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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

しばらく休みます(代筆)

2017-01-10 13:04:16 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。
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ラース・クラウメ監督「アイヒマンを追え!」(★★★★)

2017-01-09 10:54:42 | 映画
監督 ラース・クラウメ 出演 ブルクハルト・クラウスナー、ロナルト・ツェアフェルト、セバスチャン・ブロムベルグ

 アルゼンチン・ブエノスアイレスに逃亡していたアイヒマンはモサドによって拘束されたが、その影にはドイツの検事がいた。バウアー検事こそがアイヒマンを見つけ出し、拘束の貢献者だった、という映画なのだが。
 主眼はアイヒマンの追跡にない。アイヒマン追跡はむしろ脇役である。
 描かれているのは戦後のドイツの中枢にいかに多くのナチスの残党がいたかということ。彼らはアイヒマンの拘束をどんなに恐れていたか。アイヒマンがつかまれば、芋づる式に逮捕されてしまう。だから検事の邪魔をする。
 冒頭、検事が風呂場でおぼれかけるシーンがある。事故か、自殺未遂か、自殺を装った殺人未遂か。明らかにされないが、捜査員が睡眠薬の瓶から薬を大量にポケットに滑り込ませる。「自殺未遂」に見せかけるための工作である。精神的に不安定な検事にアイヒマン追跡をまかせておいていいのか。風潮をつくりだすことで、検事を追放しようとしている。
 さらに検事がコペンハーゲン(だったかな?)で逮捕されたときの逮捕状のコピーも登場する。検事はゲイで、禁止されている行為をした。何かあれば、それを利用して検事を追い出そうというのである。
 アイヒマン拘束を妨げているのは、捜査機関(検察)内部の、ナチスの残党である。自分の悪を知られたくない。自分が逮捕されるのは免れたい。いまのままの地位に、あるいはさらに上の地位をめざしたい。欲望が「正義」をさまたげている。
 この「構図」はとてもおもしろい。
 ここに、もうひとつ、エピソードが絡んでくる。バウアー検事を補佐する若手の検事。彼もゲイだった。ゲイであることを隠しているが、妻が妊娠したと知らされ、安心して(?)男に会いに行く。そのとき検察の上司から、男と会っていたときの写真を突きつけられる。「公表されたくなかったら、我々に協力しろ」という。バウアー検事はアイヒマンをモサドから引き渡してもらい、ドイツで裁判にかけるつもりだった。そうならないようにしろ、妨害しろ。
 若手検事は、圧力に屈してしまう。誰にでも秘密がある。知られたくないことがある。ナチスの残党はナチスの残党であることを知られたくない。ゲイの検事はゲイであることを知られたくない。秘密は「知られたくない」という形で迫ってくるとき、「弱み」になる。
 「秘密」ではなく「弱み」。
 もし、それが「弱み」ならば、それを乗り越えることもできるかもしれない。いや、克服しないければならない問題かもしれない。「弱み」を克服しない限り、ひとは前へ進めない。
 最後の方にさらりと描かれているが、若手検事はバウアー検事がアイヒマンの裁判を逃してしまって落ち込む姿を見て、自分の「弱さ」を心底実感する。警察に出向く。ゲイ行為をした、と告白するためである。逮捕されるためである。
 その後、彼がどうなったかは映画では描かれていない。彼の秘密(弱み)が、暴かれるべきだった「真実」の全体像を隠してしまったということが暗示されるだけである。
 映画は、アイヒマンの追跡そのものを描いているのではない。アイヒマンを追跡するドイツ人の「正直」がどんなものであったかを描いている。若手検事のエピソードは小さなものだが、とても重要だ。ひとは自分自身の「弱み」を越えていかない限り「正直」にはなれない。「真実」にはたどりつけない。
 ナチスの中枢にいた人間のなかには、知らず知らずにナチスに組み込まれた人もいるだろう。バウアー検事も一度反ナチから離れてしまったことがあるということが語られている。「事実」をどう見つめ、どう克服するか。バウアー検事の場合、アイヒマンを追うことで自分の「弱み(悪)」を克服しようとした。「正義」だけが、自分自身の「悪(弱み」を正してくれる。
 そういうことを映画は語りかける。

 人間は誰でも「絶対的正義」よりも自分自身の保身を考える。「正義」は他人にまかせておけるけれど、「保身」は他人にはまかせられない。遠くの「正義」よりも自分の身近にあるものの方が大切。
 しかし、この「凡庸な願い」こそが「悪の温床」なのかもしれない。
 ドイツ人は、その「悪の温床」をひとりずつ克服して、いまのドイツを築いたのだろう。そういうことを教えてくれる映画である。
 派手なアクションも、はらはらどきどきのサスペンスもない。その分、見終わったあと、ずしりと重みがのしかかってくる。
                      (KBCシネマ2、2017年01月08日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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龍秀美『父音』

2017-01-08 11:19:49 | 詩集
龍秀美『父音』(土曜美術紗出版販売、2016年12月15日発行)

 龍秀美の父は台湾の人である。この詩集には「きょうはんしゃ(共犯者)」という形で登場してくる。台湾生まれの父と生きることで「聞こえる声」がある。その「声」に耳を済ましている。「声」は基本的に「ひとり」のものだが、ことばは「ひとり」のものではなく共有されて動いている。共有は「無意識」のときもある。「無意識」が「声」をつきやぶると、同じことばが違うことばに聞こえることもある。「違い」は、しかし、なかなか説明するのがむずかしい。ふいに見える何か、「あっ、見えた」と感じる何か。
 「一九八一年刊『民衆日韓辞典』」が「とっかかり」としてはおもしろいかもしれない。職場の大掃除をしていて偶然見つけた辞書。おもしろい例が載っている。

<きんたま>=文例1:~火鉢
なるほど 日本のどの辞書でも
文例の1にこれは載っていないだろう

ぱっと開いたページに
<し>=文例1:ふぐは食いたし、命は惜しし……

 『民衆日韓辞典』というのだから民衆の「口語」から、ことばがどうつかわれているかを「例文」としてつかみとるというものなのだろう。頭で整理する前の、なまなましい「肉体」を感じる。
 特に「きんたま火鉢」がおもしろい。「体(肉体)」が芯から冷えたとききんたまをあたためると体があたたまる。「実感」が動いている。「ふぐは食いたし、命は惜しし」も「肉体」の欲望が直接的でいい。「肉体の正直」が強くあらわれた辞典だ。
 龍の感想を省略して、ことばと文例だけを引用してみる。

<おんな>=文例1:~になる 文例2:~のくさったような
文例3:~ネコ 文例4:~をこしらえる 文例5:~を囲う
<色>=文例1:あの芸者は社長の色だ
<だんな>=文例1:~お安くしておきます

 日本人の周りにいる韓国人が必要に迫られて覚えたことばである。日本人に対する韓国人の姿勢が見え、また韓国人に対する日本人の姿勢が見える。
 同じようなものが台湾にもあったかもしれない。一九八一年ではなく、もっと昔に作られていたかもしれない。

<語る>=文例1:~に落ちる
<治下>=文例1:他国の~に苦しんだ時代

 笑って読みとばそうとすると、その奥から「苦しみ」が聞こえてくる。どんなことばにも「苦しみ」の共有がある。「苦しみ」が「声」になろうとして、動き回っている。
 「民衆」とは違う場所では違うことばが動いていただろう。けれど「民衆」の「肉体」のなかで動いているのは、こういうことばなのである。その奥底の「力」とどう自分を結びつけていくか、連帯するかというのはむずかしい問題である。むずかしいけれど、龍は、むずかしいところを結びつけ、ことばを生み出そうとしている。その姿勢がつたわってくる。例文は龍のことばではないから龍の詩ではないという見方もできるかもしれないが、いろいろなことばから例文を選択するとき、そこに龍がいる。龍の「肉体」がそこにある。だから、引用であっても、それは龍の詩なのである。

 龍は「民衆の声」を聞き取り、それを「ことば」として引き継ぎ、残そうとしている。「跨いだ原爆--ある証言」は長崎で被爆者の遺体を運んだ男の証言である。多くの人に読んでもらいたい作品だが、それは詩集にまかせて、別な作品について書こう。
「母が言う--芭蕉とバナナ」。龍の父と母が登場する。夫婦でやってきた商売をたたみ、植物園に行ってきた。花が少なくて母にはつまらないのだが、父はおもしろかったという。サボテンや葉っぱを「生まれて初めて植物を見たみたいに」見つめる。商売をやめて「初めて周りの物を/落ち着いて見ることができた」とでもいうかのように。その様子を見ながら、母は思う。

