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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉本徹「花/エイデュリア」、海埜今日子「《見えない香水》」

2010-11-06 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
杉本徹「花/エイデュリア」、海埜今日子「《見えない香水》」(「エウメニデスⅡ」38、2010年10月31日発行)

 杉本徹「花/エイデュリア」は郷愁を呼び起こす繊細さがある。知らないことなのに、知っていることのような感じを呼び覚ます。

歩道橋から真紅の花を見た。もう、西への遭難について(あなたは)何ひとつ語ろうとしないのだった。襟を片方だけ立てると、空は謎のまま、どの方位にも均衡を保ち、遠い埋立地に雨という異語を降らせるのだった。

 (あなた)とかっこでくくられた主語が、「わたし」との距離を浮かび上がらせる。たとえいっしょにいたとしても遠い。この離れてあることが郷愁なのかもしれない。そして、(あなた)とかっこでくくるという意識の中に繊細さがあるのかもしれない。かっこでくくられていようといまいと、あなたであることにかわりがない。そして、そのあなたは声に出してしまえばかっこを失う。繊細さの根拠が半分消えてしまう。--あ、杉本は「書く」ということ、「書きことば」のなかで繊細さを生き延びらせるのである。
 書かれることで浮かび上がる繊細な「距離」。杉本は、それをていねいに積み重ねる。「歩道橋」は車道から浮いている。中空にある。歩道橋と車道とのあいだに「距離」がある。「西へ」の「へ」もあいまいな「距離」を指し示す。「距離」は明示されないのだ。ただ方向として「距離」が浮かび上がる。その不安定さは「歩道橋」の不安定さとつながっている。「歩道橋」から呼び覚まされたものともいえる。「片方」もまたあいまいな方向の一種である。もうひとつの「片方」とは違う、ただそれだけのことによって「片方」であることが明示される。その中途半端な感じは「どの方位」「均衡」ということばのなかでさらにあいまいになる。「距離」が均衡であるとき、それは「どこ(どの方位)」ともつながらない。「どこ」とも均衡につながるがゆえに、どこともつながらない。ここで「距離」は「あなた」のようにかっこに入れられ(距離)になってしまう。そしてかっこに入れられた(距離)には「遠い」という漠然とした感じがとてもよく似合う。「遠い」「埋立地」(それは何も存在しない漠然とした土地である)。その「遠さ」が書くことで「異語」というさらに遠いものを呼び寄せる。だが、ほんとうに遠い? これはわからない。ことばは書かれることで、いま、ここにある。そのことばがここに「ある」という「近さ」がことばの「意味」の「遠さ」と不思議な「均衡」をとるのだ。       杉本は「書く」ということをとおして不思議な「距離」を描き出し、その「距離」ゆえの郷愁を浮かび上がらせる。
 --その繊細さに触れると、一か所わからない部分がある。「空は謎のまま」。ことばが粗いように感じる。あいまいな「距離」、その「空白感」、宙ぶらりんの感じが「空間」そのものである「空」をよびよせるのかも知れないが、それが「謎」であるかぎり、杉本の「肉体」とは無関係なのではないだろうか。どうも「肉体」になじんでいないことばという印象が残る。

くずれるまで眼を閉じていたい、地球も、麺麭(パン)も、……いいえ聴いていたい

 「眼を閉じていたい」は視覚の拒絶である。「聴いていたい」は聴覚の覚醒である。視覚と聴覚が、いま、杉本の「肉体」のなかで交錯し、ひとつになる。
 同じように、(あなた)の「距離」で「歩道橋」「西」「襟の片方」「どの方位」「均衡」「雨」「異語」が交錯し、出会い、「ひとつ」になる。「空」はそこには不思議な感じで入っていけない。「謎のまま」ということばがきっと邪魔しているのだ。
 杉本には杉本の、「謎のまま」ということばを書いた理由があるのだろうけれど、私にはその「謎のまま」だけが、どうにも違和感があってしっくりこない。私の「肉体」になじまない、ということなのだが、そのことをなぜか杉本の「肉体」にことばがなじんでいないからではないか--と、私はいわば責任転嫁するのである。

花を縛る黒いリボンが、ゆるやかに風景に垂れていって、その駒送りの端々にわたしの、いつか散り敷いた雨滴の繭の残像を、かさねあわせる。それ、……それらの点の果てのなさに、ひとひらの、と呼びかけるにはあまりに残酷過ぎる。斜光とともに歌が、降りてゆく、やがて声なき声を巻き戻すために日蔭の星は黙約のように眠るのだと、階段で知る。

 ことばを書く--それは、ことばを「かさねあわせる」ことに通じる。かさねあわせるのだけれど、そこには「距離」が残る。この「距離」を「肉体」に取り戻すのが杉本の詩であると私は思う。
 そして、その運動が「郷愁」に満ちて、とても静かであるのは、そういうことばの「かさねあわせ」が「知る」ことだからである。
 この文の冒頭に「知らないことなのに、知っていることのような感じを呼び覚ます。」と書いたが、あ、そうなのか、杉本は常に「知る」ことへ向けてことばを書いていて、その「知る」ということの欲望と悲しみがことばのなかに見え隠れするので、私は無意識の内に「知る」ということばを書いたのかもしれない。

 「知る」というのは不思議なことがらだ。「知る」というとき、「わたし」と「対象」のあいだには、明確な「距離」がある。その「距離」を測れる「定規」(単位)がある。ある一定の「単位(定規)」で「対象」を描写し終わったとき(その全体を測定し終わったとき)、それが「知る」ということになるのだと思う。「知る」ということが、そういう「定規」の積み重ねでつくりだされる「距離」の総数によって成り立つものだとすると、あ、そこにはやはり郷愁があるなあ。入り込む余地があるなあ。描写が正確になればなるほど、それは「わたし」とは「定規(単位)」は分離していく。対象は「定規(単位)」の連続性(距離)のなかで完結してしまい、「わたし」がそこに入り込む余地はなくなる。「わたし」が入り込めば、それは不正確な「距離」の積み重ねになってしまう。
 「知る」とは一方で「分離」なのだ。
 「あなた」が(あなた)とかっこに入った瞬間--そのときから、「わたし」は「あなた」を「知っている」。つまり、「わたし」の測定基準のなかで完結している。
 杉本が書いているのは「知の悲しみ」(知の抒情、知の郷愁)である。



 海埜今日子「《見えない香水》」には「知(知る)」とは違うものが生きている。

どこかで香水壜がなりひびいていた
わたしたちはがったいし
たゆたうかおりをひらいたのだ
なんというまなざし
なんてこえにだしてよかったの?

ふるいしぶきをあるひうけとり
しずんだ かれんな はなのように
じゅくじゅくとはっこうし
つまり れんきんじゅつさ
ひらいたみみに
ほとばしるぜっちょうです

 「かおり」「まなざし」「こえ」「みみ」。それは「肉体」によって「ひとつ」になる。「ひとつ」であるけれど、それは「知」ではない。「ぜっちょう」ということばが象徴的だが、それは「にくたい」を燃焼させてしまうなにかである。「知」のように結晶しない。「ぜっちょう」のなかで崩壊するのだ。

しぶきはきっとみえなくなる
わたしにかわっていったようにね
ぶすぶすと もえるように のまれてゆく
ざんこくなほどぜっきょうです
もっとそばにいればよかった
まさぐりあっては ひとりをみあげる
だれもが香水壜をほとばしっていた
としたらもっとたいせつになれるだろう
だからなんどもつむるんだ
うるんだめのおくがひからびていた
くちはべつのことにつかうんです

 香水の香りだけではなく、ありゆるものが「わたしにかわっていった」--という「肉体」を体験した後、あるいは体験することで「肉体」は「ぜっちょう」に達し、「ぜっきょう」しながら「肉体」を失い、もういちど「肉体」にもどる。たとえば「うるんだめ」でありながら「おくがひからびていた(め)」に。そして「くち」もいままでとは違うことのためにつかう、つかわなければならない。

どんなことばがまぶたをふるえる?

