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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子『スプーンと塩壺』

2006-11-08 15:10:47 | 詩集
 坂多瑩子『スプーンと塩壺』(詩学社)(2006年11月20日発行)。
 坂多の作品には少し童話のような雰囲気がある。なつかしいけれど、ちょっと不思議。現実にみかけるものを描きながら、現実にはありえない世界が広がる。たとえば「ヤギ」。

スーパーの袋をかかえて
帰ってきたら
アパートの前に
やせこけたヤギがいる
いそいで
部屋に戻らなければならないのに
うす目をあけて
私を見ている
パンをやる
食べない
牛乳をやる
紙をやる
無理に食べさせようとすると
悲鳴をあげる
ヤギが
どうしてこんなところにいて
私を困らせるのだ
ヤギはますますやせていく
はやく
部屋に戻らなければならないのに
アパートの前で
夜になっている

 こんなことは現代の街ではありえない。ありえないけれ、これに似たことならしばしば体験する。したいこと、しなければならないことがあるのに、何か(誰か)に邪魔されて、それもどんな具合に邪魔なのかうまく説明できないために、なんとなくずるずるとひっぱられてしまうようなことが。そういう経験がどこかにあるから、この「ヤギ」が気にかかる。「ヤギ」は「ヤギ」と書かれているけれど「ヤギ」ではないかもしれない。では、何? 「ヤギ」ではないとしたら、なぜ「ヤギ」と書く?
 坂多は説明できないと思う。その説明できない部分に、坂多の「思想」があり、「詩」がある。

 「ヤギ」ではないのに「ヤギ」、という部分を、「私」ではないけれど「私」と読み替えてみるとどうだろうか。
 スーパーの袋をかかえて帰ってきた。すぐにしてなければならないことかあるのに、アパートのなかへ入りたがらない「私」がいる。アパートの前まできたら、それに気がつく、ということはないだろうか。アパートのなかに入りたがらない「私」を何と呼べばいいのだろうか。坂多は、ふいに、それを「ヤギ」と呼んでみたのだと思う。記憶のどこかに、ヤギのせわをして苦労した思い出があるかもしれない。「おまえはヤギみたいにがんこだねえ」と家族に言われた記憶もあるかもしれない。……ということは、すべて私の想像だが。(つまり、私の生活、体験と重なるから、そんなふうに想像するのだが)。
 もし、「ヤギ」が「わたし」のことばにならない、あるいはことばにしたくない「わたし」の一面だとしたら……。
 私は、「ヤギ」の前に置かれた作品、詩集の冒頭の「歯車」を思い出してしまう。読み返してしまう。母を埋葬したあと、母が読んでくれた昔話を思い出す。昔話の冒頭が、最終連の3行で繰り返されている。

わたしのなかにふたりのむすめがいました
ひとりはかわいくはたらきもの
ひとりはそのはんたいでした

 「ふたりのむすめ」は矛盾している。矛盾しているのに「わたし」である。矛盾しているからこそ「わたし」かもしれない。何か見えないものがふたりを結びつけて「わたし」にしている。そして結びつけているものが見えるのは「わたし」にだけなのである。他人には見えない。つまり、他人にわかる形で説明できない具合に(他人からは「ひとりのむすめ」にしかみえないでしょ?)、「ふたりむむすめ」を「わたし」は結びつけて生きている。「ふたりのむすめ」を実感しながら生きている。この「ふたりのむすめ」が長い間「わたし」のなかでせめぎあって、たとえば一方が「ヤギ」にかわってしまう、ということもあるのだ。
 「歯車」の最終連をちょっと書き換えてみると、そのことがわかる。

わたしのなかにふたりのむすめがいました
ひとりはかわいくはたらきもの
ひとりはそのはんたい、「ヤギのようないきもの」でした

 アパートの前で出会った「ヤギ」は「かわいくはたらきもの」の「私」ではない、もうひとりの「私」、遠い遠い(失礼かな?)「むすめ」ではないだろうか。

 人にはいつでも見えるものと見えないものがある。それは人間の内部で深く絡み合い、結びついている。そして、その絡み合い、結びつきが「ひとり」の人間をつくっている。そういうことを坂多は書こうとしているのではないだろうか。
 「一日」は、そうしたことを「童話」にしないで、つまりどちらかというと、現実しかみない人に向けて書かれた作品のように思える。

