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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

原利代子『ラッキーガール』

2010-11-12 00:00:00 | 詩集
原利代子『ラッキーガール』(思潮社、2010年10月25日発行)

 原利代子『ラッキーガール』には、いくつか死について書かれた詩がある。「ひとつの心」はそのうちの一篇である。

三時出棺
しーんと手を合わせ その上に頭をたれ
わたしたちはひとつの心になっていました
長いクラクションを鳴らすと ワゴン車は厳かに動き始めました

そのあと わたしは無人販売の小屋へみかんを買いにいきました
そこのみかんは甘酸っぱくて美味しいのです
胸の中には死への感動がありました
ひとつの心がありました

 「ひとつの心」。このことばは、この作品のなかで微妙に「ずれ」を抱え込んでいる。「わたしたちはひとつの心になっていました」という1行では、葬儀に参列したひとたちが死者の冥福を祈るという「ひとつ心」に「なりました」。それぞれが「心」をもっているのだけれど、その所有権(?)をいったん放棄して(?)、全員で「こころ」をあわせて冥福を祈った。そこには複数から「ひとつ」へ向かう動きがある。
 最終連は、その「心」とは少し違う。冥福を祈るという行為のなかで「ひとつ」になった「心」はいったん自分自身(わたし=原)に戻ってしまう。そして「他人」の「心」と共有していない「心」にしたがってみかんを買いに行く。(この最終連のほかにも、原は「ひとつの心」ではなく「ひとりの心=原の心」というものを書いている。ユニクロへ行ったり、歯医者へ行ったりという行動を書いている。)
 そのあと、ふと「ひとつの心」を思い出している。みんなといっしょに祈った「ひとつの心」が、いま、原の「ひとりの心」のなかにまだ残っていると知る。
 ひとりひとりが「心=ひとりの心」をもっているが、それとは別に他者といっしょにもつ「ひとつの心」というものがある。
 はらは、その「ひとりの心」と「ひとつの心」の接触を詩に書いているのだ。「ひとりの心」が他者と触れ合うことで「ひとつの心」を知り、もういちど「ひとりの心」に帰ってくるとき、「ひとり」であることが「ひとり」を超える。「わたし」を超えたものになる--そういうことを書こうとしているのだと思う。そこに原の「肉体」と「思想」がある。
 「トライアングル」「黄龍の蟹」という感動的な作品があるが、「ひとり」と「ひとつ」の違いを説明するのにちょっと面倒なので、説明しやすい「カステラ」を引用する。

ポルトガルへ一緒に行ってくれないかってその人は言った
なぜポルトガルなのって聞いたら
カステラのふる里だからって言うの
お酒のみのくせにカステラなんてと言うと
君だってカステラが好きなんだろって
でもあたしはお酒ばかり飲んでる人とは
どこへも行かないわって言ったら
「そうか」って笑った

 ここでは「ひとりの心」が「ひとりの心」のままである。「その人の心」があり「あたしの心」がある。「ふたり心」は「ふたつの心」であり、一緒に話をしていても違うことを思っている。ポルトガルへいっしょに行きたいと思う心と、一緒に行かないと思う心。「一緒」というのは、ここでは残酷に「ふたり」を「ふたつの心」に分かつ条件である。
 「一緒」というのは「ひとつの心」にとって重要なことなのである。「ひとつの心」ではみんなが「一緒」に冥福を祈った。「一緒ょ」だから「ひとつの心」になれた。ひとりで買い物に行ったときは、「ひとつの心」ではなく「ひとりの心」で行ったのだ。

 「ひとりひとりの心」、そこに「一緒」ではないものがあるから、ひとりはもうひとりを、つまり「他者」を思うことができる。 

元気なうちに一緒に行ってあげればよかったのかしら ポルトガル?
病院で上を向いたまま寝ているその人を見てそう思ったの
きれいな白髪が光っていて
あたしは思わず手を差し伸べ 撫でてあげた
気持ちよさそうに目を瞑ったままその人は言った
「いつかポルトガルに行ったら ロカ岬の意思を拾ってきておくれ」
やっぱりそこに行きたかったんだ
--ここに地尽き 海始まる
と カモンエスのうたったロカ岬に立ちたかったんだ
カステラなんて言って あたしの気を引いたりして--
それより早く元気になって一緒に行きましょうって言ったら
「それがいいね」
って またいつものように笑った

あなたの骨がお墓に入るとき
約束どおり お骨の一番上にロカ岬の白い石を置いてあげた
あなたの白髪のように光っていたわ
ポルトガルへ一緒に行ってくれないって
声が聞こえたような気がして
今度はあたしが
「それはすてきね」って
あなたのように ほんのり笑いながら言ったのよ

 いま、ここにあるのは「あたし=原」の「ひとりの心」である。「あなたの心」は存在しない。けれど、そのいま、ここに、「一緒に」存在しないはずの「あなたの心」と「わあたしの心」が「ひとつ」になっている。その「ひとつ」というできごとのなかに、「あなた」が帰って来て、いま、「あたし」は「あなた」と「一緒」にいて、「それはすてきね」と返事をしている。
 この「ひとつの心」が、これからの「あたし」の「ひとりの心」の支えになる。



ラッキーガール
原 利代子
思潮社
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ナボコフ『賜物』(9)

2010-11-11 11:45:45 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(9)

夜を前にして並木道は公園からねぐらに戻り、出口のあたりは薄闇に覆われた。そのとき、部屋の中の様々な品物の一番明るい部分はもう外の闇の中に出て、どうしようもなく黒い庭で思い思いの高さに仮の場所を決めて陣取っていたというのに、観音開きの白い鎧戸が閉じられて、部屋を外の闇から隔ててしまった。
                                (17ページ)

 この訳はよくわからない。「仮の場所を決めて陣取っていたというのに」の「……のに」がわからない。
 それでもこの部分について書いておきたいと思うのは、ここにナボコフ独特のものの見方があるからだ。「並木道は公園からねぐらに戻り」とは、公園の並木道はもう公園の並木道であることを、闇のなかで自分の世界に隠れる、くらいの意味だと思うが、この動くことのできない「並木道」に意思があるかのように「戻り」という動詞をつかうところにナボコフらしさがある。人間だけではなく、「もの」にも意思があるのだ。そして「もの」にも、その部分部分に意思がある。だから、きのう見た猫の描写では猫は先に逃げるが、逃げ後れた「虎縞模様」が存在することになる。
 この「もの」と「部分」不思議な関係は、ここでも繰り返されている。「様々な品物の一番明るい部分はもう外の闇の中に出て」と「部分」ということばがつかわれている。「もの」そのものは動かなくても、その「部分」は動く。そして、その「部分」はそれぞれに「思い」(意思)をもっている。
 これはどういうことかというと、ナボコフの小説(ことばの運動)のなかでは、動くのは「人間」だけではないということである。「もの」も動く。「もの」もそれぞれの「過去」をもち、それぞれの「時間」を生きる。そういう世界のありようを描くことで、「いま」「ここ」の時間が濃密になるのだ。だれも経験したこのない濃密な時間が、ナボコフのことばのなかからあふれだし、読者を(私を)飲み込んでいくのである。
 
 先の引用部分の意味(論理?)が不明確なのは(私は原文を知らずにいうのだから、これは勝手な解釈なのだが)、「……のに」を引き継いだあとの「観音開きの白い鎧戸が閉じられて」という訳に問題があるのだ。
 「並木道は……戻り」「一番明るい部分は……出て」「場所を決めて」「陣取っていた」と能動態のことばの運動が続くのに、ここだけ「閉じられて」と受動態になる。「文体」が乱れている。ロシア語がどう能動態と受動態をつかいわけるか知らないが、日本語ではこういう「乱れ」方はしない。
 「閉められ」ということばがあるとき、そこには「閉める」という能動的行為をする別の「存在」がある。人が閉める。人がが省略されている。ここにふいに人が出てくるところ、そして人を感じさせる「……のに」という「理由」を暗示する表現が文章をこわしてしまっているのだ。
 いま問題にしている部分の前に「出口のあたりは薄闇に覆われた」と受動態が出てくるが、そのとき文章には人の気配はない。「薄闇に覆われた」は「薄闇が覆った」と言い換えることができる。人の意思はそこに存在しないからである。人の意志が存在しないからこそ、「……のに」というようなことばでは接続していない。「戻り」という一種の完結した形で終わっている。「並木道は……戻った、(そして)薄闇に覆われた」。そういう形に言い換えることができる。
 
