでみたい。
 「はな」の「いのちの源」が「きれい」であるように、池井の「いのちの源」が「ひと」ということばになってあらわれている。
 それは、

このよにともにある

 単独で「ある」のではなく、「ともにある」。この「ともに」は「共存」とか「併存」ではなく、「つながって」ということだ。「はな」「きれい」「ふしぎ」「こころ」「うれしい」ということばは、そういうことばになっているが、「限定」というか、「特定」できない「つながり」のなかに「ある」。どれかを切り離すと、そのすべてがきえる。つながると、すべてが一斉にあらわれる。
 これは、池井がこれまでも書いてきた「このよ(世界)」の形である。

それだけなのに
それでいいのに
こんなけわしくいやしくにがく
けさもひとごみかきわけながら
ああきれいだな
ふりむくこころ

 「それだけなのに」は「放心」を言いなおしたことばである。「放心」すると、すべてがつながってしまう。「それでいいのに」は、「放心」がつづかない悲しみの声である。「放心」できなくなっている。
 「放心」を許さないものがある。
 それでも、何かを見つけ出そうとする。
 そして実際に「はな」が「ある」。その「ふしぎ」を「きれい」と「おもう」。これを「ふりむく」という動きとして書いている。
 この「ふりむく」は、

あそこへはもうゆけないけれど              (月夜の丘)

よみがえらないひとたちがおり
よみがえらないひとときがあり              (泉下)

 という形で言いなおされている。「失われてしまった」、だからそれを「取り戻したい」という気持ちの動きが「ふりむく」であると、読みたい。
 どうしたら「放心」を取り戻すことができるか、それを探している詩集として読みたい。
 途中まで読んで考えたのは、そういうことである。





 

*


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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(18)

2018-03-02 10:18:08 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(18)(創元社、2018年02月10日発行)

 「音楽のように」には「音楽」ということばは出て来るが、それがどんな音(旋律)、リズムなのか、書かれていない。かわりに「からだ」と「心」、「迷路」と「やすやすとたどりつく」、「かき乱す」と「安らぎ」という具合に「対」が書かれる。

音楽のようになりたい
音楽のようにからだから心への迷路を
やすやすとたどりたい
音楽のようにからだをかき乱しながら
心を安らぎにみちびき
音楽のように時間を抜け出して
ぽっかり晴れ渡った広い野に出たい

 「対」は、音楽ならば「音」と「沈黙」、詩ならば「ことば」と「沈黙」という形でこれまでの作品でも見てきた。「対」になって、世界が「完全」になる。
 「からだ」と「心」の「対」は、いわば「二元論」であり、それについてはまたあとで書くが、私はこの作品では「迷路」と「たどりつく」、「かき乱す」と「安らぎ」の「対」にとても考えさせられた。
 「名詞」と「動詞」が「対」になっている。
 「迷ってたどりつけない」と「やすやすとたどりつく」、「かき乱す」と「安らぐ」ではない。「迷路」と「脱出(到達)」、「攪乱」と「安らぎ」ではない。
 谷川は、無意識に「名詞」を「動詞」に、「動詞」を「名詞」にすりかえている。
 「二元論」で考えるなら、「名詞と名詞」「動詞と動詞」の方が「対」が明確になる。「からだ」と「心」は「名詞と名詞」である。
 谷川は、そういう「単純な二元論」をどこかですり抜けている。

 どうやって?
 すぐには「答え」が出せない。
 だから、「からだ」と「心」という「二元論」に戻って、そこから詩を読み直してみる。
 「からだ」と「心」を入れ替えてみる。