何かの拍子に
終わらない一日が始まると
夜がきて そのまま
朝になっても
私は同じ場所にすわっている

それでも
ほんの少しずつずれ落ちながら
朝がきて
夜になるものだから
私のからだはゆがみはじめ
私のこころはゆがみはじめ

ある日 とうとう
見えないものも
見える
なんて言ってしまうのだ
台所の暗がりで
もういない大伯母が白瓜をつけているとか

それから
素知らぬ顔をして 朝
起きると何も起きなかったかのように 昼の
なかに立っている

といってもそう単純でもない

何かの拍子に
スプーンとか塩壺とか
見えているものが見えなくなり
裏返しの一日が始まり
台所の暗がりに探しにいく

 私たちは確かに「見えているものが見えなくなり」という体験をする。それは「かわいくはたらきもの」ではない人間、「そのはんたい」の人間が動き始めたからかな? と、考え始めるとちょっとややこしくなるが、そういうこみいったことはどうでもよくて、ただ確かに「見えているものが見えなくなり」ということがあると実感さえすればいい。そのとき、そうであるなら「見えないものも/見える」と言ってしまうときの「こころ」もわかるはずである。
 「ヤギ」はアパートの前になんかいない。そんなものは見えない。だが「見える」と言ってしまうこころは、「見えているものが見えなくな」るときのこころと、そんなにかわりはないのだ。同じひとつのこころとして「わたし」のなかにある。

 坂多の作品で、もうひとつ忘れられないものがある。「セミ」。セミの死骸のなかでウジ虫が動いている。そのウジ虫をアリが引きずり出していく。そういう描写をしたあとの3行。

いのちってそんなに大切なものではありません

そんなことを言っているのではありません

 世界には、この3行のように「否定形」でしか伝えられないことがある。何が言いたいのか。誰かがどんなに説明しても、「そんなことを言っているのではありません」としか言えないものが「私」のなかには存在する。「そんなことを言っているのではありません」と主張するかわりに、坂多は詩を書いているのだと思う。
 「歯車」から引用した3行を、もう一度、書き換えてみよう。その3行をつかって、ことばを少し動かしてみよう。

わたしのなかにふたりのむすめがいました
ひとりはかわいくはたらきもの
ひとりはそのはんたいでした
かわいくはたらきもののむすめが本当のわたしです
いいえ、そのはんたいが本当のわたしです

そんなことを言っているのではありません

 では、何を言っているのか。わからない。わからないから、それを探してことばを動かしている。詩を書いている。そうしたわからないものをもとめて動いていく部分に、坂多の「思想」と「詩」がある。
 同人誌で断片的に読んでいたときは、坂多の詩は何か気にかかる、気にかかるけれどうまくその魅力をつかみとれない感じがした。今も、坂多の魅力をつかみきれているとはいえないけれど、まとめて作品を読んで、ああ、いい詩人だと思う。ああ、いい詩だというよりも、ああ、いい詩人だという思いが沸き上がってくる詩集である。


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トルーマン・カポーティ『真夏の航海』

2006-11-07 14:24:16 | その他(音楽、小説etc)
 トルーマン・カポーティ真夏の航海』(ランダムハウス講談社、安西水丸訳)(2006年09月13日発行)。
 トルーマン・カポーティの「失われた処女作」という。夏休み、ひとりニューヨークに残った少女の恋が描かれている。不安定な精神が、繊細さゆえに強靱なもの、乱暴なものにかわる。その揺れ動きがせつない。「詩」が、そこにある。唐突に立ち上がってくる現実、リアリティーというものが。
 たとえば、主人公の少女が駐車場で働く恋人を探す場面。

 クライドは車のなかで眠っていた。車の屋根は降ろされており、バックシートに潰(つぶ)れたように眠っていたので彼女はそこに来るまで彼を見つけることができなかったのだ。ラジオからはその日のニュースが流れ、彼の膝の上には探偵小説が開かれたままだった。

 彼の肉体は眠っているとしか描写されない。手の形も足の形も首の形も顔の向きさえも描写されない。そのかわり膝の上に開かれた探偵小説が描写される。それが彼の肉体として出現してくる。少女は彼が探偵小説を読むことをこのときになってはじめて知ったのだろう。(というようなことは、くどくどとは書いていない。読者の想像にまかされている。)この唐突さがいい。他人が唐突に少女の肉体の中に、肉体そのものとして存在し始める感じが、とてもよくわかる。
 カポーティ特有の、精神と現実の小さなものがぴったりと重なり合って、その結果として、こころそのものを揺さぶる衝撃になる、という描写は随所にある。恋人が唐突に「俺は婚約しているんだ」と告げる。そのとき、