 ありえない「文法」、ありえない表現が美しく輝くのは、こういう「肉体」の崩壊と誕生の同時発生のあとである。

たにんのにおいに はなしがしたい

 こんな欲望が切実にせまってくるのは、やはり「肉体」の崩壊と誕生の同時発生のあとである。あるいは、その瞬間である。
 ここには「知」はない。
 ほら、「学校文法」という「定規」では、この2行の海埜のことばは説明できないでしょ? 「意味」にならないでしょ? 杉本のことばは、どれが主語、どれが述語、どれが目的語といえるけれど、海埜のことばにはいえない。「知」以前、「未分化」のことばのうごめきが海埜の詩である。





ステーション・エデン
杉本 徹
思潮社
詩集 セボネキコウ
海埜 今日子
砂子屋書房

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ナボコフ『賜物』(3)

2010-11-05 11:40:07 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(3)

色とりどりの歩道を備えているこの通りは、ほとんど気づかないくらいの上り坂になっていて、まるで書簡体小説のように郵便局で始まり、教会で終わっていた。
                                (9ページ)

 「書簡体小説」が郵便局で始まり、教会で終わるというのは、手紙を書き、投函するところから始まり、ひとりに死んでしまう(教会での葬儀)ことで終わるということなのかもしれない。皮肉っぽい見方であるけれど、小説のなかで町を描写するのに、その比喩に小説をつかう--この二重構造への偏執的な(?)好みは、ナボコフの特徴かもしれない。
 小説はあることがらをことばで描写することで成り立っているが、ナボコフはそのことばをもう一度ことばで描写するのである。ことばがことばを呼び寄せ、増殖し、動いていく。そしてそのときことばは、どうしても最初の目的(この場合、町の描写)を逸脱していく。
 町ではなく、「まるで書簡体小説のように郵便局で始まり、教会で終わっていた。」という意識をもっている人間の内面、そういうことばを瞬間的に要求してしまう人間の精神の運動、感覚の運動への暴走してゆく。

例えば、口のなかにすぐさま不愉快なオートミールか、さもなければハルヴァの味を呼び起こすような建物、(……以下略)
                                (9ページ)

 町の描写と同様に、この「肉体感覚」、人間の内面こそ、ナボコフはことばで暴走させたいのだ。



透明な対象 (文学の冒険シリーズ)
ウラジーミル ナボコフ
国書刊行会

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長田典子『清潔な獣』

2010-11-05 00:00:00 | 詩集
長田典子『清潔な獣』(砂子屋書房、2010年10月22日発行)

 長田典子『清潔な獣』を読み終わったとき、ある1行が突然甦ってきた。「また来てね」の前半に出てくる。

だけれどここから見える景色は近づきも遠のきもせずにそこに留まったままだ

 ホテルの67階からコンビナートの明かりを見ている。風景が動かないのは当たり前である。特別変わったことが書いてあるわけではない。けれど、この1行は私にはとても強烈に響いてきた。
 景色を書いているのだが、実は「あたし」を書いているのではないのか。
 「あたし」は「あたし」のまま。動かない。近づきもしないし、遠のきもしない。--これは当たり前のことのようだが、当たり前ではない。
 書くということは、自分が自分でなくなってしまうことである。書くことによって、どこかへ行ってしまう。だから、たとえホテルの67階ににいて遠くのコンビナートの明かりを見ていたのだとしても、書いたあとでは、その明かりはどこか違ったところへ行っているはずである。「あたし」が変わっているのだから、そこから見えるものが同じであるはずがない。動かないはずがない。相対的には、そうなるはずである。
 そうならない。動かない。それは、「あたし」が変わらないということにほかならない。

 長田は変わらないのである。この詩集に書かれていることが長田の実体験であるか、架空であるかは問題ではない。実体験であろうと架空のことであろうと、書くということをとおして人間は変わってしまうはずである。体験をとおして人間は変わるはずである。そうでなければ、書く意味も、体験する意味もない。
 私はそんなふうに考えているが、長田は逆である。どんな体験をしても、「あたし」はかわらない。
 新しい服を買うためにティッシュ売りの呼び子(?)をしても、見知らぬ男とセックスをしても、「あたし」が「あたし」であることに変わりはない。それは詩集の中に何度か登場する湖底の村のようでもある。生まれ育った村が湖底に沈み、家族がばらばらになる。学校も、記憶もすべて水によって封印させる。そこから「あたし」は脱出したのだけれど、「あたし」の純真なこころは、いつもその湖底にある。そして、いつもそこへ返っていく。その「湖底の村」で「あたし」は変わらない。
 実際には、「あたし」が動いているのだが、長田にとってはそれは「真実」ではない。「あたし」は変わらず、動かず、風景が、あるいはいろいろなひととの交わりの方が動いていくのである。

だけれどここから見える景色は近づきも遠のきもせずにそこに留まったままだ

 この1行は逆説である。その動かない景色は「あたし」の象徴を通り越し、「あたし」そのものである。
 この不思議なことばの運動、生き方は、私にはなんだかとても悲しく感じられる。「あたし」が動かず、風景が、そしてひとが変わっていく。そこでは傷つくということがない。どんなに傷ついたように見えても、その傷は「あたし」ではなく、相手の肉体に刻印されるだけである。傷は、そこからとんでもないものが体内に入り込み、肉体を替えてしまうからこそ傷なのである。
 この風変わりな詩集は、しかし、最後に美しい1篇を用意している。「モスコーミュール」。「あたし」はモスクワで(?)バイオリンを習っている。 

寒いのは厭じゃない鼻先や睫毛が凍りそうになって手や足の先がうまく動かなく
なってもからだの中心で呼吸しているトツトツトツという音がかえってあたしを
ここにいると感じさせてくれるから

路地から少数民族の民謡を奏でるバイオリンの音が聞こえる延々と続く草原を渡
る風のように澄み切っていて手織の絨毯の表面のようにところどころざらざらし
ている砂の匂いがする

バイオリンの旋律があたしの凍った鼻先や睫毛の先からきりきりと入ってきてあ
たしの喉や胃を潤し重い荷物を下ろした後のようにあたしはからだの芯から緩ん
でいく

 この詩ではじめて「あたし」がかわるのだ。「あたし」が「あたし」でなくなる。ここで、「あたし」ははじめて「他者」を受け入れている。
 変わる--とは「他者」を受け入れることなのだ。
 それまで「あたし」が変わらなかったのは、見知らぬ男とセックスをしても、愛のない肉体交渉をしても、「あたし」は傷つかない。何一つ変わらない。それは「あたし」がその相手を受け入れなかったからだ。
 「あたし」以外のひとからみれば、それは「他者」を受け入れているように見えるかもしれないが「あたし」の感覚では、それは「受け入れ」ではない。
 「凍った(略)睫毛の先から」が象徴的だが、そういういわば「侵入のための入口」のないところから入ってくるものなのだ。防ぎようのないところから入ってくる。睫毛の先には「入口」がない。「入口」をふさぐことができない。そういうところから入ってくるものこそ「他者」である。そして、その「他者」によって、「あたし」は「あたし」でなくなる。

 いま、「あたし」はそれまでとはまったく違った「あたし」になって、それまでの「あたし」がけっしてしなかったことをしている。

ターコイズブルーの天蓋のような空に開いた
白い穴を見上げる
唇をひらいて
施しを受ける人のように
見上げている

 「白い穴」とは雪のことである。「穴」ではないものが「穴」と呼ばれ、それを「あたし」は唇を開いて受け止める。唇の穴に、白い穴が入ってくる。それを「あたし」は受け入れる。「あたし」という「穴」がほんとうの「穴」にかわる。誰かを受け入れるものになる。
 ここから長田は変わっていくに違いない。





翅音―詩集
長田 典子
砂子屋書房

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ナボコフ『賜物』(2)

2010-11-04 13:12:43 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(2)

 「いつか分厚いのを一冊、こんな昔ながらの書き出しではじめてみようか」と、ちらりと頭をよぎった考えにはのんきな皮肉がまじっていてた。とはいえ、その皮肉はまったく余計なものだった。彼の内にいる誰かが、彼の代わりに、彼の意思には関わりなく、すでにこのすべてを受け入れ、書きとめ、しまいこんでいたからである。
                                 (8ページ)

