日和聡子「音のない声」、藤井章子「文月にはぜる」(「現代詩手帖」2014年12月号)
日和聡子「音のない声」(初出「山陰詩人」197 、13年11月)は、途中まで何が書いてあるのかわからなかった。いや、いまでもよくわからないのだが、私はかってに「妄想/誤読」をする。
怨念(?)をもった女が、男の寝ている部屋へ歩いている。男と女は、そうやって生きるしかないような愛欲を生きている。それは、どうも一筋縄ではときほぐすことのできない関係のようでもある。
しかし、なんだか、古くさいなあとも思う。愛欲に古いも新しいもないだろうけれど。何と言えばいいのか、ちょっと隠れたような感じが、昔の(?)愛欲小説のような感じを思わせる。意味ありげだ描写のリズムが、そう感じさせる。
愛欲--と思ってしまうのは「湯上がりの女」「滴と汗」「奥の間」というようなことばからなのだけれど。そして「古くさい」と感じるのも、そういう「背景」のせいなのだけれど。
「がじまる(ガジュマル?)」の木から、愛欲を連想したのか。愛欲を「がじまる」の木を象徴として形象化しているのか。「大きな口をあけている」「怪物」は愛欲のことだろう。それは、男の方か、女の方か、区別がない。「空には 影か 月/どちらも出ていない」が、虚無と向き合った愛欲を想像させて美しい。愛欲を生きるとき、二人のほかに何があるかというのは関係がない。「空には 影か 月/どちらも出ていない」は「出ていない」ということばにもかかわらず、「影」と「月」との両方が同じ強さで出ているように響いてくる。「影」は「光」でもある。その「矛盾」のようなものが、「影と月」を絶対的なものにしてしまう。出ていないくても、それを確かめようとしたとき、確かめようとした人間の「肉体」のなかに存在してしまう--そういう形の「出ている」がここにある。
それが二本の木を一本にかえてしまう「がじゅまる」の「本質(欲望)」を象徴しているようにも感じられる。
途中、省略して、最後の方、
「二本の木」「一本の木」。この違いは二本が一本になったのか、あるいは絡み合う二本の木を嫉妬でみつめるもう一本の木を書いているのか。どうとも読むことができるが、二本の木をみつめる一本の木だとしても、それはみつめることで「一本」になっている。(三本が一本になっている。)二本の木のなかで動いている愛欲を、一本の木もみている(愛欲を感じている)という関係にあると思う。すべてが「まざりあい」、そこから「音のない声(ことばにしなくても、肉体のなかでなりひびく音/声)」になっている。
うーん、こんなふうに古典的(典型的? つまり真実か永遠のように?)絡まれると、少しこわいかもしれないなあ。
でも、この詩に出てくる「肉体」のゆっくりした感じ、何かと「まざりあい」ながら動く肉体の感じはいいなあ。
*
藤井章子「文月にはぜる(初出『文月にはぜる』13年11月)」の「肉体」もおもしろい。
「にいにいぜみの耳のなかが酢漬けになるほど」にうっとりする。「にいにいぜみの耳のなかが」と書かれているのに、にいにいぜみを聞いている「私の耳のなかが」酢漬けになる感じ。「にいにいぜみの耳のなかが」酢漬けになったかどうかなんて、わからないからね。いや、自分の耳が酢漬けになるというのもわからないといえばわからないのだけれど、まだ自分の「肉体」であるだけに納得がゆく。他者の(蝉の)耳が酢漬けなったとき、どんなふうに音が聞こえるのかなんて、想像できないからね。いや、自分の耳が酢漬けになったらどんなふうに音が聞こえるかも、わからないといえばわからないのだけれど、自分のことだからまだ責任がもてる。変な言い方だが。
うまく言えないが、ここには藤井が「藤井の肉体」で引き受けていることが、ふつうの文法(学校文法)を破って滲み出してきている。青臭い(嗅覚)、人の膚(触覚)と感覚が次第にひろがっていくのもいい。
「にいにいぜみのじいんじいんと鳴く声が(私の)耳のなかが酢漬けになるほどはぜる。」という文章に直してしまうと、「意味」は「論理的」になるが、詩はそういう「論理」をねじまげて動く、論理を突き破って動くものだから、私は、藤井のことばが動いた通りに「肉体」を動かしてみて、「にいにいぜみの耳のなかが酢漬けになる」を楽しむのである。「誤読/妄想」を楽しむのである。
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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
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日和聡子「音のない声」(初出「山陰詩人」197 、13年11月)は、途中まで何が書いてあるのかわからなかった。いや、いまでもよくわからないのだが、私はかってに「妄想/誤読」をする。
夜更け
脱衣所の隅を 這うもの
動かなくなり
女が湯から上がるのを
待たずに消える
寝しずまった 廊下
いつかの 破れた蜘蛛の巣がぶら下がる
女は 髪の滴と汗を垂らしながら
しのび足で 奥の間へ渡る
