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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い川』(3)

2010-11-18 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(3)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「いま」という「時」のなかにあらゆる「時間」が見える--と昨日書いた。そういう「いま」は、いわば「夢」のようなものである。「夢」のなかにもあらゆる時間が一斉に雪崩込んでくる。時間の流れを無視して、過去と未来がみさかいなしに動いている。
 そんなことを考えながら、「秋の花」を読んだ。そして、読みながら、昨日考えたことが昨日考えたことなのか、それとも「秋の花」を読んだために、そう思ったのかわからなくなった。「秋の花」を読みながら感想を書こうとしているのだが、私のことばは何か昨日へもどろうとしている--忠実に(?)「秋の花」を読むのではなく、昨日の方へ昨日の方へと「誤読」を誘うのだ。

 静かな秋の日、遠い昔、別れた女に逢いに行った。風
の便りに、この世を去ったと聞いていたが、思いがけな
く、死ぬ前に、一度、顔が見たと言ってきたからだ。

 死んだと思っていた女が、死ぬ前に会いたいと言ってきた。そういうことは現実にあるかもしれない。しかし、私はこの書き出しの「死ぬ前に」を、女はこれから死んでいくので、今のうちに会いたいと言ってきた、という「正しい」読み方をしなかった。できなかった。「誤読」した。女は死んでいる。その死んでいる女が、「死ぬ前に、一度、顔が見たい」と言ってきた--つまり、過去の時間へ来いと粕谷を誘っていると読んでしまったのだ。「遠い昔に別れた女」に会いに行ったのではない。女と会うために、「遠い昔」へ行ったのだ。
 そういうことは常識的な「時間」の考え方からすると絶対にありえないことだが、粕谷の「時間」は常識の時間とは違う。「いま」のなかにはあらゆる時間があるのだから、粕谷の行動は常識の時間とは無関係なのだ。遠い場所へ行くのと同じように、遠い昔へ行くことができるのだ。「いま」のなかに「過去」があるのだから。「夢」のなかに「過去」があるように。「夢」の中では「いま」も「過去」も「未来」もみさかいがないように、交じり合って存在するのだから。「いま」とは「夢」なのである。

 永いこと、音信不通で過ごしてきたのだ。逢ったとこ
ろで、何があるわけでもないが、急に、懐かしく、逢い
たくなった。自分も、もう先のない老人だ。
 それができたのは、たぶん、それが夢のなかのことだ
ったからだろう。初めて訪れる町なのに、萩の花の咲く、
彼女の家への細い小径を、私は知っていたから。

 そして、実際、ここには「夢」ということばが出てくる。「それができたのは、たぶん、それが夢のなかのことだったからだろう。」しかし、これは、なんともいえず不思議なことばである。
 「それができた」の「それ」は、別れた女に会いに行くことである。「それが夢のなかのこと」の「それ」も、別れた女に会いに行くことである。そうするとますます、別れた女が「いま」生きているのではなく、過去に死んでいて、夢の中で過去の女に会いに行くという私の最初の「直感的誤読」が「誤読」ではなくなる。「夢」のなかだから「時間」はでたらめに動く。「初めて」はけっして「初めて」とはかぎらない。「初めて訪れる町なのに、萩の花の咲く、彼女の家への細い小径を、私は知っていたから」というのは、初めてではないからだ。「初めて」は間違いだからだ。粕谷は「遠い昔」何度もその道を歩いて彼女に会いに行ったのだ。「夢」のなかだから、その最初の体験を、「初めて」と呼んでいるだけなのだ。初めて彼女の家へ行ったときの強烈な思い出が、「夢」のなかのできごとを「初めて」にしてしまう。
 粕谷は「遠い町」(たぶん)に住む別れた女に会いに行ったのではなく、別れた女に会いに「遠い昔」へ行ったのだ。こういうことは「現実」にはできない。けれど「夢」のなかでは、そういうことは簡単にできる。時間旅行は誰にでもできる。
 けれど、粕谷はこれを「夢」とは言わない。「夢のなかのことだったからだろう」とは書いているが、これは「逆説」の一種である。もし、そこに書かれていることが「夢」なら、思ってもしようがない「思い」が詩の後半に出てくるからである。大切な思い、「いま」それを書いておかなければならない「思い」が後半に出てくるからである。それは「夢のなか」で動くことばではなく、「いま」粕谷の「肉体」とともに、「ここ」にあるものとして動いている。

 私にできることと言えば、黙って、そこに坐っている
ことだけだった。二人、並んで坐って、広い湖とそのほ
とりで、風に吹かれる萩の花を見ているだけだった。
(彼女は、本当に私の昔の彼女だったのだすうか。)
 この世で、人間は、さまざまな時間を過ごすが、こう
して、遥かな日々、睦み合って暮らした女と過ごす、自
分だけの淋しい花のようなひとときもある。
 二人は、いつまでも、そうして坐っていた。日が暮れ、
あたりが暗くなって、遠い夢のなかで、二人が見えなく
なるまで、そうしていた。

 「夢」のなかで粕谷は「遠い昔に見た夢」に出会う。「遠い夢のなかで」と粕谷は書いているが、それは遠い「昔の」夢のなかで、なのである。「昔」(過去)と「いま」は区別がないから、粕谷は「遠い夢のなかで」と書くのである。その「遠い昔の夢」のなかで、ふたりは、黙って萩の花をみつめる「未来」を夢見たのだ。
 「夢」には「過去」と「未来」が入り交じり、自在に動く。そういう「夢」を見ることができる「いま」という時間だけがこの世には存在する。「過去」も「未来」もなく、ただ「いま」だけがある。

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鄙唄
粕谷 栄市
書肆山田
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ナボコフ『賜物』(15)

2010-11-18 11:17:15 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(15)

チクタクと時を刻む音は、一センチごとに横縞の入った巻尺のように、ぼくの不眠の夜を果てしなく測り続けた。
                                 (26ページ)

 この「巻尺」の比喩はとても興味深い。時間をナボコフは線のように考えている。そしてその時間は「一センチ」ずつ測れるようなものである。「一センチ」という単位があきらかにしているように、それは「空間」的なものである。
 「空間」のように広がりをもち、そのなかを均一に動いていくものなのだ。
 それは、引用した文章の直前に書かれている「詩」のなかにも出てくる。家中の時計を調節にやって来た老人は……。

そして椅子の上に立って待つ
壁の時計が完全に正午を全部
吐き出すまで。そうして、無事に
気持ちのいい仕事をやり終え
音もなく椅子を元の場所に戻すと
時計は微かにうなりながら時を刻む

 「時」は均一に「刻」まれ、積み重なって「時間」になる。こんな考えを持つのは、ナボコフが(この小説の主人公が)、過ぎ去った時間(過去)をまるで一センチずつ刻んだ枡目のなかに「思い出」を均一に持っているからなのだ。
 ナボコフの描写はとても細密だが、その細密さはこの時間感覚と同じなのだ。時間が一センチずつ時を刻むのにあわせるようにして、ナボコフは一センチずつ思い出を再現する。一センチという単位はけっして狂うことがない。いや、多少の乱れはあるかもしれない。けれど、その乱れを時計屋の職人のようにときどきネジをまいて調子をあわせる。つねに調整しつづけるのである。





ナボコフのドン・キホーテ講義
ウラジーミル ナボコフ
晶文社

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金原まさ子句集『遊戯の家』

2010-11-18 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)
金原まさ子句集『遊戯の家』(金雀枝舎、2010年10月12日発行)

 私は俳句をまったく知らない。リズムとして五・七・五でできていることや季語が必要なこと、芭蕉や蕪村が有名ということくらいは知っているが、それくらいである。どんなひとがいま俳句を書いているかまったく知らない。金原まさ子という人もはじめて聞く人だ。
 読みはじめてすぐ、そのリズムがとても新しいと感じた。

春暁の母たち乳をふるまうよ

 巻頭の一句である。若い人なんだろうなあ。私はどんな作品も声に出して読むことはないが、「母たち乳を」の「たちちち」というた行の音の動きに、いままで聞いたことのない音を感じた。「ははたち」というのも意識しないと発音できない音である。「はは」の後ろの「は」が意識しないと「わ」にくずれそうになる。それをふんばって「は」と発音したあと「た」と明るい音「あ」の母音が受け(「はは・た」と3連続で「あ」の音がある)、そのあと「ちちち」とつづく。破裂音と「い」の同じ組み合わせ。それから「ふるまうよ」と一転してなめらかな音になる。「しゅんぎょうの」から読み返すと、漢語・濁音の強い音から始まり、音が三度(あるいは四度?)変化していることに気がつく。こんな激しい変化は若い人しか書けない、と思った。
 ところが金原は九十九歳である。帯に「九十九歳の不良少女」と書いてある。「十九歳」の誤植だろうと思ったが、1911年生まれと「略歴」に書いてあるから、きっとそうなんだろう。私は2010-1911=99が最初計算できずに、こっちの方も誤植に違いないと思ったのだった。
 ことばは年齢は無関係である、というのは「頭」では理解できても、実際に、こんなふうにして、そのことばに触れると驚いてしまう。「ことばと年齢は無関係」ということを、私は「頭」でしか把握していないのだ。「肉体」にしきれていないのだ、と反省した。

