山口佳代子「おくりびと」、季村敏夫「光景」(「河口から」3、2017年09月15日発行)
山口佳代子「おくりびと」は、火葬後、骨を拾いながらの会話から始まる。
男は火葬場の係の人だろうか。骨の特徴を言う。そのことばに誘われて、「みおくりびと」が死んだ人のことを語る。これが、なかなかおもしろい。男のことばが「みおくりびと」のことばを誘い出している。ことばが重なって、死んだ人を描写し始める。
相槌は書かれていないが、みんな相槌を打っている。そうだったなあ、と思い出している。
不思議な呼吸が書かれている。
思い出が一気に長くなる。「よく山を歩きました」は「野山を巡り」と言いなおされ、「記憶力が抜群だった」は「標本を二万本も残した」と言いなおされ、人物像が明確になる。
「みおくりびと」は、「外的」特徴だけでは満足しない。「肉体」がなくなったので、せめて「精神」をことばで明確にしたいと思うのだろうか。
「樹精」ということばのなかに「精神」の「精」がある。「みおくりびと」の思いは、きっとそこに結晶する。
しかし、このあと、思いもかけないことばがつづいてくる。「起承転結」の「転」のような感じ。
係の男は骨の形、強さには興味があるが、色には関心がない。こんなことは、わざわざ言わなくてもいいのだろうが、職業柄、ついつい言ってしまう。骨の色に、そのひとの特徴が出ることはない、あくまで形、頑丈さに人柄が出ると言いたいのだろう。
うーん。
こういうとき、ひとは、「冷淡さ」(客観性)をどうやって乗り越え、「感情」を再び獲得することができるのか。
なるほどねえ。
ことばはだんだん「論理」になっていく。「論理」の発見が詩であるかどうかは、むずかしい。
「結」を考えると、こうなるしかないのだろうけれど。
私は最初の、
という「母」のことばが、いちばん「実感」があふれている気がして好きである。「論理」として美しくなるに従って、うるさいような感じがしてくる。
こういう感想を書くのは申し訳ないが。
*
季村敏夫「光景」も、死に関係する詩を書いている。
釘を打ちつける音が耳に残っている。それを残したまま、棺を担いで歩く。歩いていると、なおも耳に釘を打つ音が聞こえてくるということだろう。
この「時差」のようなものが、おもしろい。
季村は『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、これはどういうときにもそうなのだ。釘を打つ音が聞こえなくなったときこそ、その音がはっきりとやってくる。思い出され、ことばにすることによって、「出来事」が「事実」になる。「事実」になって、「肉体」に刻み込まれる。
一連目の
この「呼吸」も印象的だ。「棺に打ち込まれる釘の/打たれる音がまじる」ということなのだが、学校文法の文のにようには「整えられていない」。「釘」がまず意識され、それから「音」が意識されるのか。文章としては、そうなのかもしれないが、何か「打たれる(打ち込まれる)」音がある。そのあと「あ、あれは釘を打ち込む音だ」と気づくのかもしれない。いや、そういう「時間の論理」を越えて、瞬間的に全体がつかみとられていると考えるべきだろう。瞬間的、つまり「同時」なので、「の」を挿入することができない。「学校文法」では書けない「事実」がここに書かれている。
「出来事は遅れてあらわれる」というのは、「事実」は瞬間的に起きてしまい、それを「論理的」に、「正確に」とらえなおすことができるのは、あとになってからだ、ということであり、同時に、そうやって「遅れてあらわれる」前にも「事実」があって、それをそのままつかみ取るのが詩の力。
ことばは、どの瞬間、いちばん強くて、可能性に満ちているのか。
それを考えたくなる詩である。
山口佳代子「おくりびと」は、火葬後、骨を拾いながらの会話から始まる。
足首の骨がしっかりしている、と男
よく山を歩きましたからね、と母
脳を覆う骨が分厚いこと、と男
記憶力が抜群だった、と息子
男は火葬場の係の人だろうか。骨の特徴を言う。そのことばに誘われて、「みおくりびと」が死んだ人のことを語る。これが、なかなかおもしろい。男のことばが「みおくりびと」のことばを誘い出している。ことばが重なって、死んだ人を描写し始める。