 原文も知らないでこんなことにこだわるのは奇妙かもしれないが、人間だけではなく「もの」にも「意思」があるかのようなナボコフ文体は、この部分のすぐあとに書かれている「詩」にも登場する。とても、重要な特徴なのだ。その特徴をないがしろに訳しているのが私には気にかかるのである。

ボールがばあやの箪笥の
下に転がり込み、床では蝋燭が
影の端をつかみ、あちこちへ
引っ張りまわす でもボールはない。

 蝋燭が、その光が「意思」をもって「影」を動かす--この「もの」の活動がナボコフの詩である。人間も動くが「もの」も動くのだ。意思をもっているのだ。そのとき「もの」と「人間」は同格である。

 ということとは別にして、闇を描写したあと、すぐに室内の光、蝋燭の詩が登場し、その光が影(闇)を動かすというのは、直前の庭の闇のなかに取り残された品物の「部分」と呼応していて、とてもあざやかな印象を残す。
 ナボコフは対比が絶妙なのだ。



ベンドシニスター (Lettres)
ウラジーミル ナボコフ
みすず書房

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高澤静香『永遠のコドモ会』

2010-11-11 00:00:00 | 詩集
高澤静香『永遠のコドモ会』(ふらんす堂、2010年05月27日発行)

 高澤静香『永遠のコドモ会』には「ことば遊び」のような詩がある。「ひとりあそびうた」。

中州
とよんで
とりがきた

ささ ささら
とりがきたなら
いちにち
きとにち

とり
とよんで
かぜがきた

きら きらら
かぜがきたなら
いちにち
きちにち

はな まいて
こだま
かぜ よんで
あきづ

みず
みず
みず ばかり

 「ことばあそび」といっても、たとえば谷川俊太郎の詩のように、え、どこまで行ってしまうの?というようなはじける感じがない。何か、奇妙な「重し」のようなものがある。「中州/とよんで/とりがきた」の2行目は「と呼んで」であろうか。3連目も「とり/と呼んで/かぜがきた」かもしれない。何かを呼ぶ、そうするとそのことばに誘われて何かがくる。それは呼ぶときの「ことば」そのものではない。それでも、そこに何か不思議なやすらぎがある。ことばの力にふれるときの、頼りになる感じがある--その安心感が、もしかすると「重し」かもしれない。どこまでもどこまでも、自由に飛んで行く「ことばあそび」とは違う世界を高澤は生きているのだろう。

 「聲」という詩がある。

もう九時をまわっているというのに
おもてからコドモの聲がする

こんなかたちに成りました
こんなかたちに成ったのだな
こんなかたちに成りましたよ

互いに確かめ合い
触り合い
笑い合っているのだ

夜だけ流れる川
その浅瀬のなかのあちこちに
中途半端な足跡ばかり残る

いまは 戸棚のほうが
あかるかったりするから
淋しくないねと聲を仕舞うひともいる

 「ひとりあそびうた」のとき、私は「ことば」という表現をつかったが、それは「聲」と言い換えた方がいいかもしれない。
 「こえ」。私は普通に「声」と書くが、高澤は「聲」と書いている。「声」と「聲」がどう違うのか、私は知らないが、「声」になくて「聲」にあるものがある。「耳」。ことばを口で発音して、耳で聞く。そのとき「聲」が明確になるということかもしれない。口から耳へ。そのあいだの、「間」。そこで、もしかしたら、ことばは少し変わってしまうのかもしれない。口で言おうとしたことが耳に届くあいだに、何か変わってしまう。
 もし、自分の言ったことが相手につたわらないとしたら、それは自分の口から出たことばが相手の耳に届くまでのあいだに、微妙にかわってしまったのかもしれない。
 だからこそ、「こんなかたちに成りました/こんなかたちに成ったのだな/こんなかたちに成りましたよ」と「互いに確かめ合」わなければならないのかもしれない。確かめ合って、その微妙な変化、あるいは思いがけない変化を楽しむ、笑って受け入れる--それは、意外とおもしろいものかもしれない。ゆたかな暮らしかもしれない。
 「中州/とよんで/とりがきた」。中州と呼んで(とことばにして)鳥がきた。「とり/とよんで/かぜがきた」。鳥と呼んで風がきた。それは「返事」なのかもしれない。誰からの返事であるかわからないが、たしかに返事なのだろう。返事がかえってくるというのはよろこばしいことだ。一日は、そうやって「吉日」になる。

 自分の思い通りではなくても、それを受け入れる。そして、「聲」を仕舞う。それは「口」を仕舞うのかな? 「耳」を仕舞うのかな? 「ことば」を仕舞って「もの」になる。「人間」そのものになる。無言でも、いま、ここに、こうしている--ということを、静かに実感する。そういうことをたしかに感じる力が高澤のことばを動かしているのかもしれない。


永遠のコドモ会(え)―高澤靜香詩集
高澤 靜香
ふらんす堂

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誰も書かなかった西脇順三郎(152 )

2010-11-10 11:37:55 | ナボコフ・賜物
誰も書かなかった西脇順三郎(152 )

 「失われたとき」のつづき。

永遠も
永遠はからだを弓のようにまげる
あの女の音だ
蘭を買つて永遠の笑いをかくした
ことも蘭になつたおじさんのことも
山ごぼうを活けているうす明りの
マダム・ド・スタールの玄関も
みかんの花と茄子の花の誤謬も
サルビアの咲く家の
播いた種子の悲しげな刈入れも
みな忘れた悲しみだ
ウルビーノ侯爵夫人はまゆを
そつてしまつた

 西脇のことばは非常に速い。いろいろなイメージがつき次にあらわれてくるので、こういう部分では西脇の特徴はたしかに「絵画的」という印象を与えるかもしれない。
 しかし私はどうしても「絵画的」とは受け止めることができない。
 1行1行は具体的な存在をくっきりと浮かび上がらせる。「永遠はからだを弓のようにまげる/あの女の」という展開は、「永遠」という見えないもの(ランボーのように、それが見える人もいるだろうけれど)を、「からだ」「弓」「まげる」「女」というなまめかしい(?)ものをとおして語るとき、しなやかにたわむ女のからだが永遠であるという具合に見えてくるけれど、「あの女の音だ」とつづけられると、瞬間的にいま見た「イメージ」が消えてしまう。
 それからつづく行も、1行1行は次々に瞬間的なイメージを浮かび上がらせるけれど、同時に消えていく。「絵画」というより次々に消えていく映像でつくられた「映画」の方が印象的には合致する。(私の場合は。)
 しかし、私には「映画的」にも見えない。私の想像力が貧弱だからといわれれば反論のしようがないのだけれど、私は西脇の書いていることばを「映像」として持続させることができない。新しく展開してきた「映像」に驚かされるけれど、それは新しい行がまえの行を突き破っているからである。いうならば、映像は持続するのではなく、次々に破られてしまう。前の「映像」は「映像」として残らない。そんな「映画」はない。「映画」は映像が連続したものである。持続することで、そこにストーリーを浮かび上がらせ、感情をうごめかせる。西脇の「映像」はそういうものを持続させない。
 何が西脇のことばを持続させているのか。
 同じことしか書けないが、(同じことを書くことが私の狙いでもあるのだけれど……)、それはやはり「音」なのだ。
 「永遠はからだを弓のようにまげる/あの女の」のあとにあらわれた「音だ」。
 「蘭を買つて永遠の笑いをかくした」という1行のなかの「買つて」「かくした」の「か」の響きあいが、ことばを加速させるその「加速」の感じが、普通のことばとは違ったスピードを感じさせる。その一種の「違和感」が詩なのだと私は思う。
 その次の、

