広瀬弓「みずめの水玉」、藤原菜穂子「山の上の病院は」、宮内憲夫「夕陽も笑顔」(「現代詩手帖」2014年12月号)
広瀬弓「みずめの水玉」(初出『みずめの水玉』2014年09月)。何が書いてあるのか、わからなかった。
「降ってくる水玉」は「みずめの水玉」。私は見たことはないが「傷ついた木肌をくろぐろと染め、吹き出す樹液の水玉を風に乗せ飛ばしていた。」と書いてあるので、ミズメの樹液が飛んでいるのだろう。しかし、その樹液(水玉)が「傷」といっしょにしか存在しえないのなら、それは単純な喜びとは違うものかもしれない。
そのあと、「わたしたちは大切な青年を連れ去ろうとしていました。」ということばがあり、さらに、
「現実」ではなく、「過去」の何か(ミズメにまつわる神話?)とことばが交錯しているようである。私は無知なので、その「神話」のようなものを知らない。だから、この詩は、わからない。
*
藤原菜穂子「山の上の病院は」(初出『行きなさい 行って水を汲みなさい』2014年09月)。夫の手術後の病院。夫はまだ水を飲むことを禁じられている。水を飲ませるまでに時間がある。その時間を利用して、食事に行く。そのとき、同じ病院にいるひとたちを見る。
はっと、胸を突かれる。母と子は、生きている。「死者」ではない。けれど、死を受け入れているということだろう。死を受け入れる覚悟をして、自然の「生命」を見ている。病院とは、そういうところかもしれない。
そう気づいたとき、藤原は不思議な声を聞く。
それは「生命」の水。生命があふれる水。それを藤原は夫に飲ませたい。いずれ死は来るかもしれない。そうであっても、それまで「生命」の輝きを味わってもらいたい。味わわせてやりたい。そういう祈りが聞こえる詩である。
*
宮内憲夫「夕陽も笑顔」(初出『地球にカットバン』2014年09月)。戦後(敗戦直後か)、「俺はどこから うまれたのだ?」と両親に聞く。父は「木の股からだ」と答える。母は「木の股からは方便」と笑う。そして、つけくわえる。
戦争批判とセックスの大切さ(生命の原点)について語っているのだが、わかりにくい。直接的な表現がないからである。
省略してきた途中に、戦争中の村の様子が書かれているが、そこに
という表現がある。「身棒」はペニス。セックスする元気があるなら兵隊にとるぞ、と言われていた、ということか。
しかしセックスは「大事な事実」。戦争と違って、怖くはない。「安心せよ」と母の母は言った。娘は母から聞かされた。そしてセックスして、その結果として宮内は生まれた。母は、そういうことを言った。そのときの顔は「こよなく 美しい笑顔であった」という「意味」はわかるが、その「意味」以上の「美しさ」がよくわからない。
抽象的すぎる。
抽象的すぎる原因は、宮内が聞いたことが「伝聞」だからかもしれない。母の直接のことばではなく、祖母のことば。母の体験が母のことばではなく、祖母のことばで語られるからかもしれない。またそこに宮内のセックス体験が含まれていないからかもしれない。
祖母のことばがしめくくり(結論)のようにつかわれているのは、「生命のつながり」というのは、母-子の間だけではなく、さらに遠くまでつづいているということを象徴しているのかもしれないが、何か、どきどきしない。興奮しない。宮内の声が聞こえないからだ。
藤原の詩に引き返してみる。
藤原は老いた母と初老の息子の話を聞きながら、二人が話しているイロハモミジとシャクナゲを見る。そのあと、藤原のことばで
と、語り直す。何かを「語り直す」こと、自分のことばで動かすこと--それが、世界を詩にするかどうかの境目なのだ。世界はだれにも同じように開かれている。その世界をどうことばにするか。他人のことばに刺戟を受ける。他人のことばをそのまま自分のことばにするのもいいことだけれど、聞いたことばのその先へ自分のことばを動かしていくと、世界はもっと輝く。
藤原は「誰かの声」と書いているが、これは藤原の声である。藤原の「新しい声」が藤原を励ましている。「新しい声」の発見が詩なのだ。宮内の詩は「事実」を書いているのかもしれないが、そこに「新しい自分の声」が欠けている。
藤原の詩だけを読んでいたときは、あまり感じなかったが、宮内の詩を読み、そこから引き返すと、藤原の詩はとてもすばらしい詩だと気がつく。
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広瀬弓「みずめの水玉」(初出『みずめの水玉』2014年09月)。何が書いてあるのか、わからなかった。
手のひらと顔を天に向け
降ってくる水玉をキャッチした
ひとつぅ……
……ふたつぅ
ひとりでに嬉しくなって
笑いながら
とび跳ねていた
「降ってくる水玉」は「みずめの水玉」。私は見たことはないが「傷ついた木肌をくろぐろと染め、吹き出す樹液の水玉を風に乗せ飛ばしていた。」と書いてあるので、ミズメの樹液が飛んでいるのだろう。しかし、その樹液(水玉)が「傷」といっしょにしか存在しえないのなら、それは単純な喜びとは違うものかもしれない。