じゃあ これまで見えていたのは
いったい何だったの
わたしと一緒に見てきたはずのものは--

 「違う風景」。「違い」は「ことば」にならないと、なかなかわからない。『民衆日韓辞典』のようなもの、『家族日台辞典』のようなものは、意識されたことがない。
 それが思いがけない形で、このときに母の「肉体」を貫く。

あのね
丈の高い南方芭蕉の木と
それよりちょっと低いバナナの木があって
私には区別がつかないんだけれど
「こっちの木の方にバナナが生るんだ」
って説明するの
わたしゃ驚いたのなんのって
あの人と六十年つきあってるけど
台湾のこと説明してくれたの初めてよ

 「私には区別がつかない」が強い。「私には区別がつかないけれど、父には区別がつく」。「違い」が見える。違いを「バナナ」と「芭蕉」という「ことば」にできる。父は(夫は)母に(妻に)、芭蕉とバナナの区別をしながら生きてきた思い出を語る。「肉体」が覚えていることを語る。その「肉体」は、きっと母が「区別がつかない」多くのことを見分けてきたはずである。「違い」を「肉体」のなかの「辞典」にしまいこんでいるはずである。面と向かっては話さない。けれど、動いていたことばがあるはずである。

のっぽの芭蕉の木がぼんやり突っ立っていて
それより少し小ぶりのバナナの木が
のほほんとあっちを向いている--
この二つの違いを
あの人は六十年目に初めてわたしに話してくれたの

ほんの少しの違いなんだけどね
どうってことないことだけどね

 最後の二行は、むずかしい。
 「ほんの少しの違い」「どうってことのないこと(違い)」と思いたい。そう思う人がいる。一方で、そう思えないひともいる。「ほんの少しの違い」と思ってみても、実際に気がついてみると、そこからどんどん「違い」が目につくようになることがある。
 「ことば」はいつでも解きほぐされ、もう一度生まれ変わって動き出したい願っている。そのとき、「遠く」で聞こえるどの「声」といっしょに自分の「声」を動かすか。自分の「声」を重ねるか。言い換えると、だれと「共犯者」になるか。
 龍は、父の「声」の方に、龍自身のことばの可能性をかけようとしている。「共犯者」になるとは、そういうことだと思いながら読んだ。
詩集 TAIWAN
クリエーター情報なし
詩学社
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宮城ま咲『よるのはんせいかい』

2017-01-07 09:31:50 | 詩集
宮城ま咲『よるのはんせいかい』(土曜美術紗出版販売、2016年11月22日発行)

 宮城ま咲『よるのはんせいかい』は父親の思い出を書いている。父親の思い出というよりも、死んだ父の思い出といえばいいのか、父の死とどう向き合ったかという思い出といえばいいのか。
 「雪は確かに好きだけれど」。

父が死んだ夜
めったにないほどの大雪
電線にまで雪が積もった朝
きっと今日は
校庭の使用時間を割り振って
たくさんのクラスの子たちが雪合戦
だけど私はお休み
今日はひとりであそぶ
ひとりきりで
かまくら作って
雪だるま作って
しずかな小さな庭を
行ったり来たりするんだ

 「今日はひとりであそぶ」を「ひとりきりで」と言いなおす。その「ひとり」の繰り返しに、宮城がひたすら自分の「枠」を守っている姿が見える。
 「こどもの役」では、これはこう語り直されている。

つもっている雪で
夢中になって遊んだ
一月の薄暗い昼
かまくらを作った
体が
まだそばにあるうちに
おとうさんと
雪遊びしているつもりで

周りのみんなは
私がこどもだから
人の死が理解できなくて
めそめそしてないんだと
思ったかも

「これは良くない!
 明るくしなきゃ、
 元気づけなきゃ…」
むじゃきに家の中歩き回って
台所のお菓子を食べたっけ

 「こどもの役(役割)」を考えて、それにあうように自分の行動を整えている。「こどもの役」という「枠」のなかで自分を動かしている。
 そういう「枠」のなかで行動するという悲しみからやっと解放されて、いま、こうやってあのときはこうだったなあと悲しんでいる。その悲しむことができるようになった切なさがことばを支えている。
 「夏休み」は「ぼく」を語り手にして、ラジオ体操に遅れたときのことを書いている。

めざまし時計は
かけていましたが
ねむいならやすんでいいよと
おかあさんにいわれました
たいそうカードには
うちの印かんをおしました

 ここには、母が宮城に対してどう向き合ったかがしずかに書かれている。家の中に悲しみが疲労のようにつもっている感じがする。家をむしばんでいるとさえいえるかもしれない。

ことしは
夏休みの宿題がはかどりません
しんがっきがこわいので
タンスのかげにすわって
タオルでぎゅうぎゅうと
くちをふさいでいたら
おかあさんがきたので
やめました
そのひの夜も
タンスのまえにふとんを
ふたつしいてねました
みっつしいていた時には
へやいっぱいでした
みっつしいていた頃は
ろくじはんから
ラジオたいそうしていました
夏休みの宿題を全部提出していました

 「ふたつ」と「みっつ」。一つ少ないだけで「いっぱい」が「いっぱい」でなくなる。「タオルでぎゅうぎゅうと/くちをふさいでいたら」にはどきりとする怖さがあるが、「ぎゅうぎゅう」は「いっぱい」につうじる。タオルを口「いっぱい」にふさいでいたら、ということだろう。何かで「いっぱい」にしたい。自分の肉体を「いっぱい」にしたいという感じなのだろう。

 こういう言い方が適切かどうかわからないが、いろいろな詩を書くことで、悲しみがすこしずつ蘇ってきて、宮城の「肉体」のなかに「いっぱい」になって、その充実感がいまの宮城を支えている、という感じがする。
 悲しむということは大切なことだ。
 悲しみを押し殺してしまうと、「からっぽ」が増えてくる。「からっぽ」を乗り越えて「いっぱい」を生き始めているということが、じわりとつたわってくる詩集。

よるのはんせいかい
クリエーター情報なし
土曜美術社出版販売
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添田馨『天皇陛下<8・8ビデオメッセージ>の真実』(不知火書房、2016年12月30日発行)

2017-01-06 19:34:23 | 自民党憲法改正草案を読む
添田馨『天皇陛下<8・8ビデオメッセージ>の真実』(不知火書房、2016年12月30日発行)
               自民党憲法改正草案を読む/番外63(情報の読み方)

 添田馨『天皇陛下<8・8ビデオメッセージ>の真実』は刺激的な一冊である。「象徴天皇制」についての指摘が鋭い。「反知性主義クーデターに抗する存在について」という文章の次のくだり。

天皇の今回の「おことば」が画期的なのは、「象徴天皇制」というものの思想的な核心について、歴史上はじめて、「象徴」たる天皇その人がみずから言葉にして語ったものだからである。                            (50ページ)

 天皇が自分のことばで象徴天皇制について「はじめて」語った。これは「事実」である。しかし「事実」であるからこそ、私は見落としていた。「思想的意義」を考えたことがなかった。ほかのことに気を取られていた。もう一度、読み直してみようと思った。
 このことを踏まえて、添田は「日本国憲法と<象徴存在>」「象徴と民心」という文書を展開している。
 その「日本国憲法と<象徴存在>」なかで、先の部分は、こう言いなおされている。

 あの時、テレビ画面のなかに見えていたのは誰だったのだろうか。それは、憲法上の規定によって基本的人権もプライベートも奪われた<象徴>という没主体が、みずから<声>を発しそれを音声装置を使って増幅させることで、遂にみずからを<象徴存在>の位相にまで押し上げるのに成功した、天皇という制度的地位にある実体なき者の前代未聞の姿だったのである。                          (73ページ)

 この考えの基本には

<象徴>はシンボルであって、それ自体けっして実体ではない    (75ページ)

 という「思想」がある。「思想の言葉」(75ページ)で、添田は「象徴天皇制」をとらえなおし、天皇のことばを読み解いているということになると思う。
 ここから沖縄戦終結の日、広島原爆の日、長崎原爆の日、終戦記念日、さらにサイパン、パラオの激戦地の慰霊に触れて、こう書く。

