長田弘「冬の金木犀」、岸田将幸「Find the river、石狩」、新川和江「つのぐむ」(「現代詩手帖」2014年12月号)
長田弘「冬の金木犀」(「文藝春秋」3月号)は珍しい視点。金木犀というと、どうしても秋を思い出すが、その後を書いている。
人をふと立ち止まらせる
甘いつよい香りを放つ
金色の小さな花々が散って
金色の雪片のように降り積もると、
静かな緑の沈黙の長くつづく
金木犀の日々がはじまる。
冬から春、そして夏へ、
ひたすら緑の充実を生きる、
大きな金木犀を見るたびに考える。
行為じゃない。生の自由は存在なんだと。
「金色の雪片のように降り積もる」は美しい比喩だ。予感のようにして、冬を呼び込み、そのまま冬へ動いていく。そして、そのあとに「静かな緑の沈黙の長くつづく」と視線が少しずれる。金木犀の香りでも、その香りをはなつ花でもなく、ひとが(私だけかもしれないが)見すごしている緑へと。私は金木犀の存在を香りが強い秋以外に感じたことがないので、そうか、金木犀は常緑樹だったのかと驚き、また、その緑を静かに見つめている長田にも驚く。花の咲いていない(香りのない)金木犀を長田は見ている。その木が金木犀とわかって、その緑と一体になっている。一体になって、「ひたすら緑の充実を生きる」。
これは、長田と詩の関係のことを自ら語っているようにも思える。完成された詩は、秋の金木犀のよう。ひとの注目をひく。けれど、ことばは、詩の形だけで存在するわけではない。詩にならないときも、ことばの「沈黙」を生きている。「沈黙の充実」を生きている。ことばもまた「詩」という花を咲かせ、「香り」を発するかたちになるまで、沈黙し、力を充実させている。充実するという「自由」を生きている。
「行為じゃない。生の自由は存在なんだと。」という行は、金木犀(樹木)は動かない。行為しないということに対する感想なのだろうか。動かない(行為しない)けれど、そこに存在する、そして生きている。存在しながら、花を咲かせ、香りをはなつまで、ただ「沈黙」している。「沈黙」しているときも、そこに「生きる」ことが充実している。
「沈黙」「充実」「生きる」「自由」ということばが、金木犀という存在となって、そこに「ある」ように感じる。「沈黙」「充実」「生きる」「自由」ということばの接続と断絶の仕方が、「融合」している、というか……。それぞれのことばは何かを「分節」してきているのだが、「分節」はことばが発せられる瞬間だけのことであり、ことばになったあとすぐに「未分節」の世界へかえっていく。そしてその「未分節」の「場」でとけあっている。そういう「未分節」が存在ということか。そうであるなら「行為(する)」とは「分節(する)」こと……。
あ、これ以上書くと、「意味」になってしまう。「意味」にしないで、ぼんやりと、ここでことばを止めておこう。
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岸田将幸「Find the river、石狩」(初出「midnight Press Web」9、3月)は、ことばに誘われて、肉体が肉体を裏切るようなおもしろい瞬間を書いている。
国道二三一号線沿いのセイコーマートで、来札というところはどこですか、と尋ね、
ガソリンスタンドを曲がって----、そのまま真っすぐゆくと、川に行ってしまうから-----、
あまり人の行かないところなのですね、----ト
(果たして、人の行き着くところとは、<人>であってほしい)
僕はそのまま真っすぐゆこうと思った、あまり人のゆかないところへゆこうと思った
僕はとうとう、いや僕もとうとう、そのような川へ来てしまう
道を尋ねて、そのときの「答え」に誘われて、目的地を忘れてしまう。目的地よりも、そこからそれた「脇道」にそれてしまう。それを「僕はとうとう」と言ったあと「僕もとうとう」と言いなおす。この言いなおすときの「接続」と「切断」がおもしろい。
