ナボコフ『賜物』(9)
この訳はよくわからない。「仮の場所を決めて陣取っていたというのに」の「……のに」がわからない。
それでもこの部分について書いておきたいと思うのは、ここにナボコフ独特のものの見方があるからだ。「並木道は公園からねぐらに戻り」とは、公園の並木道はもう公園の並木道であることを、闇のなかで自分の世界に隠れる、くらいの意味だと思うが、この動くことのできない「並木道」に意思があるかのように「戻り」という動詞をつかうところにナボコフらしさがある。人間だけではなく、「もの」にも意思があるのだ。そして「もの」にも、その部分部分に意思がある。だから、きのう見た猫の描写では猫は先に逃げるが、逃げ後れた「虎縞模様」が存在することになる。
この「もの」と「部分」不思議な関係は、ここでも繰り返されている。「様々な品物の一番明るい部分はもう外の闇の中に出て」と「部分」ということばがつかわれている。「もの」そのものは動かなくても、その「部分」は動く。そして、その「部分」はそれぞれに「思い」(意思)をもっている。
これはどういうことかというと、ナボコフの小説(ことばの運動)のなかでは、動くのは「人間」だけではないということである。「もの」も動く。「もの」もそれぞれの「過去」をもち、それぞれの「時間」を生きる。そういう世界のありようを描くことで、「いま」「ここ」の時間が濃密になるのだ。だれも経験したこのない濃密な時間が、ナボコフのことばのなかからあふれだし、読者を(私を)飲み込んでいくのである。
先の引用部分の意味(論理?)が不明確なのは(私は原文を知らずにいうのだから、これは勝手な解釈なのだが)、「……のに」を引き継いだあとの「観音開きの白い鎧戸が閉じられて」という訳に問題があるのだ。
「並木道は……戻り」「一番明るい部分は……出て」「場所を決めて」「陣取っていた」と能動態のことばの運動が続くのに、ここだけ「閉じられて」と受動態になる。「文体」が乱れている。ロシア語がどう能動態と受動態をつかいわけるか知らないが、日本語ではこういう「乱れ」方はしない。
「閉められ」ということばがあるとき、そこには「閉める」という能動的行為をする別の「存在」がある。人が閉める。人がが省略されている。ここにふいに人が出てくるところ、そして人を感じさせる「……のに」という「理由」を暗示する表現が文章をこわしてしまっているのだ。
いま問題にしている部分の前に「出口のあたりは薄闇に覆われた」と受動態が出てくるが、そのとき文章には人の気配はない。「薄闇に覆われた」は「薄闇が覆った」と言い換えることができる。人の意思はそこに存在しないからである。人の意志が存在しないからこそ、「……のに」というようなことばでは接続していない。「戻り」という一種の完結した形で終わっている。「並木道は……戻った、(そして)薄闇に覆われた」。そういう形に言い換えることができる。
原文も知らないでこんなことにこだわるのは奇妙かもしれないが、人間だけではなく「もの」にも「意思」があるかのようなナボコフ文体は、この部分のすぐあとに書かれている「詩」にも登場する。とても、重要な特徴なのだ。その特徴をないがしろに訳しているのが私には気にかかるのである。
蝋燭が、その光が「意思」をもって「影」を動かす--この「もの」の活動がナボコフの詩である。人間も動くが「もの」も動くのだ。意思をもっているのだ。そのとき「もの」と「人間」は同格である。
ということとは別にして、闇を描写したあと、すぐに室内の光、蝋燭の詩が登場し、その光が影(闇)を動かすというのは、直前の庭の闇のなかに取り残された品物の「部分」と呼応していて、とてもあざやかな印象を残す。
ナボコフは対比が絶妙なのだ。

夜を前にして並木道は公園からねぐらに戻り、出口のあたりは薄闇に覆われた。そのとき、部屋の中の様々な品物の一番明るい部分はもう外の闇の中に出て、どうしようもなく黒い庭で思い思いの高さに仮の場所を決めて陣取っていたというのに、観音開きの白い鎧戸が閉じられて、部屋を外の闇から隔ててしまった。