実体をもたない<象徴>としての卓越したその存在様式が、敵も味方も含めてすべての戦没者を普遍的に慰霊するという、これまで誰にもなし得なかった象徴行為を可能にした。
                                 (76ページ)

 とてもよくわかる。
 こういうことを通して、添田は、

「象徴天皇の務め」が、天皇の数ある「象徴的行為」のなかでも、他の者には、たとえ血の繋がった親族であっても、それを代行することができない極めて特別な「務め」であると、再認識しないわけにはいかないのだ。                    (54ページ)

 と書く。「象徴天皇」と天皇の強い「一体性」を再認識したということだろう。

 それは、よくわかるのだが(頭でわかったつもりになるのだが)、書かれていることが美しすぎないか、と思ってしまう。私は「観念の世界では霊(魂)とは紛れもない実体」(59ページ)のようには考えることができないからかもしれない。
 私は「観念の世界では」というのは、ことばを動かすための「方便(方法論)」だと思っているし、「魂/霊」というものを見たことがないので「実体」ととらえることができないからかもしれない。私は「思想の言葉」(観念のことば)が苦手である。添田の書いていることの1割も把握できていないかもしれない。
 天皇は、私にとっては「実体をもたない<象徴>」ではない。「肉体」をもった「人間」。「存在」が「象徴」なのではなく、「行動」が何かを「象徴する」。沖縄、広島、長崎、激戦地へ行って「頭を下げる(深く祈る)」という行為(動詞)が、そのまま多くの人の「祈る」という動詞を一身に集め、統合する(象徴する)と考えている。「祈り」を「統合/象徴」するのではなく「祈る」というのはこういう風に頭を下げて、思いを巡らすこと、自分はこれから平和に生きていくと誓うことなのだと「肉体の動き」としてひとに示すことだと思っている。
 「世界」にあるのは「肉体」と「行為(動詞)」。「象徴する」という「行為」はあっても「象徴」という「名詞(存在)」は考えにくい。

 籾井NHKのスクープ、さらには宮内庁幹部の「報復人事」についても、私は添田とは違った考えを持っている。こういうことは添田の本に対する感想ではなくて、他の形で書いた方がいいのかもしれないが……。
 籾井NHKのスクープについて、45ページにこう書いてある。

「天皇の生前退位」にまつわる一連の問題に、国民の注意を惹きつけると共に、この問題を考えるきっかけまで提供するという、絶大な効果がこのニュースの発表にあったことは間違いない。その結果、もっとも損をするのは誰なのか。

 添田は「損をするのは誰なのか」という視点から見ている。そして「安倍政権が損をする」と結論づけている。皇室典範の改正などに取り組まないといけない。憲法改正の日程が狂う、という。
 逆に「得をするのはだれか」という視点から見るとどうなるのだろう。天皇や宮内庁の得になるのか。憲法改正を遅れさせることができれば天皇の「得になる」のか。
 ひとは、こうすれば他人に「損を与えることができる」ということだけでは行動しない。「損をさせる」は一時的なことである。「得をする」ことをもくろんで行動すると思う。私は「得をするのは誰か」という点から今回を動きを見ている。
 安倍に、どんな「得」があったか。
(1)天皇には国事に関する権能を有しないと天皇に言わせることができた。
(2)ビデオの発言は「個人的なもの」であると言わせることができた。
(3)高齢である、そのために「務め」が果たせないかもしれない、と言わせることができた。
 8月8日の天皇発言には、とても変な表現がある。

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。

 「思われます」「考えられます」「懸念されます」。直接表現ではなく、婉曲表現である。天皇なのに「思います」「考えます」「懸念します」と直接言っていない。「誰か」が「思う」「考える」「懸念する」。そのことを配慮しているように聞こえる。そう「思う」「考える」「懸念する」ひとがいるので、そのテーマに関して「思われます」「考えられます」「懸念されます」と言っていると私は感じる。
 天皇はいつでも「思います」「考えます」というようなことばを使っている。「思い起こされます」という表現は、他の「ことば」のなかに何回か見かけるが、それは「思い起こした対象」を尊重(尊敬)しての表現である。大変感動を与えてくれたので、そのことが自然と「思い起こされる」というつかい方だ。
 添田は、籾井NHKのスクープから8月8日の放送までの「手際」の良さについて、こう書いている。

7月13日のNHKニュースが8月8日の「おことば」公表を実現させるための前哨戦だった可能性を示唆するものだ。つまり、天皇ご自身によるお気持ちの表明こそが、これら一連の動きの当面の山場、つまりプロジェクト目標だったことが窺える。 (48ページ)

 添田は、安倍に「損をさせる」ためのプロジェクトと考えているのだが、私は「天皇のことば」を引き出すための計画と考えている。天皇が自分から言うのではなく、天皇に言わせるのだ。「国事に関する権能を有しない」(何か言うと憲法違反になる。言っていることは「個人的なたわごと」と天皇自身に言わせる)「高齢で務めが果たせない」。
 それが国民につたわれば、この問題提起がどういう形におさまるにしろ、天皇を退位させることができる。「退位したい」と天皇が言っていると国民が感じれば、天皇の思いに沿うのがいいのでは、と国民は思う。天皇は退位するしかない。
 添田は、こう書いている。

天皇は自身の「生前退位」のことに直接触れてはいない。むしろ、天皇は象徴としての務めを「全身全霊」で全うしなければならないこと。また、そのためには、摂政では駄目なのだと言っているのである。ここには、明らかに<8・8ビデオメッセージ>が孕む真実の意図の、マスコミによる隠蔽操作=すり替えが働いているのだ。それは、つまり、天皇は現在もこれからも<象徴>として存在しなくてはならないという陛下ご自身の強い意思の表明だったものを、高齢に伴う健康不安から自分がまだ元気なうちに譲位することを図りたいという皇位継承問題に、まんまとすり替えたのである。   (24-25ページ)

 私は「すり替え」ではなく、安倍は最初から、そうするために籾井NHKを使って「仕組んだ」と見ている。最初から仕組まれているからこそ、マスコミがやすやすとその方向性にのみこまれた。
 もし「天皇が時の政権に対して真っ向から闘いを挑む」(24ページ)というものだったら、すくなくともスクープした籾井NHKは違った報道の仕方ができたはずである。するはずである。
 添田はまたスクープに「橋口和人・宮内庁キャップ、社会部副部長」の存在が大きく関与していると報じられたと書いている(43ページ)。そこに、その橋口が

秋篠宮をはじめ皇室の信頼が篤いとされる

 という注目すべき一文がある。
 私は、このニュースを知らなかったが、この情報で、天皇を退かせ、摂政を設置することで天皇制度を自在にあやつることを狙っている安倍がリークしたのだということが「予感」ではなく「確信」にかわった。
 秋篠宮には悠仁という「男子」の子どもがいる。安倍は天皇を退位させたあと、いろいろ「難癖」をつけて(皇太子が天皇になると、つぎの皇太子が不在になるとか)、皇太子や秋篠宮を飛び越えて悠仁を摂政に据えることをもくろんでいる。私は籾井NHKのスクープのときから、そう「予感」していた。
 秋篠宮はたしか天皇の「定年制」について語ったことがあると思う。そのころから安倍は皇太子ではなく秋篠宮に接近していたのだろう。秋篠宮を利用することを考えていたのだろう。
 「生前退位」を巡る特例法に関しては、先日読売新聞が、秋篠宮を「皇太子待遇」にするという関連法も一括上程されるとの予測を書いていたが、これも「摂政・悠仁」へ直結する動きである。

 「宮内庁報復人事」についても、私は添田とはまったく違った見方をしている。添田は籾井NHKのスクープについて、風岡宮内庁長官が関与していると読んでいる。風岡がリークし、天皇のメッセージ発表という動きたために安倍の憲法改正論議が遅れた。だから報復として風岡を更迭し、西村内閣危機管理官を送り込んだ。

一部報道によると「お気持ち表明に関し、誰かが落とし前をつけないと駄目だ」(政府関係者)とか、「陛下が思い止まるように動くべきだった」(同)との声がある。
                                 (78ページ)
 