ことも蘭になつたおじさんのことも

 行頭の「ことも」は「学校教科書文法」的には、前の行につながるはずである。それが切断された行の冒頭にきているのだが、その冒頭の「ことも」が同じ1行の最後に繰り返されると、不思議なことに行頭の「ことも」か行末の「ことも」か、そのどちらか判然としないのだが、「ことも」という音が1行前にもどって「かくしたことも」につながって響く。「ことも」の繰り返しによって、乱れた行が何かひとつの統一感のなかに浮かび上がってくる。
 そして、その「ことも」の「も」がその後「玄関も」「誤謬も」「刈入れも」と繰り返される。そのたびに、あ、「……も」というリズムがこの詩を動かしているなあと感じる。
 「映像」ではなく「音」が行を調えている。突き動かしている。それは前進するとともに、過去(それ以前の行)を引っ張りだしもする。
 音楽を聴いていると、新しいはずの部分に、それ以前に聞いた音がまじり込み、あ、繰り返しだ、と気づくことがある。その瞬間、その新しい部分が、初めて聞いたときより加速して感じられる。なめらかに、楽々と動いていく感じがすることがある。その軽快な加速--音楽喜び。それに似たものを私はいつも西脇の詩に感じる。




西脇順三郎コレクション〈第5巻〉評論集2―ヨーロッパ文学
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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ナボコフ『賜物』(8)

2010-11-10 10:49:17 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(8)

彼は晴れ晴れとした微笑みを浮かべるだけにとどめ、脇に跳びのいた猫の体について行き損ねた虎縞模様につまずきそうになった。
                                (15ページ)

 人間が猫につまずきそうになるということはある。けれど、猫が跳びのいて、その猫の体に猫の体の模様(虎縞模様)がついて行き損ねるということはないし、したがって、そのついて行き損ねた「模様」につまずくということはない。
 ないのだけれど、この描写はとても「正確」であると感じてしまう。
 人間の肉体の反応は複雑である。眼が反応する。足が反応する。眼と足とのあいだに、「ずれ」がある。
 何かがふいに足元で動く。跳びはねる。猫だった。それは虎模様だった。その猫という意識から、虎模様という意識のあいだまでの一瞬。そののとき、たぶん、足への意識がうすれる。足がもつれる。つまずきそうな感じ--というのは、そのことを指している。
 この一瞬の出来事を整理しなおすと(?)、まるで猫の虎模様が、猫のあとから動いたようで、そして、その残っていた虎模様につまずきそうになった、ということになる。
 これは、まあ、強引な「論理」であるけれど、そういう面倒くさい「論理」にしなくても、というか、そんなことをする前に書かれていることがわかってしまう。
 なぜだろう。
 私たちは誰でも、そういう眼と足との動きのずれ、一瞬の余分な意識の動きが肉体に作用して、肉体をぐらつかせることを知っているからだ。意識(認識--眼)と肉体(足)のあいだには、連続性と同時に「ずれ」がある。「ずれ」は眼と足との、脳からの距離かもしれないが……。

 余分なことを書いてしまった。

 ナボコフの描写が美しいのは、そこに必ず「肉体」があるからだ。華麗で細密なことばが動くので、そこには華麗で細密、繊細な精神(こころ)があると思ってしまう。もちろんナボコフの精神(こころ)は繊細なものに反応し、それを華麗に仕立て上げるとき、すばらしく魅力的に輝くけれど、その感覚はしっかりと「肉体」を踏まえている。そして、そのナボコフの「肉体」感覚が、私たちの(読者の)「肉体」のなかに眠っている感覚を呼び覚ますのだと思う。
 私たちはたしかに「模様」や「影」--意識の「残像」につまずくということがある。「肉体」がつまずくのではなく、「意識」(感覚)がつまずき、それが「肉体」を動かすのである。つまずかせるのである。




青白い炎 (ちくま文庫)
ウラジーミル ナボコフ
筑摩書房

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小川三郎『コールドスリープ』

2010-11-10 00:00:00 | 詩集
小川三郎『コールドスリープ』(思潮社、2010年09月05日発行)

 小川三郎の詩はとても長い。実際には長くはないかもしれないが、読んだ印象は終わらないのじゃないかと思うくらい長い。
 「世界の果て」という詩がある。

戦争へいこう。
どこまでも戦争へ行こう。
もう帰ってこなくてもよくなくなるまで。
遥か遥か遠くまで
胸を張って戦争に行こう。

全財産をはたき
必要なものを買い揃え
地下鉄に乗って終点まで行き
階段を昇って地上に出て
そこから何処までも歩いて
戦争へいこう。
みんなでいこう。
もう帰らなくてもよくなくなるまで。

 「戦争へいこう。」はほんとうの呼びかけなのか、それとも逆説なのか。考えればいろいろ考えられるかもしれない。けれど、それを考えたいというような欲望が私には起きない。書き出しの3行を読んだだけで、私は、ずいぶん長く小川のことばを追っているような気がしたのだ。
 リズムが合わない。--これは小川のせいではなく、単に私と小川のことばのリズムが合わないということなのだが、どうにも合わない。普通、ことばは繰り返されると、繰り返しのなかでことばがだんだん速くなる。ことばになれて、はやく読んでしまう。先日読んだ青木栄瞳はことばを記号にしてしまって、そこからことばの速度を剥奪し、速さということさえ無意味にしてしまっていた。小川のことばは、いわばその対極にある。繰り返しは速さではなく、停滞である。留まるために小川はことばを繰り返しているように私には感じられる。

戦争へいこう。
どこまでも戦争へ行こう。

 これは、ことばだけ。「いこう」「行こう」とひらがなのことばが漢字のことばにかわるのだが、そのことさえスピードが上がったという印象が私にはしない。「行こう」が「いこう」を振り返るような、奇妙な停滞感がある。

もう帰ってこなくてもよくなくなるまで。

 「なく」の音が繰り返され、そこでは「意味」さえ停滞してしまう。「帰ってこなくてもよくなる」と「帰ってこなくてもよくなくなる」と、どう違う? 「帰ってこなくてもよくなくなる」というのは、どっち? 帰ってくるの? 帰ってこないの? どっちを前提としている? どっちを前提にしてことばを動かしている?
 動かないことばの前には「遥か遥か遠く」という距離がどれくらいかさっぱりわからない。実感がわかない。「いこう、行こう」といいながら留まっているのだから、「遠く」は「遠くまま」のである。絶対に、その遠く(世界の果て?)へはたどりつけないことだけがわかる。
 まるで、カフカである。

地下鉄に乗って終点まで行き

 ほんとうに終点はあるのか? たどりついたと思っても、そこからふりかえれば、いま出発してきたところが新しい「終点」になりはしないか。階段を昇って、地上に出て、それからいま来た地下鉄の上を逆にたどるだけなのではないのか。
 あ、そうなのかもしれない、と思う。
 小川が書いているのは「往復」なのだ。最初、私は「停滞」と書いたが、停滞ではなく、「往復」なのだ。

戦車が疾走し、戦闘機が飛び交うなか
いままで誰も行かなかった土地を目指して
迷わず進もう。
全ての人が死に絶えるまで
戦争が終わることはない。
全ての網膜に焼きつくまで
戦争が終わることはない。
質問は既に尽きた。
あとはただ
前進するのみ。

 「いく」「行く」「前進」--だが、その「方向」は? 「いままで誰も行かなかった土地」とは、言い換えれば、人が出発してきた土地である。そして、そこへもどってしまえばまた、いま来た帰り道が「誰も行かなかった土地」になる。「土地」というより「方向」(目指すところ)になる。果てしない「往復」があるのだ。

