原利代子『ラッキーガール』(思潮社、2010年10月25日発行)
原利代子『ラッキーガール』には、いくつか死について書かれた詩がある。「ひとつの心」はそのうちの一篇である。
「ひとつの心」。このことばは、この作品のなかで微妙に「ずれ」を抱え込んでいる。「わたしたちはひとつの心になっていました」という1行では、葬儀に参列したひとたちが死者の冥福を祈るという「ひとつ心」に「なりました」。それぞれが「心」をもっているのだけれど、その所有権(?)をいったん放棄して(?)、全員で「こころ」をあわせて冥福を祈った。そこには複数から「ひとつ」へ向かう動きがある。
最終連は、その「心」とは少し違う。冥福を祈るという行為のなかで「ひとつ」になった「心」はいったん自分自身(わたし=原)に戻ってしまう。そして「他人」の「心」と共有していない「心」にしたがってみかんを買いに行く。(この最終連のほかにも、原は「ひとつの心」ではなく「ひとりの心=原の心」というものを書いている。ユニクロへ行ったり、歯医者へ行ったりという行動を書いている。)
そのあと、ふと「ひとつの心」を思い出している。みんなといっしょに祈った「ひとつの心」が、いま、原の「ひとりの心」のなかにまだ残っていると知る。
ひとりひとりが「心=ひとりの心」をもっているが、それとは別に他者といっしょにもつ「ひとつの心」というものがある。
はらは、その「ひとりの心」と「ひとつの心」の接触を詩に書いているのだ。「ひとりの心」が他者と触れ合うことで「ひとつの心」を知り、もういちど「ひとりの心」に帰ってくるとき、「ひとり」であることが「ひとり」を超える。「わたし」を超えたものになる--そういうことを書こうとしているのだと思う。そこに原の「肉体」と「思想」がある。
「トライアングル」「黄龍の蟹」という感動的な作品があるが、「ひとり」と「ひとつ」の違いを説明するのにちょっと面倒なので、説明しやすい「カステラ」を引用する。
ここでは「ひとりの心」が「ひとりの心」のままである。「その人の心」があり「あたしの心」がある。「ふたり心」は「ふたつの心」であり、一緒に話をしていても違うことを思っている。ポルトガルへいっしょに行きたいと思う心と、一緒に行かないと思う心。「一緒」というのは、ここでは残酷に「ふたり」を「ふたつの心」に分かつ条件である。
「一緒」というのは「ひとつの心」にとって重要なことなのである。「ひとつの心」ではみんなが「一緒」に冥福を祈った。「一緒ょ」だから「ひとつの心」になれた。ひとりで買い物に行ったときは、「ひとつの心」ではなく「ひとりの心」で行ったのだ。
「ひとりひとりの心」、そこに「一緒」ではないものがあるから、ひとりはもうひとりを、つまり「他者」を思うことができる。
いま、ここにあるのは「あたし=原」の「ひとりの心」である。「あなたの心」は存在しない。けれど、そのいま、ここに、「一緒に」存在しないはずの「あなたの心」と「わあたしの心」が「ひとつ」になっている。その「ひとつ」というできごとのなかに、「あなた」が帰って来て、いま、「あたし」は「あなた」と「一緒」にいて、「それはすてきね」と返事をしている。
この「ひとつの心」が、これからの「あたし」の「ひとりの心」の支えになる。
原利代子『ラッキーガール』には、いくつか死について書かれた詩がある。「ひとつの心」はそのうちの一篇である。
三時出棺
しーんと手を合わせ その上に頭をたれ
わたしたちはひとつの心になっていました
長いクラクションを鳴らすと ワゴン車は厳かに動き始めました
そのあと わたしは無人販売の小屋へみかんを買いにいきました
そこのみかんは甘酸っぱくて美味しいのです
胸の中には死への感動がありました
ひとつの心がありました
「ひとつの心」。このことばは、この作品のなかで微妙に「ずれ」を抱え込んでいる。「わたしたちはひとつの心になっていました」という1行では、葬儀に参列したひとたちが死者の冥福を祈るという「ひとつ心」に「なりました」。それぞれが「心」をもっているのだけれど、その所有権(?)をいったん放棄して(?)、全員で「こころ」をあわせて冥福を祈った。そこには複数から「ひとつ」へ向かう動きがある。