 この報道は、私も読んだが、それこそ「すり替え」にしか見えない。「天皇の象徴としての務め」に関するメッセージを「生前退位の意思表明」と「すり替えた」のと同じように、安倍主導のスクープなのに、宮内庁のリークというストーリーに「すり替え」、「報復人事」という「一般受けしやすい事実」で隠蔽したのである。
 今後、風岡が「あのスクープは私がリークしたのではない。安倍が仕組んだものだ」と言ったとしても、それは「報復人事」を受けた人間の「捏造」と見なされるだろう。「見苦しい抵抗」と批判されるだろう。
 安倍は、それくらいのことはやってのけるだろう。

 ついでに書いておけば。
 新しいNHK会長の交代。参院選では「選挙報道をしない作戦」で安倍に大勝をもたらし、「天皇、生前退位意向」のスクープでも安倍の天皇降ろし作戦に貢献した籾井が会長をつづけられなかったのはなぜか。
 「用済み」と見なされたということだろう。
 これ以上籾井をつかえば、「選挙報道をしない作戦」「天皇生前退位スクープ」がNHKをつかった情報操作であることが明確になってしまう。籾井は軽率な発言が多い。ここで切り捨て、次はもっと隠蔽工作のうまいやつをつかわないと、と考えたのだろう。
 新会長になる上田はNHK経営委員会の委員。NHK経営委員会とは「執行部を監督する」機関らしい。つまり、籾井を「監督する」ということも仕事に含まれていたはずだ。そこから会長が選ばれたということは、籾井の痕跡隠しをはじめるということだろう。さらに籾井以上の「貢献」が見込めると判断されたからNHK会長に選ばれたのだろう。
 NHKが、今後、「生前退位」をめぐってどう動くか、それに注目しないといけない。国会論議をどれだけ報道するか、報道のとき誰の発言を強調し、誰の発言をカットするか。そういうことを注目しないといけない。(私は目が悪くてテレビを見ることがないので、直接はNHKの動きを見つめるということはできないのだが……。)
天皇陛下〈8・8ビデオメッセージ〉の真実
添田馨
不知火書房
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平田俊子「ヘルスケア」

2017-01-06 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
平田俊子「ヘルスケア」(「現代詩手帖」2017年01月号)

 「現代詩手帖」2017年01月号には、年寄りじみた詩が多い。書いている人が高齢化しているということかもしれない。しかし、正月に読むには、どうも「辛気臭い」。私は俗な人間なので、正月早々、気の滅入る詩は読みたくはない。
 ということで、平田俊子「ヘルスケア」。

もう
何年も寝込んだことがない
今年こそはと思うけれ
決意は毎年失意に変わる
口笛を吹いて蛇を呼んだり
水の上を走ったりは
その気がなくてもしてしまうのに

 私は年末から風邪を引いて、かかりつけの病院が休診で、やっと見つけて行った病院ではいつもとは全く違う薬を処方されて、いつもの薬局も休みで、病院近くの薬局まで引き返し……さらに風邪をこじらせ、会社へは出勤はしたものの、早引け。散々な状態をひきずっているので、健康な人がうらやましい。
 なぜ、平田は「寝込む」ことに憧れるのか。

寝込むと幸せになるらしい
親切な人が現れて
ひたいにきれいな氷を置いたり
片手でリンゴを握りつぶして
ジュースにかえてくれたりするらしい

 ふーん。寝込むと氷が「きれい」かどうかは、わからないものだけれどね。氷がぬるい水のように感じたりする。もっとしっかり凍らせた氷はないのか、と思うものだけれど。

頭が割れたり
腕が取れたりすることはあるが
その程度では遅刻すらできない

 「頭が割れる」は「頭痛」、「腕が取れる」は忙しさで「手が取られる」。「比喩」だね。そうか、「遅刻」もせずに乗り切る体力があるのか。
 まあ、でも、こういうことは「軽口」の類。
 「軽口」も詩なのだろうけれど。
 そのリズムが自然で、小気味いいのだけれど。
 感心まではいかない。
 いや、わざと抑えているのかな?
 三連目がおもしろい。

保険料は払っている
払いたくなくても
財布をこじ開け
月々無理やり持っていかれる
あれらはどこにいったのか
わたしのためのものではないのか
寝込めば
寝込むとき
猫屋敷
寝込んで
わたしも悪夢にうなされたい

 「寝込む」の「何段活用(?)」かに「猫屋敷」がまぎれ込む。ここがおもしろい。ことばのリズムが急速にアップし、飛んでしまう。

 「どうせ、詩なんだから」というと、いろんなところから(平田を含めて)、批判が返ってきそうだが、詩はどうせ現実ではないのだから、こんなふうに楽しいのがうれしい。「辛気臭い」のは、めんどうくさい。
 新年号、作品特集となれば、みんなまじめな顔をして詩を書く。詩の「顔面」がみんなまじめで堅苦しい。そういうことを見とおして平田はことばをさらに軽くしているのかもしれない。
 ことばの見せ方が上手だ。
 あ、平田だ、と思わせる部分をしっかり書き込んでいる。


低反発枕草子
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池井昌樹「昼の月」「星宿」

2017-01-05 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「昼の月」「星宿」(「現代詩手帖」2017年01月号)

 池井昌樹「昼の月」は「連載詩・未知」の最初の作品。

旧い本家の玄関を開け、框に沓を脱ぎ揃え、
閉て切りの戸障子ばかり余所ゆき顔して続く
廊下をゆけば更に旧い本家へと通じ、磨き込
まれて黒光りする廊下の先には荒廃した中庭
が海のように展けていました。伸び放題に生
い茂る羊歯や鱗木類の涯には更に更に旧い本
家があり、そのかたはそこに臥されているの
でした。何百年いや何千年いやそれ以上臥し
ていられるのでした。ちかよるまいぞ。私た
ちはたよりない子どもだから、鬼薊を抜いて
はその根を噛みその苦い汁を擦りつけあい笑
うばかり。

 田舎の古い家。病気の老人が寝込んでいる。(あるいは「座敷牢」にだれかが閉じ込められている。人目に触れないように隔離されている。)それは子供にとっては「異次元」への入り口のようなもの。「近寄ってはいけない」というのは大人が命じること。安眠を邪魔するな、ということ。だけれど子どもだから好奇心が勝つ。どうしても近づく。近づくけれど、戸を開けて覗くということまではできない。庭で騒いでしまう。
 多くの人が(大家族だった時代の多くの子どもが)体験したことかもしれない。
 ふつうは、何も起きない。せいぜいが家の中からうめき声が聞こえるくらいである。病人のうめき声とわかっていても、子どもだから極端に反応する。わっ、と騒いで逃げ出す。
 池井が体験したことは、「ふつう」ではなかった。

     あッ。あのかたがおきてきたッ。
それはこの上ない禍々しさのはじまりでした
が、窓一つない黒板壁の大屋根の上には白い
昼の月があるばかり。それきりでした。何百
年いや何千年いやそれ以上昔の話です。幾度
となく生き死にを繰り返してきた私でさえ、
あの日の昼の白い月だけは忘れることができ
ないのです。あの日、あれから何があったか。
何もかも、すっかり忘れてしまいましたが。

 見てはならない人が起きてきた。姿をあらわした。
 どんな人か。池井は書いていない。見てはならない人だから、見なかったのだ。見えなかったのだ。見た瞬間に「見た」という記憶だけが残り、姿は消える。そのかわりに昼の月が記憶に刻まれる。「あのかた」は「昼の月」である。
 それを強調するために「だけ」という限定のことばがつかわれている。「あの日の昼の白い月だけは忘れることができないのです。」そして、この「だけ」は「あの日、あれから何があったか。何もかも、すっかり忘れてしまいましたが。」の「あれから」と呼応している。
 禁止というよりも禁忌。犯した瞬間の、池井の内部で起きた変化。それは正確には語れない。語ることばがない。かわりに「白い月」が池井を見つめている。池井は「白い月」を見ただけではなく、「白い月」に見つめられたのである。「あのかた」に見つめられることで、「存在しているけれど存在しないもの」に「見つめられる」という体験をした。この体験は「時間」を超える。「何百年いや何千年いやそれ以上昔の話です。」は「時間を超える」を意味している。