 きのう自分に課したことがらが、もう守れない。1ページから1か所以上引用しない--そうしないと、1年をすぎてもこの本を読み終えることができない。本文だけで 580ページもあるのだから。--しかし、ここだけは外すわけにはいかないだろう。
 小説の冒頭の1ページ半は、この2段落目によって現実ではなく仮想された「小説の書き出し」になる。そして、仮想された小説の書き出しでありながら、実は「賜物」という小説の実際の書き出しになっている。
 小説が「ふたつ」存在するのである。
 この「ふたつ」はナボコフにとってはとても重要なことがらかもしれない。あることがらにおいて、そこにあるものは「ひとつ」ではなく「ふたつ」である。その「ふたつ」は書かれのもの(対象)と書き表したもの(記述)でもあるし、意識と無意識でもある。
 ことばを書くというのは意識的な作業だけれど、意識的な作業のすべてが意識下にあるというわけでもない。どんなときでも無意識というものが動いている。意識できない意識が意識を調えている。
 ナボコフはその無意識をここでは「彼の内にいる誰か」と読んでいる。無意識だから「彼の意思には関わりなく」というのは自然だと思うが、次のことばがナボコフ以外に書けるかどうかわからない。とてもナボコフ的だと思う。「すでにこのすべてを受け入れ」の「すべて」。
 書かれるもの(対象)は「ひとつ」である。書き表したもの(記述)も「ひとつ」である。でも、その「ひとつ」は必ず何かとつながっている。「ふたつ」になる要素をもっている。「ひとつ」のものが別のものとつながり「ふたつ」になり、それが延々とつづいていって「すべて」になる。
 「すべて」というのは面倒くさい。「すべて」なんて、いらない。「ひとつ」で充分、というときもあるかもしれない。けれど、ナボコフの無意識は「すべて」を「受け入れる」。
 「すべて」を「受け入れる」ものが一方にあり、もう一方にはそれを選択するものがある。無意識と意識は、拮抗しながらナボコフの文体になる。





ロリータ (新潮文庫)
ウラジーミル ナボコフ
新潮社


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広瀬大志『草虫観』

2010-11-04 00:00:00 | 詩集
広瀬大志『草虫観』(思潮社、2010年08月30日発行)

 広瀬大志『草虫観』は二部構成の詩集である。前半の「草虫観」がおもしろかった。とりわけ冒頭の作品が私は好きだ。

ただ水の流れる音から
少し外れた場所に
腰掛けのようにして並べられた
一揃えの耳だけが
通過している

交流しえない形の
消失できない時間を
ただ流れる水の音だけが
聞こえるために
繰り返されている

供花のように置かれた
一繋ぎの静寂が
鳴り止まない

あらゆるものが
素描された水の音であるなら
私は失われていく

ただ耳を残して

 どこからか水の流れる音がする。水のありかは定かではなく、ただ水が聞いている。耳の中を水の音が通過していく。その水の音は音なのだけれど「静寂」のように感じられる。まわりの静寂があるから水の音が聞こえてくる--という現実が意識のなかで逆転する。それにあわせるように、「私」と「耳」の関係も逆転する。水の音を聞いている「耳」だけが存在し、「私」のその他の肉体は消えてしまう。
 これは、いわば「俳句」の求心・遠心が固く結びつき、運動のあり方が凝縮した世界である。
 耳の中を音が通過していくとき、水の音の中を耳が通過していく。水の音が聞こえてくるとき、ほんとうに聞いているのは水の音を浮かび上がらせる静寂であり、鳴り止まないのは水ではなく静寂である。そのとき、私は耳そのものになる。耳だけが世界に残る。
 いま、耳がただここにあり、その耳によって水の音も静寂も新しく生まれている。そして、私もその水の音、静寂といっしょに新しく生まれている。ここに一期一会の瞬間がある。
 こういう「一元論」を広瀬は書いているのだと思うが、とてもおもしろいのは、そのときの「耳」を「外耳」と呼んでいることである。
 もっとも、ここからは、私のいつもの「誤読」の世界になるかもしれない。
 広瀬は、このことばを「外耳・内耳(がいじ・ないじ)」という具合に使っているのかもしれない。私はしかし「がいじ」とは読まなかったのだ。いや、最初は「がいじ」と読んでいたのだが、最終行「ただ耳を残して」という1行を読んだとき、「外耳」は「がいじ」ではなく「そとみみ」、外にある耳になってしまった。
 たぶん広瀬の書いているのが「俳句」ではない、ということが、その原因(?)である。広瀬のことばを「誤読」しながら、それを広瀬のせい(?)にするのは変な具合なのだが……。
 どういうことか、というと俳句ならば、最後に残るのは「耳」ではない。耳と水の音、静寂--そして、その三つが融合した宇宙が残るのだが、広瀬の世界では耳が他の存在を押し退けて耳として残る。宇宙(世界)の「外」に美しく存在して残る。宇宙から「外れた」場所で、耳が残る。--そういう感じがするのだ。
 なぜ、そういう変な感じを持ってしまうかといえば、広瀬のことばの動きが奇妙だからである。1連目。「一揃えの耳だけが/通過している」。ふつう(学校教科書の文法では、あるいは作文では)、耳が通過するとは言わない。耳は動けない。耳が動くとしたら、それは土台の人間そのものが動くからである。けれども広瀬は「耳だけが/通過している」という奇妙な日本語を書く。(俳句なら、少なくとも伝統俳句ならこういう書き方は許されない。)
 3連目「水の音だけが/聞こえるために/繰り返されている」、4連目「一繋ぎの静寂が」ということばも、とても変である。
 広瀬は、わざと(西脇がいう意味での「わざと」)、そういうふうにことばを動かしている。そんなふうに動かすことで、ことばを、宇宙から独立させている。
 そういう印象があるために、「外耳」は「がいじ」ではなく、「そと・耳」として、私には感じられるのだ。
 いま、ここにあるのは、「宇宙」ではなく「広瀬のことば」である。そして、その「ことば」そのもののあり方としての象徴が「そと・耳」なのである。

 「鳥光」にも、広瀬の、世界とことば(認識、あるいは「私」)との関係を象徴するような表現がある。

遠い稜線から
いっせいに湧き上がる雲がある
翼を震わせ
林立する塔の間を
縫いあわせるために
聞こえないほどの明るさで
夜に囀る
世界の内側だけがある

 「明るさ」(視覚)が「聞こえない」(聴覚)「囀る」(聴覚)のなかに紛れ込んでいる。融合している。これも、私の感覚では俳句の融合に通じる世界だが、広瀬はそういう融合した世界、あるいは感覚が自己の領域を超越し、他の領域に越境して共存する感じのありようを、宇宙全体のありようとは結びつけない。
 「世界の内側」。
 あ、どこかに「外」があるのだ。
 広瀬は、いつも「外」と「内」という「二元論」の世界を生きているのだ。
 そして、その「二元論」は不思議なことに、その内部(?)では、俳句の表現が得意とするような「一元論」を抱え込んでいる。
 これは、不思議といえば不思議。不思議としかいいようがない。

 この不思議なことばの運動で、広瀬は時に非常に美しい何か、幻とさえ感じられる何かをみせてくれる。

「ロープをほどいた舟の月の闇の光はどうしてあるの?」

 「川岸」という詩のちょうど真ん中辺りに登場する1行。この1行の描いている世界は、私には正確には見えない。広瀬が書こうとしているのはこういう世界であると別のことばで言い表すことができない。たとえば絵にすることもできない。何もできないのだけれど、そこにあるのは舟であり、月であり、闇であり、光であることがわかるので、苦しく、切なくなる。
 こういう美しい幻(?)がロープとなって、広瀬の「内」と「外」をつないでいるのかもしれない。




草虫観
広瀬 大志
思潮社

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ナボコフ『賜物』(1)

2010-11-03 13:12:26 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(1)