そして
死が軽やかに宙を舞い
無人の地球を歌っている
世界の果てへと辿りついたら
もう大丈夫だから、そこで
人間の価値を決めよう。

 最終連。
 とても唐突に感じる。「そして」が変なのだと思う。果てのない「往復」運動に、「そして」はないのである。ないはずである。それなのに、小川はここで「そして」と突然、ジャンプする。
 変な言い方になるが、ここでは小川は、それまでのことばの運動に「けり」をつけている。むりやり終わらせている。このむりやりは、「往復」には終わりがないことを知っているところから生まれている。
 「そして」などありえないのに、むりやり「そして」ということばで、いままでの運動から違ったものになる。違ったものにする。それは、その「異質」によって、それ以前のことばを、あ、この「結論」以前が小川の「思想」なのだ、という思いを浮かび上がらせる。
 「人間の価値」というような「結論」は、結局のところ、それまでの「往復」の評価である。どうしても、そこへ帰っていくしかないのに、あたかも「運動」の外に何かがあると書いてしまうこの矛盾のなかに、「往復」がもう一度よみがえるのだ。

 「寄り添う。」の最終連もおもしろい。

偶像が空を支配する五月に
あなたはただ
人間という言葉によって
崩れ落ちる春となり
音速にて踏みとどまる。

 「音速」と「踏みとどまる」は矛盾する。音速で「往復」するとき、その運動、ふたつの「場」の間で動かない。「往復」による「停滞」、それはかけ離れた「遥か遥か遠く」を「ここ」で重ね合わせるということかもしれない。そういう力業のためには「音速」というスピードが必要である。小川の精神は、「往復」を「音速」で動いているのである。そのとき、小川は「現実」を耕し、どこにもなかった「現実」へ帰っていく。傍から見れば「踏みとどまる」という状態へ。






コールドスリープ
小川 三郎
思潮社
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ナボコフ『賜物』(7)

2010-11-09 11:55:58 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(7)

ときおり盲目の太陽が漂うあたりにオパール色の穴があき、そうすると下界では、トラックの丸みを帯びた灰色の屋根で菩提樹の細い枝の影たちが恐ろしい勢いで実体化に向けて突き進むのだが、その形が完全に具現しないうちに、溶けてなくなるのだった。
(14ページ)

 「盲目の太陽」。こういうことばを読むと、私は「現代詩」を思い出してしまう。ありえないことばの結びつき。その瞬間、ことばの「文法」が破壊する。ことばの「肉体」が破壊されてしまう。そして、むりやり度の強い眼鏡で網膜に直接光で何かを刻印されたような気持ちになる。何かを見た--ではなく、何かをむりやり見させられたような意識の錯乱が起きる。それは見たかったものか、それとも見たくなかったものか。
 こういう「混乱」は、長く読者に考えさせてはだめである。「混乱」こそが新しい何かを見るための「方法」なのだと錯覚させるくらいに、ことばが加速しないといけない。この加速においてナボコフのことばは「現代詩」を上回ることがある。
 ナボコフのこの描写は、太陽が突然強い光をふりそそぎ、その光によって生まれた木々の影がトラックの屋根にあざやかに記される--記されようとした瞬間、また翳り、影は陰にならずに終わってしまう、ということを書いたいるのだと思うが、そういう描写に「実体化」とか「具現」というような硬いことばを挟み込む。太陽、光、菩提樹、影。自然をあらわすことばが、自然から遠いことばによって(科学、あるいは物理のことばによって?)攪拌される。
 「盲目の太陽」という、ありえないことばの結合だけではなく、自然と科学という異質のことばが出会うことで、思考が攪拌され、ことばが加速するのだ。ナボコフは大量のことばを書くが、それは、その場にただ動かずに存在する「もの」のようにしてあるのではなく、互いに他のことばを加速させ、いま書いたことばを振り捨てるのだ。
 あらゆることばは、その対象である「もの」を想像力の中に「具体化」しようとするが、その「もの」が想像力のなかで「具現」しないうちに、ナボコフは他のことばをぶつける。他のことばで前のことばを弾き飛ばす。
 ナボコフのことばの暴走を、そんなふうにみることができる。

 それにしても、おもしろい、と思う。「具体化」「具現」。このことばの強さに、私は引きずられてしまう。ナボコフが町をどう描写しようとしていたのか、その描写よりも、ふいにあらわれた具体化、具現ということばが、その瞬間、何か、ナボコフの「肉体」を感じさせるのだ。ナボコフの書きたいという欲望を感じさせるのだ。なんでもことばにすることで「具体化」「具現(化)」したいのだ。その欲望だけでナボコフは生きている、と感じるのだ。



ディフェンス
ウラジーミル・ナボコフ
河出書房新社

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新井啓子『遡上』

2010-11-09 00:00:00 | 詩集
新井啓子『遡上』(思潮社、2010年10月30日発行)

 新井啓子『遡上』はとても静かな静かな静かな詩集である。そして、その静けさがとても気持ちがいい。
 読みはじめたばかりのときは、その静けさにとまどってしまう。私はたいていの場合、鉛筆を片手に余白に思いついたことを書きこんでいく。そうすると、何も書くことがない。強烈な印象が残る行があるというわけではない。思わず傍線を引いてしまうという行があるわけではない。あることばに触発されて、何かを思いつくわけではない。「現代詩」を読んでいる、いや、文学を読んでいるという刺激的な感じがしない。
 こころが落ち着く。新井の書いていることばにこころがひっぱられるというよりも、読んでいるとこころが落ち着く。1行1行が自己主張してどこへ行くのかわからないという感じではなく、書かれるままに、その位置で静かに存在していて、その存在の仕方の「総体」が美しいのだ。
 この美しさはどこから来るのだろうか。
 「辺境」の、1ページを過ぎたところまできて、私はようやく、あ、新井のことばの静けさの特徴がわかった、と思った。

八重曲がり ここがバスのすれ違い場所

 これは、新井の故郷の細い道のことを描写しているのだと思う。曲がりくねった岬巡りの道。1車線で、車はすれ違うことはできない。けれど、その道は曲がりくねっているがゆえに、カーブの所だけ少し幅が広くなる。直線の所よりも広くなる。そのわずかな広さを利用して車がすれ違う。そういう道である。こういう道は、初めてのひとにはとても行きづらいところである。しかし、通い慣れているひとは、その道がどんな具合になっているか知っているので、道を曲がりながら遠くに対向車が見えたとき、そういうわずかな広がりの所で向こうから車が来るのを待っている。それが自然なマナー、というよりも、暮らしの知恵である。その「知恵」が自然にあらわれているのが「ここがバスのすれ違い場所」ということばの「ここ」である。「ここ」はその岬の道を通い慣れているひとには「ここ」とわかるが、そうではないひとには「どこ」かわからない。新井は、新井とともに生きているひとが自然に体得している「ここ」を知っていて、それをことばにしている。新井のことばは、新井が生きている「場」で共有されていることばなのだ。

岬巡りの のたくった道を行くと
上って 下って 巻き込まれて
八重曲がり ここがバスのすれ違い場所
岩の見える展望台 崖下の祠 経年の静寂
(またマツクイムシにやられちょう)
(海の色がおぞいが)

 バスに乗り合わせたひとは、向こうからやって来るバスとすれ違うまで、まわりを見て、ぼんやりと話している。そこでは自然に、その土地のことばが出てくる。「共有」されていることばが出てくる。「やられちょう」(やられている)「おぞい」(かんばしくない、あざやかではない、--うーん、残念なというのが一番「標準語」に近くなるのだろうか。「大学、落ちてしまった」「おぞいことしたなあ」というような感じのことばだろう。)そこには、たの「場」で暮らしているひとにはなじみがないけれど、その「場」で暮らしているひとには完全に「共有」された感覚が生きている。
 ことばはひとに「共有」されて動くとき、とても静かなのだ。ことばは他人と何かを主張し合うためにあるのではない。他人と「場」をともに生きるためにある。「共有」はこのとき「共生」になる。あらいのことばは、そういう「肉体」(思想)をもっている。
 だから、その詩に「比喩」がでてきたとしても、それは「個性」を主張する「比喩」ではなく、その「場」に生きるひとによって「共有」された静かな「夢」なのである。
 その自然さ--ことばを新井は誰かと「共有」し、そのことばを書くとき、新井はひとりではなく、他者とともに生きている。その生きていることの自然さが、新井のことば、新井の詩の美しさなのだ。
 「シジミ」に、そういう静かな「比喩」が出てくる。