 この感覚は、粕谷の「厭世」に似ていないだろうか。共通するものを持っていないだろうか。粕谷は「何百年、何千年」とは書かずに、「ただ」とか「一年」と書くのだが。池井の場合は「時間」が拡大し、粕谷の場合は「時間」が一点に凝縮する。しかし、なんだか似ている。
 ある何かに触れて、その「一瞬」が「永遠」になる。粕谷は「ひょうたん」という何気ないもの、池井は「あのかた/そのとき一緒に存在した昼の月」という特異なものという具合に違うのだけれど。
 またふたりの「一瞬/永遠」の把握に「見る」という「肉体」の動きが深く関係しているのも似ている。何かを「ぼんやり」見つめる、何かを「真剣に」見つめる。何かを見つめて「意味を求めない」、何かを見つめて「真理」を探し求める。「見つめる/見つめた対象になる」粕谷。「見つめる/見つめられる」池井。「見つめる/見つめられる」からはじまる「一瞬」は「永遠」へとつながっている。

 「星宿」は「あのかた」のかわりに(?)「橋」が出てくる。

どこかしらないところへゆく橋をみかけた
どこかしらないところへゆく橋は旧い木橋で

 「あのひと」は「どこかしらないところへゆく」ひと。あるいは「どこかしらないところ」に生きているひとかもしれない。「どこかしらない」世界がある。それは見えないけれど、ある。そして「見えない」けれど、そこから「見つめられる」ということがある。池井は「見つめられた瞬間」を忘れることができない。

どこかしらないところへまだゆきたくはなかったから
どこかしらないところへゆく橋をゆきすぎ帰ってきたが
こちらからあちらへ
まるであっけらかんとかけわたされていたその橋は
どこかしらないところもある世を深く記憶させた
あの日からもう二度と橋をみかけることはない
あの日から
どこかしらないところで
星宿は夢のようにぼくの頭を巡りつづけた

 あの日からもう二度と「あのひと」をみかけることはない、と言いなおすと、そのまま「昼の月」につながる。あの日から、どこかしらないところで、「昼の月」は池井の頭上を巡り続けている。「あのひと」が見つめ続けている。
 「見つめられている」という意識が池井のことばを整えている。
 まだ「どこかしらないところへまだゆきたくはなかった」から、「こちら」に引き返し、「こちら(現実の世界)」から「あちら(永遠の世界)」を見つめる。そのとき「見つめられる」を感じる。「見つめる」と「見つめられる」が呼応し、「見つめられる池井」自身を整えるとき、池井の中に「永遠」が不定形のまま、しかし、しっかりと根を下ろす。「永遠」が生まれる。


 (池井の詩とは直接関係がないのだけれど、私は詩を読みながら、私の体験を思い出した。父の兄(本家の長男)は胃ガンだった。坂の上に家がある。元気なとき、ときどき坂を降りて父の所に遊びに来る。父はいない。私が話し相手になる。帰りは、歩いて帰れない。私が背負って坂を上る。胃ガンで弱った体が背中にはりつく。気のせいかもしれないが、胃ガンのガンそのものが背中にべったりはりつき、そこから私の肉体に侵入してくるような気持ち悪さを感じる。そのとき、昼の月が出ていた。昼の月のあいまいな白い形で背中にはりついているように感じた。)

池井昌樹詩集 (ハルキ文庫 い 22-1)
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粕谷栄市「厭世」

2017-01-04 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「厭世」(「現代詩手帖」2017年01月号)

 粕谷栄市「厭世」は、こう始まる。

 へちまが好きだ。九月の風に吹かれて、のんびり、揺
れているへちまが好きだ。一本一本、蔓からぶら下がっ
て、ふらふら、揺れているへちまが好きだ。

 へちまが好き、ということ以外は何も書いていない。「九月の風に吹かれて」が「一本一本、蔓からぶら下がって」と言いなおされ、「のんびり」が「ふらふら」と言いなおされている。言いなおされることで何かが変わったわけではない。

 みんな揃って、それぞれが、思い思いに、ふらふら、
揺れているへちまが好きだ。少しひねくれて曲がったま
ま、風に吹かれている、その一本も好きだ。

 「それぞれ」は「少しひねくれて曲がったまま/その一本」と言いなおされている。でも、何かがかわったという印象はない。
 さらに、

 そして、毎日、そららを、ぼんやり、窓から見ている
男も好きだ。毎日、ただ、ふらふら、蔓からぶら下がっ
ているへちまをみているだけの男が好きだ。

 「男」は粕谷とは別人とも受け取れるし、粕谷自身とも受け取れる。粕谷自身だろうなあ。へちまを見ている男を毎日見ているなんていうのは、まるでへちまになった感じじゃないか。
 と書いて思うのだ。
 そうか、何かを書くことは何かになることなのだ。
 粕谷は「へちま」になってしまっている。「へちまを見る男」になってしまっている。そして「完結する」。

 それで、よく暮らしていられると思うが、その男は、
そうしているほかないのだ。たぶん、少し変わった病気
に罹っているのだ。一生、ふらふら、揺れているへちま
を見ているしかない病気だ。

 「完結」を「病気」という。
 そうだろうなあ。人間というのは「完結」しない。どうしても、どこかへつながって、広がっていく。自分を開いていく。開いていかなければ、閉じたまま。そこでおしまい。
 「病気」はこう言いなおされる。

 その男が好きだ。どんな事情からにせよ、あまりに永
く、へちまばかり眺めていたために、へちまそっくりの
長い顔になってしまった、その男が好きだ。

 これは、前に書いたことの言い直しでもある。男がへちま「そっくり」になる。へちまになる、と言い換えてもいい。人間なのにへちまになるのだから「病気」。

 そんなことがあるわけがない。ばかばかしいと言われ
るかも知れない。けれども、九月の風に吹かれて、ふら
ふら、揺れているへちまが好きだ。いつも、それを見て
いる、へちまそっくりの顔をした男も好きだ。
 この世が、厭になって、一度、死んでしまえば、そう
していられるのかも知れない。そうなのだ。そのへちま
そっくりの、一度、死んだ男になって、そう思うのだ。

 「病気」のあとは「死ぬ」。
 おもしろいのは、死んだらおしまいなのに、生き返っていること。「一度、死んだ男になって、そう思うのだ。」は正確には、

一度、死んだ男になって、「生き返って」そう思うのだ。

 だろう。
 書くことは「生き返ること」でもある。

 「へちま」を「詩」と読み替えてみるといいかもしれない。
 「へちま」のように「無意味/無価値」にふらふらしている詩。それが好き。詩になって生きるとき、「ふつうの男」は死ぬ。死ぬことで「生き返る」。そういう自画像を書いている。
 繰り返し同じことをする。同じことなのに、飽きることがない。「飽きずに同じことをする」のは世間から見れば「厭世」かも。
 「結論」は出さなくていい。ぼんやりと、風に吹かれるへちまをみるように、詩をぼんやりと見つめていればいいのだろう。





転落
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天皇の「意思」が封印される

2017-01-03 18:19:47 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇の「意思」が封印される
     自民党憲法改正草案を読む/番外63(情報の読み方)

 2017年01月01日の新聞を読み比べていたら、面白い見出し、記事に出会った。朝日新聞、毎日新聞(ともに西部版・14版)の一面、天皇の生前退位と特例法をめぐる動き。

朝日新聞
退位「固有の事情明記」へ/特例法で政府検討 先例化回避狙う

毎日新聞
天皇の意思 明記せず/特別立法 退位要件で政府方針

 別なことを書いているようにみえるが、同じことを書いている。「生前退位の要件」をどうするか。どう明記するか、政府が検討している。
 朝日新聞は天皇の意思については触れていないように見えるが、記事を読むと次のように書いてある。

政府は、仮に天皇を退位を制度化すれば、その要件の一つに「退位を望む天皇の意思」を盛り込まざるを得ず、天皇について「国政に関する権能を有しない」と定めた憲法に抵触する恐れがあると判断。このため、特例法だけでなく皇室典範改正でも、退位の要件化は困難としている。


朝日新聞は「天皇の意思を明記せず」を別な角度から言い直したもの、ということができる。
で。
意地悪な読者の私は、別のことをこの記事から読み取るのである。
まず「政府検討」(朝日)「政府方針」だが、有識者会議の考え方は? 無視していないか。有識者会議は、ただのお飾り。すべては「政府方針」通りに進んでいくということだろう。
 次に「天皇の意思盛り込まず」だが、これには別な要素があると私は読む。
「天皇の意思」を盛り込む(文書化する)ためには、天皇の意思を再確認しないといけない。天皇は「生前退位の意向」を持っていると言われているが、本当か。私は「安倍が天皇の生前退位をもくろんでいる」と見ている。天皇はほんとうは何を望んでいるか、「明文化」するのは避けたいのだ。「生前退位」ではなく「譲位」と天皇が言えば、籾井NHKのスクープ「天皇、生前退位の意向」が天皇の側(宮内庁側)ではなく、安倍の側からリークされたものであることが明確になる。天皇の意思が「象徴としての務めを次の天皇に引き継いでもらいたい、そのスムーズな引き継ぎをしたい」ということが明らかになれば、天皇の公務を縮小し、天皇と国民の接触を分断するという安倍のもくろみは破たんする。
だから「天皇の意思」ではなく、