音楽のように心からからだへの迷路を
やすやすとたどりたい
音楽のように心をかき乱しながら
からだを安らぎにみちびき

 どうだろう。
 どっちが、「しっくり」くる?
 実は私は、この詩を、「からだ」と「心」を入れ替えながら読んだ。単純に入れ替えるのではなく、何度も入れ替える。谷川が書いていたのがどちらかわからなくなるくらいに入れ替え続ける。そうしていると、これは「からだ」と「こころ」を入れ替え続けながら読まなければならない作品だと感じてくる。
 「からだ」と「心」は、明確に区別できるものではなく「ひとつ」のものなのだ、と実感できるようになる。
 私は、「心」とか「精神」というものの「実在」を信じていない。存在しているのは「肉体」だけだと思っている。「心」「精神」というのは、ことばを動かすときの「方便」のようなもので、ほんとうは存在していない。「肉体」の「動き」の、どこが動いていると明確に指摘できないものを「心」「精神」と読んでいるだけだと考えている。
 で、この、どこが動いているかわからないけれど、動いてしまう何か。「臓腑」なのか「細胞」なのか、「遺伝子(情報)」なのか、わからないけれど動いてしまうもの。このときの「動く(動き)」というのは、「ある状態」から「別の状態」へ「変わる」ということでもある。
 これを「からだ」と「心」ではなく、「ことば」に移して考えてみる。
 「名詞」が「動詞」に変わる(動いていく)、「動詞」が「名詞」に変わる(動いていく)。「名詞」には「動詞派生」のものがある。「動詞」にも「名詞派生」のものがあるかどうかわからないが、私は「ことば」を自分のものにするとき、「動詞」を基本にして考える癖があるので、「動詞派生の名詞」と考えるのかもしれない。
 「迷路」は「迷い路」であり、それは「迷う」という「動詞」がなければ生まれないことばだと思う。道に迷ったという経験(肉体の記憶)が「迷路」をリアルに浮かび上がらせる。
 そして、この「動詞」というか、「肉体が動く」、「肉体を動かした記憶」というものは、動きを通して、「からだ」でも「心」でもない、別なものを生み出す。

音楽のように時間を抜け出して

 ここに書かれている「時間」を。
 「時間」はどうして存在するか。いつでも存在しているものなのか。
 ふつうは、いつでも、どこでも存在している「客観的」なものと考えるのかもしれない。
 けれど私は「時間」は「肉体」が動くことで「生み出される」ものだと考えている。自分の「肉体」がなければ「時間」というものもない。「肉体」の何かを語るための「方便」として「時間」というものがある。
 「方便」として生み出された「ことばとしての時間」。
 「からだ」も「心」も、「肉体」の何かを語るための「方便として生み出されたもの」と考えている。

 「肉体」があって、「肉体」が何かに触れる。そうすると「肉体」に刺戟が返ってくる。そして「世界」が姿をあらわす。「あらわれた世界」は客観的なものではなく、あくまでも「肉体」の延長である。見えているもの、聞こえているもの、認識しているもの、その広がりすべてが「肉体」であるという具合に、私は「一元論」でとらえる。
 この「一元論」の世界は、「二元論」と比べるととても不安定だ。「からだ」は「からだ」のままではない。「心」は「心」のままではない。瞬間瞬間に、入れ代わる。どちらと呼んでもかまわない、というよりも、入れ替えないが呼ばないといけないものになる。「どっちが、ほんとう?」と聞かれたら、「両方ともほんとう」と答えるしかないものなのである。
 少し余分なことを書きすぎたかもしれない。
 谷川が、私の考えているように考えているとは思わないが、どこかでそういう考えに通じるものを抱えていると感じる。

 そうやって生み出された「時間」と「音楽」の関係を谷川は、

音楽のように時間を抜け出して

 と書いている。「音楽」は人間が生み出した「時間」を抜け出すことができる。「時間」から自由になるのが「音楽」ということになる。「人間(肉体)」にとらわれないのが「音楽」ということになる。
 このことを谷川は、また別な形であらわしている。

音楽のように許し
音楽のように許されたい

 「許す」「許されたい」。これは切り離せない。「許す」が「許される」であり、「許される」が「許す」。
 「音楽」では、「音」が存在することを「沈黙」が「許す」。「音」は「沈黙」に存在することを「許される」だけではない。「音」が「沈黙」が存在することを「許す」。「沈黙」は「音」に「許される」。それは、どちらがどちらかを「許す」、あるいは「許される」という関係ではなく、「対」の形で強く結びついている。
 それが人間がつくりだす「時間」を超えて動いていく。

音楽のように死すべきからだを抱きとめ
心を空へ放してやりたい
音楽のようになりたい

 ここでも「からだ」と「心」を入れ替え(読み替え)、また「抱きとめる」と「放す」も入れ替える(読み替える)ことが大事なのだ。「対」を入れ替え、自在に動くとき、その「対」は「音楽」になるのだ。



 

*


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森口みや「コタローへ」

2018-03-01 10:16:31 | 詩(雑誌・同人誌)
森口みや「コタローへ」(「現代詩手帖」2018年03月号)

