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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外73

2017-05-04 09:40:56 | 自民党憲法改正草案を読む
2017年05月04日(水曜日)

憲法改正
               自民党憲法改正草案を読む/番外73(情報の読み方)

 2017年05月03日読売新聞(西部版・14版)の二面「ニュースQ+」コーナーに「諸外国の憲法改正は?」というやりとりが載っている。「日本よりハードル低く」という見出しとともに、「国立国会図書館調べ」データが掲載されている。それによると、

ドイツ  60回
フランス 27回
イタリア 15回
中国    9回
韓国    9回
米国    6回
豪州    5回
日本    0回

 「主な改正内容」も掲げてはいるが、これは疑問の残る「情報」の典型的な例だ。
 各国の「改正」は、どういう「範囲」で「改正」されたのか。あるいは「修正」されたのか。それがわからない。何よりも、その「改正」がどのような方法でおこなわれたのか、さっぱりわからない。
 自民党の憲法改正草案を例に考えてみると、「情報操作」であることが明白になる。
 自民党の改正草案は膨大な量の改正を含んでいる。ほとんどの条文で「改正」がおこなわれている。なかには、第十三条のように、目を凝らさないと「改正」かどうか、わかりにくいものもある。

現行憲法
第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
自民党改正案
第十三条
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 「個人」が「人」に、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に、「最大の尊重を必要とする」が「最大限に尊重されなければならない」に変更される。どれも、どこが違うのか、文言を変えることでどう変化が起きるのか、即座にはわかりかねる。
 「個人」が「人」に変わる部分など、「一字削除」なので変更に気づかない人もいるかもしれない。
 この変更を、どう数えるか。「1回」なのか「3回」なのか。「1回3か所」なのか。外国の場合は、どう数えているか。それを具体的に指摘、紹介しない限りは、正確な比較の情報を提供したことにならない。資料を「国立国会図書館調べ」と「客観的資料」であるかのように装って利用している。「調べ方」「数字の出し方」が問題なのに、それについては触れていない。
 もし、一か所ずつの「改正」を「改正回数」と数えるなら、自民党改正草案の「回数」は何回と数えればいいのか。「1回」ではないだろう。
 日本はまだ「1回」も改正していない。だから「1回くらいなら」改正してもいい、という印象を引き起こす。
 情報の奥に、何が仕組まれているのか、考える必要がある。

(第13条の比較については、「詩人が読み解く自民党憲法草案の大事なポイント」を参照してください。)
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-4)

2017-05-04 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

7 *(昨日とはどういうことだろう)

昨日とはどういうことだろう
忘れるという領土はどこからつづいているのか
また遠ざかることで何が始まるのか

 「忘れる」という「動詞」を「領土」という空間と結びつけて考えている。「領土」は「忘れる」の比喩ということになる。「つづいているのか」は「出発点(起点)」を問うているのだが「忘れる」という「動詞」そのものが「つづいている」と読み替えることもできる。
 「忘れ/つづける」とは「出発点(起点)」をから「遠ざかる」ことでもある。
 「遠ざかる」は「忘れてしまう/終わる」ということにつながると思うが、これを「終る」ではなく「始まる」という「動詞」で語りなおしている。
 「忘れる」ということさえ「忘れる」。何を「忘れた」のかも「忘れる」。二重否定。そこから「始まる」。
 この「変化」を嵯峨は次のように言い直している。「比喩」で語っている。短い「寓話」と言えるかもしれない。

納屋いっぱい積みあげられた小麦の山
一匹の野鼠がその下に這り込んだとき
戸外では急にはげしく雨が降りだした

 「降り出した」は「降り/始めた」でもある。
 大事なのは「始める」がそこに隠れる形で反復されているということと同時に、「急に/はげしく」ということばが追加されていることかもしれない。
 「何かが始まる」のは「急に/はげしく」なのである。

8 夜雨

五月になつて
はてしない迂回が始まるだろう
ごそごそとはいあがる池の縁の銭亀
砂利をしきつめた平面のような今日の論理の上を
はげしくたたく夜の雨
街灯を消せば闇のなかに雨の矢もあわただしく消えてしまう

