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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

天童大人『ピコ・デ・ヨーロッパの雪』

2017-09-22 10:14:40 | 詩集
天童大人『ピコ・デ・ヨーロッパの雪』(響文社、2015年05月15日発行)

 『2017韓中日詩選集』に収録されている天童大人の作品はメッセージが強すぎて、私にはあまりおもしろく感じられない。選んだ人の好み(韓国人の好み)が反映しているのかもしれない。韓国の詩人の詩には「意味」が強いものが多い。「意味の動き」で論理を動かし、感情に近づいてくることばが多い。まあ、こういうことは、そのときの印象なので、あすは違ったことを書くかもしれないが。
 天童大人『ピコ・デ・ヨーロッパの雪』は少し古い詩集。ヨーロッパを放浪(?)したときのことが書かれている。
 私がひかれるのは、次のような連。

川の流れに沿った断崖絶壁
を手彫りで削り出した道幅は一車線のみ
リエバナ一体の中心の村ポーテスから
日に数回 大西洋岸の町ウンケイラへ
の路線バスは世界への唯一の道

 風景の描写と説明。その「ことば」のつながり方に、どきどきする。二行目の「を」、五行目の「の」位置に、ああ、そうか、とこころが動く。
 散文(あるいは、学校教科書の「ことば」のつなぎ方)では「を」「の」は文頭へ来ることはない。あくまで先行することばのあとに置かれる。このあとに、まだことばがありますよ、と事前に知らせるのが「を」や「の」なのだ。
 でも、天童は、そういう書き方をしていない。
 このとき天童の「肉体」は何を見ているのか。何をつかんでいるのか。

川の流れに沿った断崖絶壁

 がまず最初にある。それを見る。しっかりとつかむ。「川の流れ」になって断崖絶壁に触れるのか、「断崖絶壁」になって川の流れを見るのか。流れる水の音を聴くのか。どちらであってもいいが、この一行のなかで「世界」は一瞬完結する。
 世界が完結したあと、新しい世界がまた始まる。ひとつの世界から、別のひとつの世界へ動いていく。その「動き」そのもの、「飛躍」を「を」がつないでいる。
 「川の流れ」(永遠の時間と自然の力)が、川岸を「断崖絶壁」に変える。水(の流れ)と時間、風や雨も含まれるだろうが、そういうものが「岩」を削り、「断崖絶壁にした」。そこにある「永遠の時間と運動」を「肉体」でつかみとる。そこから「彫る」とか「削る」とかいう「肉体」で再現できる動きが、「肉体」のなかでうごめき、

を手彫りで削り出した道幅は一車線のみ

 という「彫る」「削る」ということばといっしょに世界を出現させる。それは単に目で見える風景ではなく、「肉体」と深くつながる風景である。天童の「肉体」が目覚めて、世界の中で動いている。
 このときの「目覚め」の驚きが「を」にある。行頭にある。「行末」では、驚き、目覚め、目覚めることによって飛躍していく感じが消えてしまう。行頭にあるから、この印象が生まれる。
 いったん完結した世界の、その世界の奥にある肉体を引っ張りだし、自分の肉体で反復し、拡大していく「起点」がそこにある。
 最初の一行を書くことによって、肉体の中で何かが目覚め、肉体を刺戟し、そのことに驚きながら次の世界に入っていくという感じが、「を」に集約している。最初から「世界」を知っているわけではない。肉体が動くことで世界が動き、その世界といっしょに「生まれ変わる」。そういうことが「を」に結晶している。
 「一車線」は、このあと「唯一の道」の「一」につながっていく。「一」は小さな数だが、そして最小の単位かもしれないが、小さいだけではない。
 「リエバナ一帯」というとき「一帯」は広がりをもっている。「中心」ということばがあるが「中心」と「周辺」をふくんだものが「一帯」。その「リエバナ」と「ウンケイラ」を結ぶとき、そこにまた「一本」の道が生まれる。「一」を発見する。
 その驚きがあって、五行目の「の」で始まることばがつづく。
 ことばの中に、世界を発見するときリズム、認識がことばになるときのリズムがそのまま動いている。
 こういう作品をこそ、天童の「声」で聞きたいと思った。
 肉体が、声(ことば)を発しながら、世界を発見し、自分のものにしていくという運動。発見したことを「ひとつ」にする声の響き、その運動をこそ聞いてみたいと私は思う。(天童の朗読を聞いたのは、今回が初めてだった。)