夜が明けると まだ薄暗い中を
青年はシジミ貝を獲りにいった
湖と外海をつなぐ運河の河口に
細かい砂の浅瀬かあった

湖面が肩に迫るほど
低く屈(かが)んだ青年は見たはずだ
朝日を突き抜ける機体の影や
靄(もや)にうなだれている軍用造船所の旗
石飛ばしを競った橋げたに
群れていた薄紫の蝶

 この「薄紫の蝶」は空を飛ぶ蝶ではない。シジミである。小さな小さな二枚貝。そして、その蝶は死んで初めて蝶になる。生きている貝は蓋を閉じているので、蝶ではない。シジミを「薄紫の蝶」と呼ぶとき、その「比喩」を共有するひとの間では、また「死」も共有されている。
 「死の共有」をかかえて、ことばは動いていく。

 ゆうらり 帰って来なったが
 暗くなっちょう あげなところに

わたしの作ったシジミ汁を吸い
年老いた青年は堅い口を解いた
忘れたいことや忘れられないことを
小さく丸くみっしりした思い黒光りすのものに
しんと隠してきたけれど

 渡らこいや 渡らこい
 えっと見えんようになっちょった
 誰ぞ 待っておられぇけん
 渡らこいや 渡らこい
 いつでも誰ぇか追いかけちょう
 えとしげなぁ こまい蝶だが

わたしたちは声をそろえ
羽ばたきを促すように貝殻を摘んだ

橋のたもとには逝った人の魂が集まるという
生まれる前にいたように
送り火の灯籠が
寄り合いたゆたうあのあたり
記憶の水辺
羽化したばかりの蝶になって
ゆらり 飛んでいる

 ひとは誰でも生まれた場所に帰ってくる。鳥になって、風になって、あるいは何かほかのものになって。新井の生きていた「場」では、ひとは「蝶」になって帰ってくる。ただし、それは空を飛ぶ蝶ではない。シジミである。シジミは、死んで、死ぬことで、羽化し、蝶になり、そしてまた飛び立つ。
 輪廻--それが「場」によって共有されている。
 「橋のたもとには逝った人の魂が集まるという」のは、新井の生きてきた「場」の「神話」である。共有することで暮らしを調えてきた力である。そういう力を新井のことばはひっそりとかかえている。



水曜日
新井 啓子
思潮社

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エリア・カザン監督「エデンの東」(★★★★)

2010-11-08 12:59:41 | 午前十時の映画祭

監督 エリア・カザン 出演 ジェームズ・ディーン、ジュリー・ハリス、レイモンド・マッセイ

 この映画では役者だけではなくカメラも演技をする。ジェームズ・ディーンと双子の兄、父との夕食。テーブルをはさんで「聖書」を読む。そのときカメラは水平ではない。傾いている。これはジェームズ・ディーンと父との関係が不安定であることを象徴している。その象徴表現に「もの」、あるいは「音楽」をつかうのではなく、カメラが自ら不安定な位置をとる。カメラ自身の演技である。カメラが不安と不和を語る。ジェームズ・ディーンの姿勢、そして父の姿勢が不自然に傾いているが、それは彼ら自身の体の傾き以上にカメラが傾いているからである。この不自然さを伝えるために、カメラはテーブルの水平面を斜めに映し出す。広いスクリーンに傾いたテーブルが、落ち着かない父子のこころを語るように、ぐらぐら揺れる。
 ラストシーンでは、このカメラが安定する。卒中で倒れた父。そのそばで語りかけるジェームズ・ディーン。力を振り絞って父が何か語る。ジェームズ・ディーンは体を乗り出させ、耳を父の口元に近づける。そのときジェームズ・ディーンの体は傾いている。けれど、とても落ち着いている。安定感がある。彼自身のこころが決まっていて(安定していて)、それに合わせるようにカメラが水平にどっしり構えているからである。
 カメラ自身の演技が対照的な形でスクリーンに定着している。
 しかし、なぜ、こんな演技をカメラにさせたのだろうか。役者、ジェームズ・ディーンの演技に不安があったのだろうか。愛をもとめて揺れるこころ――ジェームズ・ディーンの陰りのある顔、その目は十分に不安を具体化しているように見えるが。もしかすると、美貌が不安を表現するには不似合いと、監督が判断したのかもしれない。そのままでは、観客はだれもストーリーや役者の演技を見ない。ただジェームズ・ディーンの顔を見るだけだと。
 けれど、カメラがどんなに演技をしようと、やはり観客はジェームズ・ディーンの顔しか見ないだろう。その、悲しみと喜びが一瞬のうちに入れ替わる顔の輝きしか見ないだろう。繊細な顔を流れる涙を見つめるだけだろう。
 他の役者達はそんな役どころである。しかし、ある時代、一瞬の生きたジェームズ・ディーンとともにスクリーンに存在したということは、他の役者にとって悪いことではないだろう。
 カメラの演技について書きすぎて書き忘れそうになったが、自然の描写がどっしりしていて、そのカメラの位置に感動した。(昔見た時は気がつかなかった。)ジェームズ・ディーンが氷を落とすシーンや、列車から溶けた氷の水がなだれ落ちるシーンなど、あ、いいなあと思った。

 


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ナボコフ『賜物』(6)

2010-11-08 11:38:02 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(6)

 彼は店に向かってさらに歩きだしたが、たったいま目にしたものが--同じような性質の喜びをもたらしてくれたからなのか、それともだしぬけに彼を襲って(干草置き場で子供が梁からしなやかな闇に落ちるときのように)揺さぶったからなのか--もうこの数日間、何を考えてもその暗い底にひそんでいて、ほんのちょっとした刺激を受けただけで浮かび上がって彼を虜(とりこ)にしてしまう、あの愉快な何かを解き放ったのだ--ぼくの詩集が出たんだ。

 「それとも」。この短いことばの不思議さ。
 「それとも」によって、ナボコフの想像力は自由になる。いま書いたばかりのことと正反対のことを書くことができる。
 そして、この「正反対」が、ナボコフのこの小説の場合、地の文ではなく、かっこに入って書かれている。子供のときの思い出。それは、いまの、この現実の時間からもかけ離れている。
 本来、「それとも」は同じ次元での逆の立場(正反対)でなければ、文意をなさないはずである。たとえば、彼は喜んでいる。「それとも」悲しんでいる。(あるいは怒っている。)--というふうにつかうのが普通である。そういう「正反対」を併記するとき、「それとも」がくっきりと浮かび上がる。しかし、ナボコフはそういう「文法」にとらわれない。もっと自由に、なんとでも結びつける。
 しかし、「なんとでも」とは書いてみたが、それは「なんとでも」ではない。
 よくよく読むと、ナボコフがここで書いている「それとも」は正反対ではない。逆説ではない。むしろ、共通していることがらである。「それとも」には似つかわしくない不思議な状況である。「正反対」というよりも、いま書いたことをより深く掘り下げたことがらである。別の次元へまで掘り下げている。「同じ性質の喜び」を「もたらしてくれた」のか、それとも「同じ性質の喜び」が彼を「揺さぶった」からなのか。「もたらす」と「ゆさぶった」--それは、ほんとうに「それとも」で結びつけることばなのだろうか。
 「それとも」よりも「さらに」の方がふさわしいかもしれない。
 「同じ性質の喜び」をもたらし、さらに「同じ性質のよろこび」で彼を揺さぶる。この場合、「同じ性質」は実は「同じ」というより「より強い」「より根源的な」というべきだろう。ある性質の喜びをもたらし、「さらに」、その喜びよりも「より根源的な」喜びが彼を揺さぶった。
 そして、この「より根源的」はあまりにも個人的過ぎるので、「さらに」という連続性のあることばよりも、断絶(飛躍)が目立つ「それとも」が選ばれているという印象がある。
 それにしても、このかっこのなかの子供時代の「喜び」のなんとうい不思議な甘さ。苦しさ。墜落と、それを受け止める温かさ。「子供時代」特有の、人間の「根源」にふれるような喜び。闇に落ちていく、そしてその闇は温かい。--明るい天上にのぼるのではなく、暗い、温かい闇に落ちる。ああ、そのなんともいえない矛盾。
 どこかに、そういう無意識が照らしだす「矛盾」があって、それゆえに「それとも」が選ばれているともいえる。
 ナボコフの魔術は華麗なことばだけではなく、「それとも」というようなだれでもがつかうありふれたことばのなかにこそ、強烈に根を張っているのかもしれない。