ひとはあらゆる瞬間に「切断/接続」を繰り返している。それは、私には「分節/未分節」を往復しているようにも見える。「分節」された何かは「目的地」、この詩で言えば「来札」ということになる。そこへ向かってはいるのだが、「分節」されたもの、「限定的」なものを、行動の「経済学」のままに実現するのはおもしろくない(かもしれない)。それよりも「分節」(目的地)までの行動がわかったなら、それを別な形で「分節」しなおせないか。教えられた道をまっすぐに、「正しく」進むのではなく、そこからそれて、もう一度「ここ(道の場所)」から「分節」できないか。間違うふりをして「新しい」道をみつけられないか。「分節」しなおせないか。
そういう「むだ」(不経済)を岸田は書いている。「不経済」のなかに詩がある、と書いているように思う。
このあと岸田は「リヤカーで薪を運ぶ小父」にまた道を尋ねるのだが、人との出会いによって「分節」が再度おこなわれるときの、その不思議なおもしろさ。不合理というか、不条理というか、「非経済学」的な行動のなかで、ことばが、少しずつ揺らぎ、ことばではなくなってゆく。その崩壊。さらに、崩壊しながら、崩壊の中に姿をあらわす岸田の肉体--そういうものが、おもしろい。不思議に「抒情」というものを刺戟する。「抒情」はたいてい「敗北する精神」の形でセンチメンタルを刺戟するのだが、岸田の場合、ことばが「不経済」なのでセンチメンタルにならない。「合理的」にならない感じ、「精神」ではなく、「なまの肉体」という感じで、体温があるところが魅力的だ。
--こんな抽象的な書き方では、岸田のことばの魅力を説明したことにならないだろうけれど、岸田が書いていることばの「分節/未分節」のあり方は、説明しようとすれば何十枚ものページが必要だ。だから、端折って、私はテキトウに「感覚の意見」のまま、書いておく。いわば、メモである。
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新川和江「つのむぐ」(「初出阿由多」15、3月)。私は「つのぐむ」ということばを知らない。辞書を引けばいいのかもしれないが、私は辞書をあまり信じていない。辞書よりも、そこに書かれていることばを、そのまわりのことばと関連づけて読んでいけばいいと思っている。大事なことは、ひとは何度でも言いなおす。きっと、その言い直しの中に「意味」の手がかりがある。
で、知らないまま、読んでいくと、
二はしらの神が
国産みの仕事もまだお始めにならぬうちに
混沌(どろどろ)の中から最初にかたちをあらわしたのは
つのぐむ葦でありました
あざやかな緑の錐は
萌えあがる力をもって世界の中心をさしたと
いにしえの書物はしるしています
頼りになることばは「葦」。それから「かたちをあらわす」「緑の錐」「萌えあがる」。葦が「混沌(どろどろ)」から形をあらわすなら、そしてそれが緑色で錐の形をしていて、萌えあがるなら、それは「芽ぶく/芽を出す」だろう。「芽」を「つの」にかえると、「つのぶく」。「つの」は「角」であり、それは先がとがった「錐」の形。
「芽ぶく」よりも「つのぶく」の方が音がゆっくりしていて、古い感じがする。この「古い」は「原始的(根源的)」という感じでもある。
それにしてもおもしろいなあ。「芽」よりも先に「つの(角)」がことばとしてあったのか。「混沌」という観念的なことばのまえには「どろどろ」があった。(「どろどろ」というルビが「混沌」を「混沌」ということばになる前の世界に引き戻す。)これはなんとなくわかる。こどものは「どろどろ」ということばを先に知る。「混沌」はもっとあとからだ。観念で世界をととのえることを覚えてからだ。「どろどろ」は最初は「泥泥」かもしれないが、生きているあいだに「泥」よりももっと「肉体」的なもの、肉体の内部にあるもの、「感情のどろどろ」にかわっていく。おとなになってしまうと「泥」とは遊ばなくなり、もっぱら感情(人間関係)の「どろどろ」にからまれてしまう。そして、その「感情」には「怒る」ということも含まれる。「怒る」は「角を出す」ともいう。「つのぶく」には、何か、そういうものを感じさせる力もある。我慢しきれなくなって、激情が噴出する。その「激情」を感じさせるものがある。