 脱線してしまったが、ともかく、この句集は「音」がおもしろい。

真空に入り揚雲雀こなごな

 気に入ったものに○をつけながら句集を読んだが、最初に○をつけたのが、これである。「こなごな」という音が乾いていて気持ちがいい。この乾いた感じが「真空」とぴったり合う。音は「五・八・四」と変則なのだが、最後の字足らずの、飛び散った感じも「こなごな」に合っていて、新鮮な感じがする。
 何度も書いて申し訳ない感じがするが、どうみても十九歳の、つまり学校で宿題が出たので仕方なしに俳句をこしらえてみたが、こんな感じになってしまった、という雰囲気がある。そして、いま書いたように、悪くいえば「こんな感じになってしまった」なのだが、非常に印象に残る。これ、失敗作? それとも斬新な傑作? 私は俳句の門外漢だから、そういう「判定(?)」はせず、ただ、あ、この音の動き、おもしろいじゃないか。みんなもっとこういう感じで俳句を作れば楽しくなるのに、と思うのである。

丸善を椿が出たり入ったり

 赤い椿だね--と私は勝手に思ったが、春になって強烈な赤が丸善の自動扉(と勝手に想像する)を行き来する。かかえているは、やっぱり十九歳の不良少女である。(私は、ずーっと十九歳と思い込んでいて、感想を書こうとしてふと帯をみたら「九十九歳」とあって、びっくりしたのだった。)突っ張った感じの不良少女には赤がよく似合う。そして、その赤が、なんの不安をかかえてか丸善を出たり入ったりする。その動きが美しい。また、「出たり入ったり」の音も新鮮である。「入ったり」は5音なのかもしれないが、促音の関係で私の実感(肉体感覚)では4音と半拍。そして、それは「丸善を」も同じ。「ん」があるので4音と半拍。「つばき」という音は重たいので「中七」がもったりするのだけれど、それをサンドイッチのように4音半が挟んで軽快になる。この軽いのだか重いのだか、揺れるリズムも十九歳の不良少女にぴったりだなあ、と私は感じてしまうのである。(きっと中年男の妄想がまじっているね、この感想には。)

 はっ、と思ったのは次の句である。

細螺(きしゃご)になった水やりを忘れてから

 リズムが何か違う。その直前に「日本タンポポ引金に指がとどかない」は十九歳だが、「細螺」の句は何かが違う。「細螺」ということばの影響もあるかもしれないが「水やりを忘れてから」が若者のことば、リズムとは明らかに違う。「水をやり忘れてから」なら十九歳だが「水やりを」は十九歳は言わないだろう。(これはあくまで私の語感だけれど。)「細螺になった」の「なった」は、もしかすると「わざと」選んだ口語なのかもしれない、と急に思ったのだ。
 「わざと」というのは、西脇が詩とは「わざと」書くものである、というときにつかう「わざと」なのだけれど。
 金原にはことばを無意識につかうという感覚はないのだ。俳句はあくまで意識的につくるものなのだ。そのことを意識していると、私は「細螺」で感じた。そして、この意識化は若い人じゃないなあと直感した。十九歳という感じを、あ、修正しなければいけない、と思ったのだ。

階下(した)にひとり二階にふたり牡丹雪

 この句で、この人はベテランだとわかった。そして、略歴を見て、え、何歳? 2010-1911って、いくつ? わからない。直感として数字が入ってこない。そのあと、帯を見て、九十九歳? 間違えていない? と思い、念のため計算して九十九歳であることを確かめた。確かめたが、こんどは十九歳以上に、その年齢にびっくりしてしまう。
 俳句をどう読んでいいのかわからなくなる。
 あ、もう、年齢は忘れよう--と、それからようやく思ったのだ。
 この句、階下→二階、ひとり→ふたりと自然に視線が上を向いていく。その視線の先に(家の中からは見えないのだけれど)、屋根があり、しずかに牡丹雪が降っている。降り積もっている。視線が下から上へ向かうのとは逆に、雪は上から下へ降ってくるのだけれど、それがちょうど屋根で出会う。そのときの牡丹雪のやわらかさ。あたたかさ。自然でいいなあ、と思う。
 
 落ち着いて(?)読み返すと、以下の句がいつまでも強くこころに残る。

焼却炉よりさめのかたちが立ち上がる
            (「さめ」は原文は、魚偏に養う。「ふか」かもしれない)

 愛しい人が亡くなった。その火葬場での印象だろう。さめの生命力。命の、すさまじい力が、まさに「立ち上がる」という感じになるのだと思う。

かわたれや見るなの部屋の燕子花
寝てからも守宮の足のよく見える

 ガラスまでとはりついている守宮。ひらがなの「も」の字になっている。孤独な感じ、孤独が通い合う感じが、「足」と具体的に書かれていて、しんみりと感じる。

うすやみがそっくり夕顔に入りゆくよ
凝っとしているとノギクは熱を持つ
象色の象のかなしみ月下のZOO
もぎたてを食べると木苺はにがい
すれちがうときフムと花虻牛虻は

 「五七五」を踏み外すとき、そこに不思議な「未生」のリズムが動く。それは、熟練の成果なのだろうけれど、あ、やっぱり若い美しさ、十九歳の不良少女の純粋さなのだと思うことにしよう。


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「ウエストサイド物語」(★★★★★)

2010-11-17 22:09:39 | 午前十時の映画祭
ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス監督「ウエストサイド物語」(★★★★★)

監督 ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス 音楽 レナード・バーンスタイン 作詞 スティーブン・サンドハイム 出演 ナタリー・ウッド、リチャード・ベイマー、ラス・タンブリン、リタ・モレノ、ジョージ・チャキリス

 私がはじめてスクリーンで見たのは沖縄返還の年、沖縄の映画館だった。アメリカサイズのスクリーンにびっくりした。田舎の映画館の5 倍くらいに感じた。映画感からはみ出すスクリーン、そしてそのスクリーンをはみ出す役者の踊り。後の方の席で見たのだが、最前列で見ているような気分だった。
 この映画の中で私が一番好きなのは「Gee, Officer Krupke (クラプキ巡査どの)」である。少年達がなぜ不良になったのかを歌う。レナード・バーンスタインの曲がすばらしいのはいうまでもないことだが、スティーブン・サンドハイムの詞がすばらしい。50年も前の作品だが、いまも同じ問題が存在している。まったく古びることがない。「Cool(クール)」も好きだ。
 役者はジョージ・チャキリスがポスターとダンスの影響だろうか、とても人気だったが(いまも人気かもしれない)、私はリタ・モレノが気に入っている。クライマックスで思わず嘘をつくシーンもいいけれど、その前のナタリー・ウッドとのやりとりのシーンが好きだ。「あんたの愛は間違っている」といったんはナタリー・ウッドを責めるのだが、ナタリー・ウッドに泣きつかれ「愛に正しいも間違っているもない。愛の人生があるだけ」という名台詞を口にする。
 女の、女による、女のための愛の名言――を通り越して、女そのものを語っている。ボーボワールは「女は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言って、それは20世紀の思想そのものになったけれど、これに匹敵するなあ。
 この強いことばを、強さを感じさせず、それこそ思想として語る。「寅さん」の「それを言っちゃおしまいよ」と同じ自然な正直さで語る。唸ってしまう。
 と、ここまで書いて思うのだが、「America (アメリカ)」も女が歌う歌詞がいいねえ。このころから時代を女性が確実にリードし始めたのだとわかる。最後に生き残るのがナタリー・ウッドというのは、そういう意味では象徴的かもしれない。

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粕谷栄市『遠い川』(2)

2010-11-17 00:00:00 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(2)(思潮社、2010年10月30日発行)

 粕谷栄市『遠い川』の作品群は、時間の動きが独特なのだ。粕谷は不動の「時」を描いている。「時間」はある不動の「時」のためにだけ存在している。
 「白瓜」。

 涼しい夏の夕べ、白瓜の好きな男が、あぐらをかいて
白瓜を食っている。そのために、何日も、畑に行って、
丹精して作った白瓜を、箸で挟み、うっとりと目をつむ
って、味わっている。

 ここで描かれている「時」というのは「白瓜を食う」という「時」である。
 この1段落では、「そのために、」ということばが非常にあいまいで、複雑である。あいまいと書いたが、意味自体はあいまいではない。意味的には「白瓜を食うために」であり、「その」は「白瓜を食う」を指している。問題は--と言っていいのかよくわからないが、ふつうは(と私の知っている「学校文法」は主張する)、こういうとき「そのために」とはいわない。白瓜を食いたいがために、何日も畑へ行って丹精に作った。--それはそれで、「意味」としてわかるのだが、そういう「意味」を抱え込んで、ことばは最初の文章へもどっていく。
 その丹精をこめるという時間を味わうように、男は白瓜を、うっとりと目をつむって食べている、味わっている。
 「そのために、……作った」はいったいなんだったのだろうか。それは、いま、白瓜を食っている「時」に挿入された「時間」なのである。
 いま、白瓜を食っているという「時」、そのいわば「いま」という「短い時間」に対して、それよりも「長い時間」が挿入される。そうすることで「いま」という「時」が一瞬ではなく、「長い時間」に変わっていく。

 いや、青空の畑で青い蔓に実っただけの白瓜では、そ
のように、彼が満ち足りた思いをすることはない。
 頬被りして、こそに行き、それを家まで持って帰って、
井戸端で、一つずつ水で洗い、桶に漬け込んだ女がいな
ければならない。

 女が畑から白瓜をとってきて、洗い、漬け物にするという「時間」が「いま」に挿入される。「いま」はその時間を挿入されることで豊かになっていく。そうして、男が食べているのが「白瓜」ではなく、「時間」そのものになっていく。
 「時間」(時の経過)をしめすことばが、次の段落に多くなるのは必然である。