 「はてしない」は「つづく」でもある。それは「ごそごそ」と、つまり「遅い」感じでつづく。だから「亀」という「比喩」がつかわれるのだが、これは「強調」というもの。ほんとうの「比喩」は「ごそごそ」という、言い換えのきかない「動き」そのものだろう。「ごそごそ」はまた「徘徊」の「比喩」であり、「徘徊」は「ごそごそ」の「比喩」でもあるだろう。どこかへたどり着くのではない。だから「はてしない」。そういう具合に、ことばは互いの「意味」のなかを「比喩」のように動く。
 「砂利」と「論理」も似たような関係である。「砂利」が「論理」の「比喩」なのか、「論理」が「砂利」の「比喩」なのか。もちろん文法的には「砂利」が「論理」の「比喩」なのだが、「比喩」が動いているとき、そこには「砂利」そのものがあり、そのあとで「論理」がやってくる。「砂利」を実感しないならば、それは「比喩」になりえない。「砂利」そのものを実感することが、「比喩の意味」を実感することである。
 それは「共同」の関係にあるのだ。

 最終行は、とても美しい。
 ここにも「共同」の動きがある。街灯(光)と雨の矢、闇と雨の輝き。街灯があれば、それだけで雨が輝くわけではない。闇があって、そこに光があるとき、雨の矢が見える。「あわただしく」が非常になまなましく感じられ、それがこの風景を詩に高めているのだが、この「あわただしく」は「亀」の「ごそごそ」が書かれているからこそ印象的になる。
 「亀」は「街灯/雨/闇」の関係の「闇」をどこかで担っている。「闇」の「比喩」になっている。















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憲法記念日

2017-05-03 09:04:15 | 自民党憲法改正草案を読む
憲法記念日
               自民党憲法改正草案を読む/番外72(情報の読み方)

 2017年05月03日読売新聞(西部版・14版)は「安倍インタビュー」をトップに掲載している。

憲法改正20年施行目標/9条に自衛隊明記/教育無償化 前向き

 一番の注目点は「教育無償化」。
 いいことのようだが、簡単に喜ぶわけにはいかない。
 安倍が狙っているのは「教育の無償化」によって若者に希望を与えることではない、将来の選択肢を増やすことではない。逆である。「無償化」を条件に、選択肢を狭めることを狙っている。
 大学だけに限って書いてみる。
 いまでも「教育無償化」がおこなわれている大学がある。「防衛大学」である。無償どころか、給料まで出る。ただし、卒業後の職業の選択は自由ではない。指定された「職業」以外につくときは、「無償化」は破棄される。
 同じことが、あらゆる「学問」に適用される。大学を選んだ瞬間から、職業が決定される。これは逆に言うと、「大学入試」が「選別試験」になるということだ。
 そんなことをすれば批判が高まる。実行できるはずがない、と思うかもしれない。
 だからこそ、安倍は「教育勅語」を小学校からたたき込もうとしている。「森友学園(安倍晋三記念小学校)」は安倍昭恵の不手際で失敗したが、どさくさにまぎれて「教育勅語を学校で教えてもいい」と閣議決定している。「教えてもいい」は「教えろ」ということである。
 「学校の土地代、なんとかなりませんか?」という質問は「忖度」を呼ぶ。「教育勅語を教えてもいい」という閣議決定は「教えないなさい」を通り越して「教えることは義務である」に簡単に変わる。
 推奨される「道徳」は「親を大切に、友人を大切に」ではなく、「上のものの言うことには従え」「批判はするな」である。
 教科書の、町のパン屋が日本的な文化の紹介になっていないという理由で、和菓子屋に書き換えさせられている。(教科書会社が「忖度」して書き換えたということになっているが……。)
 「上のもの言うこと(国の方針)に従え」は、すでに始まっている。
 「教育無償化」の名のもとに、「教育の自由」が剥奪される。現実に対する批判力を身につけるということが禁止される。

 「美しいことば」の裏には「危険な企み」が隠れている。
 現実におこなわれていることと結びつけて「意味」を探らないといけない。

 「9条に自衛隊明記」も、巧妙な「嘘」である。「軍隊」を「自衛隊」と言い換えることで「事実」をごまかしている。
 安倍は「北朝鮮情勢が緊迫し、安全保障環境が一層厳しくなっている中、『(自衛隊は)違憲だが、何かあれば命を張ってくれ』というのはあまりにも無責任」と言っているが、様々な対策を考えずに「軍隊」に頼る方が無責任だろう。どうやって戦争を回避するか。方法は「軍隊」だけではない。軍事衝突は拡大するだけである。死者を伴わない戦争はない。対話による平和を生み出す能力のない人間が「軍隊」に頼る。
 ほんとうに戦争を起こす覚悟があるのなら、戦後のことも視野に入れて憲法をみつめないといけない。朝鮮半島で戦争が起きれば難民が大量に生まれる。日本が勝ったとしても難民が生まれる。難民をどう受け入れるか。難民のために日本の国をどう変えていくか。そこまで視野に入れているのか。