 キッチンの小さなできごとは一瞬グレディを動転させた。時間は止まり、あたりは真白くなった。
 温度計の赤い管、スイス製のカーテンを這(は)っている蜘蛛の光、蛇口にぶらさがったまま落ちないでいる水滴、彼女はそれらを自分の壁のなかに折り込んだ。

 「蛇口にぶらさがったまま落ちないでいる水滴」がすばらしい。少女の感情そのものに見えてくる。感情はいつでも現実を通ってやってくる。あるいは現実のなかへ入り込んで手触りのあるものになる。形になる。目に見えるものになる。
 カポーティのことばのなかには、感情がものに(存在に)「なる」、その瞬間、生成の瞬間の濃密さがいつも詰まっている。
 だからこそ、たとえば次のような不注意な訳文が気になる。56ページの6行目以降。

彼女は煙草に火を点けるのが好きになった。グレディは自分との間で裸になったように揺らめいている細い炎のなかに、誰かに気づかれるかもしれない自分の秘密があるようにおもえて、に興奮した。

 「おもえて、に興奮した。」ここに何が欠落しているのか。「ひそかに」と考えると意味は単純につながってしまう。私には「ひそかに」以外のことばを期待した思いがある。
「ひそかに」などはなくて、「あるようにおもえて、興奮した」と直接つづいた方が「ひそかに」があるときよりもときめきが伝わってくる。欠落していることばがあるなら「ひそかに」以外であって欲しいと思う。

 原文を読まれた方がいましたら、実際はどうなっているかを教えてください。

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堀内みちこ『小鳥さえ止まりに来ない』

2006-11-07 13:05:50 | 詩集
 堀内みちこ小鳥さえ止まりに来ない』(思潮社)(2006年10月07日発行)。
 「死んだふりして」の最終連。

爆発したい気持ちをエプロンに包んで
こうして穏やかで落ち着いた大人の女でいるのって
実は大変な努力がいるのよ
死んだふりしていると知っているのは
いまきざんだキャベツかもしれない
そら ガスに火をつけたわ
フライパンの機嫌をうかがい
平凡なキャベツを
盛大なご馳走にしあげてみせますわ

 この詩に限らないが、堀内のことばの動きには料理でいう「手順」が省略されすぎている。たとえば、この詩ではキャベツを料理しているが、刻んで、フライパンでいためて、それで「盛大なご馳走」に変わるといわれても誰にも信じられないだろう。「手順」をきちんと書けば、つまり調味料に何をどれだけ使い、キャベツのほかにどんな材料を使い、その下準備をどうしたかをきちんと書けば、最後は省略しても「盛大なご馳走」であることがわかる。「手順」の省略した「盛大なご馳走」は堀内の中にしか存在しない。誰の目にも触れてはいない。想像する手がかりすらない。
 読者の想像力を信じているといえば聞こえはいいが、実は、堀内は自分自身の想像力をつきつめるという基本をおこたっている。事実を見極めるという基本的なことをおこたっている。「水蜜桃」。

冷えた水蜜桃は
少女の頃のわたしの足のうら

冷えた水蜜桃の産毛は
若い母のうなじそっくり

冷えた水蜜桃のかなたに
さびれた海浜の貝殻たちの呟き

冷えた水蜜桃のうす皮は
褪色していく家族の写真

 「 冷えた水蜜桃は/少女の頃のわたしの足のうら」と魅力的な行で書き出しながら、母を一回出しただけで「褪色していく家族の写真」と書かれても、なぜ「褪色」したのか読者にはわからない。幸福な海水浴の思い出と、それが「褪色」してしまうまでのあいだにあったものが、キャベツの料理と同じように省略されている。事実を見る、事実に自分を関係づけるという「努力」が欠けていると思う。