 その日から、塩と重しの石が、ゆっくりと、白瓜を甘
くする。男がはだかで田の草を採り、女が馬に餌をやる、
幾日か幾晩か、やがて、そのときがやってくる。

 「その日から」「幾日か幾晩か」。その「時間」のすべてが、「いま」に挿入される。時間だけではなく、時間とともにある暮らしが挿入される。男が「田の草を採り」「女が馬に餌をやる」。それはひりとの「時間」ではなく、複数の人間の「時間」であるが、その複数の人間の「時間」が、「ひとつ」の「時間」として「いま」の内部を耕すのである。
 そして、その「時間」の運動を、「やがて、そのときがやってくる」。この「現在形」。「やってくる」。
 あらゆる「時間」が「いま」になる。過去のことだけれど、「いま」になる。
 このあと、女が白瓜の漬け物をとりだし、男がそれを食べるという描写がある。女は白瓜を食べる男が好き、男の胸板か好き、そして食べる男のそばで「優しくうちわで蚊を追っている」のだが、それはそうすることがやはり好きだからである。
 そのあと。

 涼しい夏の夕べ、本当は、その二人が、とっくに死ん
でいたのだとしても、これらの全てが、地獄にいる二人
の幻だったとしても、そのことにまちがいはない。

 ふいにあらわれる「死」。「いま」白瓜を食うという「生」と、その「生」を死んだ二人が見る幻だとするもののみかたが、「いま」のなかで固く結びつく。固すぎて、それが「死」であっても「生」であっても同じなのだ。
 「生」は「死」とともに生きている。「生」のなかに「死」があり、「死」のなかに「生」がある。それは区別がつかない。そのどれもが「いま」「白瓜を食べる」という「時」のなかに「時間」を挿入し、人の生きる時間を「一生」にする。
 この「一生」は「ふたり一緒」の「一緒」なのだと書いてしまうと、へたなだじゃれみたいだが、なにもかもが「一緒」になって、「いま」という時のなかに入り込む。「いま」という「時」のなかにあらゆる「時間」が見える--そういう「時間」と「時」との関係を粕谷は書いている。



続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
思潮社

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ナボコフ『賜物』(13)

2010-11-16 10:50:12 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(13)

そして洋服箪笥の中に隠れると、足下ではナフタリンががりがり音を立て、人に見られることなく箪笥の隙間から、目の前をゆっくり通り過ぎていく召使を観察することができた。そうして見ると、召使は奇妙なほど新鮮な姿に生まれ変わって命を吹き込まれ、ため息をついていたり、お茶やリンゴの香りを漂わせたりしているように見えた。
                                 (24ページ)

 世界は自分をどのような立場に置くかによって違って見える。物陰に隠れて見る世界はいつもとは違って見える。それはそう見えるだけなのか、あるいはほんとうに違っているのか、--つまり、隠れていることが影響してそう見えるのか、それともの小説でいえば主人公がいないところ(召使からすれば少年はいないところ)では、召使は少年の知らない姿をしているだけなのか、実際のところはわからない。少年の前では召使はため息をつかない。けれど、少年のいないところではため息をついている。そういうこともありうる。
 そういうことは別にして、この部分でおもしろいのは、召使は「ため息をついていたり」、「お茶やリンゴの香りを漂わせたりしている」という表現である。前者は聴覚でとらえた世界である。耳でため息を聞く。後者は嗅覚でとらえた世界である。お茶やリンゴの香りは少年は嗅いでいる。そして、さらにおもしろいことには、そういう世界をナボコフは「……ように見えた」と視覚で封じ込めていることである。
 少年は聞いていない。香りを嗅いでいない。目で見たものから、音を聞いたように感じ、香りを感じたように感じている。そう、「見えた」のであって、そう聞いたわけでも、そう香りを嗅いだわけでもない。
 視覚が聴覚と嗅覚を覚醒させている。それは幻かもしれないけれど、幻よりも強烈かもしれない。幻よりも強く(明確に)存在するものかもしれない。

 聴覚、嗅覚が視覚に影響を与えるのではなく、視覚が他の感覚器官をゆさぶる。ナボコフにおいては視覚が他の感覚に優先し、またすべての感覚を統合するという働きをしている。



ロリータ (新潮文庫 赤 105-1)
ウラジミール・ナボコフ
新潮社


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粕谷栄市『遠い川』

2010-11-16 00:00:00 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(思潮社、2010年10月30日発行)

 粕谷栄市『遠い川』も、現代詩手帖の年鑑アンケートを回答したあとに読むことになってしまった。今年は例年になく詩集の発行が多いように感じる。しかもおもしろいものがおおい。

 粕谷栄市『遠い川』は感想を書くのが非常に難しい。40篇の詩が収められている。どの詩について書きはじめても同じことを書いてしまいそうである。けれども、その同じ感想のなかに少しずつ違いが出てくる(はずである)。その違いが、けれど違いなのかどうかわからないような気がするのである。
 あ、書き方を間違えた。
 この詩集には40篇の詩が収められている。その1篇1篇は独立した作品であり、それぞれに違ったことが書いてある。けれども、とても似ている。似ているのだけれど、違うのである。その似ていることと違っていることははっきりしているにもかかわらず、そのことを言いなおそうとするときっと同じことを書いてしまいそうなのである。
 とても変な予感がするのである。

 私は詩の感想を書くとき、「結論」というものを用意せずに書く。いわゆる「文章教室」でいうような「起承転結」というものも考えたことがない。ある行が気に入ったら、そのことを書く。書いているうちに次のことばが動きだす。ことばが動くままに書き、ことばが動かなくなったらやめる、ということを繰り返しているだけである。だから、この嫌いだなあ、と思いながら書きはじめてみたら、その詩が大好きということを書いていたり、逆に、この大好きと思って書きはじめたら大嫌いというところにたどりつくこともある。ことばがどこへ進んでいくかわからないのである。
 それが私のふつうの状態なのだが、粕谷の詩を読みはじめた瞬間から、あ、これは、変、と感じたのだ。書きたいことの「結論」というものはもちろん思い浮かばないのだが、どこから書いても、どの詩について書いてもきっと同じことを書いてしまう。少しずつ違っても、その違いは書いている私にだけ感じられる違いであって、誰にも通じない違い--とっても小さな違いである、という感じがするのだ。しかも面倒なことに、その少しの違いが非常に気になり1篇の詩の感想を書くだけでは終わらない、どこまでもどこまでも書かなければいけないという世界に引きこまれてしまいそう、と感じたのである。

 前置きばかり書いて、少しも詩の感想を書かないのは、そのためである。私は何だか怖くて、感想を書きたいのだけれど、それを引き伸ばしているのである。
 でも、もう、目をつぶって(?)書きはじめるしかない。予感を捨てて、あるいは捨てるように捨てるように、さらに捨てるようにしてことばを動かしていくしかない。
 冒頭の作品は「九月」。

 ずい分、永いこと一緒に暮らしたから、九月になった
ら、妻とふたり、ちょうちん花を見にゆきたいと思う。
 特に、何があるというわけでもない、その夜、私は、
ただ、それだけのことをしておきたいと思うのだ。

 この書き出しのふたつの「文章」を読んだだけで、私は苦しくなってしまう。これから始まることが予感できて、いやになる。そして、この「いやになる」は逆説なのである。いやになるのはわかっているが、読まずにはいられないのである。引きこまれるのである。そこには不思議なことばの「重力」がある。引力といってもいいのだけど、「重力」ということばを私が思いついたのは、きっと「引力」では説明できないなにか、ことばがことば自身の重さのために収縮していくようなものを感じるからだ。
 まるでブラックホールみたいなのだ。

 なぜ、読んだとたんに苦しくなるか。
 この詩は結局、冒頭の「文章」ですべてを語り尽くしている。それがくっきりとわかるからである。どんなにことばを重ねても、それは最初の文章の繰り返しなのだ。ほかのことは一切語らない。ただ、「九月になったら妻とちょうちん花を見にゆきたいと思う」という「意味」を粕谷は繰り返すだけである。

 ずい分、永いこと一緒に暮らしたから、九月になった
ら、妻とふたり、ちょうちん花を見にゆきたいと思う。
 特に、何があるというわけでもない、その夜、私は、
ただ、それだけのことをしておきたいと思うのだ。

 読み返すとはっきりする。最初の文章に書いていることを粕谷は言いなおしているだけである。何も変わっていない。何も変わっていないのに、ふたつめの文章がある。これは、ことばの「経済学」からいうと、とんでもないことである。むだをしている。高級な紙に、小説よりははるかに大きい活字をつかって、同じことを繰り返しているだけというのは「物質面」からみた「経済学」でが、「意識」面でも同じである。「見にゆきたい」を「そのことだけをしておきたい」と言い換えて、「意味」がかわるわけではない。同じことを繰り返すのは不経済である。同じことをいわずに、別なことを言って、ことばをさっさと動かすべきである。
 --と批判したいのだが、この「不経済」のことばの運動、そこにある「重力」に私は引きずり込まれ、抜け出せない。「不経済」という視点から粕谷のことばを切り捨てることができない。逆に、その「不経済」のなかに、変なものを見つけ出して、ことばの運動とは逆に、ことばそのものにひっぱられてしまう。