陛下が重視してきた公的行為が、高齢などで困難になった一連の経緯を明記。ほかの天皇に当てはまりにくい個別の事情を記すことで将来の天皇の退位とは切り離し、皇位継承の安定性を維持する狙いがある。(朝日新聞)

ということになる。
「将来の天皇の退位とは切り離」すは、言い換えると、政府にとって都合のいい(言うことを聞く)天皇なら、何があっても退位させずに利用し尽くすということだろう。

関連して思うのは、今年は天皇の「新年の感想」がなかったこと。負担軽減という名目だが、ほんとうは「天皇のことばの封印」(口封じ)だろう。どんどん天皇の口封じを進める。そうして国民と天皇の接触を減らす、天皇がこころがけてきた「象徴としての務め」を封印してしまう、ということだろう。
天皇はほんとうに「生前退位」を望んだのか。「譲位」ということばで思いを語っていたのではないのか、というところから問題を見つめ直さないといけない。「思想」は「ストーリー=要約した意味」ではなく、ことばの細部に生きている。
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木村孝夫『夢の壺』

2017-01-03 11:25:29 | 詩集
木村孝夫『夢の壺』( 100人の詩人・ 100冊の詩集)(土曜美術出版販売、2016年11月30日発行)

 木村孝夫『夢の壺』のなかに「新人老人」ということばが出てきて、びっくりした。「老人になったら」という作品。

特別擁護老人施設に入るには
介護度の認定が三以上必要となる

施設不足だから
入居までの待機期間が長い

新人老人には気の遠くなる話だ

 「新人」と「老人」は相いれないイメージがある。しかし、「一生懸命働いて/やっと老人の仲間入りをした」ばかりの老人は、たしかに「新人」かもしれない。
 「新人」には、その「世界」が「新世界」に見える。「新人」とは「世界」を「新しく」とらえなおすひとのことである。

有料老人ホームはあるが高額だ
やむなく自宅介護をすることになるが
自宅内の事情は考慮されない

「保育園落ちた 日本死ね!」
ツイッターのこの一言が炎上して
主婦が団結していったが

「老人施設の待機期間が長い!」
この言葉は長い間見向きもされずに
切り捨てられてきた

 「待機児童」ならぬ「待機老人」。何を待つのか。「入居」だけではない。「死」を待つのだ。「待機児童」にはまだ未来があるが、「待機老人」には未来がない。そして国は未来がない老人が死ぬのを、本人やその家族以上に待っている。死ねば国家負担が軽くなる。「待機児童」はやがて成長し、働き手になる。けれど「待機老人」は働き手にはならない。経済成長を支えない。だから、死ぬのを待っている。
 自民党憲法改正草案の「前文」に、こう書いてある。

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

 美しいことばだ。だが美しいことばには「裏」がある。「経済活動を通じて国を成長させる」。これは「経済活動」できない人間は国民として認めないということにつながる。「経済活動」をしている間(働いている間)は国民として認めるが、働けなくなったら「やっかいもの」。安倍の「1億総活躍」は、そのことを明確に打ち出している。活躍できないひとを、どう守っていくかという視点が完全に欠落している。
 木村の詩は、こう叫ぶ。

老人になったら
下流老人、漂流する老人、老人破産
などという言葉が待っていた

 ことばは誰が用意したのか。ことばは、どこから生まれてきたのか。自民党憲法改正草案は先取り実施されている。下流老人、漂流する老人、老人破産も「1億総活躍」もみな「経済活動」を優先する「政策」が生み出したものである。

この老人世帯ほど
貧富の差が大きいのだ
これが政府の言う老後安心なのだ

 いまこそ老人は怒らなければならない。若者以上に怒らなければならない。「18歳選挙権」は、この詩を読んだ後では、若者の声を政治に呼び込むというよりも、「若者向け政策」を打ち出し、若者の人気を得ることで老人を切り捨てる口実づくりのようにさえ見えてくる。
 これからは若者対策を重視する。老人対策を切り捨てて若者対策に予算を回す。だから投票して、とささやく安倍の声が聞こえる。
 「待機児童の解消」「給付金型奨学金の充実」など、若者に未来を支えるための政策を充実させる。誰もが働ける環境にする。そのためには、「老人対策」はあとまわし。「経済活動」ができない人間の面倒まで見ていられない。「年金の給付開始を70歳にま延長する」というのも働けるだけ働かせる、ということだろう。それまで、どれだけ働いてき方は無視するということだろう。

「老後破産」
何とも嫌な言葉だ
老人になるのをもう少し待てばよかった

 最後の一行に笑ってしまうが、だれも「待つ」ことができないのが老人になることだ。もう少し待って、それで安倍政治が変わるわけではない。

 「保育園落ちた 日本死ね!」ではなく、「特別擁護老人施設落ちた 日本死ね!」が今年の「流行語大賞」になるといい。「流行語大賞」になるくらい、国会で問題してほしい。
 長い詩なので一部しか引用できなかった。詩集でぜひ読んでほしい。「新人老人には気の遠くなる話だ」「老人になるのをもう少し待てばよかった」など、思わず笑ってしまうことばもあるこの詩、口コミで広がり、社会を動かす力になると楽しい。






夢の壺―木村孝夫詩集
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土曜美術社出版販売
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長谷川龍生「老後、触れた水路」

2017-01-03 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
長谷川龍生「老後、触れた水路」(「現代詩手帖」2017年01月号)

 長谷川龍生「老後、触れた水路」は「老後」ということばをタイトルに持つ。詩の中には「死」も登場する。だが、ことばに強い響きが満ちている。

川の近郊にザブラジェという名の町で
アンドレイ・タルコフスキーが
一九三二年四月四日に生まれたことを知った

 「川」とは「ヴォルガの舟唄」のヴォルガ。「ヴォルガの舟唄」は長谷川にとってはなじみの唄。ときどき口ずさんでいる。その「記憶」にあるものに、突然、タルコフスキーが結びついてくる。「一九三二年四月四日に生まれたことを知った」という新しい「事実」が加わる。
 「新しさ」が長谷川のことばを活気づかせる。
 この「新しさ」は動きが急だ。

一九八六年十二月二十九日夜 パリにて
タルコフスキーは肺癌で急に亡くなった
蒼ざめた馬に乗って去っていく

 生まれたと思ったら、もう死んでしまう。それでもことばに勢いがある。なぜか。

彼は 映画芸術の一山をこえ
さっさと去っていく
七、八本を腰に巻いて去って行った

それ以外は 何も知らない 知らないが
どこかの試写室で制作の流れに
ふと 触れたことがある

 「触れたことがある」は「感じたことがある/肉体で知ったことがある」というくらいの「意味」だろう。映画のタイトルを書いていないが、タルコフスキーの映画の原点(源流)を感じたということだろう。「流れ」ということばがここに登場するのは、「ヴォルガ」と「川の近郊の街・ザブラジェ」が関係しているだろう。
 生まれ育った場所。そこには当然「少年」のタルコフスキー(人間の原点としての「少年」)がいるはずである。
 確実に把握しているわけではないが、その「少年」に長谷川は触れた。
 だから、詩は、こうつづく。

時代と場所 彼の少年の頃を知りたい
イメージは 永久に消えていなかった
戦争が勃発したからだ 戦時の体験
先取りも先取り 少年時代の運命を
深く映して 最後まで持ちこたえる