 きのう取り上げた和合亮一の『入道雲入道雲入道雲』。そのことばの暴走は単なる暴走ではない。暴走するためにはまず事実が必要である。

    昨晩ずっと
独楽を
   蔵王を回していた

 こういう行を書くためには、和合は蔵王をみつめなければならない。蔵王を自分の肉体のように感じるまでにみつめなければならない。毎日毎日蔵王をみつめるということは、簡単なようにみえるかもしれないが、それは、爆発したい気持ちをエプロンで包んで落ち着いた大人の女でいることよりも、実はもっと大変な努力がいるということを堀内はかんがて見なければいけないと思う。


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和合亮一『入道雲入道雲入道雲』(思潮社)

2006-11-06 23:22:03 | 詩集
 和合亮一入道雲入道雲入道雲』(思潮社)(2006年10月25日)。
 何度読み返しても美しいという感想しか思い浮かばない2行がある。23ページに出てくる。

色のない駅のおもてから色のないえきのうらてへと
紫色の窓を背負って走ってゆく子供の「お使い」である

 こういう行に出会ったとき、私は、その行にこそ詩人の「思想」があると思って何度も読み返すのだが、ほかの行とつながらない。和合のなかでは明確な文脈があるのだろうけれど、私には見当がつかない。
 なぜ、今、ここに、この行が登場したのかわからない。
 わからないままさらに繰り返して読んでいると、私の中に、何か「美しい」という感覚とは別の、私にはない何かが浮かび上がってきた。
 「駅のおもて」に対して「駅のうらて」と和合は書く。「駅のおもて」から「駅のうら」へと書かず、「おもて」から「うらて」へと「て」を付け加える。「て」は方向を示している。
 「方向」の意識が、和合の場合、とても強いのだ。
 存在を、ただそこにある存在として見るのではなく、常に動いているもの、ある「方向」をめざしているものとして見ているのかもしれない。
 その動き、運動に何かが付け加えられ、具体化するとき、それが美しく見えるのだろう。駅の表から駅のうらてへ単に子供が走るのではなく、「紫色の窓を背負って」走る。余分なもの(?)が付け加えられる。そのとき、その余分なものが方向を決定しているように感じられるのだ。過剰なものと方向が一体となって、今ここにあるものとは違った「宇宙」のようなものが見えてくる。
 「過剰」と「方向」、それが「宇宙」なのである。和合にとっての「世界」なのである、と私には思えてくる。
 作品の冒頭から、「過剰」と「方向」が描かれている。

 ハイウェイを濡らす僕の死後の雨
 ドゥカティ …… 僕の死後にはじめて雨の降る日
みずみずしいヘルメットに映る 脳死の景色 それは
僕の死後にきみが見る テレヴィではないだろうか

 「過剰」は「死後」である。「死後」は「僕」にとっては存在しないだろう。「過剰」というのはそういう意味である。「方向」は「きみ」である。「僕」からはみだしたもの、たとえば「僕の死後」が「きみ」の方向へあふれだしていく。
 もちろん、和合は死んでなどいないから、これは「仮定」あるいは「想像」の話だが、そういう架空の世界へとはみだしてゆくことばのすべては「過剰」なものだが、それが「きみ」へと向かうとき、そのことばはすべてラブソングになる。ラブレターになる。
 ここに書かれているのは、「過剰」な和合の思い、和合の肉体から離れ、飛び散っていくことばである。それは「きみ」へ「きみ」へと突き進んでゆく。「きみ」が受け止めるかどうかはラブソングやラブレターにとってどうでもいいことである。ラブソング、ラブレターにとって大切なことは、思いがことばになることによって、書いている本人を救い出すことだからである。ことばが、過剰なことばが出口(方向)がないまま溜まり続けたら、その重さのために和合自身が破滅するだろう。
 和合自身を破滅させることばを、「きみ」へ向けて放り出し続けるということは、いわば「自殺」しながら、常に「自殺」から回復することでもある。
 矛盾のなかで疾走しつづけることば。それは、和合の書いていることばで書き換えれば「ドゥカティ」に乗ってハイウェイを「きみ」へと向かって疾走する姿に似ている。二輪車だから、止まっていては倒れる。倒れないためにひた走る。そして、そのスピードのなかで「宇宙」と一体になる。「宇宙」という広大なもの、膨張し続けるものだけが、「過剰」をそのままのみこんでくれるのである。

 こうした作品は、立ち止まって読んでも楽しくはない。ただ読みとばし、気に入った部分だけを、疾走するバイクのハンドルを眺めながらみつめるように、瞬時瞬時に記憶するだけでいい。
 たとえば、次の3行を。(50ページ)