(17ページ)
この訳はよくわからない。「仮の場所を決めて陣取っていたというのに」の「……のに」がわからない。
それでもこの部分について書いておきたいと思うのは、ここにナボコフ独特のものの見方があるからだ。「並木道は公園からねぐらに戻り」とは、公園の並木道はもう公園の並木道であることを、闇のなかで自分の世界に隠れる、くらいの意味だと思うが、この動くことのできない「並木道」に意思があるかのように「戻り」という動詞をつかうところにナボコフらしさがある。人間だけではなく、「もの」にも意思があるのだ。そして「もの」にも、その部分部分に意思がある。だから、きのう見た猫の描写では猫は先に逃げるが、逃げ後れた「虎縞模様」が存在することになる。
この「もの」と「部分」不思議な関係は、ここでも繰り返されている。「様々な品物の一番明るい部分はもう外の闇の中に出て」と「部分」ということばがつかわれている。「もの」そのものは動かなくても、その「部分」は動く。そして、その「部分」はそれぞれに「思い」(意思)をもっている。
これはどういうことかというと、ナボコフの小説(ことばの運動)のなかでは、動くのは「人間」だけではないということである。「もの」も動く。「もの」もそれぞれの「過去」をもち、それぞれの「時間」を生きる。そういう世界のありようを描くことで、「いま」「ここ」の時間が濃密になるのだ。だれも経験したこのない濃密な時間が、ナボコフのことばのなかからあふれだし、読者を(私を)飲み込んでいくのである。
先の引用部分の意味(論理?)が不明確なのは(私は原文を知らずにいうのだから、これは勝手な解釈なのだが)、「……のに」を引き継いだあとの「観音開きの白い鎧戸が閉じられて」という訳に問題があるのだ。
「並木道は……戻り」「一番明るい部分は……出て」「場所を決めて」「陣取っていた」と能動態のことばの運動が続くのに、ここだけ「閉じられて」と受動態になる。「文体」が乱れている。ロシア語がどう能動態と受動態をつかいわけるか知らないが、日本語ではこういう「乱れ」方はしない。
「閉められ」ということばがあるとき、そこには「閉める」という能動的行為をする別の「存在」がある。人が閉める。人がが省略されている。ここにふいに人が出てくるところ、そして人を感じさせる「……のに」という「理由」を暗示する表現が文章をこわしてしまっているのだ。
いま問題にしている部分の前に「出口のあたりは薄闇に覆われた」と受動態が出てくるが、そのとき文章には人の気配はない。「薄闇に覆われた」は「薄闇が覆った」と言い換えることができる。人の意思はそこに存在しないからである。人の意志が存在しないからこそ、「……のに」というようなことばでは接続していない。「戻り」という一種の完結した形で終わっている。「並木道は……戻った、(そして)薄闇に覆われた」。そういう形に言い換えることができる。
原文も知らないでこんなことにこだわるのは奇妙かもしれないが、人間だけではなく「もの」にも「意思」があるかのようなナボコフ文体は、この部分のすぐあとに書かれている「詩」にも登場する。とても、重要な特徴なのだ。その特徴をないがしろに訳しているのが私には気にかかるのである。
ボールがばあやの箪笥の
下に転がり込み、床では蝋燭が
影の端をつかみ、あちこちへ
引っ張りまわす でもボールはない。
蝋燭が、その光が「意思」をもって「影」を動かす--この「もの」の活動がナボコフの詩である。人間も動くが「もの」も動くのだ。意思をもっているのだ。そのとき「もの」と「人間」は同格である。
ということとは別にして、闇を描写したあと、すぐに室内の光、蝋燭の詩が登場し、その光が影(闇)を動かすというのは、直前の庭の闇のなかに取り残された品物の「部分」と呼応していて、とてもあざやかな印象を残す。
ナボコフは対比が絶妙なのだ。
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