怨念(?)をもった女が、男の寝ている部屋へ歩いている。男と女は、そうやって生きるしかないような愛欲を生きている。それは、どうも一筋縄ではときほぐすことのできない関係のようでもある。
しかし、なんだか、古くさいなあとも思う。愛欲に古いも新しいもないだろうけれど。何と言えばいいのか、ちょっと隠れたような感じが、昔の(?)愛欲小説のような感じを思わせる。意味ありげだ描写のリズムが、そう感じさせる。
愛欲--と思ってしまうのは「湯上がりの女」「滴と汗」「奥の間」というようなことばからなのだけれど。そして「古くさい」と感じるのも、そういう「背景」のせいなのだけれど。
点滅しない 青いランプ
緑と 黄と 黒い葉の 繁る がじまる
怪物が その根元で 大きな口をあけている
片目をとじ もう一方を見ひらき 宙空を見つめて
空には 影か 月
どちらも出ていない
「がじまる(ガジュマル?)」の木から、愛欲を連想したのか。愛欲を「がじまる」の木を象徴として形象化しているのか。「大きな口をあけている」「怪物」は愛欲のことだろう。それは、男の方か、女の方か、区別がない。「空には 影か 月/どちらも出ていない」が、虚無と向き合った愛欲を想像させて美しい。愛欲を生きるとき、二人のほかに何があるかというのは関係がない。「空には 影か 月/どちらも出ていない」は「出ていない」ということばにもかかわらず、「影」と「月」との両方が同じ強さで出ているように響いてくる。「影」は「光」でもある。その「矛盾」のようなものが、「影と月」を絶対的なものにしてしまう。出ていないくても、それを確かめようとしたとき、確かめようとした人間の「肉体」のなかに存在してしまう--そういう形の「出ている」がここにある。
それが二本の木を一本にかえてしまう「がじゅまる」の「本質(欲望)」を象徴しているようにも感じられる。
途中、省略して、最後の方、
裏庭へまわると 溜池
あたりに 葉を散り敷かせる 二本の木
ぬるい風と ひえた川面が 水上でまざりあい
庭にうずくまる 雨垂れと落葉を溜めた古甕の洞に
音のない声を 響かせる
その傍らに 一本の木が立ち
暗い洞をのぞき込んで ひらひら落とした
「二本の木」「一本の木」。この違いは二本が一本になったのか、あるいは絡み合う二本の木を嫉妬でみつめるもう一本の木を書いているのか。どうとも読むことができるが、二本の木をみつめる一本の木だとしても、それはみつめることで「一本」になっている。(三本が一本になっている。)二本の木のなかで動いている愛欲を、一本の木もみている(愛欲を感じている)という関係にあると思う。すべてが「まざりあい」、そこから「音のない声(ことばにしなくても、肉体のなかでなりひびく音/声)」になっている。
うーん、こんなふうに古典的(典型的? つまり真実か永遠のように?)絡まれると、少しこわいかもしれないなあ。
でも、この詩に出てくる「肉体」のゆっくりした感じ、何かと「まざりあい」ながら動く肉体の感じはいいなあ。
*
藤井章子「文月にはぜる(初出『文月にはぜる』13年11月)」の「肉体」もおもしろい。
文月にはぜる。夏草にひそむおうんおうんと
いう音がはぜ にいにいぜみの耳のなかが酢
漬けになるほどじいんじいんと鳴く声がはぜる。
はぜる二つの音は まだたっぷり含んだ水質
の青臭い空気の 人の皮膚のかたちをしてい
る層にいつのまにか かすめとられて。
「にいにいぜみの耳のなかが酢漬けになるほど」にうっとりする。「にいにいぜみの耳のなかが」と書かれているのに、にいにいぜみを聞いている「私の耳のなかが」酢漬けになる感じ。「にいにいぜみの耳のなかが」酢漬けになったかどうかなんて、わからないからね。いや、自分の耳が酢漬けになるというのもわからないといえばわからないのだけれど、まだ自分の「肉体」であるだけに納得がゆく。他者の(蝉の)耳が酢漬けなったとき、どんなふうに音が聞こえるのかなんて、想像できないからね。いや、自分の耳が酢漬けになったらどんなふうに音が聞こえるかも、わからないといえばわからないのだけれど、自分のことだからまだ責任がもてる。変な言い方だが。
うまく言えないが、ここには藤井が「藤井の肉体」で引き受けていることが、ふつうの文法(学校文法)を破って滲み出してきている。青臭い(嗅覚)、人の膚(触覚)と感覚が次第にひろがっていくのもいい。
「にいにいぜみのじいんじいんと鳴く声が(私の)耳のなかが酢漬けになるほどはぜる。」という文章に直してしまうと、「意味」は「論理的」になるが、詩はそういう「論理」をねじまげて動く、論理を突き破って動くものだから、私は、藤井のことばが動いた通りに「肉体」を動かしてみて、「にいにいぜみの耳のなかが酢漬けになる」を楽しむのである。「誤読/妄想」を楽しむのである。
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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
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