「芽ぶく」ということばなら、こんな寄り道(ことばの不経済/くだくだとした思いめぐらし)はしない。奇妙な寄り道をすると、自分の「肉体」の内部が揺り動かされた感じがする。その揺らぎの中に「いにしえの書物」(古事記?)につながるものがあるのだと感じる。人間はみんな「つのぶく」ということをするのだ、と思う。--こういう「余分」な寄り道、どうでもいい思い(思い間違い?)のなかに詩はあるんだろうなあ、と私は感じる。そういうことをおもしろいなあと感じながら読み進む。
で、そのあと。
それから春は数えきれないほどめぐって
この国もすっかり年をとりました
これは「流通言語(ことばの経済学にのっとったことば)」で言いなおせば、古事記(神話?)の時代から何年もたったということに過ぎないが、「つのぶく」で寄り道をした私は、またさらに寄り道(脱線)をする。
「春を数える」(春を繰り返す)ということばのなかに、「肉体」が何度も「つのぶく」を「見る」という「動詞」が重なって動く。そして「見る」には当然自分自身の「肉体」が重なるので、「この国もすっかり年をとりました」は「私もすっかり年をとりました」という「実感」と重なる。この「重なり」がおもしろいのは、古事記から現代までの「時間」と自分自身の「年取ったというときの時間」では「長さ」がまったく違うのに、その「長さ」の違いが抜け落ちて、「つのぶく」「めぐる」という「動詞」のなかで「重なる」ということが起きることだ。
「時間」、「時の間」「時と時の間」は、あって、ないのだ。「いま」だけがあって、「いま」古事記の過去を思い、「いま」自分の過去、生きてきた時間を思うとき、ふたつの過去は数字(年数)で客観的に言うことはできても、「実感」としては「いま/思い出す」という「瞬間」にのみこまれて、区別がない。
時間に区別がないなら。
と、私は、ここで「飛躍」する。「誤読」する。ことばを暴走させる。
「つのぶく葦」と「私(新川)」もまた区別がない。新川は古事記を読んで葦のことを思い出しているだけではない。自分の「生きてきた時間」を思い出している。生き方をも思い出している。
葦は生まれて、何をしたか。
萌えあがる力をもって世界の中心をさした
あ、すごい。
ひとは、生きるとき「世界の中心をさす」のだ。さそうとするのだ。そして、その「さす」ものが「つの(尖った感情/怒り/激情)」なのか。
ひとは年を取ると「まるくなる」というが、そんなことはないのかもしれない。
でも春ごとに萌えだす草が
もののはじめのあの葦のように
どの葦も どの葦も
世界の中心をさそうと背のびしているのは
なんと嬉しいことでしょう
いいなあ。この希望の力はいいなあ、と思う。新川のことば自体が「中心」をさして「つのぶいている」。
「中心」というと、何かの真ん中なのだが、葦の芽(つの)が指しているのは、「どろどろ/泥/大地」とは正反対の「天(空/宙)」。えっ、「世界の中心」は「天」?
「論理」が一気に逆転する。自分の根を張って生きている大地(泥)が、突然、世界の端っこに押しやられる。中心は自分の生きている場所とははるかに遠い「宇宙」。
この瞬間、不思議な開放を感じる。「世界」がひろがった感じ。「どろどろ」がきれいさっぱり消えてしまう感じ。
これ以上ことばを動かすと「倫理」になってしまいそう。だから、もう書かない。
ただ、ひとこと。もしこの詩が「芽ぶく」というタイトルで、途中に出てくることばが「芽ぶく」だったら、私はきっとこんなふうには感じなかった。「つのぶく」が私の考えた通りの意味なのかどうかはわからないが、私はこういう「誤読」が好きなのだ。「誤読」をしたくて詩を読むのだとあらためて思った。