(この文章にはつづきがあります。事情があって、ネットでの公表はしません。つづきを読みたい方は、「番外編講読希望」と明記の上、yachisyuso@gmail.comへお申し込みください。なお、ネットで公表している文章以外の転写はしないでください。)

#憲法記念日 自民党憲法改正草案 安倍批判

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池井昌樹「夢」

2017-05-03 07:47:36 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「夢」(「森羅」4、2017年05月09日発行)

 池井昌樹「夢」は短い詩。

おもいだしてはならないゆめを
おもいだしてはならないのです
ゆめからさめたただそれだけを
よろこびとしていきることです
だれかしきりにささやくけれど
いまもしきりにささやくけれど
おもいだしてはならないゆめの
いつかはさめるゆめのほとりで

 何が書いてあるのか。説明するのはむずかしい。つまり、私のことばでいいなおすのはむずかしい。
 詩は、どこにあるか。

おもいだしてはならないゆめを
おもいだしてはならないのです

 書き出しの「おもいだしてはならない」の繰り返しにある。同じことばだが、微妙に違う。
 「おもいだしてはならない」ということばの奥には「おもいだしてしまう」という動きがある。それを自覚するから「おもいだしてはならない」と言い聞かせる。二重に否定している。そして、否定すれば否定するほど、それは「おもいだしてしまう」。
 「おもいだしてはならない」は理性の声だが、理性を裏切って、何かが動いている。その自覚の不思議さ。

 でも、こんなことは書いてもしようがない。
 「理屈」など、どうとでも積み重ねられる。
 と、書いてしまうことも「理屈」になるのだが。

 この詩には「繰り返し」がある。
 「おもいだしてはならない」が繰り返しだし、「しきりにささやくけれど」も繰り返しだ。
 この、繰り返すしかないもの、繰り返すことで「違い」を発見しながら、もう一度「同じ」に戻ること。どっちがどっちかわからなくなること。
 こういう「わからなくなるもの」に直面すると、不思議なことに、そこに池井が「肉体」として見えてくる。「意味」(理屈)はどこかへ消えてしまう。「わからない」とはそういうことだ。けれど、そこに池井がいる(肉体として見える)という、奇妙な「わかる」がある。
 私(読者)が池井になる、ということ。「わかる」ということは。
 ことばに誘い込まれ、のみこまれ、ふっと私が私でなくなる。

 こんなとき、私は詩を読んでいるんだなあ、という気持ちになる。
 いま私が書いたことは、詩の感想にはならないかもしれない。もちろん批評にはならないだろう。
 でも、私はそれでいいのだと思っている。
 「かっこいい」ことば(理屈)で何かを捏造したくない。

手から、手へ
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-3)

2017-05-03 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

5 永遠

永遠とは
多くの時間のなかを流れるひとすじの時間だ

 この書き出しの二行は、ある意味で「矛盾」しているように思える。「永遠」とは「時間」を超越したもの。「普通の時間」は「流れる」(過ぎ去る)だろうが、「永遠」は変化しないはずである。変化しないからこそ「永遠」というのだと思う。
 では、この二行は間違っているのか。
 そうとも言えない。この二行のなかに「変化しない」ものがある。それは「ひとすじの時間だ」という表現のなかの「ひとつ(ひとすじ)」である。

そこだけに別離がある
そこだけに物憂さがある
そこに 失つたものから匂いが帰つてくる
そこに 手を離れた温かい記憶が止どまつている

 「そこだけ」の「だけ」は「ひとつ」に通じる。「ひとすじ」の「ひとつ」が「だけ」ということばで反芻されている。
 おもしろいのは「時間」を「場」をあらわす「そこ」という形であらわしていることだ。「場」は「流れない」。「そこ」と呼ぶとき、「流れるひとすじの時間」の「流れる」が瞬間的に消える。
 矛盾。しかし、この矛盾こそが詩である。
 矛盾は「失つたものから/帰つてくる」「手を離れた(失つた)/止どまつている」という矛盾した動詞の結びつきで強調されている。
 「永遠」というと「完全」なものを想像するが、「完全」は矛盾を矛盾のまま、修正せずに受け入れるということか。

6 *(その話は夕凪の日のところで終つた)