 森口みやの詩を読んでいると、ふと高岡淳四を思い出した。書いていることは違うが「正直」が似ている。自分の知っていることばをきちんと守っている。知っていることばで語っている。
 コタローというのは亀なのだと思う。どこかでみつけてきて、飼っている。エサは野菜というか、植物だ。

山盛りの野菜の食事のあと
ほっぺに緑色を貼り付けたまま……
きみは不器用で
一口分にも一苦労なんだもの
「きみの食欲がいじらしいよ。」

 うーん、亀は飼ったことがないが、視線がこんな具合に亀に吸いついて「ゆっくり」動くんだろうなあ。「ほっぺに緑色を貼り付けたまま」には「幼児ことば」もあって、人間はどうして動物に「幼児ことば」で向き合うんだろうか、なんていうことも考えてしまう。「一口分にも一苦労なんだもの」には笑ってしまう。亀の苦労なんか、森口以外、だれも気にしていないよ。
 などと、軽口をたたいていると楽しくなる。
 森口は2月号でも「食べる」ことを書いていたなあ。「食べる」というのは基本的な動詞なので、人間をとおりこえて世界につながる。それがおもしろいのかもしれない。
 途中に、こんな部分がある。

あぷ、あぷ、あぷ
きみに溺れてるみたいに、新しい食べものと
格闘する。
何度も食らいつき損ね、前足で茎を押さえな
がらようやく最初の一口を齧りとったきみを
見届けてから、私もフォークの先を口に含む。
一緒に食べると、おいしいな。

 「一緒に食べる」とき、亀と人間の区別がなくなる。「食べる」という動詞だけが残る。「食べる」ことは「生きる」こと。「一緒に生きると」、その相手がだれであれ楽しくなる。
 詩の最後。

コタローが気に入ったんなら、今日からこの
街のクローバーは全部コタローのものだから、
好きなだけお食べね。
ここらの地面のあちこちが、禿げつるりんの
ピカピカになっても
コタロー、
きみは、何も悪くない。
いっぱい食べて、大きくなるんだよ。

 「きみは、何も悪くない。」この「肯定力」がいいなあ。亀をかわいがっても、何も悪くない。
 「あぷ、あぷ、あぷ」とか「ピカピカ」とか、軽いことばも楽しい。
 「現代詩手帖」の今月号は「詩と哲学」という特集を組んでいる。なんだかめんどうくさそうなことを書いてあるのが、「あぷ、あぷ、あぷ」とか「ピカピカ」ということばのなかに生きている「哲学」を語っているひとはいない。(ちらっとみただけだけれど。)「哲学」というような大問題をテーマに掲げるのなら、ぜひ、そういうことばに目を向けてほしいなあと思う。
 あ、関係のないことを書いてしまったかな。
 でも私は、「特集」の執筆者が語ることよりも、森口の詩の方が「哲学」に近いと思う。なんといっても「正直」だからね。「哲学」とか「思想」は「正直」から始めるしかないものだと私は思っている。


 

*


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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(17)

2018-03-01 08:46:59 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(17)(創元社、2018年02月10日発行)

 「ひとり」という詩のなかに、どんな音かあるのか。どんな音楽があるのか。

きらめく朝の陽差しの中で
あなたの裸の心を見たい
そよ風をわたる林の中で
かくされたのぞみを知りたい
人は傷つけあうしかないとしても
この世に生まれた初めての時に
あなたが触れた世界がいとしい

 「そよ風のわたる林」には「音」があるかもしれない。でも、ここから「音」が聞こえるというのは強引な読み方だろうなあ。
 「音」は聞こえない。
 では、「沈黙」はどうだろう。「沈黙」ももともと「音」がないから聞こえるはずがない。
 でも、こう考えてみよう。
 これまで読んできた詩で、「沈黙」は「音(音楽)」と深く結びついていた。ともにあった。
 この詩の中で、ともに「ある」けれど、書かれて「いない」(ない)ものはないだろうか。もし「ある」とすれば、それは「沈黙」ではないのか。
 「見たい」「知りたい」という動詞がある。主語は「あなた」ではない。「私」だ。
 私が「ある」のに隠されている。
 では、「私」が「沈黙」なのか。
 「あなたの裸のこころ」を「見たい」、「かくされたのぞみ」を「知りたい」。そういうとき、そこに「ない」のは「私」ではなく、「ことば」にされている「裸のこころ」と「のぞみ」である。
 「ことば」になっているものが「ない」(かくされている)。
 「ことば」をとおして、その「ない」ものと向き合っている。
 「ことば」にされていない「私」は「ある」。けれども「ことば」にされている「裸のこころ」と「のぞみ」は「ない」(見えない、知り得ない)。
 そして「あなたが触れた世界」も「いま/ここ」に「ない」。「ことば」にできる、「ことば」として「ある」けれど、「ない」。
 この「ある」と「ない」の関係が「音/音楽」と「沈黙」の結びつきにとても似ている。