 ナボコフ『賜物』。以前、文庫本で買ったが、読み終わらない内にどこかへ消えてしまった。いま手元にあるのは、河出書房新社の「世界文学全集」の一冊である。(2010年04月30日発行)1日1-2ページのペースで、ただことばにおぼれるだけのために読んでみたい。
 --これは、「文化の日」にあわせて、急に思い立ったことなのだけれど、(文化の日だから、何か急に「文化」的なことをしてみたくなったのだ)、読みはじめてすぐに無謀なことだと気がついた。
 ナボコフ。このことばの魔術師の文章の中から1日1フレーズだけを選び取るというのはとても難しい。あらゆる行が「引用せよ」と迫ってくる。どの行を引用するか。その段階で、私自身が試されているような、苦しい気分になる。
 しかし、こんなところで悩んでいても何も始まらない。ともかく、ことばの海に飛び込み、そこからことばをつかみとってくる。そのことばは水のように私の手をするりと逃げるかもしれない。あるいは毒のある小魚のようにひれが私の指を刺し、その毒が私の全身に回るかもしれない。あるいは、つかんだものが巨大な魚の尾びれで、つかんだ瞬間私は空高くまで振り飛ばされるかもしれない……。

建物の真ん前には(こにぼく自身も住むことになるのだが)、自分の家財道具を受け取りにでてきたらしい二人連れが立っていた(一方ぼくのトランクの中身は、白い下着よりも、黒い字が書かれた原稿のほうが多い)。
                                 (8ページ)

 「白い下着よりも」がとても印象に残る。このことばは「黒い文字が書かれた原稿」の「黒い」を引き出すためのことばである。原稿の量の多さを引き合いに出すだけなら、それを「下着」と比べる必要はないだろう。比較の対象はもっとあるはずだ。けれども「白い」ものとなると、そんなにはないかもしれない。そして「下着」というものも、「ことば」と結びつくと、「ことば」に不思議な「味」を与える。何かを書く--それは、それがどんな高尚なことであっても書いたひとの秘密の部分、恥部、肉体と密接につながっている。秘密や恥部を隠すために書くひともいれば、それを見せつけるために書くひともいるだろう。どんなときでも、作家自身の肉体がなんらかの形で、そこに刻印される。下着に残ってしまう体温のように。あるいは、ふしだらな、甘い匂いのように。
 書きながら、あ、読みたい--と思うのだ。その「黒い文字」のびっしりつまった原稿を。いや、そのことばの中にある秘密を、恥部を、下着フェチのように鼻先を下着で被い、息を吸い込んで、わざわざよごれた匂いを体内に取り込むように、あ、そのことばを読みたい。そこに書かれている匂いを嗅ぎたい。秘密を知りたい。おぼれたい--そういう気持ちにさせられる。

 (いつまで続けられるかわからないが、ただ感じたことを書きつづけてみたい。引用のあとのページはすべて「河出書房新社」のページ。なお、訳は沼野充義である。)

賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)
ウラジーミル・ナボコフ
河出書房新社


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林嗣夫「石灰」

2010-11-03 00:00:00 | 詩集
林嗣夫「石灰」(「兆」147 、2010年08月05日発行)

 「頭」とか「肉体」とか「思想」とか……ちょっと面倒なことを書いているうちに思い出した詩がある。感想を書こうと思いながら、そのままになっていた作品である。
 林嗣夫「石灰」。

林檎畑や麦畑で
若い男女がデートする話はあるが
わたしは
まだ何も植えていない春の畑で
女性の肌に触れてしまった

これから植えつけるカボチャやナスや
トマトのことなど思い描きながら
畑を耕し
畝を作り
石灰をまこうとしたとき

その石灰の袋に右手を突っ込んだとき
触れたのは
女性の肌!
つかんだのはやわらかい女性のからだ!
思わず手を引いてしまった

おそるおそる
石灰の袋に手を入れる
なんというなめらかな存在だろう
つかみ直しても指から流れ去っていく軽やかさ
さらに押さえると物質の重い密度
空(くう)であり 色(しき)であるもの

(こんなところで
袋を手に入れたまましゃがんでいていいのだろうか)

 これは冷静に読めば、石灰の袋に手を入れて、石灰をつかんだときの感触が女性の肌を思い起こさせた、ということなのだろうけれど、私は最初、林が畑を耕しているうちに女がそっとやってきて、林が石灰をまこうとする瞬間に石灰の袋のなかに手を入れて、そこで手をとりあったのだと思ってしまった。
 あ、いいなあ、そんな突然のデート。それも女の方から近づいてきて、石灰の袋のなかに手を入れて、誰も見えないところで手をとりあうなんて……。まあ、そんなことをすれば、とりあった手は見えないだろうけれど、あのふたり畑の真ん中で何をやっているんだ?という噂にはなるかもしれないなあ。
 そういう危険って、うれしくない?
 あ、林さん、すごいじゃないか。おおもてだねえ。うらやましいねえ。わざと変な噂を立てられるようなことを女からされるなんて。
 でも、私の読み方は間違っているよね。
 ほんとうは、袋のなかで石灰に触れたら、それが女の肌を思い起こさせた。すべすべで、逃げていくような感触……。そのことを書いているのだろう。
 それでも、そう読み直してもなお、私は女の手を感じてしまうし、手だけではなく乳房だとか、もっとあやしい部分につながっていく肌に直接触れているような、どぎまぎした感じに襲われる。私は林ではないから実際には女の肌には触れていないのだけれど--いや、実際には林自身が女の肌には触れていないので、逆に、私自身が女の肌に触れているような、秘密で何かをしているような感じになってしまったのである。
 このとき、林が感じたことはもとより、私の感じたことは、まったく非現実的なこと、ありえないことだよね。間違いだよね。
 でも、この間違いのなかに、私はほんとうがあると思っている。実際に、女の肌に触れているのだ。女は石灰の袋に手を入れていない。入れていないけれど、石灰の袋に手を入れると、そこに女の手があらわれる。手を入れない限り、女の肌は石灰の袋のなかには存在しないのだけれど、手を入れた瞬間、そして指を動かした瞬間、そこに女の肌があらわれてくる。女はそこにいる。
 でたらめ? 妄想?
 ああ、でも、指がはっきり感じてしまう。それは実際の女の肌に触れたとき以上に、指にはっきりと甦る。いや、これは甦るのじゃないなあ。指が、林の指が、女の肌を生み出すのだ。林の指のなかから女の肌が生まれ、それが林に逆襲するようにからみついてくる。
 この逆襲があるから、林は「思わず手を引いてしまった」。けれど、その逆襲をもっともっと確かめたくて、また手を入れてしまう。
 手が触れる女の肌、手が生み出した女の肌。それは「空」である。けれど、手のなかの感触、実感、そこに「色」がある。
 空則是色。色即是空。
 区別がつかない。
 この感じが、とてもいい。あ、これこそ「肉体」であり、「思想」だなあ、と思うのである。

(こんなところで
袋を手に入れたまましゃがんでいていいのだろうか)

 もちろん、いけません。そんな危険な遊びをしてはいけません。でも、してはいけないことをするのが人間の楽しみなんですよね。林さん。
 私は突然、石灰を買って、どこかの畑へ行って、石灰の袋を破って、そのなかにいる女と秘密のセックスをしたくなった。林になってしまった。わあああ、危ない、危ない、危ない。

 ということで、長い間、その詩をほうりだしておいたのだが、やっぱり書いておかなければと急に思ったのだ。



風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス

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誰も書かなかった西脇順三郎(151 )

2010-11-02 11:41:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「失われたとき」のつづき。

 西脇の詩には、割り算のようなところもある。割り算という比喩が適当かどうかわからないが、えっ、そういうことばの動きがあったのか、とびっくりしてしまう。

動かないものは現在だけだ
現在がなければ過去も未来もない
過去と未来は方向の差だ
秋が終わるところも始まるところも
夏だ秋から夏に逆にまわしてみる
それは永遠の絶対の廻転だ