その話は夕凪の日のところで終つた
戯れるにはすでに遠ざかりすぎていた

 書き出しの「その話は夕凪の日のところで終つた」は、やはり「区切り」がある。「終つた」という動詞が、ひとつのことに区切りをつける。
 主語は「その話」だが「その日」が「終つた」とも読み替えることができるだろう。「夕凪の日」に「終つた」のだ。
 この作品でも「時間(灯)」が「ところ」という「場」をあらわすことばで指し示されている。「場」は「遠ざかる」という「距離」を示すことばで引き継がれる。
 嵯峨は視覚(空間認識)を基本とした詩人なのかもしれない。

そして深い谷間がみえるところまでくると
そこにわずかな空地を見つけてぼくは身を横たえる

 「ところ」ということばが繰り返される。「そこ」という「場」が示され、さらに「空地」という「場」に言い直される。



嵯峨信之全詩集
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伊藤浩子「灰色の馬」

2017-05-02 09:25:10 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤浩子「灰色の馬」(読売新聞2017年04月28日夕刊)

 伊藤浩子「灰色の馬」は鮎川信夫賞受賞第一作ということになるのか。

霞(かすみ)に揺れる
夜明けの向こう側
草を喰(は)んでいる
 
はぐれてしまったの、と
心の中で問いかけると
ぶるり、震え
首を擡(もた)げた
 
そばだてる両耳は
気配にさえ怯(おび)えているから
 
そんなふうに過ごしたこともあった
誰も見向きもしないのに
裸にだけされていくような
空欄の日々
 
閑(しず)けさだけが味方する
愛もことばも差し込まない領域で
 
今夜も
灰色の孕(はら)み馬を視(み)ている

 「馬」は実在の馬というよりも、想像の馬だろう。「象徴」でもある。したがって「孕み馬」が孕んでいるのは「小馬」とは限らない。むしろ「概念」(思念)と考えた方が正確だろう。
 この「概念」(思念)とは何か。
 一行目の「霞」は名詞だが「霞む」と動詞にして読み直すと、「孕む」と「概念」の関係が明確になる。
 「概念」(思念)というのは、「明確」なものを指して言うが、それがまだ「明確」にまで到達していない。ぼんやりしている。霞んでいる。これを「概念」(思念)を孕んでいると暗示する。
 「霞む」は「はぐれる」「怯える」という具合に変化する。「問いかける」「震える」と変奏される。はっきりした形に固まらずに、どこか「はぐれた」ものを含んでいる。離れていくものを含んでいる。それは「怯え」「震えている」ようにも感じられる。「不安」である。安定していない。明確ではないから「問いかける」ことで明確にしようとしている。
 「夜明けの向こう側」というのは夜明け前。まだ暗い。これも明確になる前「概念」(思念)の状態につながるし、「草を喰む」というのは「概念」(思念)を明確にするための「ことば」を収集しているということになるだろう。
 どこまでもどこまでも緊密にことばが呼応しながらイメージをつくりあげていく。完璧な「象徴詩」ということになるだろう。

 それはそれでいいのだが。

 伊藤はほんとうに馬を見たことがあるのか。
 ここに書かれている馬はどこにいるのか。
 もっと簡単に問い直そう。
 「孕み馬」というが、その孕み具合はどうなのだろう。臨月なのか。それとも妊娠したばかりなのか。「肉体」が見えてこない。
 実際に「馬」を見て、「孕んでいる」と気がついて、そこから詩が動いているのではない。
 言いなおすと、「馬」から出発して「象徴詩」になっているわけではない。「概念」(思念)でことばを動かしている内に、「馬」を「象徴」してしまった、ということ。
 「馬」を書いている内に、「馬」が「孕んだ」ということ。
 意地悪く言うと、「捏造」である。「馬」は「捏造された馬」である。

 こういう詩は、私は苦手。
 完璧な象徴詩、と先に書いたけれど、完璧なのは「情報」だけで構成されているからだ。めんどうくさいから書かないけれど「空欄」「領域」という「名詞」も「ネットワーク」が完成された世界で動いている。
 だからとても「正しい」。
 「捏造」だけれど、完璧に「正しい」。「間違い」を含まない。
 「どこかに間違いがありますか」と問われたら、そんなものはないとしか答えようがない。既成の「正しい」と言われているものだけが、既成のネットワークで組み合わさっているのだから、そこに「間違い」が入り込む余地などない。
 「知識」的にはね。

