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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

宮城ま咲『よるのはんせいかい』

2017-01-07 09:31:50 | 詩集
宮城ま咲『よるのはんせいかい』(土曜美術紗出版販売、2016年11月22日発行)

 宮城ま咲『よるのはんせいかい』は父親の思い出を書いている。父親の思い出というよりも、死んだ父の思い出といえばいいのか、父の死とどう向き合ったかという思い出といえばいいのか。
 「雪は確かに好きだけれど」。

父が死んだ夜
めったにないほどの大雪
電線にまで雪が積もった朝
きっと今日は
校庭の使用時間を割り振って
たくさんのクラスの子たちが雪合戦
だけど私はお休み
今日はひとりであそぶ
ひとりきりで
かまくら作って
雪だるま作って
しずかな小さな庭を
行ったり来たりするんだ

 「今日はひとりであそぶ」を「ひとりきりで」と言いなおす。その「ひとり」の繰り返しに、宮城がひたすら自分の「枠」を守っている姿が見える。
 「こどもの役」では、これはこう語り直されている。

つもっている雪で
夢中になって遊んだ
一月の薄暗い昼
かまくらを作った
体が
まだそばにあるうちに
おとうさんと
雪遊びしているつもりで

周りのみんなは
私がこどもだから
人の死が理解できなくて
めそめそしてないんだと
思ったかも

「これは良くない!
 明るくしなきゃ、
 元気づけなきゃ…」
むじゃきに家の中歩き回って
台所のお菓子を食べたっけ

 「こどもの役(役割)」を考えて、それにあうように自分の行動を整えている。「こどもの役」という「枠」のなかで自分を動かしている。
 そういう「枠」のなかで行動するという悲しみからやっと解放されて、いま、こうやってあのときはこうだったなあと悲しんでいる。その悲しむことができるようになった切なさがことばを支えている。
 「夏休み」は「ぼく」を語り手にして、ラジオ体操に遅れたときのことを書いている。

めざまし時計は
かけていましたが
ねむいならやすんでいいよと
おかあさんにいわれました
たいそうカードには
うちの印かんをおしました

 ここには、母が宮城に対してどう向き合ったかがしずかに書かれている。家の中に悲しみが疲労のようにつもっている感じがする。家をむしばんでいるとさえいえるかもしれない。

ことしは
夏休みの宿題がはかどりません
しんがっきがこわいので
タンスのかげにすわって
タオルでぎゅうぎゅうと
くちをふさいでいたら
おかあさんがきたので
やめました
そのひの夜も
タンスのまえにふとんを
ふたつしいてねました
みっつしいていた時には
へやいっぱいでした
みっつしいていた頃は
ろくじはんから
ラジオたいそうしていました
夏休みの宿題を全部提出していました

 「ふたつ」と「みっつ」。一つ少ないだけで「いっぱい」が「いっぱい」でなくなる。「タオルでぎゅうぎゅうと/くちをふさいでいたら」にはどきりとする怖さがあるが、「ぎゅうぎゅう」は「いっぱい」につうじる。タオルを口「いっぱい」にふさいでいたら、ということだろう。何かで「いっぱい」にしたい。自分の肉体を「いっぱい」にしたいという感じなのだろう。

 こういう言い方が適切かどうかわからないが、いろいろな詩を書くことで、悲しみがすこしずつ蘇ってきて、宮城の「肉体」のなかに「いっぱい」になって、その充実感がいまの宮城を支えている、という感じがする。
 悲しむということは大切なことだ。
 悲しみを押し殺してしまうと、「からっぽ」が増えてくる。「からっぽ」を乗り越えて「いっぱい」を生き始めているということが、じわりとつたわってくる詩集。

よるのはんせいかい
クリエーター情報なし
土曜美術社出版販売
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