田中庸介「旅と自由とファクチュアルな詩のゆくえ」(「現代詩手帖」2014年12月号)
先日、くぼたのぞみ「ピンネシリから岬の街へ」の感想を書いた。それについて田中庸介から「ピンネシリ」が「知らないのならちょっとでも調べれば」という指摘をいただいた。そうですね。調べればいいのだと思う。でも、詩のなかで「アイヌモシリ」ということばが出てきたので、私は、北海道のどこかだろうと見当をつけた。大事なことばなら、作者はどこかで説明し直す。私は、そう信じている。
同じ調子で、根本明の「潮干のつと」についても感想を書いた。「潮干のつと」ということばがわからない。でも見当はつく。その見当で感想を書いたところ、
という指摘。「現代詩手帖」は読んでいたが、田中の文章については感想を書いていなかったので、書くことにする。
私の読み方は「手垢がつきすぎてい」るということだけれど、私には、まだまだ手垢を付けたりないという感じなので、同じことの繰り返しになってしまうだろうけれど。
最初に「旅と自由とファクチュアルな詩のゆくえ」を読んだとき、あ、田中はどこかの大学の教授なのか、と思った。外国語(翻訳)文学に精通しているようだ、と思った。何冊かの詩集が取り上げられているが、私が読んだことのある本は限られている。そして、私の感想と田中の批評とには「共通点」がない。つまり違った読み方をしているということしか印象に残らなかった。
何が書いてあったのだろう。読み返してみた。
ここが、たぶん田中の私への批判の出発点なのだと思う。
私は「事物」(こと、もの、でいいのなかな?)をどうとらえるかというとき、どうしても「動詞」で考えてしまう。「動詞」を抜きにしては「もの」「こと」がつかみきれない。「肉体」とどういう関係にあるかを抜きにしては「もの」「こと」がわからない。たとえば、いま、こうしてワープロを打っているキーボード、文字を確認しているモニターは、手と目とつながっている。というより、それはほとんど手であり、目であり、また頭である、という感じ。
詩を読みときも、そこに書かれている「もの」「こと」が作者の「肉体」とどういう関係にあるのか、どこまで「肉体」になっているのか、を「ほんとう」か「うそ」かの判断基準にしてしまう。
で、田中の文章を読みながらいろいろ感じたのだが、それをそのまま(いま書いてきたような調子で)書いていくと……。
四方田犬彦『わが煉獄』についてふれた部分。
私はソクラテス(あるいはプラトンの文章)は好きだが、「魂/肉体」という「二元論」については、自分自身の「答え」をまだ持っていないので、田中の読み方に簡単に「同意」できない。(ソクラテスの「哲学」を語るときの出発点にはできない。)
私がソクラテス(プラトン)からわかったことは、ひとつ。ソクラテスのことば(智恵)を慕って若者が集まった。そして一緒にある問題を語り合ったということ。それを楽しんだということ。これは、孔子にも通じる。「論語」の「友あり遠方よりきたる……」というのは、同じことを学びあう友が遠くからやってくる(集まってくる)。そうして一緒に学んだことを学び直すのは楽しいね、ということだと思う。道元のことばにも、これに似たのがあったと思う。仏法を真剣に学んでいるとだんだん人に知られるようになって、人が集まってくる。そういう人と一緒に同じことを学ぶのは楽しい。
ソクラテス(プラトン)を読む楽しさは、私は、これにつきる。一緒の時代にいるわけではないが、読むと、一緒に考えることができる。いろいろ誤読しながら、それを叱られる。それが楽しい。
で、田中が「けっして破滅することのない韻律のもとに」という行を中心にして、
と書いている部分。この「韻律」とは何か。田中は最初に引用したソクラテスと結びつけて「魂」と言うだろうか。
私がソクラテスに結びつけて考えるなら、それは「語ること」、「語り方」だと思う。何かがテーマになる。それをどう語って行くか。どう語れば、求めている「真理」に近づいていくかということだと思う。人間は滅んでも、何かを求めて語るときの「語り口」(語り方)は滅びない。
これを「魂」と呼んでいいかどうかは、私にはわからない。私は「魂」とは思っていない。あくまで「語る」というときの「肉体」、口を動かし、耳を傾けるという「行為(動詞)」そのものだと思っている。(これは、うまく説明できない。つまり、私のなかでは「予想/予感」のようにしてあるだけで、ことばにはなじまない。私には未解決の問題なので、説明しきれない。)
ここまで書いてきて、私の感想は田中の指摘(批判)とうまくかみ合っていないなあ、と思う。原因は、田中の指摘している「事物(ファクツ)」というものを私が把握しきれていないところにある。「事物」という日本語を私はめったにつかわない。「ファクツ」という英語(?)もつかわない。「ファクチュアル」ということばもつかたことがない。そのことばは私の「肉体」になじんでいない。