相槌は書かれていないが、みんな相槌を打っている。そうだったなあ、と思い出している。
不思議な呼吸が書かれている。
これが鼻、頬骨がはっきりしている
人によってお顔が作れない場合も
ございます、と男が話している
骨は淡い薄紫で
花弁みたい、と娘
野山を巡り、薬草を
ドウランに入れて帰り
標本を二万本も残した人
樹精に守られていたのです
碧い光が、冬空から降り注ぎ
思い出が一気に長くなる。「よく山を歩きました」は「野山を巡り」と言いなおされ、「記憶力が抜群だった」は「標本を二万本も残した」と言いなおされ、人物像が明確になる。
「みおくりびと」は、「外的」特徴だけでは満足しない。「肉体」がなくなったので、せめて「精神」をことばで明確にしたいと思うのだろうか。
樹精に守られていたのです
「樹精」ということばのなかに「精神」の「精」がある。「みおくりびと」の思いは、きっとそこに結晶する。
しかし、このあと、思いもかけないことばがつづいてくる。「起承転結」の「転」のような感じ。
いや、どなたも、こんな色におなりですよ
なぜそのようなお色に染まるかといえば
私にもわかりませんが、とふたたび男
係の男は骨の形、強さには興味があるが、色には関心がない。こんなことは、わざわざ言わなくてもいいのだろうが、職業柄、ついつい言ってしまう。骨の色に、そのひとの特徴が出ることはない、あくまで形、頑丈さに人柄が出ると言いたいのだろう。
うーん。
こういうとき、ひとは、「冷淡さ」(客観性)をどうやって乗り越え、「感情」を再び獲得することができるのか。
それなら、誰もが草木に守られている
焼かれたあと、人は花弁となるのだ
父を納めた壺が温かい、と孫息子
なるほどねえ。
ことばはだんだん「論理」になっていく。「論理」の発見が詩であるかどうかは、むずかしい。
「結」を考えると、こうなるしかないのだろうけれど。
私は最初の、
よく山を歩きましたからね、
という「母」のことばが、いちばん「実感」があふれている気がして好きである。「論理」として美しくなるに従って、うるさいような感じがしてくる。
こういう感想を書くのは申し訳ないが。
*
季村敏夫「光景」も、死に関係する詩を書いている。
海からの風に
棺に打ち込まれる釘
打たれる音がまじる
打たれつづける
簡素な響きが植えつけられ
歩みが始まる
釘を打ちつける音が耳に残っている。それを残したまま、棺を担いで歩く。歩いていると、なおも耳に釘を打つ音が聞こえてくるということだろう。
この「時差」のようなものが、おもしろい。
季村は『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、これはどういうときにもそうなのだ。釘を打つ音が聞こえなくなったときこそ、その音がはっきりとやってくる。思い出され、ことばにすることによって、「出来事」が「事実」になる。「事実」になって、「肉体」に刻み込まれる。
一連目の
棺に打ち込まれる釘
打たれる音がまじる
この「呼吸」も印象的だ。「棺に打ち込まれる釘の/打たれる音がまじる」ということなのだが、学校文法の文のにようには「整えられていない」。「釘」がまず意識され、それから「音」が意識されるのか。文章としては、そうなのかもしれないが、何か「打たれる(打ち込まれる)」音がある。そのあと「あ、あれは釘を打ち込む音だ」と気づくのかもしれない。いや、そういう「時間の論理」を越えて、瞬間的に全体がつかみとられていると考えるべきだろう。瞬間的、つまり「同時」なので、「の」を挿入することができない。「学校文法」では書けない「事実」がここに書かれている。
「出来事は遅れてあらわれる」というのは、「事実」は瞬間的に起きてしまい、それを「論理的」に、「正確に」とらえなおすことができるのは、あとになってからだ、ということであり、同時に、そうやって「遅れてあらわれる」前にも「事実」があって、それをそのままつかみ取るのが詩の力。
ことばは、どの瞬間、いちばん強くて、可能性に満ちているのか。
それを考えたくなる詩である。
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