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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(9)

2010-11-11 11:45:45 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(9)

夜を前にして並木道は公園からねぐらに戻り、出口のあたりは薄闇に覆われた。そのとき、部屋の中の様々な品物の一番明るい部分はもう外の闇の中に出て、どうしようもなく黒い庭で思い思いの高さに仮の場所を決めて陣取っていたというのに、観音開きの白い鎧戸が閉じられて、部屋を外の闇から隔ててしまった。
                                (17ページ)

 この訳はよくわからない。「仮の場所を決めて陣取っていたというのに」の「……のに」がわからない。
 それでもこの部分について書いておきたいと思うのは、ここにナボコフ独特のものの見方があるからだ。「並木道は公園からねぐらに戻り」とは、公園の並木道はもう公園の並木道であることを、闇のなかで自分の世界に隠れる、くらいの意味だと思うが、この動くことのできない「並木道」に意思があるかのように「戻り」という動詞をつかうところにナボコフらしさがある。人間だけではなく、「もの」にも意思があるのだ。そして「もの」にも、その部分部分に意思がある。だから、きのう見た猫の描写では猫は先に逃げるが、逃げ後れた「虎縞模様」が存在することになる。
 この「もの」と「部分」不思議な関係は、ここでも繰り返されている。「様々な品物の一番明るい部分はもう外の闇の中に出て」と「部分」ということばがつかわれている。「もの」そのものは動かなくても、その「部分」は動く。そして、その「部分」はそれぞれに「思い」(意思)をもっている。
 これはどういうことかというと、ナボコフの小説(ことばの運動)のなかでは、動くのは「人間」だけではないということである。「もの」も動く。「もの」もそれぞれの「過去」をもち、それぞれの「時間」を生きる。そういう世界のありようを描くことで、「いま」「ここ」の時間が濃密になるのだ。だれも経験したこのない濃密な時間が、ナボコフのことばのなかからあふれだし、読者を(私を)飲み込んでいくのである。
 
 先の引用部分の意味(論理?)が不明確なのは(私は原文を知らずにいうのだから、これは勝手な解釈なのだが)、「……のに」を引き継いだあとの「観音開きの白い鎧戸が閉じられて」という訳に問題があるのだ。
 「並木道は……戻り」「一番明るい部分は……出て」「場所を決めて」「陣取っていた」と能動態のことばの運動が続くのに、ここだけ「閉じられて」と受動態になる。「文体」が乱れている。ロシア語がどう能動態と受動態をつかいわけるか知らないが、日本語ではこういう「乱れ」方はしない。
 「閉められ」ということばがあるとき、そこには「閉める」という能動的行為をする別の「存在」がある。人が閉める。人がが省略されている。ここにふいに人が出てくるところ、そして人を感じさせる「……のに」という「理由」を暗示する表現が文章をこわしてしまっているのだ。
 いま問題にしている部分の前に「出口のあたりは薄闇に覆われた」と受動態が出てくるが、そのとき文章には人の気配はない。「薄闇に覆われた」は「薄闇が覆った」と言い換えることができる。人の意思はそこに存在しないからである。人の意志が存在しないからこそ、「……のに」というようなことばでは接続していない。「戻り」という一種の完結した形で終わっている。「並木道は……戻った、(そして)薄闇に覆われた」。そういう形に言い換えることができる。
 
 原文も知らないでこんなことにこだわるのは奇妙かもしれないが、人間だけではなく「もの」にも「意思」があるかのようなナボコフ文体は、この部分のすぐあとに書かれている「詩」にも登場する。とても、重要な特徴なのだ。その特徴をないがしろに訳しているのが私には気にかかるのである。

ボールがばあやの箪笥の
下に転がり込み、床では蝋燭が
影の端をつかみ、あちこちへ
引っ張りまわす でもボールはない。

 蝋燭が、その光が「意思」をもって「影」を動かす--この「もの」の活動がナボコフの詩である。人間も動くが「もの」も動くのだ。意思をもっているのだ。そのとき「もの」と「人間」は同格である。