その夜、

 「その夜」って何? 九月になって、ちょうちん花を妻と一緒に見に行く「その夜」(予定の日の夜)という意味だろうか。でも、いまは「行きたい」と思っているだけで、「その夜」は決まっていない。決まっていないのに「その」と何かわかりきった前提のようにしてことばが動いている。
 そうなのだ。粕谷のことばのなかには、粕谷だけにわかっていることがらが紛れ込んでいるのである。そして、そのわかりきっていることを粕谷は語らない。わかりきっているから語る必要がないのである。「その」といわれていることがらは、粕谷にとってとはもう「肉体」になっている。粕谷がいるとき、常に粕谷とともにある「その」なのだ。「その」を粕谷は切り離すことができない。
 その切り離すことのできない粕谷の「肉体」となってしまったことばが、まだ「肉体」になっていないことばを、「肉体」になってしまっていることばの方へひっぱる。引きずり込む。「引力」ではなく、「肉体」となっていることば自体の重さ(重力)が他のことばと密着するとき、他のことばに乗り移って「ひとつ」になる。ブラックホールの「圏内」に入って、さらにまわりのことばの重力を増やしていくのだ。

 懐かしい古里の逢瀬川の夜の河原に、ちょうちん花は、
咲いている。二、三本ずつ、かたまって、青い茎に、水
色のちょうちんの花の簪を吊るしている。

 このひとかたまりの文章は「ちょうちん花」の説明である。そういう意味では、最初の文章から違う世界へ進んだような感じがしないでもない。すぐに、印象がかわる。

 ずい分、永いこと一緒に暮らしたから、ふたりは、そ
れを知っている。月明かりの吊橋の上から、それを眺め
てから、小石ばかりの河原を歩いてゆくのだ。
 
 「ちょうちん花」の説明はいったい誰に対する説明だったのか。読者に、というかもしれないが、書いているとき「読者」とは書いている本人だけである。そんなことをする必要はない。
 それは、いま引用した文を読むとはっきりする。「ずい分、永いこと一緒に暮らしたから、」は詩の冒頭に書かれていることばと同じである。ことばが読者のためにあるというなら、これはまったく余分である。少なくともことばの「経済学」からいえば必要がない。読者が忘れてしまっているかもしれないと想定して繰り返したのだとしたら、それは粕谷が読者をばかにしていることになる。そうではなくて、このことばは、粕谷にとって書かなくてはならないかったことなのである。
 「その夜」の「その」そのものに深く関係していることばなのである。「その夜」は「ふたり」が「ずい分、永いこと一緒に暮らしたから」、はじめて「その」夜なのである。ふたりの永い暮らしが意識できる「その」なのである。「その」といえば、読者にはわからなくても粕谷と妻にはわかる--そういうことが「その」に含まれている。
 「その夜」の「その」は粕谷と妻の「肉体」になっている「その」である。

 いま、私は「肉体」と書いて--そして、それは私がいつもつかっている「肉体のことば」というときの「肉体」であったはずなのだけれど、その「肉体」が別の意味ももっていることを感じている。
 いやあな予感のようなものが、こういうところにしのびこんでくる。

 そこは、ほかに、誰もいない河原だ。ここに、再び、
来ることはないだろう。永いこと、地獄と極楽の日々を、
一緒に暮らしたから、ふたりは、それを知っている。
 だからといって、ちょうちんの花に変わりがあるわけ
ではない。水色のちょうちんの花の簪。その一つ一つを、
ふたりは、丹念に、腰をかがめて見てまわる。
 それができるのは、あるいは、ふたりが、本当は、ど
こか、遠い町で、仮に、死んでいるからかもしれない。
深く、一切を、忘却しているからかも知れない。

 意識としての「肉体」はあっても、死んでいるのかもしれない。「肉体」は死んでいるのかもしれない。粕谷の「肉体」には「死」が共有されているのである。
 もしそうであるなら、最初に書かれていた「その夜」の「その」にも「死」がまじりこんでいるはずである。「その夜」というのは、永遠にこないのだ。もう過ぎ去った日なのである。それを、「九月になったら」と未来のこととして思い描く。
 そのとき時間は、ごく一般的に考える時間のように過去-現在-未来というような一直線ではない。したがって、どちらかの方向へ向かって動かすことはできない。過去を思い出すとか未来を思い描くということはできない。粕谷は冒頭に「九月になったら……思う」とあたかも未来の時間を思い描いているかのように書いているが、そのとき粕谷にとって時間はそんなふうには存在していない。
 「その夜」という一点に凝縮している。
 「その夜」から全ての時間が動き、その夜へ向かって全ての時間が動く。それは「その夜」の「その」がことばのブラックホールであったように、時間のブラックホールなのだ。



転落
粕谷 栄市
思潮社

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和田まさ子『わたしの好きな日』(2)

2010-11-15 00:00:00 | 詩集
和田まさ子『わたしの好きな日』(2)(思潮社、2010年10月25日発行)

 和田まさ子『わたしの好きな日』については、書かない、「金魚」については書かない--ときのう書いたのだけれど、やっぱり書かずにはいられない。

昨日から
藻の夢を見ると思っていたら
今日
わたしは金魚になっていた
同居のつた子さんも
一緒に金魚になったのだが
つた子さんは
「わたしはもうこのへんであがるよ」
といって
にんげんに戻った

そのあとも
わたしは金魚のままだった
金魚のわたしの体は
オレンジ色と白とでバランスが
とってもよかったし
尾ひれが大きくて
ひらりひらりと水中を泳ぐと
水の中で揺れるのが楽しい
ときときくねくねっと体を動かすと
それにつれて尾びれもくねっと揺れる
そのとき水が薄い糊のようにねっとりと
体にひっついてくる

そうやって遊んでいると
「そこの金魚 もうあがったら」
と、つた子さん
わたしはもっと泳いでいたいのだ

 ことばにはいろいろなことばがある。ここでは、和田は、金魚と水の対話を引き出している。金魚と水なので、それはつた子さんの発するような「声」にはなっていないが、やはり対話に違いないと私は感じるのだ。
 金魚は体をくねらす。それにあわせて水が体をくねらす。あるいは、そんなふうに思うのは金魚の勘違いで、ほんとうは水が体をくねらしていて、その動きに金魚が反応しているかもしれない。--そんなことは書いてないのだが、書いていないことを考えるのが私は好きなので、まあ、そんなことまで考えてしまった。
 それにしても。
 「水が薄い糊のようにねっとり/体にひっついてくる」。
 まず、この「ひっついてくる」の「くる」がなんともいえずに、いい。「ひっつく」のを感じるよりも、もっと進んで(?)いる。水に粘着力がある--というよりも、つまり、「ひっつく」というのは水の属性であるというよりも、水の意思のように感じられる。ひっついて「くる」のである。向こうから、やってくる。そのやってくることのなかに「ことば」がある。「ひっつく」だけではなく、ひっついて「くる」ことによって、そのひっつくということが「ことば」なのだとわかる。
 そして、それを金魚であるわたしは皮膚感覚として感じているだけではなく「見ている」。「くる」のだからその「くる」距離が見えるのである。
 そして、それが「くる」ものだから、いま、ここにこうして金魚であることを、その「くる」もののせいにすることもできる。いいわけである。水がひっついて「くる」から金魚になって生きるしかない。人間なのに金魚のふりをするなんて自堕落(?)、怠け者(?)かなあ。でも、それは水がひっついて「くる」から。水の中では人間はおぼれてしまう。だから金魚になって生きるしかないのだ。
 そんな「いいわけ」がことばにならないまま、そこに存在している。
 そして、この「いいわけ」と、「くねくねっ」と「ねっとり」がよくなじんでいるなあ。

 でも、なぜ、「ひっつく」という触覚(皮膚感覚)を書いているのに、視覚をそこに感じたのかなあ。
 「薄い」ということばが視覚を刺激するのかな?
 その前の「オレンジ色と白でバランスが/とってもよかった」の色の感じが視覚を刺激し、その印象が「肉体」のなかに残っているので、薄く溶かれた糊の濃密感が見える気がするのだろうか。それがうごめいて、ひっついて「くる」のが見えるのだろうか。

 「ことば」のかわりに、ここでは感覚が互いに何かを語り合っている。「聴覚」だけが「ことば」を聞くのではない。ことばはあらゆる感覚のなかにある。
 「もの」が語り合うとき、そのことばは「肉体」を刺激し、「肉体」のなかに不思議なものを残す。そこでは感覚が分化していない。未分化のまま動くのである。その動きがことばなのだ。
 そして、こういう未分化な状態を生きることを、和田は「遊ぶ」と定義している。
 あ、いいなあ。
 遊びなんだ。未分化の矛盾、混沌にどっぷりつかり、何にでもなる。「わたし」は「金魚」になった、と書いているけれど、先に書いたように「水」になっているのかもしれない。和田は金魚でありながら、水でもある。というのは、もちろん「間違い」なのだけれど、「誤読」なのだけれど、私は、そう読みたいのだ。

 この金魚と水の一体感と同じように、「わたし」と「つた子」さんの関係もとてもおもしろい。つた子さんは、金魚が人間であることを知っている。金魚である「わたし」はつた子さんがかつて「金魚」だったことを知っている。だから、ことばが通じるのかもしれない。というか……。ことばを発すること、ことばを聞くことで、そこに「一体感」があらためて浮かび上がってくる。ことばは「糊」のように、人と人をつないでしまう。そして、そのことばはきっと「糊」のように二人の「間」をねっとりとひっつかせる。人間にもどってしまったつた子さんに、金魚であることをあれこれいわれなくないなあ。でも、金魚を卒業してしまうと、金魚に対してなにかいいたくなるというのもわからないでもないなあ。ことばにならないことばが動きはじめるなあ。