 詩は「意味」ではない。「意味」ではないが、そのことばのなかで何が語られているかが気になるときがある。
 ふつう、季節は春→夏→秋→冬と動いていく。そして、「現在」を「秋」と仮定すれば、「秋」は「夏」が終わり、「冬」が始まるまでのあいだということになる。「秋」は「夏」のおわりから「冬」のはじめに向かって動いていく。
 ところが、西脇はその「現在」という時間は動かない、という。そして、「秋が終わるところも始まるところも/夏だ」という。
 なぜ?
 時間を春→夏→秋→冬と動いていくと仮定すると西脇の書いていることは奇妙なことがらになるが、時間の動きがもしそうではないと仮定したら? 「現在」は過去から未来へ向かって動いていく一直線の流れのなかにあって、その流れに沿って動いているのではないと仮定したら?
 でも、どんなふうに仮定したら?
 時間は、過去へも未来へも自在に動いていく。「現在」自体は動かない。「意識」が「過去」の方へ、あるいは「未来」の方へ動いていく、「過去」や「未来」を「現在」と結びつけてそこに「時間」というもの(錯覚?)を描き出すのだとしたら?
 「未来」へ向かう時間のなかでは夏の終わり→秋はじまりになり、「過去」へ向かう時間のなかでは、秋の終わり→夏のはじまりになる。
 このことを西脇は「秋から夏へ逆にまわしてみる」と書いている。
 とても論理的である。どこにも「間違い」はない。そして、そこに「間違い」がないということに、私はびっくりする。「永遠の絶対の廻転」と西脇は定義しているが、その論理は「間違いがない=絶対」であり、またそうあることで「永遠」でもある。

 あ。

 としか、いいようがないのだが。
 と書きながらも、「あ」以上のことを書きたいと私は思っているのだが……。

 私は、あらゆる「詩」は「間違い」にある、と感じている。詩にかぎらず、芸術のすべては間違いである。そして、その間違えることにこそ、真実があると思っている。ある「現実」がある。誰にでも「現実」がある。それをそのままでは納得できない。納得するために、人間は「現実」を加工してしまう。「間違い」をくわえることで、自分が納得できるものにする。その加工の仕方(わざとする何か)、そこに詩があると考えている。
 でも、西脇の論理には「間違い」がない。あまりにも正確で、絶対的である。
 これはなぜ? どうして?
 「間違い」がないのは「頭」の世界だからである。「頭」のなかで論理が完結するからである。

 あ。

 西脇は「頭」で「現実」を叩き割って、そこに「絶対的に間違っていない論理=永遠の絶対」を流し込む。そのとき、「現実」は解体し、孤立してしまう。
 その瞬間に、詩が輝く。
 そういう運動が西脇のことばにある。
 これを私は「割り算」と呼ぶ。これは「現実を叩き割る」の「割る」にひっかけただじゃれのようなものであるけれど……。

 困ったことに--といっても、私だけにとっての困ったことなのだが、私は「頭」で書かれたことばのなかには「思想」はない、「思想」は「肉体」にしかない、と考えている。
 もし私の考えをそのままあてはめると、西脇の「永遠の絶対」を考える「頭」によって、現実を叩き割ることで生まれてくる作品は、詩ではない、ということになる。
 そういう詩ではない作品を、私が、詩ではないと書きながら、それでも大好き、というのは矛盾になる。
 なにが、どこで間違っている? どこを、どう踏み外している? そういう疑問が私を困らせることになる。私は困ってしまう。

 と、書きながら、実は、困ってはいない。

秋から夏に逆にまわしてみる

 これは、西脇の「論理」の「絶対性」の基本になる運動だが、この「逆にまわしてみる」が間違いである。西脇がこの詩で犯している「間違い」である。
 時間を秋から夏へ逆にまわしてみる--というようなことを人間はしなくていい。そんなことをしなくても「自然」(宇宙)はかってに動いて行って、季節をつくっている。逆にまわしてみる必要性は、宇宙には、ない。
 それを必要としたのは西脇だけである。宇宙をねじ曲げてみる、逆廻転させてみる、というのは西脇の「欲望」のしわざである。この「欲望」はどこからきているか。それは何でも考えてしまう「頭」から生まれているのだが、こんなでたらめ(?)をやってしまうのは、その「頭」がすでに「頭」ではなくなっているからだ。
 余分なことをしてしまう。つまり「間違い」の方向へはみ出す、逸脱する。そういうことをしてしまうとき、「頭」はすでに「頭」ではなく、「肉体」になっている。「肉体」のたとえば視覚と嗅覚がとけあったり、視覚と触覚がとけあうように、「頭」が「肉体」の何か(その何かを私は特定できないけれど)と溶け合って、不思議な具合にずれていくのだ。
 こういう「頭」を私は「肉体化した頭(肉・頭)」と呼ぶ。
 西脇は「頭」でことばを動かしているのではない。「肉・頭」でことばを動かしている。だから、そこから始まることばは、一見「間違いがない」ようにみえて、「大間違い」。そして「大間違い」であるがゆえに、「間違える」という真実に触れる。つまり、詩とぶつかりあうのだ。

 西脇のことばが「頭」ではなく「肉・頭」のことばであるということは、引用した先の2行、

秋が終わるところも始まるところも
夏だ秋から夏に逆にまわしてみる

 に具体的に書かれている。「秋が終わるところも始まるところも」は算数で言えば問題の部分「1+1=」まで。そして次の「夏だ」は答え。ところが、その答えは「2」ではなく、たとえば「0」なのだ。もちろん「1+1=1」ではない。だから、その「答え」を西脇は強引に言いなおす。「問題が間違っている。正しい問題は1-1なのだ」と。--これは、「逆にまわしてみる」ということから、私がかってに考えた「算数」だが、……。
 この「算数」は便宜上のもの。私は、実はもっと違う感じの算数を「肌」で感じている。西脇の算数は「1+1=2」ではない、「1-1=0」でもない。「1×1=1、1×0=0、0÷1=0」の世界である。常に「0(ゼロ)」を含んでいる。
 これは、まあ、私の直感のようなものが、そう言っているだけで、ほんとうにそうなのかどうか、説明のしようがないことなのだけれど。
 そして、このゼロの存在が、ゼロという存在を「頭」ではなく「肉体」として動かすことができる西脇の「肉・頭」が、あらゆることばを詩にしてしまう。
 西脇は、ことばを動かしてきて、ことばが煮詰まると、一気にゼロをぶつけてしまう。「旅人かへらず」の「ああかけすが鳴いてやかましい」のように、突然、それまでの行から飛躍する。

あなたの手紙に長い間返事を
しなかつたことを恥しく思うしかも
このみすぼらしい手紙を書くことも
うちの庭でとれた薄荷を少し
この封筒の中へ入れておきます





雑談の夜明け (講談社学術文庫)
西脇 順三郎
講談社

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青木はるみ「秋の話法」ほか

2010-11-02 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
青木はるみ「秋の話法」ほか(「13Fから」10、2010年10月28日発行)

 青木はるみは、かなり不思議な「気持ち悪さ」を持った詩人である。「肉体」と「頭」の関係が、私には気持ち悪いのである。
 「秋の話法」という詩。

膝に来る猫は内臓の手ざわりがする
と 女がいった
(ぐにゃり)
鋭い瞳をごらんなさいよ もっと
精神性の高いものなの猫は
と 別の女がいった

物質系のエネルギーのうち
系全体としての位置エネルギー および
運動エネルギーを除いた残余
辞書の 内部エネルギーの項を読んで私は
(ぐにゃり)

ついでに思い出したが
内部環境とは体液のことを指すらしい
きょう私は左手を包帯で巻いている
うつくしい生徒のF君は
はるみさんは痛いのかな と つぶやいた
すると
ススキの穂のように形骸(けいがい)化したはずの 私の
消化呼吸系 泌尿生殖系 内分泌系を
いちどきに秋雨前線が通過したのだ