    昨晩ずっと
独楽を
   蔵王を回していた

 この3行は、まさに独楽そのもののように、同じ場所で高速で回転することによって立っている。ドゥカティ、そのバイクの動きと対立する。
 しかし、しかし、しかし。
 この3行は、なんとも強烈である。「方向」をもって過剰をあふれさせるものと、「方向」を拒否して、今、ここに存在し続けるために回転するものと、2種類の動きが和合のことばのなかにはあるのかもしれない。
 『入道雲入道雲入道雲』は「入道雲」と「入道雲入道雲」の2部構成でつくられた詩集だが、「入道雲」にはバイクが、「入道雲入道雲」には「蔵王(独楽)」が登場する。
 私にはバイクが登場する「入道雲」の方が疾走感があって読みやすい。蔵王(独楽)は重すぎる。
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パク・クァンヒョン監督「トンマッコルへようこそ」

2006-11-06 23:08:30 | 映画
監督 パク・クァンヒョン 主演 チョン・ジェヨン

 私がいちばん気に入ったシーンは村の先生がテキスト片手にケガをしている米兵と会話するシーン。
 「ハウ・アー・ユー?」
 「ケガをしているんだから、ハウ・アー・ユー?はないだろう」(というような意味合い)
 横の大人たちに。
 「おかしいなあ、ハウ・アー・ユー?と挨拶したら、アイム・ファイン、アンド・ユー?と相手が答え、そのあとアイム・ファイン、で会話が終わることになっているのに、変だなあ」
 大笑いしてしまった。
 私は福岡のシネリーブル博多で18時20分からの回を見たが、ほかの人は笑わない。それでも、気にせず、大声で笑ってしまった。

 私は「いい意味」で大笑いしたつもりだったが、しかし、映画を見ているうちに、この映画には大きな問題(瑕疵)があって、その問題というのは、実は、私が大笑いしたシーンに集約されていることに気がついた。(笑い続けて映画を見ながら、実は、私は最後の最後でとても不愉快になってしまった。不機嫌になってしまった。)
 何が問題かというと、トンマッコルの人々は「子供のように純粋」なのはいいけれど、それはあくまで「大人」が見た「子供のような純粋さ」にすぎない。「子供のような純粋さ」が、この映画では理想化されていて、現実が置き去りにされている。
 人が出会ったら挨拶する。それはそれでいいけれど、その挨拶は一種類ではない。そんなことは、どんな村に住んでいても同じだろう。ケガをしている人に対して「ごきげんいかがですか?」とは絶対に聞かない。「どうしたんですか? 痛くないですか?」と聞く。子供だって、それくらいこのは気がついている。
 今、目の前に起きていることを無視して、挨拶は「ご機嫌いかがですか」「はい、元気です。あなたは?」「私も元気です」という挨拶をすると考える方がおかしいだろう。そういうことが「おかしい」ということから出発する必要があるのに、「理想の会話」どおりの会話が成立しないのはおかしい、奇妙だ、というところから出発してしまっては、何もかもが単なる空想に終わってしまう。
 どんな戦争批判も絵空事になってしまう。

 「どちらが攻めてきたんだ」「北だ」。「争いもなく村を統治する方法は?」「充分に食べさせることだ」。--さりげなく差し挟まれた会話は痛烈に北朝鮮を指弾している。そこに韓国の主張がストレートに出ている。
 戦争批判、反戦映画の衣装をつけた、強烈な北朝鮮批判である。そういう批判が、ファンタジーを装って展開されるところに、私はなんだかうさんくさいものを感じてしまう。こんなふうに安直に戦争を批判しても、結局、どんな戦争回避策も引き出せないだろうと思う。
 この映画自体、最後は、理想(子供のように純粋に生きる人々を守る)ために、その理想を愛する人が身を犠牲にするということで、「平和」を守る。
 そんなことでいいのかな?
 北朝鮮側の兵士も、韓国側の兵士も、そして米兵も「平和」の「聖地」を守り抜く。そのために何人かは犠牲になる。犠牲になることが、結局、美化されていないだろうか。「理想」のために、現実の人間、戦争で死ぬとき人は血を流して死んでいく、ということがないがしろにされていないだろうか。
 死んでいく人に対して「ハウ・アー・ユー?」と挨拶しているようなところがないだろうか。「理想」のために死んでいく人は「アイム・ファイン」と答えるのが正しい会話であって、「痛くてうめいているのがわからんのか」と怒る人間は変だ、ということにつながらないだろうか。