青白い炎 (ちくま文庫)
ウラジーミル ナボコフ
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青木栄瞳『一千一夜物語』

2010-11-08 00:00:00 | 詩集
青木栄瞳『一千一夜物語』(思潮社、2010年09月30日発行)

 青木栄瞳はとても「頭」がいい人なのだろう。『一千一夜物語』の、「(大玉LL)ひらけ、春キャベツ!」には青木の特徴がとてもよくでている。(と、思う。--「頭」のいいひとの作品に対する感想書くときは、きっと、この「と、思う」ということばを書き足しておくことが重要になる、と思う。この「と、思う」は念押し。)
 というわけで、これから書くことは、あくまで私が「思った」こと。

【ひらけ、ごま】
--(大玉LL9)ひらけ、春キャベツ!
--あなたの“脳力”葉日本で何番目?
  (のべ四十万人が受験した脳検定が帰って来た!)
  (一位は何県? 都道府県別成績ランキング)WEBニュース

(HH)ひらけ、春キャベツ!
HH・HH・HH・HH・HH
HH・HH・HH・HH・HH
HH・HH・HH・HH・HH

 繰り返される「HH」は何だろう。最初の「H」は「ひらけ」の頭文字、次の「H」は「春キャベツ」の頭文字ということになるのか。
 「ひらけ、春キャベツ!」はアラビアンナイトの「ひらけ、ごま」から思いついたことばなのだろうが、その「ひらけ、春キャベツ!」を同じことばではなく「HH」と略語(?)にしてしまって繰り返すというのは、どういうことだろうか。「HH」と「ひらけ、春キャベツ!」は「意味」は同じだろうが、それを繰り返すときの「肉体」の反応は同じというわけにはいかない。実際に「声」に出せばその違いが明確だが、黙読の場合に「肉体」の反応がまったく違う。
 「ひらけ、春キャベツ!」のとき、私は黙読の場合でも「喉」が反応する。けれど「HH」の場合、「喉」は反応しないし、「耳」も反応しない。そのかわり、「目」が反応し、見たものがことばを通り越して「意味」として「頭」に入ってくる。
 「ひらけ、春キャベツ!」は呪文のことばだであり、そこには「意味」はない。しかし、何かに命じて、それを開けさせる、それを開けたいという「思い(祈り?)」がある。一方、「HH」はまず「意味」である。「意味」であり、「概念」である。「HH」は繰り返すとき、そこには「ことば」は存在しない。ただ「概念」だけが存在する。
 青木は、「HH」を繰り返すとき、「ことば」を動かしていない。肉体(喉や耳)を動かしていない。「概念」を動かしている。
 青木にとって、詩とは、「ことば」の運動ではなく、きっと「概念」の運動なのだ。「概念」を動かすこと、日常は動かない「概念」の運動を描くことが青木にとっての詩なのである。

 別な言い方で補足しよう。
 「HH」は「ことば」ではなく、「ことば」を「記号」としている。「記号」は「ことば」から余分なものを省いた「概念」である。「ひらけ、春キャベツ!」というとき、その「呪文」を口にするとき、「喉」が動く。そして、ある一定の「時間」がかかる。どんなに早口で言ってみても一秒はかかる。ところが「HH」の場合、まずそれを口にすることはない。口にしなくても「意味」がわかる。見ただけでわかる。一秒とかからない。そして、恐ろしいことに、「HH」そのものが一秒かからないだけではなく、それが何回繰り返されようと一秒かからない。「ひらけ、春キャベツ!」ということばがもし1ページに全部を埋めていたとしたら、それを読むのに(声にするのに)何秒(何分)かかるだろう。「HH」は声にしないから1ページだろうが、本1冊だろうが一秒とかからない。本一冊の場合、もし、そこに「HH」に「HK」が一個まぎれていたとしたら?というようなことは、いまの場合無意味な脱線である。だれも「HH」を一文字一文字追って読みはしないからである。「ひらけ、春キャベツ!」も声に出さず「目」だけで読めば何ページにわたっていても一秒で読めるではないか--そう考えることはできる。
 だが、それは「考え」であって、実際に「読む」ということは、それとは別問題である。
 読む。ことばを「声」に出して「肉体」をくぐらせるというのは「時間」をかけることなのだ。「時間」をかけると、人間には変なことが起きる。「ひらけ、春キャベツ!」には「意味」はないのだが、そこに「意味」を感じたりする。「意味」といっても「正しい意味」ではなく、声に出す人が勝手につくりあげた無意味なものだが。そして、それは多々繰り返すということだけのなかに生まれてくる何かである。どんなわからないことばでも繰り返しているとなんとなくわかったような気持ちになる。外国語を例にとればいいが、ああ、こういうとき、こういってしまうのだな、ということがわかる。「See you again!」と友達に言われて、「いつ? どこで?」と問い返すようなひとはいない。「肉体」が繰り返し聞き、また言うことで生まれてくる何かがある。
 記号、略語の場合、こういう繰り返しが生み出す「意味」というものはない。あくまでも最初に「意味」がある。そして、その「意味」は変わることがない。「意味」がかわらないのが、記号、略語の運動である。
 ことばは違うのだ。ことばは繰り返している内に「意味」が違ってしまう。ことばは状況によっても「意味」を変えてしまう。
 そして、変わってくことが、ことばが抱え込んでいるものが変わっていくことが、実は詩である。ことばの「意味」が変わるというのは、別なことばで言えば、その「ことば」を発した人が、ことばを言うことで別人になる、生まれ変わるということでもある。
 ところが、記号、略語は「意味」を変えない。したがって、そのことばは何度繰り返されても、それを書いたひとそのものに働きかけ、ひとそのものを変えてしまうということはない。
 「概念」の運動は、ある意味で「人間」の運動ではないのだ。「頭」のなかだけでおきる、瞬間的な運動なのだ。「頭」だってかわっていく、というかもしれない。たしかに変わるだろう。しかし、その「変わる」は運動の領域であって、「概念」の質ではない。「意味」ではない。もし「概念」の「意味」そのものが変わるのだとしたら、繰り返される「HH」の場合、それは、どの瞬間? 「HH」だけを見ているとき、それはわからない。けっしてわからない。

 慣れないことを書いていると、だんだん何を書いているのかわからなくなる。

 青木は「ことば」を書いているが、書くことで「意味」がかわっていく、つまり青木自身が生まれ変わるということはない。「ひらけ、春キャベツ!」を「HH」と書く瞬間、そこにこそ青木の変化、生まれ変わりがある。
 「ひらけ、春キャベツ!」を絶対に他の意味にはしない、という「決意」のようなもの、「頭」が下した断定が「HH」なのである。変わらない決意、変えない決意が青木なのだ。
 「意味」を変えず、ただ「意味」を加速させる。「概念」の加速が青木にとっての詩なのである。