 「猫は内臓の手ざわりがする」「ぐにゃり」は、実際に肉体が世界と接触したときに、肉体の内部(これを私は「肉体」と呼んでいる)で動くことばである。そこではいつでも「間違い」がまじりこむ。「歪み」がまじりこむ。「ぐにゃり」と書かれていることばは、あるひとにとっては「くにゃり」かもしれない。別のひとには「へにゃり」かもしれない。そういう差異は小さいとも言えるし、大きいとも言える。ようするに「基準」がない。それしかない。
 他方、「物質系エネルギー」「位置エネルギー」は、肉体が接触することのできない世界であり、「頭」が世界を理解するためにつくりだした仮説である。そういう仮説は人間の肉体とは離れた場で、人間の肉体とは離れた「もの」の運動のなかで実証される。物理である。物理というときの「理」は「頭」と同じことである。
 「精神」というのは、いくらか、この物理に似ている。「頭」の「仮説」である。「精神」は「人間」に属するものだろうけれど、人間から離れることもできる。「神」を考えるといちばんわかりやすいだろう。そして、この「精神」には妙なことに「基準」がある。「精神性の高いものなの」ということばが出てくるが、そこには「高い」「低い」というよな判断が働く。つまり「基準」がある。この「基準」に異論があるのは、物理の世界でさまざまな「単位」があるのと同じである。
 青木は、この三つを、ごっちゃにして受け入れる。「考える」というよりも、私には、どうも、「受け入れる」という感じがする。つまり、全部を「肉体」のしてしまおうとする強引さがある。
 その結果として、2連目の

(ぐにゃり)

 ということが起きる。(ぐにゃり)そのものになる。
 そのとき、「頭」とか「精神」はどうなっているかというと、どうにもならない。そのまま、併存している。変化(変形)せずに、そのまま、青木の「肉体」とともにある。
 青木のことばのなかから、この不思議な併存をあらわすことばを探し出すならば、それは、

ついでに思い出したのだが

の、「ついでに」である。「頭」と「精神」は「肉体」の「ついでに」そこに存在するのである。特別の理由があってそこに存在するのではなく、「肉体」があるから「ついでに」そこにあり、そういう状態を青木は当然と思っている。
 おばさんが(青木の詩を読むと、私は、どうしても「おばさん」を思い出すのだ。それは、一種差別的な意味での「おばさん」なのだが……)、ケーキを食べながら、「ついでに」まんじゅうも食べ、さらについでに酒だってのんでしまうという感じの「ついでに」に似ている。どうせ胃袋のなかでいっしょになるのだから「ついでに」食べて、のんで、何が悪い? いや、悪くはありませんけどねえ……。
 そして、この「ついでに」をまた別のことばで言えば、

いちどきに秋雨前線が通過したのだ

 の「いちどきに」なのである。
 そうなのだ。
 青木は、「おばさん」が「ついでに」と言ってしまうことを、即座に、彼女自身で「いちどきに」と言いなおすことで、青木の世界を正当化(?)してしまう。
 「肉体」が存在するとき、「ついでに」「頭」「精神」があるのではありません。「肉体」が存在するとき、その瞬間に「いちどきに」、「頭」と「精神」も存在する。それは「ばらばら」ではなく、それを「受けれ入れる」青木という存在によって、そこに集まっている。独立していても、青木によって、そこに集められているのである。
 ずーっと?
 いや、青木は、ずーっととは言わない。「いちどきに秋雨前線が通過したのだ」という行の「通過」がいちばん適切なことばだろう。
 「肉体」「頭」「精神」が、ある瞬間に、この世界を「通過」する。その瞬間を、青木はつかみとる。そしてそれをたとえば「秋雨前線」という「比喩」にしてしまう。
 この最後の比喩は気持ちがいいけれど、それまでの「ついでに」と「いちどきに」の関係が、私には「気持ち悪い」。手ごわい。あ、一度も会ったことがなくてよかった、と思ってしまうのだ。(失礼)



 猪谷美知子「もう戻る術はないのに」。活けいてた水仙が枯れたのでゴミ箱に捨てたときのことを書いている。

水仙はゴミ箱からはみ出しそうなくらいに
丈の長い花である
蓋を開けると
枯れた花と先が黄色くなった葉が
斜めになって散乱している

しかし
枯れたときの花びらは生ゴミの水分を吸ってか
先ほどよりも柔らかくなっていた

 あ、ここがおもしろいなあ。「枯れたときの花びらは生ゴミの水分を吸ってか」は「か」という疑問(仮定)が明らかにするように、猪谷が想像したことである。いわば、「頭」の世界である。次の「先ほどよりも柔らかくなっていた」も実際に手で触れて「柔らかさ」を確認したわけではないだろう。想像したこと、「頭」の世界のことだろう。
 ただし、この想像、「頭」の世界は、「頭」で完結する「頭」ではない。
 「柔らかくなったいた」を猪谷は、どうやって知ったのか。「眼」でみて、その様子から触覚の体験をさかのぼり、「柔らかさ」をつかみとっている。花が「水分を吸う」というのも「頭」の世界だけではなく、実際に花を活けて、水が減るのを見てきた経験をくぐりぬけている。そこには書かれていないが「眼」という「肉体」がしっかりと存在している。
 ここに書かれている「頭」(想像)は、私のことばで言えば「肉体となった頭」(肉頭、あるいは肉・頭)である。「肉体となった頭」の特徴は、その世界では感覚が融合することである。この詩では、肉眼(視覚)と手(触覚)が融合して「柔らかく」をつかみ取っている。
 こういうことば(こういう行)を、私は「思想」と呼んでいる。

 海北康「森の牝鹿」の書き出しもおもしろい。

お前は最初
その舌に
霧雨と濡れた森の
苔と大地の匂いを
私に与えてくれた

 海北は鹿の舌の匂いを直接嗅いで確かめたわけではないだろう。見て、その色や動きから、いま、そこには存在しない「におい」を感じたのである。視覚と嗅覚が融合している。こういうときの想像力は「頭」と違って、そこでは完結しない。どうしても、その先へ動いていくしかない。だから、詩は、そのあと、延々と動いていく。ことばがつづく。



青木はるみ詩集 (現代詩文庫)
青木 はるみ
思潮社


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谷川俊太郎「午前四時」

2010-11-01 18:07:05 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「午前四時」(朝日新聞、2010年11月01日夕刊)

 谷川俊太郎はときどき非常に不気味である。「午前四時」。

枕もとの携帯が鳴った
「もしもし」と言ったが
息遣いが聞こえるだけ
誰なのかは分かっているから
切れない

無言は恐ろしい
私の心はフリーズする

 ここに書かれていることに、何の疑問も感じない。あ、こういうことはあるな、と思う。ところが・・・。
 これは谷川の体験なのだろうか。そう思うと不気味なのである。
 これらのことばの「発話者」、この詩の「主人公」は誰なのだろう。谷川かもしれないし、そうではないかもしれない。私は読みながら若い女性を想像した。恋人とけんかした若い女性。昔は無言でもこころが通ったけれど、いまはことばがうまく伝わらない。そのくせ、いまは逆に「無言」が別のこころを伝えてしまう。通い合えないこころの存在を伝えてしまう。――それは、谷川というよりも、もっと若い人間を「発話者」を浮かび上がらせる。

 詩は「私小説」ではない。体験したことを書かなくてはいけない、というものでもない。――そうなのだけれど、どうしてこんなことを書こうと思いついたのか、最初のことばがどこから生まれてきたのか、それがわからない。
 書かれていることは全部わかる(わかったつもり、そうだよなあ、と感じてしまう)。それなのに、なぜ、谷川がこのことばを書いたか、書こうとしたか、それが分からない。
 そのわからなさを一気に飛び越えて、次の連で、谷川が突然姿をあらわす。