だから、どうしても疑問が多くなる。疑問を書くことになってしまう。
こういう詩の読み方に対して田中は疑問を投げかけている。そこから推測すると、田中は「事物(ファクツ)」を「何が」ということばで言いかえているように思える。私のことばで言いなおせば、そこで起きていること(事件)。
もしそうであるなら、(ここからは、私の「誤読」の暴走になるのだが)、私も、やはり「こと」を浮き彫りにすることで感想を書いている、というしかないのだが。
つまり、「起きていること」というとき、そこには「場」があり、「時」があり、「人間」がいる。その三つをつかみ取るとき、私は「人間(肉体)」を基準にして考える。「肉体」の「動き」(動詞)を基本にして考える。「肉体」が「動く」と、その動きにあわせて「場」の大きさがきまり、「時」のひろがりも決まる。どんなふうに「動詞」をつかって「こと」と「肉体」を関係づけているか、その「書き方」から作品に近づいていこうと試みている。そういう読み方は、田中に言われば「手垢がつきすぎて」いるということになるのだが……。
「書記行為」ではなく「事物(ファクツ)/何が」が重要と田中は言うのだが……。
清岡智比古『きみのスライダーがすべり落ちるその先へ』に関する次の評価、
こう書くときの「書法」とは何なのだろう。「事物(ファクツ)」なのか。
さらに、
そこでつかわれている「換喩」「語りえた」「書法」「感受性によって彩る」というような表現は「事物(ファクツ)」なのか。「書記行為」への注目とどう違うのか。
そういう部分に、私はつまずいてしまう。
「事物(ファクツ)」のおもしろさよりも、「表記行為」の充実に目を向けて、田中は作品を紹介(批評)しているように思える。
「事物(ファクツ)」って、何?
そういう疑問を脇に置いておいて。
私がおもしろいなあと感じたのは、岩切正一郎『視草の襞』から「Wiosnaを、春を、口ずさみたくて」という行の前後を引用したあとに書いている次の部分。
田中は「Wiosna」の意味を調べる。私は、こういうとき調べない。「知らない」は「知らない」と書く。けれど、「Wiosnaを、春を」と書いているので、「Wiosna=春」だと考える。ひとは大事なことはことばを繰り返して説明する。それが私の知っている「肉体」の動きだからである。そして、聞く方(読む方)は、その「知らない/わからない」ことばに対して「予想する」。知らなくても、わからなくても、それまで聞いてきたことば、読んできたことばの動きから「何か」を感じ、それを「予想」し、その予想が的中するか、外れるか、考えながら(そのことばを持続させながら)、ことばを追う。
「知らない/わからない」、けれど、ことばを「追う」。「追う」という動詞(肉体の動き)が何かとぶつかり、その瞬間、詩がぱっと輝く。
「詩が体内でにわかに沸騰する」。田中の表現をかりれば、これが、私の書いている「肉体」に「起きていること」。「Wiosna」は何か「知らない(わからない)」をかかえたまま、そのことばを追っていって、「Wiosna」ということばをつかう人間の「肉体」と自分の「肉体」が重なる(セックスする)瞬間、その「重なること」が、詩。
そしてそれは、ことばをどう書いているか(「表現」しているか)を、「肉体」で動かしてみないとわからない。「肉体」を動かしてわかれば、それが「誤読」であってもかまわない、と私は思っている。
「事物(ファクツ)」よりも「動詞」。
「Wiosnaを、春を、口ずさみたくて」に合わせて、「Wiosnaを、春を、口ずさ」むとき、おのずと「肉体」のなかで「Wiosna=春」が生まれてくる。「予想」は「肉体」のなかで「事実」をつくり出す。この瞬間が、私はおもしろいと思う。そういう瞬間へ向けて、私は「肉体」を動かしたいと思う。
私は「動詞」をとおして、詩人の「肉体」をひっぱり出したい。そして「肉体」を重ね合わせたい。セックスしたい。ことばのセックスをとおして、私の「肉体」の奥にひそんでいるものをひっぱり出してみたい。
山崎佳代子『ベオグラード日誌』について書いた部分にもおもしろいところがあった。田中の文章ではないのだが、
「還ってくるのが好きなの」。このことばのなかにある「還ってくる」という「動詞」。私は、「動詞」にあわせて、そこで起きている「こと」を確かめる。旅へ出る。それから「還る」。その「還る」ときの自分の「肉体」のなかで起きたあれこれを思い出し、それが「好き」と言った人の「肉体」のなかで起きていることを想像する。そうすると、自分の「肉体」のなかから何かが思い出される。「肉体」が覚えていることが、「好き」ということばになって動く。その「肉体」の重なり(ことばのセックス)のなかで、私は暴走したい。