 ことばと肉体(声と耳とことば)、ことばと世界の認識については、次の部分が天童の姿を正直に描いている。

続いて入ってきた男
ウン ビノ ブランコ ポルファボール
主人はボトルからグラスに白ワインを注いだ

身近で話されている聲とコトバと
を聴いてはひとことずつ繰り返し
躰に覚えさせていく

 「ビノ ブランコ」とは何か。知らなくても、主人が「白ワイン」を注いだのだから「白ワイン」とわかる。「ウン ビノ ブランコ ポルファボール」と言えば白ワインがのめるのだ。声を(聲、と「耳」の文字を含む表記を天童はつかっている)聴いて(ここにも「耳」がある)、それを繰り返す。つまり天童自身の「肉体(舌、喉)」を動かして再現するということを繰り返して、おぼえる。「頭」でおぼえるのではなく「躰に覚えさせていく」。
 最初の詩にもどると。

川の流れに沿った断崖絶壁
を手彫りで削り出した道幅は一車線のみ

 これも「肉体」による「声」の繰り返し(反復)なのである。
 川が流れる。その水の「肉体」。水が「岩」を削る。そのときの「無言の声」は、手で何かを「彫る」「削る」ときの、人間の「無言の声」になる。「ビノ ブランコ」は聞こえる声だが、そのことばを言うときにだって「無言の声」がある。バルの主人に対するめくばせ、カウンター(テーブル)に近づいていくときの足取り。「肉体の声」がある。ひとは、そういうものを含めて聞き取る。
 水が一本の川になって流れるなら、ひとは手で一本の道を刻んで作る。そこに「無言の声」の響きあいがある。
 音楽がある。
 私たちは、こういう「無音」の音楽を聴きながら、「無音」の音楽となって生きている。
 「肉体」でつかみ、「肉体」で「おぼえる」。「肉体」で「おぼえたこと」というのは、忘れることができない。肉体はいつでも「音楽」であり、そこには「和音」がある。それは人を支えてくれている。
 自転車に乗れるひとは、長い間自転車に乗っていなくても、倒れずに自転車をこげる。泳げるひとは、長い間泳いでいなくても溺れることはない。「肉体」はおぼえたことを忘れないのだ。
 ことばも「肉体」でおぼえれば忘れない。「頭」でおぼえれば「頭」から逃げていくことがあるが、ことばは「肉体」から逃げていくことはない。

 余談だが、ある朝、天童が朝食の席で女性と話している。聞くつもりはなかったが、天童の声が大きいので話が聞こえてくる。その会話の中で、天童は「エステアニョ」と言いかけて「ジィスイヤー」と言いなおした。「エステ」がくっきりと聞こえてきた。「エステ」が他のことば(英語)とは違って、真っ直ぐに声になって飛び出していた。その響きに強烈な力があった。スペイン語が「肉体」にしみついている。「肉体」でおぼえてしまっている。英語は頭で理解しているが、スペイン語は肉体でつかんでいるのだ。
 引用した詩のそのままに、天童は生きてきたのだ。
 偶然に聞いてしまった「エステ」に天童の「思想(肉体)」を感じたというと、詩人への感想にはならないか。
 いや、なるだろうなあ。

長編詩 ピコ・デ・ヨーロッパの雪 (詩人の聲叢書1)
クリエーター情報なし
響文社

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