 あ、ほんとうは、こんなことを書きたくなかったなあ。もっと違うことを書きたかったんだけれどなあ。きっと和田のとんでもない才能、その天才を私もどこかに隠しておきたい、自分だけで夜中にこっそり覗き見する状態にしておきたいという気持ちがあるのかもしれない。
 みんなに教えたい。でもみんなに知られたくない。矛盾しているけれど、これがほんとうのことろなんだろうなあ。だから、できるだけあいまいに書いてしまうのだ。


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ナボコフ『賜物』(12)

2010-11-14 21:27:48 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(12)

 詩のなかのおもちゃの説明を小説の主人公はつづける。

それは繻子のだぶだぶのズボンを履いた道化で、白く塗られた平行棒に手をついて体を支えていたが、ふと突かれたりすると、

  滑稽な発音の
  ミニチュア音楽の調べにあわせ

動きだした。

 詩と、地の文がなめらかに交錯する。地の文から詩へ移り、またそこから地の文へもどってくる。
 自分の書いた詩とともに、その詩の思い出を語っているのだから、そうするのは自然にも受け取れるが、この「芸術(詩)」と「現実(地の文)」垣根のなさがナボコフそのものなのかもしれない。
 「芸術(詩)」と「現実(地の文)」を入れ換えるとわかりやすいかもしれない。
 「現実」と「芸術」の垣根のなさがナボコフである。あらゆる現実はことばにした瞬間から「現実」ではなく「芸術」になる。
 これはある意味で苦悩である。苦痛である。ナボコフはリアルな現実に触れることができないのだ。ことばが現実を芸術に変えてしまい、いつでも芸術を生きるしかないのである。
 つまり。
 いま引用した部分に則していえば、「滑稽な発音」。これは、どうなるだろう。詩だから「滑稽な発音」という表現は成り立つ。ふつうの暮らしではそれは「発音」ではない。「発音」というのは人間がある音を出すことである。「もの」が音を出すときは発音とは言わない。「滑稽な音」(滑稽なノイズ--の方がぴったりくるかもしれない)の音楽。けれども、ナボコフは、「発音」を地の文へ引きこんでしまう。間違いとは言わないが、一種の奇妙な感じを文体全体に漂わせてしまう。
 そういう他人とは違うことばの空間・ことばの時間を、ナボコフはただひとりで生きるのである。

 「発音」という訳語が、どれくらい正確な訳なのか私にはわからないが、その訳をとおして、そんなことを考えた。




ナボコフの一ダース (ちくま文庫)
ウラジミール ナボコフ
筑摩書房


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和田まさ子『わたしの好きな日』

2010-11-14 00:00:00 | 詩集
和田まさ子『わたしの好きな日』(思潮社、2010年10月25日発行)

 和田まさ子『わたしの好きな日』。これは待望の詩集である。何年か前に「現代詩手帖」の投稿欄(新人作品蘭)で和田まさ子の作品を読んだ記憶がある。「壺」と「金魚」。たいへんな傑作である。どこかに感想を書いたような気がするが、どこに書いたか忘れてしまった。どうして「現代詩手帖賞」を受賞しなかったのだろう。金井美恵子は2篇の詩で手帖賞を獲得しているのに。高岡淳四以来の詩人の登場だったのに。
 私は、その2篇以外を見落としている。投稿をつづけていたのかどうかもよくわからない。どこか他の場所で書いていたのかもしれない。私はあまり本を読まないので気がつかなかった。こうやって詩集になってみると、リアルタイムで和田まさ子の作品に接してこられなかったのが非常に悔しい。誰か、ほかの人は和田の作品に触れつづけていたのだと思うと、それだけでジェラシーを覚えてしまう。こんな天才詩人を誰が独占していたんだろう。
 また、「現代詩手帖」の年鑑アンケートに答えたあとで詩集に触れたのも悔しい。アンケートに答える前だったら、絶対に「今年の収穫」としてこの詩集をあげたのに……。

 こんな愚痴(?)をいくら書いてもしようがないので、その絶品「壺」について書こう。あ、しかし、この作品をほかの人に紹介するのは、いままで隠れていた(?)詩人だけに、なんだかとても惜しい。きっと和田を隠していた詩人たちもこんな気持ちだったんだろうなあ。
 さて、「壺」。

あいさつに行ったのに
先生は
いなかった

出てきた女性は
「先生はいま 壺におなりです」
というのだ
「昨日は 石におなりでした」
ははあ 壺か
「お会いしたいですね せっかくですから」

わたしは地味な益子焼の壺を想像したが
見せられたのは有田焼の壺であった
先生は楽しい気分なのだろう

先生は無口だった
やはり壺だから

わたしは近況を報告した
わたしは香港に行った
わたしはマンゴーが好きになった
わたしはポトスを育てている
わたしは
とつづけていいかけると
「それまで」
と壺がいった
聞いていたらしい

「模様がきれいですね」というと
「ホッホッ」と先生が笑った
わたしは壺の横にすわった
だんだん壺になっていくようだ
わたしもきれいな模様がほしいと思った

 和田の詩では「もの」が生きている。「もの」とは人間以外のもののことである。別のことばで言いなおすと、「人間」以外の「もの」がことばを発する。「いきる」とはことばを発することである。ことばを発して交渉することである。
 そして、ことばというのは「共通語」のことではない。自分自身の(もの自身の)ことばである。独自のことばである。それは「間違っている」。「もの」がしゃべるということ自体が間違っているのだから、しゃべられたことばが間違っていないはずがない。
 とはいいながら、ことばには間違っているも正しいもない。生きていればことばを発する--ただそれだけである。そして、ただそれだけのことを実に単純に、実におかしく、実に無意味に和田は書いてしまう。
 この軽さ。この速さ。軽さと速さのなかで無意味は意味を超越する。「もの」になってしまう。

 私は何を書いているか。わからないかもしれない。私は、わざと抽象的にわからないように書いているのだ。だって、悔しい。こんなおもしろい作品を誰かがずっーと隠していた。それがやっと出てきた。そのおもしろいものについて私が書いてしまうのは何だか惜しい。私だって和田の作品を隠しておきたい。でも、和田の作品を知ってももらいたい。矛盾した気持ちで私は分裂してしまう。
 だから、わざと、わからないように--私にだけわかるメモとして感想を書くのだ。

 ここに書かれている「壺」は何かの比喩ではない。比喩を超えてしまって、ほんとうに壺である。美しい壺を見たら黙っていることなどできない。おもしろい詩を読んだら黙っていることができないのに似ているかもしれない。そこで語ることは、何を語ってもけっきょく自分の「近況」である。ひとは自分しか語れないのである。(こうやって感想を書いている私にしたって、和田の詩の感想を書くようなふりをしながら、実は自分の近況--自分がいま考えていることを書いているだけである。)。
 語るというのはとても変なことで、だんだん逸脱していく。香港へ行った。マンゴーが好きになった。そこまでは、まあ、わかる。でも「ポトスを育てている」は?
 私は実は、最初これを「ポストを育てている」と読んだ。「ポトス」なんて見たことがないから、想像できなかったのだ。
 でも、「それまで」と壺が言ったので、あ、ポストじゃないのだ、と気がついた。「ポストを育てている」ならきっと壺はまだ話を聞いてくれたはずである。ポストをそだてるなんていうことはできない。嘘である。けれど、その嘘には、嘘をついているんだもん、という軽さがある。それが「ポトス」となると、違うなあ。「意味」になってしまう。それではナンセンスが無意味になる。(変な文章だね)。
 それでは、だめなのだ。「意味」では「もの」に対抗できない。
 「壺」が「わたし」のことばを制したのは、「ポトス」などといってしまうと、「わたし」が「もの」になって「壺」と正確に向き合えなくなるからである。「頭」になってしまってナンセンスが疾走しなくなるからである。それじゃあ、つまらないねえ。
 「ポトス」などと言ってしまうと「間違える」ということができなくなるからである。それでは生きている楽しみがない。喜びがない。

 なんでもいい。平気で間違えて、開き直る。ことばにする。そのときこそ、ひとは生きるのである。
 壺のそばにすわって「模様がきれいですね」と言って、壺の気取った笑いを聞きながら、自分自身が壺になっていく--こんなふうに生き方を間違えるなんて、なんて楽しいんだろう。
 私の家のどこかに壺がないかなあ。隣に座って、和田に負けずに壺になってしまいたいなあ、と思うのだ。

 「魚たちの思い出」という作品。魚屋の魚と交信(ことばをかわすことを交信というのだと思う)できなくなった「わたし」が、かつて魚と交信していたときのことを思い出している。

海の揺らぎに
身をまかせているときの心地よさ
捕獲されたときの苦しみ
切り身にされたときの
バラバラになる意識
店頭で腐りつつあるときの身もだえ
わたしは魚たちと語り合ったことを覚えている
魚たちはてらてらと輝き
日の光におぼれて
わたしはほれぼれと魚たちに見とれた
よろこびは記憶しているもののなかにある

 あ、とてもいいなあ。和田はほんとうは魚だったのかもしれない。きっと現代詩手帖の投稿欄から姿を隠していたときは魚屋の店頭に並んでいたのだ。切り身にされて、腐って、身もだえしていたんだ、ひとりだけ、誰も知らない体験をしていたんだ。いいなあ。うらやましいなあ。魚になって腐ってみたいよ、と思わずにはいられない。
 魚になって、「わたし」を捨てて(なくして?)、「記憶」ということばを和田はつかっているが、きっと「わたし」でも「魚」でもない「未分化」の「もの」になって、そこから、あらゆる「心地」をつかみだしてくる。そして、ことばにする。もう一度生まれ、もう一度生きるのだ。それもおおげさな決意なんかもたつず、ただありふれた退屈をぼんやりやりすごすように。
 こんなことをできるのは天才だけである。