どういう「動詞」で「こと」と「肉体」を関係づけているか。そのことに私は関心がある。
田中が「事物(ファクツ)」で書いていることが何かはっきりしない。それが「予想通り」の「予想する」であったり、「還ってくるのが好き」の「還ってくる(こと)」という「動詞」に関係しているのなら、「事物(ファクツ)」という「名詞」でことばを進めていることは、私には、できない。
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先日、くぼたのぞみ「ピンネシリから岬の街へ」の感想を書いた。それについて田中庸介から「ピンネシリ」が「知らないのならちょっとでも調べれば」という指摘をいただいた。そうですね。調べればいいのだと思う。でも、詩のなかで「アイヌモシリ」ということばが出てきたので、私は、北海道のどこかだろうと見当をつけた。大事なことばなら、作者はどこかで説明し直す。私は、そう信じている。
同じ調子で、根本明の「潮干のつと」についても感想を書いた。「潮干のつと」ということばがわからない。でも見当はつく。その見当で感想を書いたところ、
言語の異化効果はもはやあまりにも手垢がつきすぎていて、ぼくら「妃」とか俊太郎さんはあえて採らないテクニックなのですよ。いくら平易なことばで書こうとしても、世界は十分に神秘的だと思う。そこのところでだれもが勝負できるように、詩の舞台をあと一段、前にファクチュアルに引き出しましょうよ。ぼくが現代詩年鑑で書いたことも基本的にはそういうこと。お時間があったら読んでみてください。
という指摘。「現代詩手帖」は読んでいたが、田中の文章については感想を書いていなかったので、書くことにする。
私の読み方は「手垢がつきすぎてい」るということだけれど、私には、まだまだ手垢を付けたりないという感じなので、同じことの繰り返しになってしまうだろうけれど。
最初に「旅と自由とファクチュアルな詩のゆくえ」を読んだとき、あ、田中はどこかの大学の教授なのか、と思った。外国語(翻訳)文学に精通しているようだ、と思った。何冊かの詩集が取り上げられているが、私が読んだことのある本は限られている。そして、私の感想と田中の批評とには「共通点」がない。つまり違った読み方をしているということしか印象に残らなかった。
何が書いてあったのだろう。読み返してみた。
作者が事物(ファクツ)を丹念に書き記したはずの詩が、その評価の段になると、「事物(ファクツ)」の部分の面白さがぞろっと抜け落ち、「丹念に書き記した」書記行為の強弱のみが問題とされるのは、どういうわけか。詩における事物(ファクツ)の意味性の蕩尽のすさまじさは筆舌に尽くしがたいほどであり、それを幾度も経験すると、事物(ファクツ)の記述を丹念に行うことが馬鹿馬鹿しくなってくるのだが、(以下略)
ここが、たぶん田中の私への批判の出発点なのだと思う。
私は「事物」(こと、もの、でいいのなかな?)をどうとらえるかというとき、どうしても「動詞」で考えてしまう。「動詞」を抜きにしては「もの」「こと」がつかみきれない。「肉体」とどういう関係にあるかを抜きにしては「もの」「こと」がわからない。たとえば、いま、こうしてワープロを打っているキーボード、文字を確認しているモニターは、手と目とつながっている。というより、それはほとんど手であり、目であり、また頭である、という感じ。
詩を読みときも、そこに書かれている「もの」「こと」が作者の「肉体」とどういう関係にあるのか、どこまで「肉体」になっているのか、を「ほんとう」か「うそ」かの判断基準にしてしまう。
で、田中の文章を読みながらいろいろ感じたのだが、それをそのまま(いま書いてきたような調子で)書いていくと……。
四方田犬彦『わが煉獄』についてふれた部分。
ソクラテスは「哲学は死の予行演習」と述べ、その理由として魂が肉体という牢獄から解放されることが「哲学」と「死」に共通するものだと言った故事があるが、
私はソクラテス(あるいはプラトンの文章)は好きだが、「魂/肉体」という「二元論」については、自分自身の「答え」をまだ持っていないので、田中の読み方に簡単に「同意」できない。(ソクラテスの「哲学」を語るときの出発点にはできない。)