言葉までの道のりの途中で
迷子になったふたつの心を
宇宙へと散乱する無音の電波が
かろうじてむすんでいる

朝の光は心の闇を晴らすだろうか

 「無言」がひきだす「ふたつ」のこころ。「ふたつ」を冷静にみつめる客観的な視線。若い女性なら、「恐ろしい」のは「無言」の相手のこころ。電話機の向こうのこころだろう。けれど谷川は、その向こうのこころに限定しない。「ふたつ」、私と相手、そのふたつと、あっという間に言ってしまう。
 「ふたつ」の存在は、そこに「間」を作り出す。
 その「間」が一気に「宇宙」になる。
 谷川は昔から、宇宙と孤独を書いていたが――あ、その孤独は、もしかしたら宇宙に私がひとりいるという孤独なのではなく、私以外に誰かいて、その誰かとこころが通わない、ということだったのだろうか。広大なひろがりではなく、谷川は、私と誰かの間の「限定された間」というものも見ていたのだろうか。
 それとも、昔は「単独の孤独」だったが、いまは「他者」を前提とした「孤独」にむきあっているのだろうか。もしそうだとしたら、「いつ」その転機(?)があったのだろうか。

朝の光は心の闇を晴らすだろうか

 この突然の最終行も、次々とことばを誘う。あれこれと思ってしまう。「迷子になったふたつの心を/宇宙へと散乱する無音の電波が/かろうじてむすんでいる」。この「結んでいる」は希望ではなく、「闇」なのか。そうではなく、「かろうじてむすんでいる」の「かろうじて」しか希望がないほど暗い気持ちということか。
 たぶん、断定できない。ひとことで言えない。

 どんなことでもひとことでは言えない。ひとことでは言えないが、何か言わずにはいられない。――と書いて、それは、私の谷川の詩に対する感想なのか、それとも谷川の詩に登場する誰かの思いなのか、ふと、わからなくなる。



二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社

谷川俊太郎質問箱
谷川 俊太郎
東京糸井重里事務所
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誰も書かなかった西脇順三郎(150 )

2010-11-01 12:12:12 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「失われたとき」のつづき。

 私はふいに立ち止まる。

乞食のカメラはすべて四つに見える
恋人の眼は八つになるへそが四つに

 この四は何だろう。なぜ二つや三つではなく、四つなのか。すべてが四倍に見えるとき、二つある眼が八つになるのは簡単な数学なのだが、なぜか、この部分で私は止まってしまうのだ。私が「四つ」という単位になれていないせいかもしれない。私のリズムは二つ、三つだが、西脇のリズムは三つ、四つ、いや四つ、三つかもしれない。
 こういうことはあまりに感覚的過ぎて説明がつかないのだが(どう語っていいかわからないのだが)、私のリズムと西脇のリズムは合わない。そして、合わないことがとても刺激的なのだ。私がもっていないリズムが西脇にはあって、それが西脇のことばを動かしている。私は西脇のことばを「乱調」と感じる。乱調の美がある感じる。けれど、もしかすると、西脇にはそれは乱調ではないのかもしれない。

「あなたはキケロの全集をおもちでしようか
ラテン語をわたしはこのごろあまりやつており
ませんが 少し勉強したと思いますの--
キケロの演説や手紙などを読みたいと
思つておりますの--お貸し下さるかそれとも
どこでどうしてかりられますか教えて下さつた
ら大変うれしいのですが--」

 この行のわたりは、とても変だが、その変なところが私には不思議に快感である。行のわたりのたびに、からだが軽くなる。私のことばのリズムがかちかちなのを、西脇のリズムが突き破っていく。その、突き破られる瞬間が快感である。そして、それは大きなものを小さなもので割るのではなく、小さなものを大きなものが内側から破壊していく感じがある。
 私のリズムが2、3拍なのに対し、西脇はおそらく4拍のリズムでことばが動くのだ。音楽の場合、ひとつの長さを分割してリズムがある。けれど、言語の場合、ことばを分割してではなく、ことばを積み重ねてリズムをつくる。2、3拍より4拍の方が大きい。だから、2、3拍のなかに4拍を入れると、どうしても内部から破裂するしかないのである。この瞬間が、なんともいえず楽しい。あ、そんなふうに世界が見えるのか、と驚くのである。
 ただ、というべきかどうなのか、適当なことばがみつからないが、大きなリズムは小さなリズムでは測れない。私の2拍をふたつ重ねたら4拍になるかといえば、そうはならない。リズムが届かない(?)のだ。
 たとえば、

この女の手紙をもらつたホッグは
太陽に感謝して蝋燭を吹き消した
淋しい弓づくりはリッチモンドの小山に
林檎酒の祭をかいたカルヴァトは
どこかに住んでいたが
ゴボーの花と葉をかいたクロームは
黄色い世界が好きだった
野原と路と雲を指してみせる
旅人と犬のわきに日まわりの花が
永遠に見えるくらやみの心のはてだ

 何かが過剰に存在する。西脇のことばは追いかけても追いかけても、その先へ進んでしまっている。行のわたりのことばのように、あ、いま、西脇のことばが私のことばの枠を突き破った。そのために私のことばが「乱調」に墜落していく、あるいは「乱調」へ飛び散っていく--というのではなく、ここでは私のことばは連続したまま、内部から何かがぎゅうっと伸びてくるもののために引き伸ばされる。引き伸ばされるのだが、それは実際に私のことばが拡張するというのではなく、伸ばされても伸ばされても、実は西脇には届かないという感じがする。

 あ、こんなことを書くよりも、「四つ」については、別に書きたいことがあったのだ。それは、次の部分。

レンズみがきの永遠のカメラに
四重の四重のその四重の一つしか
みえないまたその一つもゼロに
なつて四重のゼロは単にゼロではない
ゼロがゼロに見えるときは
存在のゼロのゼロの夕暮れの日の
女のなげすてた野原にふく風に
また夕暮れのゼロの夕暮れが来た

 「四」と「一」と「ゼロ」。この数の「基数」のあり方--これが、私の場合とはまったく違う。「一」と「ゼロ」。私のリズムはそれがたぶん基本である。「一」と「ゼロ」とで「二」。「ゼロ」「一」「二」で合計「三」。私のリズムはそういう感じだ。でも、西脇の場合「三」がなくて、突然「四」。
 これは、どういうことかなあ。
 私はたぶん足し算なのだ。0+1=1、そこに数字がふたつあり、「2」が誕生する。それを合わせて0+1+2=3。ところが西脇は足し算ではなく掛け算なのだ。0と1、ふたつの数字。二つのものがもう一つ追加されると2×2=4。「四」はここから出てくる。(--私の書いている「算数」はちょっと奇妙だけれど、私は、そんなふうに感じている。)
 2+2というのは私の4の出し方だが、西脇は2×2=4の世界。そういえばいいだろうか。2+2=4も2×2=4も4であること、そしてその内容が同じなのだが、それは見かけのことであって、算数の「式」が違う。つまり、考え方の基本が違う。
 そういうことが、ある瞬間、ふっと感じられるのである。
 「四重」ということばが出てくるが、その「重」。それは足し算ではなく、掛け算なのだ。西脇は掛け算。そのスピードが、私のことばを破っていく。




西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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北川透「O字脚的体験」ほか

2010-11-01 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「O字脚的体験」ほか(「耳空」4、2010年10月25日発行)

 私はカタカナ難読症である。カタカナが読めない--ことはないけれど、必ず読み間違いをする。正確には読めない。しかし、その読めないカタカナだらけの、北川透「O字脚的体験」のうちの「オノマトペア(母隠語)的体験」という詩がとても気に入った。

イウオイイウウエエウアイウアンアイ! オオ! オオ! オオ!
アウエオオアンアイ! ウオアアアンアイ! エアオオアンアイ!
イエイイウオウインアンアイ! アイアウオアエウオウアンアイ!
イイイアアエエ! ウエアエエ! アアエオイエ! アアアイエ!
イイアアアエアイオウオイオ! イイウイアアエアアアイイイオ!