 「意味」の抽出、「概念」の抽出--青木は、詩を、そんなふうに考えているのかもしれない。「意味」の固定、「概念」の固定、というふうに言うこともできるかもしれない。

 私は、こういう運動に対して「違う」と言いたい。私の欲望は、それは詩ではない、と言いたがっている。
 ことばを破壊すること、ことばの「意味」が成り立たない一瞬をつくりだすこと。そこにこそ、詩があると感じている。
 「ひらけ、春キャベツ!」ということばは「ひらけ、ごま」よりも私には楽しい音に聞こえる。「ひらけ、キャベツ」よりも「ひらけ、春キャベツ」の方がいま風(?)で音が楽しいとも感じる。けれど、それが「HH」という記号にとじこめられ、「概念」になってしまうと、私は楽しいとは感じない。「HH」がどれだけ繰り返されても、何も変わらない活字がそこにあるだけだ。
 「ひらけ、春キャベツ!」を「HH」に転換する瞬間こそ詩である、と青木は言うかもしれない。余分なものを排除し、ただ「HH」という記号にする瞬間の「概念」の暴力--そこに詩がある、と。
 「概念の暴力」と考えれば考えられないことはないし、それはそれで美しいもの、魅力のあるものだけれど……。
 でも、「ひらけ、春キャベツ!」が「HH」、「予防接種はお済みでしょうか?」が「YS」、「素肌が自慢」が「SZ」--こんな単純な「頭文字」の法則が概念の暴力? それはむしろ、「概念」の衰退であるように思える。
 青木のことばには、詩のもっている「暴力」がない、とさえ感じてしまう。

 あ、また、最初に書こうとしていたこととは違ったことを書いてしまった。書くというのは、私には、こんなふうに何かどんどん「間違い」を積み重ねて行くことだが、青木はこういうことをしないだろうなあ。
 最初から最後まで、全部「頭」で整理して、きちんと図式化できるんだろうなあ。

 ことばを書くこと、ことばを言うこと--それはもともと暴力的なものを含んでいる。「ひらけ、ごま」にしろ、「ひらけ、春キャベツ!」にしろ、むちゃくちゃでしょ? しまっているドア(と面倒だから言ってしまう)に対して「ひらけ」と言うなら「ひらけ、ドア」でいいはずである。それをわざわざ「ごま」とか「春キャベツ!」と言い換える必要はない。そんなことばの不経済なつかい方をしない方がいいだろう。けれど、そういう「不経済」をすることで、そのドアを開ける権利を独占するという「暴力」が、実はそこにひそんでいる。
 ある仲間うちだけで通じる「ことば」をつかうというのは一番簡単なことばの「暴力」だが、うーん、こんなことを書くと、「HH」というのはそういう一種の暴力であると青木から反論されるかなあ。よくわからないなあ。「頭」で考えると、まあ、そういう「論理」も成り立つは成り立つのだけれど……。

 書いていることが、ますますわからなくなる。だから「頭」の詩はいやだなあ、とひとりごと。ついでに(最後に?)、もうひとつ、ひとりごと。

(NMY)眠れ良い子よ、白い卵よ!                (31ページ)

 これは、なぜ? 何と何の頭文字? 眠れ(N)良い子よ(Y)、白い(S)卵よ!なら、NYSなんだけれど……。
 やっぱり「頭」のいい人の考えることにはついていけない。この突然の「頭文字法則の変化」が青木の「暴力」? だとしたら、いやだなあ。





エイメ姫の一千一夜物語
青木 栄瞳
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(151 )

2010-11-07 12:26:31 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(151 )

 「失われたとき」のつづき。

欲望は見えないものを指さし
空は有に向つて有は空に向つて
あこがれる苔むした指環の廻転に
空は有を通つて空にもどる
有は空を通つて有にもどる
下馬の数学者は空は有に有は
空に絶対にならない
とペルノーの影でいう
カマクラのツァラトゥストラは空でも
有でもない大空がある
とミズナの影でいう
竹藪のささやきかきのこの香いだ
もう立ち話はつかれた
どこから有が空になり空が有になる
かその紫の線がひけない

 空(くう)と有(ゆう)をめぐる哲学。しかし、哲学というには、ここに書かれていることはあまりに簡単過ぎる。哲学の「意味」は、テーマではない。ただ、そうしたことを話しあった、という「事実」を告げるだけである。西脇がこの問題を真剣に考えていたとは思えない。「真剣に」というのは、ある結論を出すまでにいたっていないということである。
 この部分がおもしろいのは、「空(くう)」がカマクラを境にして「空(そら)」に変わってしまうことである。カマクラという具体的な「場」に出会い、「大空」にかわってしまうことである。具体的な「場」が「ミズナ」や「竹藪」という具体的なものによってより具体的になるとき、哲学は具体性を書いた空論に似てくる。この空しさ--それを西脇は「つかれた」と書いている。

もう立ち話はつかれた

 ミズナや竹藪の登場によって、具体的な「肉体」があらわれる。哲学的話題で「頭」がつかれる--のではなく、「立ち話」(ふと始めてしまった話)、立ったままつづけてしまった話によって、「肉体」がつかれる。
 「立ち話」ではなく、これが机に向かって(あるいはテーブルを挟んで)椅子に座っての議論なら「つかれた」は「頭」かもしれないが、西脇は「立ち話」と書くことで、哲学を狭い領域からすくいだし、さらに「頭」から「肉体」へとすくいだしている。
 「頭」のなかで繰り広げられるだけの「話」は、そもそも哲学ではないのかもしれない。
 私は、この1行が非常に好きだ。「ああかけすが鳴いてやかましい」(旅人かへらず)と同じように大好きである。

 この詩の引用部分には、また魅力的で不思議な1行がある。

竹藪のささやきかきのこの香いだ

 これは文脈の「意味」にしたがって読めば、カマクラのツァラトゥストラがいったことば、その内容になるだろう。空や有のややこしい問題のかわりに、カマクラには「大空」がある。そしてそれがもし「空」につながるものだとしたら、「有」につながるのが「竹藪のささやきかきのこの香いだ」ということになる。「大空」に対して「大地」。その「大地」あるのが竹藪やきのこだ。
 空・有の哲学問題に対して、カマクラの「大空」と「竹藪」「きのこ」を向き合わせる。その「肉体感覚」。それをいっそう具体的にいうと「ささやき」(これは聴覚であると同時に発声器官に属することがら)、「香い」(におい、と読ませるのだろう--嗅覚)になる。「聴覚」と「嗅覚」が並列している。「か」で結ばれているのだから、それは対立するものであるはずだが、実際に読むと、そのことばは「対立するもの」とはいえない。「か」で結ばれているにもかかわらず、それはからみあい、融合しているように感じる。
 「大空」は「竹藪のささやき」のなかにも存在する。「きのこの香い」のなかにもある。「竹藪」と「きのこ」は別々のものだが、その「竹藪」「きのこ」の「肉体」をとおるとき、「青空」はそのどちらになることもできる。
 「空」「有」ということばをつかず、西脇は存在そのものと向き合い、そこにある「運動」を嗅ぎ取る。太陽が(空が)、たとえば「竹藪」(有)をとおって「空」にもどる。逆に「竹藪」が「大空」を通って、「竹藪」になる。
 そして、この運動が運動としてそこにあるとき、そこにはひとつの特徴がある。
 「ささやき」と「香い」が、区別なく、西脇の思いを代弁する。




雑談の夜明け (講談社学術文庫)
西脇 順三郎
講談社

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ナボコフ『賜物』(5)

2010-11-07 11:41:07 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(5)

 角の薬局に向かって道を渡るとき、彼は思わず首を回し(何かにぶつかって跳ね返った光がこめかみのあたりから入ってきたのだ)、目にしたものに対して素早く微笑んだ--それは人が虹や薔薇を歓迎して浮かべるような微笑だった。
                                 (10ページ)

 「何かにぶつかって跳ね返った光」。反射。ナボコフのことばには、いつも反射があるように感じる。ことばとことばがぶつかりあって輝く。それ自体で輝かしいことばもあるだろうけれど、ナボコフは、衝突と反射によって、その輝きを自ら燃え上がる炎にするのかもしれない。
 いま引用した部分では、「こめかみ」が自ら燃え上がる炎である。
 光はどんなことをしたって「目」からしか入ってこない。私たちは視覚で光を見る。けれど、ナボコフは「こめかみのあたり」と書く。それは「目のこめかみのあたり(こめかみに近いあたり)」を超越して、「こめかみ」から入ってくる。見るための「肉体」ではないところから、光は目を通らずに入ってくる。網膜へ、ではなく、脳へ。
 このとき、「こめかみ」は自ら燃え上がり、新しい「肉眼」になるのだ。
 そういう「肉眼」が「見る」ものは、当然、「目」が見るものを超越した存在である。