 ということとは別にして、闇を描写したあと、すぐに室内の光、蝋燭の詩が登場し、その光が影(闇)を動かすというのは、直前の庭の闇のなかに取り残された品物の「部分」と呼応していて、とてもあざやかな印象を残す。
 ナボコフは対比が絶妙なのだ。



ベンドシニスター (Lettres)
ウラジーミル ナボコフ
みすず書房

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高澤静香『永遠のコドモ会』

2010-11-11 00:00:00 | 詩集
高澤静香『永遠のコドモ会』(ふらんす堂、2010年05月27日発行)

 高澤静香『永遠のコドモ会』には「ことば遊び」のような詩がある。「ひとりあそびうた」。

中州
とよんで
とりがきた

ささ ささら
とりがきたなら
いちにち
きとにち

とり
とよんで
かぜがきた

きら きらら
かぜがきたなら
いちにち
きちにち

はな まいて
こだま
かぜ よんで
あきづ

みず
みず
みず ばかり

 「ことばあそび」といっても、たとえば谷川俊太郎の詩のように、え、どこまで行ってしまうの?というようなはじける感じがない。何か、奇妙な「重し」のようなものがある。「中州/とよんで/とりがきた」の2行目は「と呼んで」であろうか。3連目も「とり/と呼んで/かぜがきた」かもしれない。何かを呼ぶ、そうするとそのことばに誘われて何かがくる。それは呼ぶときの「ことば」そのものではない。それでも、そこに何か不思議なやすらぎがある。ことばの力にふれるときの、頼りになる感じがある--その安心感が、もしかすると「重し」かもしれない。どこまでもどこまでも、自由に飛んで行く「ことばあそび」とは違う世界を高澤は生きているのだろう。

 「聲」という詩がある。

もう九時をまわっているというのに
おもてからコドモの聲がする

こんなかたちに成りました
こんなかたちに成ったのだな
こんなかたちに成りましたよ

互いに確かめ合い
触り合い
笑い合っているのだ

夜だけ流れる川
その浅瀬のなかのあちこちに
中途半端な足跡ばかり残る

いまは 戸棚のほうが
あかるかったりするから
淋しくないねと聲を仕舞うひともいる

 「ひとりあそびうた」のとき、私は「ことば」という表現をつかったが、それは「聲」と言い換えた方がいいかもしれない。
 「こえ」。私は普通に「声」と書くが、高澤は「聲」と書いている。「声」と「聲」がどう違うのか、私は知らないが、「声」になくて「聲」にあるものがある。「耳」。ことばを口で発音して、耳で聞く。そのとき「聲」が明確になるということかもしれない。口から耳へ。そのあいだの、「間」。そこで、もしかしたら、ことばは少し変わってしまうのかもしれない。口で言おうとしたことが耳に届くあいだに、何か変わってしまう。
 もし、自分の言ったことが相手につたわらないとしたら、それは自分の口から出たことばが相手の耳に届くまでのあいだに、微妙にかわってしまったのかもしれない。
 だからこそ、「こんなかたちに成りました/こんなかたちに成ったのだな/こんなかたちに成りましたよ」と「互いに確かめ合」わなければならないのかもしれない。確かめ合って、その微妙な変化、あるいは思いがけない変化を楽しむ、笑って受け入れる--それは、意外とおもしろいものかもしれない。ゆたかな暮らしかもしれない。
 「中州/とよんで/とりがきた」。中州と呼んで(とことばにして)鳥がきた。「とり/とよんで/かぜがきた」。鳥と呼んで風がきた。それは「返事」なのかもしれない。誰からの返事であるかわからないが、たしかに返事なのだろう。返事がかえってくるというのはよろこばしいことだ。一日は、そうやって「吉日」になる。

 自分の思い通りではなくても、それを受け入れる。そして、「聲」を仕舞う。それは「口」を仕舞うのかな? 「耳」を仕舞うのかな? 「ことば」を仕舞って「もの」になる。「人間」そのものになる。無言でも、いま、ここに、こうしている--ということを、静かに実感する。そういうことをたしかに感じる力が高澤のことばを動かしているのかもしれない。


永遠のコドモ会(え)―高澤靜香詩集
高澤 靜香
ふらんす堂

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