 「金魚」も大好きな作品だが、書いているとほんとうに悔しくて悔しくて悔しくてたまらなくなるので、書かない。好きで好きで好きで、好きと書いたらあとは何も書きたくなくなるので、もう書かない。

 しかし、ほんとうに誰なんだ。和田まさ子を隠していたのは。一生恨んでやるぞ。

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塚越祐佳『越境あたまゲキジョウ』

2010-11-14 00:00:00 | 詩集
塚越祐佳『越境あたまゲキジョウ』(思潮社、2010年09月30日発行)

 塚越祐佳『越境あたまゲキジョウ』には独特の「間」がある。「花」。

坂の上と下の間はつながってなくて
坂がおりるのか
わたしたちがのぼるのか

 この「間」である。
 「坂の上と下の間はつながってなくて」という1行自体が、とても独特である。坂がある。坂には上と下がある。上と下とを結んだ「距離」が「間」ということになる。それがつながっていない、ということはどういうことだろう。「間」だけがどこかにあるのか。そんなことはありえない。「間」というのはある一点と別の一点の「距離」に等しいからである。そうすると、その「間」がつながっていないというのは、「間」が存在しないということである。つまり、坂の上と下は「一点」に凝縮してしまう。「一点」のなかにそれでも上下があるとすれば、それは何か。
 エレベーターである。
 エレベーターは「坂」を超越した「上下」をのぼりおりする。水平方向の「距離」ではなく垂直方向の「距離」。塚越は「花」では、水平に動くものを垂直に動かして、その視点で世界を見つめなおしていることになる。
 「わたる」はどうだろう。

隠れていた距離が
かたつむりのように
ふやけたかかとを
這っていく

 「距離」と「間」はどこかで重複する「もの」である。隠れていた距離とは、意識されなかった距離(間)ということになるだろう。ここでおもしろいのは、その隠れていた「距離」をかたつむりが這っていくのではなく、「距離」が這っていくことである。主語は「距離」なのだ。--この構造は「花」に通じる。「わたしたち」が動くのではない。「坂」が動くのだ。「わたしたち」が動くのではなく、「坂」そのものがエレベーターのように動く。そして、「わたしたち」がもし動かないのだと仮定したとき、動いているのはエレベーターであるともいえるし、逆にエレベーターは動いていなくて、その他の世界が上下に動いているととらえることもできる。
 視点はどのようにも相対化できる。そして、そういう相対化を考えるとき、そこに「間」(距離)をもちだしてくるのが塚越の「肉体」である。「思想」の基本である。「肉体」を相対化の中心にもってくると、世界は突然ぐらつく。塚越のことばを借りていえば「ふやける」ということになるだろうか。つまり、あいまいになる。強固なものがなくなる。なぜか。「肉体」はそもそも動くことを前提としいてる。「肉体」が生きるということは、細胞が次々に生まれ、次々に死んでいくということである。「肉体」はじっとしているときでさえ、動いている。「起点」そのものが動いているのである。そこでは科学的な「間(距離)」は存在しながら同時に存在しない。
 「それはそれは」には、次の行がある。

走り去っていく車
ネオン

いつだって走り去っていき
わたしはのこされ
同時にたどりついている

 「肉体」はいつでも矛盾するのである。動いているから相対化すると矛盾を平気で抱え込んでしまうのである。矛盾を平気で抱え込みながら、その矛盾をあるときは感情にしてしまうのである。(俗な表現でいえば、悪いのはおれの方であり、女は少しも悪くはない。あるいは逆に悪いのは女の方で、おれは悪くはない、という両方の見方を当たり前のこととして受け入れてしまうの「間」が「肉体」なのである。)

 少し先走りすぎたかもしれない。「間」にもどる。「ウルウ」という作品の書き出し。

裏鳥
見ていた
見ていない
の間に雪のような紙ふぶきが散り
膜のように閉じた 背中
誰かの
たぶんわたしの

 「裏鳥」って何? 「裏取引」? まあ、なんでもいいのだけれど、「見ていた/見ていない/の間」はおもしろい。「見ていた」にしろ、「肉体」は「見ていない」と「主張」できるのである。「見ていた」と「見ていない」の「間」は存在しないのに、それを存在させることもできるのである。
 「膜」は閉じたのか、それとも「膜」は開いたまま「背中」を向けただけなのか。「背中」を向けるということは、見ていながら見ないふりをすることであり、それは見ないことによってさらに見ることでもある。
 こういう状態を言い換えると、

シャッターの内側が外側なのか
シャッターの外側が内側なのか
青年にはもうわからない

 ということになる。「間」は凝縮し、反転するのである。反転する「間」を塚越は書いているのだ。反転した瞬間、「間」が成り立たないので、世界はぐらつく。ふやける。何かなんだかわからなくなる。それでも、「肉体」が存在するとき、同時にそこに存在している。
 だからこそ、塚越は、「間」を反転させつづける。そうすることで世界をとらえなおす。このときの「間」の反転を、塚越は「越境」と呼んでいるのかもしれない。

 「見た」ものだけを「肉体」は「見ていない」といえるのである。つまり、否定できるのである。「見ていない」ものなど「肉体」にとっては存在しない。否定しようにも、「見ていない」ものは存在しない、つまり「肉体」との「間」をもっていないから、そこでは「間」の反転も存在しえない。
 「見た」ものだけを「見ていない」と言い張って、その瞬間に「肉体」は動くのである。「間」を動かし、「見ていない」と主張することで、いま、ここにないものを「見る」のである。出現させるのである。
 「破片」の冒頭。

遠く水面にのしかかる夜に
昼を見た
湿気でにじむとがったはすの花のような
(いや見ていない)

 「見ていない」と主張しない限り、「夜に/昼を見」るということが「肉体」にとって存在しない。「見ていない」ということで「見た」ということが刻印されるのである。「見た」だけでは「間」が存在せず、「見た」ことは忘れ去られてしまう何かになってしまう。
 「見た」を「見ていない」とことばにするとき、そこに「間」が出現し、その「間」が「肉体」に刻まれる。いや「間」をつなぐものとして「肉体」が出現するといえばいいのかもしれない。「見た」「見ていない」は「坂」の上と下である。そして「間」が「肉体」であり、「間」を反転しつづけるとき、世界は自在に相対化する。

明るい方角が闇だ

 矛盾が、矛盾ではなく「真実」になる。
 この「真実」は常識からは「誤謬」である。だからこそ、「見た」ものを「見ていない」と言ったとき、それは「見た」と逆に人に知らせるのと同じ意味をもつ。「見ていない」ということばの「間」、そのなかで「意味」が反転していることを人は感知してしまうのである。
 「誤謬」としての「真実」は、人間の祈りようなものかもしれない。

 この「間」の反転は、逆の形であらわれたときの方が印象が強いかもしれない。「石段、橋」には多くの人が経験する「間の反転」が書かれている。あ、その気持ち、とてもよくわかる、という感じの行がある。

石段をあがるたび
頂上の神社は遠のき

 「物理的(科学的?)」にはこういうことはありえない。けれど、「肉体」はそれを実感する。

捨てられた旅館の向こう側
には橋があって
渡りたいのに
おんなはビョーキで
鹿のようにビョーキで
でも橋は来てくれなくて

 「橋」がくるなんてことはありえない。けれど来てほしいと思うことがある。そうすればどんなに楽だろう。「肉体」は平気で矛盾というか、無理なことを夢見るのである。しかし、その無理なこと、矛盾したことの中には、「肉体」が知っている「真実」がある。これが「あたま」とぶつかったとき、そこにことばの「ゲキジョウ(劇場)」が展開する、それが詩である--と塚越はいいたいのだろう。



雲がスクランブルエッグに見えた日
塚越 祐佳
思潮社

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ナボコフ『賜物』(11)

2010-11-13 12:08:23 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(11)

 私はロシア語を知らない。また『賜物』を日本語以外のどの言語でも読んでいないのだが18ページから19ページにかけての「訳文」がどうにも納得ができない。「「震える」という形容があまり気に入らないのは、なぜだろう。」という文章からナボコフのことばは「逸脱」をはじめる。
 「逸脱」というのは一種の暴走である。スピードが出すぎて、抑制がきかない。そのため、文体が危なっかしくなり、意味がしばしば混乱するような印象を与える--というのはいいのだが、訳文には肝心のスピード感がない。「逸脱」が「逸脱」に、「暴走」が「暴走」になっていない。逆に停滞している。

それはつまり、逆のほうから無に入っていくということだ。つまり、幼児のぼんやりした状態はぼくにはいつも、長い病気のあとのゆっくりとした恢復、根源的な非存在から遠ざかることのように思えるのだが、この闇を味わい、その教訓を未来の闇に入っていくのに役立てるために記憶を極限まで張りつめるとき、それは非存在に近づいていくことになる。ところが、自分の生涯を逆立ちさせ、誕生が詩になるようにしてみても、この逆のほうからの死の間際に、百歳の老人でさえも本来の詩を目の前にしたときに味わうという、あの極度の恐怖に相応するようなものは何も見あたらないのだ。その、さきほど触れた影たちのほかには何も。