 しかし詩は「正しさ」を知るためにあるのではなく、むしろ「間違える」可能性にむけて開かれたものだと思う。「間違える」ことで世界を作り替えていく。「概念」(思念)を破壊し、「概念」(思念)以前をむき出しにするものだと思う。

未知への逸脱のために
伊藤 浩子
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-2)

2017-05-02 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

3 暗い旅

生きるための
暗い旅
小さなホテルの入口に立つている一本のポプラが妙に風にさわいでいる
手綱をひかれて馬がゆつくり通つてゆく
それまでが一日の午後で
あとは長い夜がつづいて記憶はない

 「それまでが」と「あとは」という対比がおもしろい。「暗い旅」の「暗い」は「記憶はない」と書かれた「長い夜」のことだろうか。
 直前の「情景」は何かの象徴か。
 謎解きをしても、どんな答えも出ないだろう。
 それよりも「一日の午後」という限定がおもしろい。この限定によって「長い夜」が「一日」だけではなく、ずっーとつづいている感じがする。



4 断章

 「死というのは/どんな階段をのぼらねばならぬのか」という書き出しではじまる。このころの嵯峨は「死」を意識している。高齢のゆえか。あるいは逆に「青春」の意識が「死」を先取りしてしまうのか。
 ことばの響き、抒情性に目を向けるならば、嵯峨のなかにある「青春」が「死」を引き寄せているように感じられる。

ひとりの男が森の中へ駆け込んでいつた
全ての時が着くのはどこの岸辺だろう
大きな終りが待つていたように梢がざわめいていた
 風が急に止む
筏は遠くへながれていつた

ここまで書くとぼくはふいに眠くなる
ぼくの名がいつか消えてしまう

 「全ての時」とは「生涯」であり、「大きな終り」とは「死」のことだろう。
 この詩にも「ここまで書くと」というおもしろいことばが出てくる。「暗い旅」の「それまで」と同じように「時間」を区切っている。
 「時間」を区切ることで、新しい「時間」を生み出しているようにもみえる。
 「ここまで/それまで」を「過去」にしてしまって、新しく「時間」をはじめる。
 だから、そこでは「眠くなった」ではなく「眠くなる」と「現在形」で「動詞」が動く。そして、この「現在形」は「未来形」でもある。ただし、その「未来形」は永遠に実現されない「未来」、つまり「永遠」のことでもあるように思える。

だれも行つたことのないところまでゆき着くと
そこでもかすかに雲雀が鳴いている

 「そこでも」鳴いているなら、「ここでも」鳴いているのだろう。「そこ」と「ここ」が「同じ」になる。その「同じ」のなかに「普遍」があり、「普遍」だから、それは「永遠」と呼ぶことができる。


嵯峨信之全詩集
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粕谷栄市「山鶯」

2017-05-01 09:21:36 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「山鶯」(「森羅」4、2017年05月09日発行)

 粕谷栄市「山鶯」は、妻と二人で梅の花見に行ったときのことを書いている。花盛り。ちらほら散り始めているものもある。
 そういう描写のあと、

 生きていれば、こんなひとときを過ごすこともある。

 この「生きていれば」が、とても奇妙だ。私は瞬間的に、粕谷は死んでしまって、生きていたときのことを思い出しているのかと感動したのだが。
 そうではなくて、たぶん、いろいろなことがあっても生きてさえいれば、こんな幸福なひとときを過ごすこともあるという感想を持った、ということだろう。そういう至福の瞬間を、いま、生きているということだろう。
 そういうふうに誰かが言うのを聞いたことがある。読んだこともある。
 しかし、どうしても、死んでしまった人の感想だなあと思ってしまう。
 全体の描写が「いま」を書いていながら、どこか「過去」を書いているような、不思議ななつかしさがある。思い出を書いているとしか思えない部分がある。
 もともと粕谷の文体は「いま」を書きながら、自分の外にある「いま」というよりも、自分のなかにある「時間」を書くことで成り立っている。「現実」というよりも「思い」を書くことで成り立っている。「現実」にはありえないことも、「思い」のなかでならありうる。「ことば」のなかでならありうる。
 同じ号の「帽子病」がまさにそういう作品だ。「現実」に「帽子病」というものはないかもしれないが、粕谷の「思い」のなかには存在して、「ことば」として動く。「現実」と「思い」が重なり、ずれながら動いている。
 「現実離れ」していると言ってもいいかもしれない。
 で、この「現実離れ」が「死後から見た現実」、もう死んでしまっていて、生きているときのことを思い出している、という印象を引き起こす。
 二人は、そこで酒と昼餉で、ささやかな宴会を始める。