ちょうどそのとき、引っ越しようのトラックから目もくらむような平行四辺形の白い空が、つまり前面が鏡張りになった戸棚が下ろされるところで、その鏡の上をまるで映画のスクリーンを横切るように、木の枝の申し分なくはっきりした映像がするすると揺れながら通りすぎたのだった。その揺れ方がなんだか木らしくなく、人間的な震えだったのは、この空とこれらの木々の枝、そしてこの滑り行く建物の前面(ファサード)を運ぶ者たちの天性ゆえのことだった。
                                 (10ページ)

 「人間的な震え」。この「人間的」は「目」では見ることはできない。「肉眼」になった「こめかみ」が見たものである。そして「人間的」というのは、実は「天性」のことである。この「天性」も「目」には見えないものである。
 「肉眼」のなかを動く「ことば」だけがとらえることのできるものである。





ナボコフ自伝―記憶よ、語れ
ウラジミール・ナボコフ
晶文社

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高塚謙太郎「抒情小曲集」

2010-11-07 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
高塚謙太郎「抒情小曲集」(「エウメニデスⅡ」38、2010年10月31日発行)

 高塚謙太郎「抒情小曲集(ショート・ピース)」を読むと、私は一瞬、「もの」が見えなくなる。「もの」を視力で識別できなくなる。

陽のもっともみえる時刻の、目をみはるほどの膝うら
にたたえられた《もはや浜》の湖面そこからあふれさせずあふれ
敗意の飛沫たかくに、空いっぱいに、波紋の見えやすい方途の
澄ますと耳がきこえることを、袖口ににじませ
「膝うら」から「袖口」へかけてのかすかなしかしたおやかな
うしろ髪を束ね、ずず、進みでる《その浜》を、ならす

 これは「No16」の一部だが、私の視力は「膝うら」はかろうじてとらえるが、それ以外のものを目にみえるものとしてはっきり想像できない。ようするに、私には見えない。そして、見えているはずの「膝うら」も「うら」が「浦」に変わってしまい、ほんとうの(?)膝うらはどこにもない。遠い記憶のなかにしかない。
 そして、その記憶さえ、「浦」に、つまり「水辺」(浜辺、海辺)のようなものに乗っ取られて、何を見ているかわからなくなる。
 「もの」が見えなくなった代わりに、私は「音」を聞く。それは水辺の(特に海辺の)音のように飽きることなく繰り返している。その繰り返しは違う音なのか、それとも同じ音なのにたまたまなにかの加減で(実際の海であれば、たとえば風向きとか、飛んできたかもめとかの影響で)違って聞こえるだけなのか、はっきりしない。

陽のもっともみえる時刻の、目をみはるほどの膝うら

 この行には「もっとも」の「も」の繰り返しを中心にして「ま行」、「目(め)」「み」える、「み」はる、の繰り返しと、「は行」、「陽(ひ)」、み「は」る、「ひ」ざうら、の繰り返しが交錯し、ときどき「ら行」もまじる。みえ「る」みは「る」う「ら」。
 この交錯が、つぎの「もはや浜」に結晶する。も(ま行)・は(は行)・や・は(は行)・ま(ま行)。このとき「もはや浜」は「浜」の名前ではなく、音楽の「音」である。意味を失い、ただ「音」として存在している。「音」として、別の「音」、「和音」をつくるべき「音」をさがしている。
 「敗意の飛沫たかくに」の「飛沫」は「しぶき」とも「ひまつ」とも読めるが、「敗意の飛沫たかくに、空いっぱいに、波紋の見えやすい方途の」という1行のなかでは「しぶき」と読むのはつらい。「ひまつ」という「音」として動いている。
 こういう「音」の呼応は、私はとても好きである。視覚が消えて、その空白のなかへ「音」がつくりだす何かがあらわれてくる。「もの」にならず--いや、「もの」という姿をとるのかもしれないけれど、それは「もの」として別の「もの」と関係をつくらないまま消えていく。何が見えたのかわからず、けれども何かをみたかもしれないという気持ちが「音」のように消えていくのだ。
 高塚の「音」は「音楽」かもしれないが、そのタイトルが象徴しているように「交響曲」というような壮大な構造をもったものではなく、さっとあらわれて消えていく「小曲」そのものかもしれない。

 「No17」の次の部分もおもしろい。

舞え《おまえ》舞え
スカートが引きずられずにすむよう
裳裾にからめてじりじりと黒煙が立ちのぼるリズミカルに止血ぐるみ
なるほどその夕暮れが逢瀬のおわりとなったわけ
たくしあげてはひらり
たくしあげてはさらり

 「舞え《おまえ》舞え」の「まえ」の繰り返しのような単純な(?)ものから「(立)ちのぼるリズミカルに止血ぐるみ」のようなめまいを誘う「音」まである。
 この部分がめまいを誘うのは、たぶん「音」だけではなく「文字」(視覚)も影響しているかもしれない。立「ち」のぼる。止血は「しけつ」なのだが、血は「ち」でもある。私の視覚は、そこにない「もの」、ことばがあらわそうとする「もの」ではなく、文字そのものを「音」に還元して見てしまう。
 あ、いったい、何が起きたんだろう。わからずに、私はめまいを感じるのだ。



さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社

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ナボコフ『賜物』(4)

2010-11-06 11:21:22 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(4)

いつか暇なときにでも--と彼は考えた--三、四種類の店が交替して現れる順序を研究して、その順序には独自の構成上の法則があるという推測が正しいことを検証したら、面白いだろう。つまり一番頻繁に現れる組み合わせを見つければ、当の町の平均的リズムが導き出せるのではないか。
                                 (10ページ)

 リズムを何に見つけるか。リズムとはもともと「音」の概念だと思う。ところがナボコフは「音」ではなく、店の「配置」、つまり空間のなかに感じている。それは「絵画的」といえるかもしれない。「絵画」のなかにあらわれる一定の色、形--それはたしかにリズムを呼び覚ます。
 この小説の主人公は、それを「絵画」(色、形)ではなく、類似の「もの」(ここでは商店の種類)のなかに見つけ出そうとしている。
 このリズム感覚はとても興味深い。
 ナボコフの感覚が、音は音として独立してあるのではなく、色も色として独立してあるのではない。音にも色にも何かが共通している。「共通感覚」というものがある。--というだけではなく、それを人の「暮らし」、「町全体」のあり方というような非常に雑多なもののなかにまで押し広げ、把握しようとしている。(いや、すでに把握しているのかもしれない。)
 ナボコフの文体は、さまざまな対象を飲み込んで、飲み込むたびに自在さを増して広がっていくが、それは多くのものを飲み込むほど、強靱になっていく。きっと「リズム」が強くなっていくのだろう。
 最初はぼんやりしていたリズムが、互いに呼びあいながら、見えなかったリズムを補強し、存在感を増してくる。

例えば、煙草屋、薬局、八百屋、といった具合に。タンネンベルク通りでこの三つはばらばらで、それぞれが別の角にあったが、ひょっとしたら、ここではリズムの群づくりはまだ始まっていないのだろう将来、対位法に従って、店たちが次第に(天守が破産したり、引っ越したりするにつれて)集まってくるかもしれない。
                                 (10ページ)

 ナボコフがいま書いていること--それはナボコフがここで書いていることばを借用して言い換えれば、この小説のリズムづくりはまた始まっていないのだろう。これから始まる。ナボコフ独特の対位法にしたがって、ことばが集まり、リズムになっていくに違いない。ことばがことばを呼び寄せ、群れをつる。そこからリズムが生まれてくる。それは小説が進むに従って聞こえてくるリズムだ。



ナボコフ短篇全集〈1〉
ウラジーミル ナボコフ
作品社


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