私がソクラテス(プラトン)からわかったことは、ひとつ。ソクラテスのことば(智恵)を慕って若者が集まった。そして一緒にある問題を語り合ったということ。それを楽しんだということ。これは、孔子にも通じる。「論語」の「友あり遠方よりきたる……」というのは、同じことを学びあう友が遠くからやってくる(集まってくる)。そうして一緒に学んだことを学び直すのは楽しいね、ということだと思う。道元のことばにも、これに似たのがあったと思う。仏法を真剣に学んでいるとだんだん人に知られるようになって、人が集まってくる。そういう人と一緒に同じことを学ぶのは楽しい。
ソクラテス(プラトン)を読む楽しさは、私は、これにつきる。一緒の時代にいるわけではないが、読むと、一緒に考えることができる。いろいろ誤読しながら、それを叱られる。それが楽しい。
で、田中が「けっして破滅することのない韻律のもとに」という行を中心にして、
これは破滅しうるものとしての生身の人間存在による絶対的な詩性への讃歌であり、この著者の「韻律」への信頼感の強さに驚く。
と書いている部分。この「韻律」とは何か。田中は最初に引用したソクラテスと結びつけて「魂」と言うだろうか。
私がソクラテスに結びつけて考えるなら、それは「語ること」、「語り方」だと思う。何かがテーマになる。それをどう語って行くか。どう語れば、求めている「真理」に近づいていくかということだと思う。人間は滅んでも、何かを求めて語るときの「語り口」(語り方)は滅びない。
これを「魂」と呼んでいいかどうかは、私にはわからない。私は「魂」とは思っていない。あくまで「語る」というときの「肉体」、口を動かし、耳を傾けるという「行為(動詞)」そのものだと思っている。(これは、うまく説明できない。つまり、私のなかでは「予想/予感」のようにしてあるだけで、ことばにはなじまない。私には未解決の問題なので、説明しきれない。)
ここまで書いてきて、私の感想は田中の指摘(批判)とうまくかみ合っていないなあ、と思う。原因は、田中の指摘している「事物(ファクツ)」というものを私が把握しきれていないところにある。「事物」という日本語を私はめったにつかわない。「ファクツ」という英語(?)もつかわない。「ファクチュアル」ということばもつかたことがない。そのことばは私の「肉体」になじんでいない。
だから、どうしても疑問が多くなる。疑問を書くことになってしまう。
詩において事物(ファクツ)とは、つねにその「素材」としてしか取り扱われず、「何が」書いてあるかということよりも、「どのように」書かれているかということのほうがはるかに重要視される、
こういう詩の読み方に対して田中は疑問を投げかけている。そこから推測すると、田中は「事物(ファクツ)」を「何が」ということばで言いかえているように思える。私のことばで言いなおせば、そこで起きていること(事件)。
もしそうであるなら、(ここからは、私の「誤読」の暴走になるのだが)、私も、やはり「こと」を浮き彫りにすることで感想を書いている、というしかないのだが。
つまり、「起きていること」というとき、そこには「場」があり、「時」があり、「人間」がいる。その三つをつかみ取るとき、私は「人間(肉体)」を基準にして考える。「肉体」の「動き」(動詞)を基本にして考える。「肉体」が「動く」と、その動きにあわせて「場」の大きさがきまり、「時」のひろがりも決まる。どんなふうに「動詞」をつかって「こと」と「肉体」を関係づけているか、その「書き方」から作品に近づいていこうと試みている。そういう読み方は、田中に言われば「手垢がつきすぎて」いるということになるのだが……。
「書記行為」ではなく「事物(ファクツ)/何が」が重要と田中は言うのだが……。
清岡智比古『きみのスライダーがすべり落ちるその先へ』に関する次の評価、
瞬時に作品を閉じてしまうこの暴力的な書法など、まるで野球の「スライダー」そのものとさえ言えるような、著者の高度なことばのあしらいの技に感じ入る。
こう書くときの「書法」とは何なのだろう。「事物(ファクツ)」なのか。
さらに、
<ここではないどこか>を求めつづけようとする永遠のアドレセンスの、すばらしい換喩となっている。(中村和恵『天気予報』についての言及)
この詩集が作者自身の深奥の苦悩を、これほどまでに親しみ深く、われわれに語りえたのは、(くぼたのぞみ『記憶のゆきを踏んで』についての言及)
馬や猫を主人公にした『第九夜』の書法を受け継ぎつつ、こちらはあれやこれやの引用を含めもっと日本的で繊細な感受性によって彩られている。(竹内新『果実集』についての言及)
そこでつかわれている「換喩」「語りえた」「書法」「感受性によって彩る」というような表現は「事物(ファクツ)」なのか。「書記行為」への注目とどう違うのか。
そういう部分に、私はつまずいてしまう。
「事物(ファクツ)」のおもしろさよりも、「表記行為」の充実に目を向けて、田中は作品を紹介(批評)しているように思える。
「事物(ファクツ)」って、何?