 倉庫に手榴弾が投げ込まれ、ポップコーンができるというすばらしいシーンなど、美しい映像がたくさんあるけれど、最後に北朝鮮の兵士、韓国の兵士が、アメリカの爆撃を誘導して死んでいくシーンを見て、私は、かなりぎょっとした。
 「美しい理想郷」「理想の聖地」を守るために、「理想郷」から離れた場所で戦争をする、そこで犠牲になることで「聖地」を守る--これって、ブッシュがイラクでやっていることのパロディー? 「アメリカ民主主義」という「理想郷」を守るために、イラクを架空の敵地に仕立て上げ、そこを「誤爆」させる。「誤爆」を誘発するのは、もちろん米国本土からやってきた米兵である。もし、そこまで意識化されているのなら、この映画はほんとうに「反戦映画」と呼ぶにふさわしいけれど、違うだろうなあ。

 「理想」を守るために犠牲になる--というような美談には気をつけよう。

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本多明『虹ボートの氷砂糖』

2006-11-05 23:15:13 | 詩集
 本多明『虹ボートの氷砂糖』(花神社)(2006年10月30日)。
 この詩集にはいろいろな人が登場する。宮沢賢治、芥川龍之介、彼らの作品の登場人物、タクシーの運転手、侍、ミック・ジャガー、あるいは固有名詞で書かれているが誰だかわからないわからない人。彼らは、宮沢賢治、あるいは芥川龍之介であると同時に本多明自身であるのだろう。
 「惑星洞窟タクシー」に本多が見ている世界、本多が向き合っている世界が端的に書かれている。

バックミラーが俺を見た
俺は俺を見るバックミラーの古い俺と俺の見るバックミラーへの
新しい俺と出会っている
古い瞳と新しい瞳の交互に重なる深い層があった

 バックミラーの中の俺とバックミラーを見る俺。古い俺と新しい俺。自己を対象化するときの、対象化された俺と対象化する俺。古い俺と新しい俺。この古い、新しいの区別は、意識がこの先動いていくか、そのままかという違いによって区別できるだろう。
 バックミラーの中の俺は、その中に固定されている。対象化された俺というのも、対象化した時点で固定している。それを見る俺、それについて考える俺--その俺の考えとともに動いていく俺が新しい俺、ということになるだろう。
 宮沢賢治や芥川龍之介、あるいはその作品の登場人物は、いわばバックミラーの中の俺のように対象化され、動いて行かない。俺が知らない何かをするわけではない。新しい俺が、宮沢賢治や芥川龍之介、あるいはその作品の登場人物について考えるだけである。
 その瞬間、本多に何が見えるのか。
 「深い層」。
 重なり合うのに、あるいは重なり合うからこそ認識できる「深い層」。それを本多は見ている。
 宮沢賢治を読んだ俺(古い俺)、芥川龍之介を読んだ俺(古い俺)と、読んだことを思い出し、今と結びつけ(重ね合わせ)、なにごとかを考え始める俺(新しい俺)。そこにたしかに何か「差異」があるのは確かだ。「差異」がなければ何も考えようとはしないだろう。だが、その「差異」を「深い層」と考えるかどうかは、人によって違う。
 特に、その「差異」を「溝」(深淵)のようなものではなく、「層」と感じるところに
本多の特徴がある。溝は単に掘られたもの、古い俺と新しい俺を隔てている「切断」にすぎないが、「層」は違う。「層」とは重なり合ったもののことだ。
 本多は「切断」とは違ったものを見ているのである。古い俺と新しい俺のあいだに「切断」があるのではなく、幾重にも重なり合った「層」があるのである。本多は、その重なり合った「層」を一枚ずつ剥がすようにして、古い俺と新しい俺を一致させようとするのである。その行為の中で、本田自身の「時間」(歴史)が浮かび上がり、それが本多の個性になっていく。
 こうした「深い層」を少しずつ引き剥がしていくことを、本多は「ルーツ」探しと自覚しているようだ。そして、「ルーツ」探しをすることで、現代(間違った時代?)から本来の時代(永遠へとつながる歴史的な時間)へ立ち直っていくことだと感じているようだ。「通俗ベイビー」に次のような行がある。