そのあと、「わたしたちは大切な青年を連れ去ろうとしていました。」ということばがあり、さらに、
血が流れます。流れる流れると見つめていましたが、流れぬまま画像はフリーズしています。流れ出す前に目を覚まそうと、わたしは薄明のもやの層をもがいて浮き上がりました。
「現実」ではなく、「過去」の何か(ミズメにまつわる神話?)とことばが交錯しているようである。私は無知なので、その「神話」のようなものを知らない。だから、この詩は、わからない。
*
藤原菜穂子「山の上の病院は」(初出『行きなさい 行って水を汲みなさい』2014年09月)。夫の手術後の病院。夫はまだ水を飲むことを禁じられている。水を飲ませるまでに時間がある。その時間を利用して、食事に行く。そのとき、同じ病院にいるひとたちを見る。
正面玄関から入って来るひと出て行くひと
立ち止まって話し込んでいるひと
むこうの窓際で
初老の男性が窓の外の緑を指差しながら
車椅子の老いた母に話しかけています
イロハモミジの若葉がそよぎ
石楠花がぽつぽつと火を点し
雨あがりの空に雲が流れて
あの母と子は 風にそよぐ
生命を見ているのです
(死者たちが生命を見ているのです)
はっと、胸を突かれる。母と子は、生きている。「死者」ではない。けれど、死を受け入れているということだろう。死を受け入れる覚悟をして、自然の「生命」を見ている。病院とは、そういうところかもしれない。
そう気づいたとき、藤原は不思議な声を聞く。
行きなさい と誰かの声がうながします
行って水を汲みなさい
霧の奥に流れている水を汲んできなさい
魚の遡る谷川の水を
それは「生命」の水。生命があふれる水。それを藤原は夫に飲ませたい。いずれ死は来るかもしれない。そうであっても、それまで「生命」の輝きを味わってもらいたい。味わわせてやりたい。そういう祈りが聞こえる詩である。
*
宮内憲夫「夕陽も笑顔」(初出『地球にカットバン』2014年09月)。戦後(敗戦直後か)、「俺はどこから うまれたのだ?」と両親に聞く。父は「木の股からだ」と答える。母は「木の股からは方便」と笑う。そして、つけくわえる。
土からも木からも 人の子は産まれん
ただ自然に恵まれた生命と 心にすえりゃ
その身は丈夫で 争いはせぬ!
祖母(ばあ)が教えてくれた 大事な事実(こと)だから
安心 せよと!
こよなく 美しい笑顔であった
戦争批判とセックスの大切さ(生命の原点)について語っているのだが、わかりにくい。直接的な表現がないからである。
省略してきた途中に、戦争中の村の様子が書かれているが、そこに
村中(みんな)の人が辛抱に辛抱を重ねてきた
男は「身棒(しんぼう)」を使う元気が有るくらいなら
皆兵隊に来いを 恐れていたと……
という表現がある。「身棒」はペニス。セックスする元気があるなら兵隊にとるぞ、と言われていた、ということか。
しかしセックスは「大事な事実」。戦争と違って、怖くはない。「安心せよ」と母の母は言った。娘は母から聞かされた。そしてセックスして、その結果として宮内は生まれた。母は、そういうことを言った。そのときの顔は「こよなく 美しい笑顔であった」という「意味」はわかるが、その「意味」以上の「美しさ」がよくわからない。
抽象的すぎる。
抽象的すぎる原因は、宮内が聞いたことが「伝聞」だからかもしれない。母の直接のことばではなく、祖母のことば。母の体験が母のことばではなく、祖母のことばで語られるからかもしれない。またそこに宮内のセックス体験が含まれていないからかもしれない。
祖母のことばがしめくくり(結論)のようにつかわれているのは、「生命のつながり」というのは、母-子の間だけではなく、さらに遠くまでつづいているということを象徴しているのかもしれないが、何か、どきどきしない。興奮しない。宮内の声が聞こえないからだ。
藤原の詩に引き返してみる。
藤原は老いた母と初老の息子の話を聞きながら、二人が話しているイロハモミジとシャクナゲを見る。そのあと、藤原のことばで
あの母と子は 風にそよぐ
生命を見ているのです
(死者たちが生命を見ているのです)
と、語り直す。何かを「語り直す」こと、自分のことばで動かすこと--それが、世界を詩にするかどうかの境目なのだ。世界はだれにも同じように開かれている。その世界をどうことばにするか。他人のことばに刺戟を受ける。他人のことばをそのまま自分のことばにするのもいいことだけれど、聞いたことばのその先へ自分のことばを動かしていくと、世界はもっと輝く。
行きなさい と誰かの声がうながします
行って水を汲みなさい
藤原は「誰かの声」と書いているが、これは藤原の声である。藤原の「新しい声」が藤原を励ましている。「新しい声」の発見が詩なのだ。宮内の詩は「事実」を書いているのかもしれないが、そこに「新しい自分の声」が欠けている。
藤原の詩だけを読んでいたときは、あまり感じなかったが、宮内の詩を読み、そこから引き返すと、藤原の詩はとてもすばらしい詩だと気がつく。
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