監督の仕事について 頭脳が冴えた
素材力の良さ 運命を切りひらく--
人生体験も 体験身をひらく

水路に触れた なめるような希求一筋--

 長谷川のことを私は詳しくは知らないが、たぶんタルコフスキーと同年代なのだろう。タルコフスキーの体験した「戦争」と長谷川の体験した「戦争」は同じではないだろうけれど、どこかで通じる。タルコフスキーに「戦争」の体験を「イメージ」の共有として感じたのかもしれない。だからタルコフスキーの少年の頃を知りたいと思う。
 タルコフスキーの少年の頃を知るとは、長谷川自身の少年の頃を知ることでもある。もちろん長谷川は自分自身の「少年の頃」を知っている。しかし、他人の「少年の頃」を知ることで自分自身が見落としてきた(無意識の奥にしまいこんでいる)何かを知ることがある。
 長谷川は、そういう「予感」のようなものを強く感じたに違いない。
 「知った」ではなく「触れた」。「触れて感じた」に違いない。
 「一九三二年四月四日に生まれたことを知った」「それ以外は 何も知らない」「知らないが/触れたことがある」。
 「知る」と「触れる」を長谷川は明確につかいわけている。
 「触れる」は「知る」よりも強い。「知る」は「知識」だが「触れる」は「知識」になる前の「肉体の感覚」。「肉体」そのものだからである。「肉体」を長谷川は、いま、新しく生み出している。新しい長谷川の「肉体」がいま生まれている。「誕生」の強さが、詩のことばを動かしている。
 「具体的」には、わからない。「具体的」には書かれていない。これはしかし、あたりまえのことなのだ。「知識」ではなく「肉体」が感じている「ことば以前」のことだからである。流通言語では、具体的には書けない。
 戦争を体験することで「先取り」して見てしまった何か。それを長谷川はタルコフスキーの映画に感じ、いま、長谷川自身の体験と「肉体」を開いていこうとしている。その勢いが「死」を乗り越えている。 「老い」を忘れさせる力となっている。





立眠
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江代充「紗音とともに」

2017-01-02 11:21:21 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「紗音とともに」(「現代詩手帖」2017年01月号)

 江代充「紗音とともに」は「紗音 わたしは語る」のなかの一篇。

やや狭まった空地のような所に出ると
少し前に道を折れたため
先ほどから見えなくなっていた近くの小川が
そこから対岸の石垣を見せはじめ
上には岸にせまった人家の色付いた壁の表と
無花果のかげが
ひらいた紗音(しゃのん)の指の幅をもって
いくつか続いていた

 松浦寿輝の詩と読み比べると、江代は「実景」だけを描いているように見える。しかし、そうか。三行目「先ほどから見えなくなっていた」は「意識」によってはじめて成り立つことばである。「見えていたものが/見えなくなった」という「意識」が動いている。そして、それが「見せはじめ」ということばでくくられるとき、「見せはじめ」は「見えてきたことに気づいた」ということ、「気づき」をあらわしている。「意識」を「実景」のなかに深くもぐりこませてことばが動いている。意識が実景を動かしている。
 「実景」など、ないとさえいえる。どんなに「具体的」に書かれていても、そこには「もの」は存在せず、「意識」の運動があるだけだ。
 「意識の運動」を江代は「肉体」あるいは「もの」の「動詞」とからめて具体化する。「出る」「折れる」「見えなくなる」……。ことばと一緒に動くのは「意識」というよりも「肉体」である。それにともなって「実景」も変化する。
 「壁の表」とは不思議な言い方である。「壁」に「表」「裏」はあるか。あるとしても外から見えるのは「表」だけである。「表」とことわらないと「実景」にならないというわけではない。「実景」が「余剰」に描写されている。その「余剰」が「精神」というものである。
 しかし。
 「紗音(しゃのん)」って、何? 「指の幅」ということばがつづいている。「観音」か何かの一種?
 私は「わからないことば」を調べるという習慣がない。大事なことばなら、きっと別なことばで言いなおされるはずと思っているので、言い直しが出てくるまで待つことにしている。
 で、つづきを読む。

このまわりに散在する草の所為ではないが
ここからは背伸びをしても
川床の水の流れを見ることができない
その代わりにかれは
いま立ち止まっている所からでも
ふたたび川に出会うことができたのだと思った

 さて、困った。
 私がつかわないことばとして「所為」というのが出てきている。これと関係がある? いや、なさそうだなあ。
 「紗音」。わかるのは「音」だな。
 で、前半を読み直す。
 「小川」が出てくるが、見えているのは「水」ではなく「石垣」。そして、後半はそれに呼応するようにして「川床の水の流れを見ることができない」とある。「水の流れ」を見ていないのに、「かれ」は「川」と判断している。「石垣」から? すべての「石垣」が川岸の石積みとはかぎるまい。そうすると「音」から「川」と判断していることになる。「水の音」。
 「紗音」とは「川の水の音」。「紗」には「糸」があり「少ない」がある。ほそい、とぎれとぎれ。豊かに流れる川ではなく、小川の「小さな音」。「指の幅」とは「細い」に通じ、とぎれとぎれに通じる。
 小さな音がとぎれとぎれに聞こえるように、壁の表と無花果の影が「まだら」を描いてつづいている、ということか。
 その「音」を聞くことで、「かれ」は「川の水」をみなくても「川に出会うことができた」と感じている。
 最後の「思った」が、小学生の「作文」のようだが、とても重要だ。
 江代が書いているのは「実景」ではなく「精神の運動」、「川の水」を見なくても「川にふたたび出会った」といえるのは、「川」を「実景」ではなく「状況(頭でととのえた意味)」としてつかんでいるからである。ただし、「頭」といっても、それは「抽象的」ではない。「耳」をつかっている。「目」で確かめてはいないが「耳」で確かめている。「肉体」が認識の奥で融合して動いている。
 「目」と「耳」の融合に力点を置けば、「肉体」でとらえなおした「川のある風景」ということになるが、その融合を確固としたものにしているのは「見る/聞く」という動詞をとらえなおす「意識」である。








江代充詩集 (現代詩文庫)
江代充
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生前退位特例法案(「一括」という罠)

2017-01-01 10:42:19 | 自民党憲法改正草案を読む
生前退位特例法案(「一括」という罠)
               自民党憲法改正草案を読む/番外62(情報の読み方)

 2017年01月01日読売新聞(西部版・14版)は1面に、次の見出しがある。

秋篠宮さま「皇太子」待遇/「退位」特例法案 関連法を一括で

 やっぱり、と私は思った。
 安倍の狙いは天皇を退位させ、「摂政」を設置すること。「摂政」を設置し、「摂政」への関与を強化し、「天皇制」を支配すること。
 天皇が退位させられ、皇太子(56歳)が天皇になる。皇太子には男子の子供がいない。皇太子の次の皇位継承者は秋篠宮(51歳)。秋篠宮には悠仁(10歳)の男子の子供がいる。悠仁は皇位継承順位でいうと3位。安倍は、いろいろな「口実」をつくって悠仁を「摂政」に置くだろう。皇太子-秋篠宮への皇位継承は年齢が近い関係で、継承されても秋篠宮が天皇である期間は短いことが予想される。つまり、不安定である。その不安定さを解消するために、はやくから悠仁を「摂政」に据え、影響力を行使する、というのが安倍の狙いだ。
 籾井NHKが天皇の「生前退位」意向をスクープしたときから、私は、これは安倍が籾井NHKをつかって「情報操作」をしているのだと「妄想」してきた。「護憲派」とみられる天皇、国民から信頼を集めている天皇を退位させないことには憲法改正が進まない。単に天皇を退位させるだけではなく、皇太子、秋篠宮の「年齢」を理由に(すぐに高齢になる)、悠仁を「摂政」に据え、「天皇教育」をはじめる。安倍にとって都合のいい次期天皇を育てる。安倍は、悠仁天皇誕生の立役者として「歴史」に残る、ということだ。

 こんな「妄想」は読売新聞には書いていない。
 こう書いている。

政府は天皇陛下の退位を実現するため、一代限りの特例法案を1月召集の通常国会に提出する方針を固めた。特例法案は皇室典範と皇室経済法や宮内庁法など関連法の特例を一括したものとする。皇位継承順位が1位となる秋篠宮さまを「皇太子」待遇とし、退位した天皇の故障は「上皇」(太上天皇)とする方向だ。