最終連は、その「心」とは少し違う。冥福を祈るという行為のなかで「ひとつ」になった「心」はいったん自分自身(わたし=原)に戻ってしまう。そして「他人」の「心」と共有していない「心」にしたがってみかんを買いに行く。(この最終連のほかにも、原は「ひとつの心」ではなく「ひとりの心=原の心」というものを書いている。ユニクロへ行ったり、歯医者へ行ったりという行動を書いている。)
そのあと、ふと「ひとつの心」を思い出している。みんなといっしょに祈った「ひとつの心」が、いま、原の「ひとりの心」のなかにまだ残っていると知る。
ひとりひとりが「心=ひとりの心」をもっているが、それとは別に他者といっしょにもつ「ひとつの心」というものがある。
はらは、その「ひとりの心」と「ひとつの心」の接触を詩に書いているのだ。「ひとりの心」が他者と触れ合うことで「ひとつの心」を知り、もういちど「ひとりの心」に帰ってくるとき、「ひとり」であることが「ひとり」を超える。「わたし」を超えたものになる--そういうことを書こうとしているのだと思う。そこに原の「肉体」と「思想」がある。
「トライアングル」「黄龍の蟹」という感動的な作品があるが、「ひとり」と「ひとつ」の違いを説明するのにちょっと面倒なので、説明しやすい「カステラ」を引用する。
ポルトガルへ一緒に行ってくれないかってその人は言った
なぜポルトガルなのって聞いたら
カステラのふる里だからって言うの
お酒のみのくせにカステラなんてと言うと
君だってカステラが好きなんだろって
でもあたしはお酒ばかり飲んでる人とは
どこへも行かないわって言ったら
「そうか」って笑った
ここでは「ひとりの心」が「ひとりの心」のままである。「その人の心」があり「あたしの心」がある。「ふたり心」は「ふたつの心」であり、一緒に話をしていても違うことを思っている。ポルトガルへいっしょに行きたいと思う心と、一緒に行かないと思う心。「一緒」というのは、ここでは残酷に「ふたり」を「ふたつの心」に分かつ条件である。
「一緒」というのは「ひとつの心」にとって重要なことなのである。「ひとつの心」ではみんなが「一緒」に冥福を祈った。「一緒ょ」だから「ひとつの心」になれた。ひとりで買い物に行ったときは、「ひとつの心」ではなく「ひとりの心」で行ったのだ。
「ひとりひとりの心」、そこに「一緒」ではないものがあるから、ひとりはもうひとりを、つまり「他者」を思うことができる。
元気なうちに一緒に行ってあげればよかったのかしら ポルトガル?
病院で上を向いたまま寝ているその人を見てそう思ったの
きれいな白髪が光っていて
あたしは思わず手を差し伸べ 撫でてあげた
気持ちよさそうに目を瞑ったままその人は言った
「いつかポルトガルに行ったら ロカ岬の意思を拾ってきておくれ」
やっぱりそこに行きたかったんだ
--ここに地尽き 海始まる
と カモンエスのうたったロカ岬に立ちたかったんだ
カステラなんて言って あたしの気を引いたりして--
それより早く元気になって一緒に行きましょうって言ったら
「それがいいね」
って またいつものように笑った
あなたの骨がお墓に入るとき
約束どおり お骨の一番上にロカ岬の白い石を置いてあげた
あなたの白髪のように光っていたわ
ポルトガルへ一緒に行ってくれないって
声が聞こえたような気がして
今度はあたしが
「それはすてきね」って
あなたのように ほんのり笑いながら言ったのよ
いま、ここにあるのは「あたし=原」の「ひとりの心」である。「あなたの心」は存在しない。けれど、そのいま、ここに、「一緒に」存在しないはずの「あなたの心」と「わあたしの心」が「ひとつ」になっている。その「ひとつ」というできごとのなかに、「あなた」が帰って来て、いま、「あたし」は「あなた」と「一緒」にいて、「それはすてきね」と返事をしている。
この「ひとつの心」が、これからの「あたし」の「ひとりの心」の支えになる。
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