そういう疑問を脇に置いておいて。
私がおもしろいなあと感じたのは、岩切正一郎『視草の襞』から「Wiosnaを、春を、口ずさみたくて」という行の前後を引用したあとに書いている次の部分。
Wiosnaは予想通りポーランド語で「春」の意味。
田中は「Wiosna」の意味を調べる。私は、こういうとき調べない。「知らない」は「知らない」と書く。けれど、「Wiosnaを、春を」と書いているので、「Wiosna=春」だと考える。ひとは大事なことはことばを繰り返して説明する。それが私の知っている「肉体」の動きだからである。そして、聞く方(読む方)は、その「知らない/わからない」ことばに対して「予想する」。知らなくても、わからなくても、それまで聞いてきたことば、読んできたことばの動きから「何か」を感じ、それを「予想」し、その予想が的中するか、外れるか、考えながら(そのことばを持続させながら)、ことばを追う。
「知らない/わからない」、けれど、ことばを「追う」。「追う」という動詞(肉体の動き)が何かとぶつかり、その瞬間、詩がぱっと輝く。
この詩はスラブ圏の秋、冬、そして春への季節の巡りを描いたものだろう。そしてそこから「光の枝」(ポーランド語ではOddaialy swiatla)という美しい表現にたどりついたところで、詩が体内でにわかに沸騰するのを作者は覚えたのだろう。
「詩が体内でにわかに沸騰する」。田中の表現をかりれば、これが、私の書いている「肉体」に「起きていること」。「Wiosna」は何か「知らない(わからない)」をかかえたまま、そのことばを追っていって、「Wiosna」ということばをつかう人間の「肉体」と自分の「肉体」が重なる(セックスする)瞬間、その「重なること」が、詩。
そしてそれは、ことばをどう書いているか(「表現」しているか)を、「肉体」で動かしてみないとわからない。「肉体」を動かしてわかれば、それが「誤読」であってもかまわない、と私は思っている。
「事物(ファクツ)」よりも「動詞」。
「Wiosnaを、春を、口ずさみたくて」に合わせて、「Wiosnaを、春を、口ずさ」むとき、おのずと「肉体」のなかで「Wiosna=春」が生まれてくる。「予想」は「肉体」のなかで「事実」をつくり出す。この瞬間が、私はおもしろいと思う。そういう瞬間へ向けて、私は「肉体」を動かしたいと思う。
私は「動詞」をとおして、詩人の「肉体」をひっぱり出したい。そして「肉体」を重ね合わせたい。セックスしたい。ことばのセックスをとおして、私の「肉体」の奥にひそんでいるものをひっぱり出してみたい。
山崎佳代子『ベオグラード日誌』について書いた部分にもおもしろいところがあった。田中の文章ではないのだが、
「旅はお好きですか」と聞かれた詩人シンボルスカさんは、タバコをくゆらせ、にっこり微笑み、「私、還ってくるのが好きなの」とおっしゃった。
「還ってくるのが好きなの」。このことばのなかにある「還ってくる」という「動詞」。私は、「動詞」にあわせて、そこで起きている「こと」を確かめる。旅へ出る。それから「還る」。その「還る」ときの自分の「肉体」のなかで起きたあれこれを思い出し、それが「好き」と言った人の「肉体」のなかで起きていることを想像する。そうすると、自分の「肉体」のなかから何かが思い出される。「肉体」が覚えていることが、「好き」ということばになって動く。その「肉体」の重なり(ことばのセックス)のなかで、私は暴走したい。
どういう「動詞」で「こと」と「肉体」を関係づけているか。そのことに私は関心がある。
田中が「事物(ファクツ)」で書いていることが何かはっきりしない。それが「予想通り」の「予想する」であったり、「還ってくるのが好き」の「還ってくる(こと)」という「動詞」に関係しているのなら、「事物(ファクツ)」という「名詞」でことばを進めていることは、私には、できない。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
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