 「特例法」を政府が方針として打ち出したとき、皇太子には男子の子供がいない、皇太子が不在になるということは世間で話題になっていた。そのときは何もいわずに、今になって秋篠宮を「皇太子」待遇にする(悠仁を次の「皇太子」あつかいにする)と言う。さらには「皇室典範と皇室経済法や宮内庁法など関連法の特例を一括したものとする」という。
 これでは「天皇の生前退位」だけをテーマにした「特例法」ではない。広範囲の「法改正」である。さらに「一代限り」でもない。影響は悠仁にまで及ぶから「三代にわたる」特例法ということになる。実質上は「恒久法」に等しい。
 なぜ、皇室典範、さらには憲法にまで踏み込んで改正しないのか。
 いま、こういう疑問を投げかけても、もう遅い。政府は「特例法案を1月召集の通常国会に提出する方針を固めた」、つまり、「やりなおしはしない」ということ。「やりなおし」を求める声を封じるために、最初から「皇室典範と皇室経済法や宮内庁法など関連法の特例を一括したものとする」ということを隠していたのである。
 「天皇の生前退位だけをテーマにする」と嘘をついて、国民をだましていた。その嘘に有識者会議は加担した。有識者会議など、最初から「アリバイづくり」。有識者の声を聞き、専門家の意見も聞いたという「アリバイ」を利用して、安倍は「独断」を隠している。
 私は有識者会議で何が議題になってきたか、ヒアリングに応じた専門家がどう答えたかを逐一確認しているわけではないが、天皇が生前退位した後、皇太子や秋篠宮の「生計(経済状態)」など主要なテーマとしては取り上げられていないだろう。特例法に秋篠宮の経済状況に関する法律まで含まれてくるとは思っていないだろう。
 一種の「だましうち」である。

 読売新聞の記事の末尾に、こうある。

有識者会議は23日の会合で論点整理を公表する。これを受け、国会でも与野党による議論が始まる見通しだ。政府は18年中の退位を視野に、5月の大型連休前後に法案を国会に提出したい考えだ。

 もう、スケジュールは決まっている。
 そのスケジュールを見ると、また、別のこともわかる。通常国会の会期は「150 日」。1月に開会すると6月には会期末が来る。(もちろん延長は可能だが。)そうすると「5月の大型連休前後に法案を国会に提出」した場合、「特例法および円連法」の審議期間(日程)はどうなるか。1か月前後。天皇の「退位」は憲法に関係してくる。さらに秋篠宮を「皇太子待遇」にするというのも簡単に決めていいのか。皇太子の子供(愛子)をどう処遇するのか、という問題も起きてくる。悠仁と愛子との「地位」というか、「身分」の関係は? そんな短い期間の審議でいいのか。
 安倍は「ていねい」に審議することを嫌い、すべて「一括」ですまそうとする。そこに多くの「隠し事」がある。
 秋篠宮の経済負担を軽くする(皇族費を値上げする)といえば「聞こえ」はいいが、その背後にどんな思惑が動いているか、見過ごしてはいけない。
 さらに「18年中の退位を視野」というのは、天皇を18年中に退位させ(邪魔を取り除き)、19年には憲法改正を推し進めるというスケジュールを安倍が組んでいることを語っている。安倍の暴走はますます加速している。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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松浦寿輝「背後の橋」

2017-01-01 09:11:31 | 詩(雑誌・同人誌)
松浦寿輝「背後の橋」(「現代詩手帖」2017年01月号)

 松浦寿輝の「文体」は長い。「背後の橋」に特徴があらわれている。

ようやく渡りおえた橋は背後ですでに絶たれ
濃い靄が立ちはだかって前途はまったく見透せない
こんなことが前にもあったなとわたしは考えていた
立ちすくむという体験にはどこか甘美な陶酔がある
底に恐怖がうごめいていない陶酔というものはないのだ

 渡り終えた橋が背後で絶たれ、引き返せない。靄が立ち込めていて前にも進めない。「実景」なのかどうかわからないが、「実景」として読むことができる。橋、靄、立ちすくむ「わたし」という存在を「事実」とみなすことができる。
 これを松浦は「考え」で反復する。「こんなことが前にもあったな」というのは、しかし背後で橋が絶たれ、靄で前にも進めないという「実景」そのものではなく、「立ちすくむ」ということである。「実景」が「立ちすくむ」という「動詞」のなかで反芻されている。そしてそれがさらに「陶酔」と言いなおされ、その「陶酔」がもう一度「底に恐怖がうごめいている」という「状況」として言いなおされる。
 「実景」が「立ちすくむ」という「動詞」として言いなおされ、「立ちすくむ」という肉体の「動詞」が「陶酔(する)」という「官能」の動きとして言いなおされ、さらにそれが「底に恐怖がうごめいている」という「状況」として言いなおされる。
 「実景」も「状況」と言えるが、私はここではつかいわけている。「実景」は「わたし」の「肉体」の存在する世界。「状況」は「わたし」の「内面(思考/感覚)」でとらえなおした世界。松浦は「肉体」のありようを、「内面」のありようとして言いなおしていることになる。
 「言い直し」のために「文体」が長くなる。

 「言い直し」には、もう一つ特徴がある。
 「ようやく」とか「すでに」とか「まったく」という「副詞」は、ことばの上では(文法上は)「肉体の動詞」をある方向に導く働きをする。「ようやく/……する(した)」「すでに/……した」「まったく/……ない」という具合に。

渡りおえた橋は背後で絶たれ
濃い靄が立ちはだかって前途は見透せない

 でも「実景」は変わらないが、何かが違う。
 「副詞」によって「動詞」が「文法上」決定されるとしたら、その「副詞」のなかには「文法上」の動きを支配する「精神」のようなものがある。
 「実景」に見える最初の2行も、「精神(文法意識=ことば)」によって生み出されている。「実景」も「実景」ではなく、ことばによって(文法によって)生み出された「状況」なのである。「精神」を「精神」で言いなおす。
 この動きは止まらない。
 「実景(肉体)」を「状況(内面によって把握され、整理された意味)」に言いなおすだけなら、そこで終わりだが、「精神(内面によって整理された意味)」は何度でも言い直しを求められる。「内面」というものには「果て」がないからである。

ポケットから取り出したペーパーマッチを開き
何本か残っているのを確かめ安堵した後になって
どこかに煙草の箱を忘れてきたことに気づく
それでもマッチの軸を一本引きちぎってあてどなく
火を点けてみる 何かを占うように 何かに挑むように
陶酔を長引かせるように 未練の芽を断つように
しかし それもこれも無意味なことだ

 「ペーパーマッチ」という印象的な存在が「実景」として強く浮かび上がる。もう一度「実景」にもどったかのような印象を与える。しかし「確かめ(る)」という動きが、「肉体」の運動というよりも「精神」の運動である。「忘れる」は「肉体」の動作の結果だが「気づく」は「精神」の運動である。
 どれが「肉体」の動詞であり、どれが「精神」の動詞なのか、相対化し、特定するのは、しかし意味がないだろう。「言い直し」によって、その関係は、常に相互入れ替えができるだろうから。「陶酔」を「長引かせる(言いなおし続ける)」ためのものだから。松浦がつかっていることばをつかえば、「無意味」ということになる。
 詩は、このあと、こうつづいていく。

後方に棄ててきてしまったものはもう思い出せないし
前方に待ち受けるものをめぐる予想はいつも外れるから
火が指を焼く前にわたしはマッチを決然と投げ捨てる

 「思い出せない」「予想(する)」という「精神」の運動が先行し、「マッチを投げ捨てる」という「肉体」の運動が追いかける。ただし、そこにも「決然と」ということばが動き、文法上の(精神上の)動詞を決定するということが起きている。
 ここからも「実景/状況」「肉体/内面(精神)」の特定が「無意味」であるといえるだろう。
 言い換えは、さらにつづいていく。

炎が宙を飛んでその軌跡が靄をひとすじきらめかせる
だからと言って その靄を闇とは呼び換えるまい
日の名残りはまだこの冷気のなかを揺曳しているのだ
帰っていくべき場所はどこにもない なのにそれはある
必ずあると感じられてならないのはいったいなぜなのか
かつて在ったものへのこの烈しく胸苦しい想いは何なのか

 うーん。私はだんだん「小説」を読んでいる気持ちになる。後半に「微差」ということばが出てくるが、こんな微妙な違いを追いつづけることばは、「小説」だなあ。長い長いストーリーのなかで、微妙な変化を浮かび上がらせる。ストーリーがどんなに劇的であっても、あるいは劇的であればあるほど、この「劇的」なことは些細なことから始まったというときの「小さな何か」。小さな動きを拡大し延々と書き込むのが「小説」である。行わけで「詩」の形はしているが、ことばの運動は「小説」。松浦は「散文」を生きているのだなあと感じた。


BB/PP
松浦 寿輝
講談社
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