 「強い結びつき」(切り離せないもの)は、「見たい」「知りたい」という「欲望」(動詞)のなかにも隠れているかもしれない。
 「見たい」「知りたい」は、単に「見る」「知る」という欲望ではない。「見る」「知る」ことで、その「見たもの」「知ったもの」と「ひとつ」になりたいということだ。
 でも「主語」が違うもの、「あなた」と「私」が「ひとつ」になれど、それは「傷つけあう」ということになるかもしれない。
 そして、この「傷つける」という動詞は「いとしい」という「ことば」と向き合っている。「いとしい」を「欲望」の形でいいなおすと「愛したい」になるかもしれない。「傷つける」「愛する」、「傷つけたい」「愛したい」は、「ある」と「ない」のように出会っている。固く結びついている。
 これもまた「音/音楽」と「沈黙」の結びつきに似ている。

 この一連目には、また「生まれる」と「触れる」という動詞がある。この動詞の主語は「あなた」である。あなたが生まれ、あなたが触れる。それと同時に世界が生まれる。世界があなたに触れる。「あなた」が世界を「生む」、世界が「あなた」に触れる。これも切り離せない。
 そこに「初めて」ということばもある。
 「初めて」は、それまで「世界」がなかった(ない)、ということを語っている。それまではなかった。それが「初めて」「ある」にかわった。
 「ない」が「ある」にかわる。
 その「初めて」という「瞬間」こそ、谷川は「見たい」「知りたい」「愛したい」と思っている。

 詩の後半には、「問い」と「答え」という抽象的な「対」が登場してくるが、前半の方が私は好きである。

 

*


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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
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どこを防衛する?

2018-03-01 00:00:09 | 自民党憲法改正草案を読む
どこを防衛する?
             自民党憲法改正草案を読む/番外181(情報の読み方)

 2018年02月27日の朝日新聞(西部版・14版)の一面

沖縄本島にミサイル部隊/地対艦 政府、配備を検討/中国軍の航行牽制

 という見出し。

 沖縄本島と宮古島の間の宮古海峡を中国海軍の艦艇が航行するのが常態化していることから、政府は地対艦誘導弾(SSS)の部隊を沖縄本島に配備する方向で検討に入った。すでに宮古島への部隊配備は決まっており、海峡の両側から中国軍を強く牽制する狙いがある。

 これを地図入りで紹介しているのだが、これって、どこを守るためのもの?
 沖縄本島と宮古島との間は 290キロも離れている。
 いわゆる「離島防衛」というのなら、沖縄本島には必要ないだろう。沖縄本島には巨大な米軍基地がある。
 だいたい、宮古海峡って、中国の艦船が通ってはいけないところ? 日本の領海?
 記事の最後に、こう書いてある。

 宮古海峡をめぐっては、中国海軍の艦艇4隻が08年11月に初めてここを通って太平洋に進出。(略)今年1月には原子力潜水艦が航行しているのが確認された。公海部分を通るのは国際法上問題はないが、防衛省幹部は「西太平洋で活動する米軍にとって大きな脅威になっている」と話す。

 これでは日本の防衛ではなく、「アメリカ軍を防衛する」ためのミサイルということになる。でも、アメリカ軍って、自衛隊が守らないといけないくらいに脆弱な部隊?
 違うね。
 これは、自衛隊が米軍の「下働き」に過ぎないという「証拠」(証明)。アメリカに言われて、宮古海峡を通る中国の艦隊にプレッシャーをかける、ということだ。

 こんなアメリカのいうがままの状態のなかで憲法9条を改正して、自衛隊を「合憲化」したとして、自衛隊はどう動くのだろう。内閣総理大臣(安倍)が「最高指揮官」とも明記したいらしいが、実際に指揮できるのか。アメリカ軍が指揮するだけだろう。
 自衛隊員が戦死したら、安倍は「最高指揮官は内閣総理大臣である私だが、実際に指揮したのはアメリカ軍であり、私には責任はない」と言い張るんだろうなあ。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
yachisyuso@gmail.com


憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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