 こんなことは、夢のなかにしかないものだろう。だか
ら、そこで、私たちが手を取り合ったとたん、互いの男
女のすがたが、全く、消えてしまったとしても、ふたり
の羞恥の心からばかりではなかったかもしれない。
 この世には、おわりのない物語があってもいいのだ。
めずらしく暖かい二月のその日、誰もいない満開の梅の
林に、それから、やってきたのは山鶯たちだった。
 一羽また一羽、そこかしこで、高く鳴きかわして、い
つ果てるともしれなかった。

 「夢のなかにしかない」「終わりのない物語」は同じことを指している。「夢」は「思い」(現実ではない)ということであり、「現実ではない」というのは「終わりのない」ということでもある。「現実」というのは人間の死とともに、そのひとにおいては終わってしまうものだから。
 粕谷は「現実」など気にしていないのだ。「思い」と「現実」は違っている。「思い」の方を、いつでも選び取る。
 最後の「一羽また一羽」は李白の詩の「一杯また一杯」と同じで「1+1=2」ではない。「1+1=無限」である。「1」は「現実」ではなく「思い」と考えるといいのかもしれない。「無限」だから「いつ果てるともしれなかった」ということになる。

 生きていれば、こんなひとときを過ごすこともある。

 には、「いま、死んだってかまわない」という至福があって、その感じが強すぎるために、まるで死んだ世界からこの世を眺めているという感じになるのかもしれないとも思った。
 山鶯になってしまった粕谷の至福に誘い込まれて、私もまた山鶯になるのだった。山鶯になるために梅を見に行きたいと思うのだった。

続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-1)

2017-05-01 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
1 *(運命が--ひとつの消去法がぼくを喰いつくし)

 「入江のほとり」。「*」(209 ページ)だけの断章がいくつもある。区別するために一行目を( )に入れてタイトルがわりにしておく。(目次に倣った。)

運命が--ひとつの消去法がぼくを喰いつくし
影だけがそこにとどまっている
彼方 夜の海
その方へぼくの影はひとりさまよい行こうとする

 「運命」を「ひとつの消去法」と言い直している。「運命」とはあらかじめ定まっているものだろうか。その定まっているものを「消去」していく。「達成」ではなく、「消去」。ここには、ひとは「死ぬ」運命を生きているということが前提として考えられている。「死」へ向かって、いのちを少しずつ「消去」していく。「消去」は、また「喰いつくす」という「動詞」で言い換えられている。「喰う」だけではなく「つくす」というところに力点がある。「いのち」が「無」になる。それが「死」なのだろう。
 このとき「影」とは何だろう。
 「ぼく」は「喰いつく」され、「消去」されるが、「影」は残っている。「いのち」を「肉体」とすれば、「影」は「精神/ことば」かもしれない。
 それは「ぼく」から離れて、自由になり、海の彼方へ「さまよい行く」。「さまよう」よりも「行く」という動詞に力点がおかれている。
 そう読みたい。
 この詩を書いたとき、嵯峨は青春ではない。七十三歳である。だから「死」も意識されているのだろうが、「夜の海」の「彼方」へ「行く」というロマンチックな表現に、青春が残っている。いや、それは青春の抒情そのものという感じがする。



2 入江のほとり

もを何年も昔から
ぼくの小さな船着場にやつてくる船はない
血の岸で草むらの小さな闇が囲み終つた
そこに死は簡単にやつてくる

 「ぼくの」という限定が、「実景」ではなく「心象風景」であることを語っている。「血」「闇」「死」が静かに結びついている。
 そのあと、

他の岸は大雪だ
やわらかに全てが忘れられている

 「ぼく」と「他(人)」が「対比」されている。「雪」は「冷たい」。そこにも「死」を感じ取ろうとすれば感じ取れるかもしれないが、ここではたぶん「血/赤」に対して「雪/白」が対比されているのだろう。
 この対比のあと、

ただ一軒の安宿(ホテル)にいま灯がはいつたばかりだ

 この一行が、「ぼく」の「心象」に対して、呼応する。何か、誘いのようなものがある。
 「灯」は「やわらかな/赤」い色をしていると思う。
 そこには「ぼく」と通じる誰かがいる。
 そういうことを想像しながら読んだ。
嵯峨信之全詩集
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