 記憶の根源--一番最初の記憶として「震える影」がある。その記憶の方へ記憶の方へとさかのぼっていく。それは「誕生」をつきぬけて「誕生以前」(未生、つまり非存在)を感じさせる。その誕生以前の闇、未生の闇を存分に味わい、それをやがてやってくる死へと結びつけてみようとする。そのとき、誕生以前の闇、未生の闇は、老人が感じる死の恐怖とは合致しない。ただし、あの「震える影」以外は。--ナボコフが書いていること(訳文)をさらに私のことばに「翻訳」しなおせば、そういう具合になるのだが……。
 うーん。
 ナボコフが感じている愉悦(ナボコフの書いている主人公が感じている愉悦)、その愉悦がことばを逸脱させているという感じが、訳文からは伝わってこない。(私の「誤訳・翻訳」からは、もちろん、そんなものは浮かび上がるはずはないのだけれど。)
 だいたい誕生以前の闇、未生の闇は、生を経験したあとの闇(死)とはまったく性質が違うから、そんなものは「恐怖」の対象にはならない。ならないはずだけれど、ナボコフの主人公は、なぜが「恐怖」につながるものを感じている。幼いときに見た「震える影」。それは誕生以前の闇、未生の闇の何かしら「恐怖」に通じるものと「共振」しているのだ。
 そして、思うのだが、この小説の訳者(沼野充義)は、ナボコフのことばに「共振」していないのではないのか、という印象が残る。「震える(影)」と書いただけで、いっしょに「震える」ものをもたないまま、ことばを追っている。「論理」として訳出している。そういう感じがする。
 きょう引用した部分では「つまり」のつかい方がひっかかってしようがない。「……のに」「だからこそ……なのだ」「つまり……」。そういうことばが出てくるとき、ことばのリズムが乱れる。「論理」を訳出しようとするとリズムが乱れる。ナボコフのことばは、そういう一種の論理を補助することばを借りて暴走しているはずなのに、その暴走、逸脱のスピードが訳文ではとたんに失速する。
 きのう読んだかっこのなかに入っていた人形劇のくだりのように、「論理」の仕組みが日本語とロシア語とでは違うのだろう。ロシア語の持続力を(粘着力のある論理構造を)、その持続するときの出発点から順に持続させていくために、論理がねじれ、重くなるのだろう。
 「……のに」「だからこそ……なのだ」「つまり……」は、ある意味では、「結論」を含んでいる。その含んでいるはずの「結論」までの構造を利用して、ナボコフのことばは暴走する。その暴走はどんなに暴走しても構造から「逸脱」しえない--そういう「安心感」がナボコフ自身にあるのかもしれない。
 けれども、訳文には、その「安心感」がなく、ただ「構造」が重しのようにことばを苦しめている。
 直感的に、私は、そういうものを感じる。
 訳文への不平を書くことが目的ではないし、私はロシア語の原文自体を読んでもいないのだから、これは次のように言い換えるべきなのだろう。

 ナボコフは、ロシア語特有の論理的構文を利用して、そのなかでことばを暴走させる。論理的構文は非常に強固なので、ことばはどんなに暴走しようとも、論理から逸脱しない。そういう安心感(母国語の暗黙の安心感)が、ナボコフをさらに暴走させる。それは、たとえば、子供時代の思い出を語る部分に「非存在」というよう堅苦しいことばをもってくるところにもあらわれている。この哲学的なことばは、子供時代の根源的な思い出、影をきらめかせる逆説的な光--つまり絶対的な闇のような効果を原文(ロシア語)では発揮しているはずだ、と私は直感として感じる。
 ナボコフの魔術的文体は、ロシア語に根源的な論理構造(長い長い文章を平然と成立させる構造)にある。その構造はどんな言語をも強い粘着力でしばりつける。子供時代の「震える(影)」も「非存在」ものみこみ、それを電気でいえば「並列」ではなく「直列」の形でパワーアップさせ、暴走させるのだ。

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ヨシフ・ブロツキイ「秋、鷹の声」

2010-11-13 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
ヨシフ・ブロツキイ「秋、鷹の声」(山本楡美子訳)(「長帽子」72、2010年11月10日発行)

 ヨシフ・ブロツキイ「秋、鷹の声」は、ことばの振幅が大きい詩である。

銀灰色、朱色、琥珀色、茶色の混じったコネチカット渓谷、
北西風に乗って、鷹は
渓谷上空を飛ぶ。遥か下方には、
あれた農家の庭、ニワトリがうずくまったり、
歩いたりしているだろう。シマリスも
ヒースの陰にいるのだろう。

 このことばの振幅の大きさは、詩人の眼が複数だからである。最初の1行はだれの眼か。人間の眼か、鷹の眼か。どちらともとれる。しかし、「渓谷上空を飛ぶ。」は詩人以外の眼ではありえない。鷹は渓谷の上空を飛んでいる姿を見ることができないからである。そして、このあとがおもしろいのだ。鷹を見上げた詩人の眼がそのまま鷹に乗り移って、そこから下方を(地上を)見下ろす。鷹そのものの眼ではないから、その見たもの(見るもの)には想像が入る。「いるだろう」という推量が入る。しかし、それは推量なのだけれど、なぜか推量を超越した事実のように感じられる。そこから目撃されるものが人間の関心のあるものではなく、鷹が関心をもっているであろう「生き物」に限定されているからだ。
 ここでは地上から上空を見あげる人間の眼と、上空から見下ろす鷹の眼が交錯している。地上-上空、人間-鷹と、ふたつの領域を素早く往復する眼がある。その眼の動きの距離の遠さ、そして眼が見るものの絶対性がことばの振幅を自然に大きくしているのである。

いま彼は高く気流に乗る。
眼下に見るのは--峨峨たる岩山。
険しい気流、鋼鉄製でありながら生きている骨の、
銀色の川、

 「鋼鉄製の」という比喩に私はとても驚いた。この行を読んだ瞬間に、あ、この詩についての感想を書きたい、と実は思ったのである。
 険しい渓谷を流れる川、その銀色の光を見て、それを「鋼鉄製」の「骨」と呼んでいるのだが、ここには不思議な視力がある。1連目、鷹に乗り移った詩人の眼はニワトリ、シマリスといった獲物を見ていた。それはあくまで鷹の眼である。(人間が想像する鷹の世界である。)けれど、鷹には「鋼鉄」は意味を持たない。つまり鷹に川が銀色に輝いたとしても「鋼鉄」に見えるはずがない。それを「鋼鉄」と感じるのは、いろいろな鋼鉄の状態を知っていて、銀色に特別な思いを抱いている人間だけである。真新しい鋼鉄。剥き出しの鋼鉄。それは、人間にとってはニワトリやシマリスのように、生(レア)な、血の滴る獲物のようなものである。
 大きな振幅を往復するあいだに、人間の眼と鷹の眼が融合して、その融合したまま、未分化の眼が世界を描写しているのである。

 ある存在が未分化であるのではなく、眼が未分化である。未分化の眼を通って世界が瞬間瞬間に噴出してくる。それは、いわば制御されないエネルギーの爆発である。だから、ことばの振幅はさらにさらにさらに大きくなっていくのである。

肉体と、羽毛と、羽根と、翼に育まれた心臓は、
止むことなく、はげしく打つ。
情熱と感覚で勢いをつけて。
鷹は秋の空を切り分け、
分け入る。その速さで、
茶色い小片になって、秋の空を広げ、

ようやく一点を目にとめ、
遥か上空ではなく、丈高いマツの木を
めざす。こうして、
空を見上げるコドモの無邪気な眼差しがあるのだ。
車を降りて、仰ぎ見る恋人たちがいるのだ、
ポーチに立つ女性がいるのだ。

 この「肉体感覚」の混乱(融合)の激しさ。そして「視線」の混乱の激しさ。いったい、この風景を描写しているのは誰なのだ。詩人--といってしまえば簡単だが、いったい詩人はどこにいるのか。
 詩人は、あるときは子供で、あるときは恋人たち(複数)で、あるときは女性である。その眼で鷹を見上げ、同時に鷹は見られていることを意識している。
 激しいことばの振幅は、その激しさのあまり、振幅の軌跡を描くことができない。振幅がありすぎて、振幅がない状態と同じになってしまう。
 この混乱というか、未分化は、詩が展開するにしたがって濃密になる。それはまるで「混沌(カオス)としての無」そのものである。詩人のことばを潜り抜けると、瞬間的な化学反応が起きて、そこから出現してこないものはない。あらゆるものが純粋な形、生の形であふれてくる。

鷹は天頂へ向かう。青い蒼穹へ。
双眼鏡で見れば、点滅する点、
真珠のようだ。
空で、使い慣れた食器が
割れた音がして、
何かがゆっくりと回転しながら落ちてくる。

しかし、その破片が、私たちの手のひらに落ちてきても、
痛くはない、手に触れて解けるだけだ。
もう一度きらきらと輝くのを見ることができる、
巻き毛を、穴飾りを、糸を、
虹のような、多色の、ぼやけたコンマ、楕円、螺旋、
大麦の穂、同心円を--

かつて一度は羽根が所有した美しい図柄、
地図、飛翔しながら緑の坂に積っていく白い片々。
子供たちは、晴れ晴れと装い、
ドアから走り出て、白い片々を捕まえるために、
大きな声で叫ぶ。
「冬が来た!」

 秋から冬へ--季節の時間さえも融合し、新しく生まれ変わるのだ。鷹が雪をつれてきたのではない。詩人の、世界をいったん融合させ、そこからもう一度存在のすべてを噴出させる眼の力が季節をさえ変えてしまうのだ。
 それにしても。
 「大きな声で叫ぶ。」この1行の激しい激しい美しさ。
 詩人は眼で何かを見るだけではない。それを「声」にする。ことばにする。詩人がことばを発するとき、そこから世界が生まれるのだ。
 「冬が来た!」
 詩人のことばのなかから、それはやって来る。いったん、遠く遠く遠くへ行って、「冬が来た!」ということばに呼び寄せられて、ほら、そこまで。