 何が書いてあるか、わかりません。
 けれど、そのわからないことが気に入ったのです。
 詩は「意味」ではない、と私は思う。詩にかぎらず文学(芸術)は「意味」ではないと思う。「意味」というのは、たぶん、それを書いたひとが抱え込んでいるものだが、そういうもので詩や文学(芸術)を読んだら、つまらないものが何一つなくなってしまう。だれだって真剣に生きているのだから、そのひとが感じている「意味」を理解した上で、それがつまらないというようなことはありえない。
 これは逆に説明すると、簡単な論理に言い換えることができる。あるひとの作品をけなしたとき(?)、たいてい「私はそういう意味のことを書いたのではありません」という反論(?)が返ってくる。「私はこれこれの問題について真剣に書いているのです。意味を誤解して批評されては困ります」。ああ、そうですねえ。しかし、「意味」を筆者の書いている(意識している)とおりに受け止めるというのは「共感」そのものだから、「共感」して、それでも「つまらない」と言えるようなことは何もないなあ。
 私は本を読むとき、筆者が何を考えているか、感じているかなど考えたことがない。「意味」を考えたことがない。「意味」に対して「共感」したことがない。私は私の問題で手一杯で、筆者の問題に真剣につきあうような余裕はないからだ。
 私はただ「誤読」したいから読む。「誤読」したことだけを書きたい。別なことばで言えば、ある作品に触れて、そこから始まる私自身の考えをことばにしたいだけである。だれかのことばに触れると、私の知らないことが書いてある。そして、その知らないことのなかには、何か知っていることも含まれている。逆に、知っていることが書いてあって、その知っていることのなかに知らないことが含まれる、というのもある。そうすると、その知っていること、知らないことの間を、私の「肉体」が行き来する。そのとき、ことばが新しく動きはじめる。「誤読」が始まる。そのとき、私自身が、うきうきするのだ。だから、書くのだ。

 あ、ずいぶん脱線してしまった。

 北川の今回の作品。カタカナ難読症の私には、もちろん正確に読むことはできない。正確に引用しているかどうかもあやしい。( 5回、点検し直したが、まあ、私の引用はあてにせず、「耳空」で直接読んでください。)それでも、変な言い方だが、私は自身を持って、この作品の「音」が聞こえると言ってしまう。
 読めない。けれど、音が聞こえる。いや、音が聞こえるから読む必要はないと思う。子音がない(ないわけではない、「ん」があるから)ので、口をただ開いて、声帯を震わせる。ほとんどでたらめに。アイウエオの音が入り乱れて響く。でも、それは、どこをとっても「アイウエオ」である。それ以外がない。いやあ、聖徳太子になったような気分。一瞬にして、全部の音を聞き取ってしまった「天才」の喜び(?)。
 いいなあ。この喜び。一度でいいから、こんなふうにして、あらゆることばを一瞬のうちに理解するという「ハイ」な感じを体験したかった! それが、いま、できたんだ。

 あ、私の「読み方」間違っています? そうでしょうねえ。知っていますとも。それくらい。だから最初に「誤読」と書いているのです。

 私は、それが何であれ、「音」の聞こえることばが好きなのだ。
 書きことばのなかには、私の「肉体」にはまったく聞こえない音がある。「肉体」をとおってくれない「音」がある。音読すれば、ことばから「音」そのものは出てくるのだけれど、そのとき、発声器官(のどや舌、口蓋など)と耳がいっしょに動いているという感じがしない「音」がある。「肉体」のなかで、音が肉体と肉体を結びつけないのである。そういうことばは、私には苦手なのである。
 北川の今回の作品は、それとはまったく違う。私は北川の書いたことばを、音として正確には再現できない。再現できないけれど、似た感じで、音そのものを発声器官と耳とで協力してつくっていくときの快感そのものに酔うことができる。
 こどものとき、これに似た遊びをしたことがあるなあ。「アアアアア」。母音のイントネーションとリズムだけで何かのことばを再現する遊び。伝えあう遊び。そういう遊びが成り立つのは、その友人と同じイントネーション、同じリズムでことばを発音し、耳で聞き取るという「肉体」の体験があるからだね。「肉体」のあらゆる部分が動き回って、発音されなかった「子音」を聞き取ってしまう。「音」にならなかった「音」を聞き取ってしまう。
 あ、そうか。「隠語」とは、「音」(あるいは「意味」?)にならなかったことばを聞き取って、その「音」を「共有」することなのか。
 
 この、あらわされなかったもの、ことばにならなかったものを、ことばとは別のルートで「共有」する--そのことは、詩を体験することにつながらないだろうか。
 詩が書かれている。ことばが書かれている。けれど、そのことばのなかには、ことばにできずに書かれないまま隠れていることばがある。あるいは、筆者にとってあまりにも当然過ぎるので書き忘れたことば、書く必要性を意識しないことばがある。そうしたことばを、目ではなく、耳ではなく、喉や口蓋でもなく、肉体のもっと奥深くにある「肉体」(肉・肉体--と言えばいいのかなあ)で感じ取り「共有」する。
 この「共有」の感じは、「誤読」そのもの、「誤解」そのものかもしれないけれど、その「誤る」という能動性のなかに、私は詩があると感じている。



 渡辺玄英「星と花火と(光のゆーれい」には、私の「肉体」では聞き取れない音がある。

誰もいないところで
さよならと言ってみる
(だれもいないからセカイはしずか

 書き出しの3行だが、3行目の「セカイ」が私にはまったく聞こえない。私にとって、それは存在しない音だ。ノイズというのではなく、つかみどこながない。私はカタカナが読めないので、それはひらがなで書けば「せかい」という音になるのかどうかも、よくわからないが、もしそれが「せかい」であっても「世界」であっても、私に聞き取れるかどうかわからない。
 この3行目の「セカイ」の「音」を聞き取れるひとには渡辺の詩はおもしろいかもしれない。



 樋口伸子「ポチ公見聞記(一)」は、まあ、どうでもいいことを書いている。どうでもいいことなので、どこを引用していいかわからないくらいなのだが、このどうでもいいことを書くときの「文体」がなかなかいいのだ。どれくらいいいかというと、ついつい、1行1行に「つっこみ」を入れたくなるくらい「肉体」に直接飛びこんでくる。「まんこみ」というのは「頭」でやるもんじゃない。「肉体」そのもので、「どつく」のが先で、あとで「どついた」ことを隠すために「ことば」で偽装する。「私は暴力は振るっていません。ちゃんとことばで表現しています。言論の自由です」というようなものだ。
 で、どこに「つっこみ」を入れたいかというと……。

 (犬に--筆者である「ポチ公」に)ロシア語が解るのかって?当たり前だよ、これ位のこと。おいらはロシア語習ってんだよ。ロシア語を習って何にするのかって?いやだねぇ、すぐそうくるから。あんただって英語習っただろ、数学だとか倫理学だとかネ。そしてそれらを何かにしてるのかい?物理や化学習ってヒューズ替えることもできないだろう。好きで古文読んで、それを手紙にでも書いているのかい?

 いやあ、外国語って、役に立ちますよ。私は大好きですねえ。犬はスペイン語で「ペロ」というのだけれど、しかしも「ペロ」で、それは、ほらおいしいものを食べたとき「ペロ」っするのにつながる--というようなことは、わかんないかもしれないけれど、わが家の愛犬(ペロ)「わん太」は、「ごはん」を食べたあとフランス人みたいにデザートを要求するのだけれど、「食べた?」と聞くと間食したときは「ペロ」と鼻先をなめる。でも(ペロ)、少ししか食べなかったときは「ペロ」ができない。嘘がつけない。--で、何がいいたいかというと、ことばというのは「肉体」を潜り抜けることで、「肉体」に作用する。ことばにならないことが、いろいろなことばを体験することでどんどん「肉体」のなかにたまってきて、それが不思議な形で呼応し合って、どこかで通じ合うことばを生み出してしまう。そういうことにつながる。
 数学も化学も倫理学も同じ。それがどんな具合に役立っているかは「肉体」にしかわからない。そんなもの「頭」の役にたつと思うからだめなんですよ。物理習ってヒューズが替えられない? 当たり前じゃないですか。肉体は「頭」とは違って、電気はびりっとくることを正確に知っている。それがどんなに気持ち悪いかも知っている。「頭」はこの「正確」と「気持ち悪さ」をことばにできない。それをことばにできるのは役に立たないと言われているへんてこな外国語やわけのわからない哲学をくぐらせた「肉体」だけなんだなあ。



わがブーメラン乱帰線
北川 透
思潮社
火曜日になったら戦争に行く
渡辺 玄英
思潮社

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コメント (2)
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