 あ、日本でも、もうすぐ初雪の季節だ。





大理石
ヨシフ ブロツキー
白水社

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誰も書かなかった西脇順三郎(153 )

2010-11-12 22:14:31 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(153 )

 「失われたとき」のつづき。

 西脇のことばは人を(読者を--私を)騙す。

盆地の山々は
もう失われた庭の苦悩だ
失う希望もない
失う空間も時間もない
永遠のうら側を越えて
違つた太陽系の海へ
洗礼に行くのだ
菖蒲が咲いて水銀に
むらさきの影をなげている
牛はみなよい記憶力がある
四重の未来がもう過去になつた
三角形の一辺は他の二辺より大きく
見える季節を祝うのだ

 「三角形の一辺は他の二辺より大きく」ということは、ありえない。数学の事実に反する。そんなふうに「見える」ということは何かが間違っていて、この詩の「意味」としては、そういう「間違い」を祝うということが書かれているのだが……。
 実際に読んでいて、その「意味」を意識するだろうか。
 たとえば、「菖蒲が咲いて水銀に/むらさきの影をなげている」というのは、紫色の菖蒲が水面に映っているという美しい光景を描いている。あ、美しいなあと感じる。風景が美しいと同時に、その風景を「水銀」(の水面)ということばとともに描き出すことばの運動も美しいと感じる。--それを「真実」と感じて、美しいと感じるのだ。
 次の「牛はみなよい記憶力がある/四重の未来がもう過去になつた」というのは牛に胃袋が四つあって、反芻しながら咀嚼しているということを踏まえているのだな、あ、牛の食べたものは角四つの胃袋のなかを、過去へいったり未来へいったりするように、動き回るのだな--おもしろい表現だなあ。そんなふうに未来や過去を動き回るということのなかにも、人間の意識の「真実」があるなあ、とも感じる。
 西脇のことばの書いている「意味」に、知らず知らず共感している。そんな「共感」のあとに、「三角形の一辺は他の二辺より大きく/見える」。まさか、嘘が書いてあると思いもしない。だいたい、「三角形の一辺は他の二辺より……」という定義は常識的過ぎて「意味」として意識しない。ことばが、その「リズム」が肉体になってしまっている。いちいち、その「意味」を歌か疑うようなことはしない。
 そして、騙される。
 西脇は、読者を(私を)騙すのに、とても有効にリズムを使っている。
 西脇のことばを絵画的ではなく「音楽的」と感じるのは、こういうことろがあるからだ。リズムは「意味」を忘れさせる。「意味」を検討することを忘れさせ、一気にことばを動かしていく。音が「肉体」になじんでしまい、音そのものとして動いていくのだ。

永遠はかなしい煙突のように
リッチモンドのキューのパゴーダ
のようにポプラの樹のように
向うの小山の影より高く
立つている--
舟をこぐ男の腰の悲しい
まがりに
薄明のバラの香りに
渡しをまつ男のほそいズボン
のうす明りに
塔の幻影がラセンのように
くねくねと水にうつる時に
ハンの樹の下側がたにしのように
うつる魔術家の帽子に
牛の乳房が写る水に
あひるの黄色いくらばしのうら
がうつるこのエナメルのなめらかな

 「のように」「……に」の繰り返し。さらには「うつる」という音の繰り返し。そのリズムがすべての「もの」を飲み込んで動いている。なぜ、そんな動きに? そこにある「意味」は? ああ、そんなものなどないのだ。「意味」を捨て去って、つまりナンセンスにリズムが駆け抜ける。その無意味の軽快が詩なのだ。




ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
小沢書店

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ナボコフ『賜物』(10)

2010-11-12 11:05:06 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(10)

  ところがそのときボールはひとりで
  震える闇の中に飛び出して
  部屋を横切り、まっしぐら
  難攻不落の長椅子の下に。

 「震える」という形容があまり気に入らないのは、なぜだろう。
                                 (18ページ)

 私はこの部分に震えてしまう。深い深い快感に酔ってしまう。自分の書いたことばが「気に入らない」。そう感じている作家を想像するとき、何かしら言い知れぬ快感が襲ってくる。あ、そうなのだ、どんな作家も自分で書きながら、書いたことばが気に入らないということがあるのだ。そう思うとき、不思議な「共感」のようなものが満ちてくるのだ。ナボコフは、そしてそう書いたあと「なぜだろう」とことばを追加している。追い打ちをかけている。これが、また、私にはうれしい。気に入らないこと--その原因をさぐっていく。考える。その逸脱が興奮を誘う。
 なぜか。
 作家が自分の書いたことばが気に入らないなら、それはさっさと消してしまうか書き直せばいいだけの話である。ところがナボコフはそれを消さない(消させない)、書き直さない(書き直させない)。そして、ストーリー(?)とは無関係に、「考え」の方にことばを逸脱させていく。そのとき、ことばにできることは、もしかしたら「逸脱する」ということではないか、という思いが私を襲ってくる。
 私は「逸脱」が好きなのだ。ことばが本来追いかけなければならない何か(テーマ)を知っていながら、そこからどうしても逸脱してしまう。その逸脱の中にこそ、ほんとうに書きたい何かがあるように感じるのだ。目的をもって、テーマに向かっていくことばは、ある意味では、そのテーマに縛られている。テーマに従属している。そのテーマから逸脱した瞬間にこそ、隠れていた無意識が動きだす。そう感じる。あ、いま、無意識が動きだした--その不思議な動きに、なぜか引きこまれてしまうのだ。

 けれど。
 次の部分を読むと、私は興醒めする。翻訳の問題なのだが、「日本語」になっていない。

 それともここでは突然、登場人物たちのサイズに目がすっかり慣れてしまっているというのに(だからこそ人形劇が終わったとき観客が最初に味わうのは、「自分はなんて大きくなってしまったんだろう!」という感覚なのだ)、一瞬その中に人形遣いの巨人のような手がぬっと現れた、ということなのだろうか。

 かっこのなかのことばは、説明文を挿入したものだろう。そういう部分は省略しても文章が通じなくてはいけないはずである。ところが、それを省略してみると、なんのことかわからなくなる。

それともここでは突然、登場人物たちのサイズに目がすっかり慣れてしまっているというのに、一瞬その中に人形遣いの巨人のような手がぬっと現れた、ということなのだろうか。

 突然「人形遣い」ということばが出てきて、比喩が比喩として成立しなくなる。ロシア語の原文を読んでいないのにこういう批判をするのは変かもしれないが、訳がおかしいのだ。訳し方が変なのだ。
 前後の文から考えると……。

 「震える」という形容詞があまり気に入らないのは、なぜだろう。「震える」ということばが、人形劇を見ていたとき、ふいに人形を動かしている手を見てしまったような感じ、人形を支配している手を見てしまったときに感じる違和感に通じるものをもっているからだ。「震える」ということばだけが、ボタンやボール(詩のなかの登場人物--いわばそれは人形劇の登場人物)の「大きさ」ではなく、それを動かしている「人間」(人形遣い)の手の大きさに似ているからだ。人形劇が終わったとき観客は「自分はなんて大きくなってしまったんだろう!」と最初に感じるが、その、自分が大きくなってしまったという感じに通じるものが「震える」ということばのなかにあるからだ、ということをナボコフは書こうとしている。
 ことばのもっていることば自身のサイズ--それについて書こうとしている。
 「震える」は「震える」なのだが、それはうまくいえない「震える」なのだ。たのことばとバランスを欠いている「震える」なのだ。いまは「震える」としかいえないけれど、そしてそれは「震える」には違いないのだけれど、もっと別な形で、書かれなければならない「震える」なのだ。人形劇の人形のサイズにして書かなければならないことばなのである。
 わかっているのに、そう書けないもどかしさ。
 それをナボコフはここで書こうとしている。
 そして、この感覚を訳文は捕らえきっているとは思えないのだけれど、それはたぶん「だからこそ……なのだ」という構文と、その文章の挿入のしかたに問題があるのだと思う。特に「だからこそ……なのだ」という構文に問題があるのだと思う。それはきのう読んだ部分の「陣取っていたのに」の「……のに」という構文とも通い合う。
 ナボコフの書いている「理由(原因?)」というか、ものごとの因果関係を説明することばは、きっと「日本語」に合わないのだ。たしかに文法的には、そこにつかわれていることばは「理由」や「原因」を導くことばなのだろうけれど、その「理由」や「原因」のとらえ方は常識とは違うのだ。
 人間には人間の因果関係がある。ものにはものの因果関係がある。人形劇には人形劇の因果関係がある。ものの因果関係に人間の因果関係をまぜてしまってはだめなのだ。人形劇の運動(因果関係)に人間の運動(因果関係--操作している手順)をまぜてはいけないのだ。そういうものが混じったとき、ナボコフは「気に入らない」と感じているのに、訳文は、それを混ぜてしまっている。
 私には、そう感じられる。
 だから、せっかくの、美しい美しい美しい文章、

「震える」という形容があまり気に入らないのは、なぜだろう。

 が、まったく目立たなくなる。段落のはじめに書かれているのに、存在感をなくしてしまう。--ああ、悔しいなあ、と感じるのだ。もっと違う訳があるはずなのに、ナボコフが日本人ならもっと違う訳になるはずなのに、と思ってしまうのだ。



ニコライ・ゴーゴリ (平凡社ライブラリー)
ウラジーミル ナボコフ
平凡社
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