記号化されないものを
記号化していると疲れるよまったく
金は疲労のかたまりなのさ
そんなときはゆっくりと
黴の生えた古い小説を読むといい
意外な所にルーツは潜んでいて
間違った時代から脱線できる

 「脱線できる」はもちろん本来の場へもどること、「回復」と同じ意味である。「回復」を逆説の形で表現したものである。「古い小説」には宮沢賢治や芥川龍之介が含まれている。「古い小説」のなかのことば、そのなかに潜むものを新しい俺を動かすための力にしようとする意志が、思想が、ここに表明されている。
 この「古い小説」の中に、宮沢賢治や芥川龍之介だけでなく、現代の古典、ローリングストーンズのミック・ジャガーが入っていることもおもしろい。詩集の冒頭の「ブソンの手」もいいが、ミック・ジャガーが登場する「蕎麦屋で侍」もいい。というか、「蕎麦屋で侍」のような作品がもっと多ければ、この詩集は強いアピール力を獲得しただろうと思う。宮沢賢治や芥川龍之介、ブソン(与謝野蕪村)では、最初から「文学」的すぎて、「今」という感じが遠い。(ミック・ジャガーもすでに「古典」かもしれないが。)
 一方、「古い小説」の作者がひとりではないのは、本多がまだ自分自身の「深い層」を引き剥がして、「本当の本多」にたどりつくための道連れをまだ見出していないということを暗示しているのかもしれない。道連れをひとりに限定して、そのひとりと一緒に「深い層」へ分け入るように進んだ方がいいのかもしれないとも思う。登場人物が多すぎて、読んでいて、すこしとまどうのである。

 「深い層」をみつめ、思考する本多も魅力的だが、ふいに立ち上がってくるやわらかい感性(木坂涼をちょっと思い出す)の本多も魅力的である。最後に、そういう本多を紹介しておく。たとえば、

危ないけれど
列車の窓から
仰向けに顔を出して鷲を見た
首を突っこまれて
風はびっくりしていたが
上下 逆さまの世界が一瞬頭を打った     (「鷲」)

おお 所々に民家があるじゃないか
俺はよくこんな所に出てこられたもんだ
花はきっとこんな気分で咲くんだろう   (「惑星洞窟タクシー」)

 ここに書かれた「風」「花」は、まるで本多の肉体である。


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北川透「コレッ、スッポン、ダンス」

2006-11-04 13:52:28 | 詩集
 北川透「コレッ、スッポン、ダンス」(「詩歌句」14)。
 「correspondence」と読むのではなく、「これ、スッポン、(の)、ダンス」と読みたい欲望のようなものが1行目から沸き上がってくる。

尼になりたい。尼になって、鰐に犯されたい。
鰐になりたい。鰐になって、鋏に犯されたい。
鋏になりたい。鋏になって、棺に犯されたい。
棺になりたい。棺になって、三色菫に犯されたい。

 ここに登場する「名詞」(存在)、「なる」という動詞、「犯される」という動詞をつらぬく一致したものがあると考えるのは楽しいかもしれない。尼、鰐、鋏、棺、三色菫が「なる」「犯される」という動きのなかで何らかの肉体的なもの(?)をやりとりし、その結果として(?)、精神的なもの(?)をやりとりすると想像するのは楽しいかもしれない。
 しかし、そういうことは、ちょっと(あるいはかなり)面倒くさい。詩を読むことは面倒くさいことではなるけれど、そうは思ってみても、やはり面倒くさいことは私は嫌いなので、安直に「これはスッポンのダンス」のように、「おいおい、そんなものがあるのかよ」と好奇心丸出しで、そのナンセンスを楽しみたい気持ちになる。
 こんなことをわざわざ書いたのは、先の4行につづいて「詩」につていのことばが括弧の中に閉じ込められて(まるで、肉体の中に精神があるという考えを笑うように)挿入されているからである。詩についてのことばを挟んで、先の4行のスタイルのことばは、形を変えながらつづいていく。

(人々は詩についての強固な観念を持っています。たとえば、それ
は古い大きな建物。わたしはそのなかに潜んでいる生物の正体をよ
く知りませんが……。)
三色菫になりたい。三色菫になって、靴底のウラにねちゃつくガム
に犯されたい。ねちゃつくガムになりたい。ねちゃつくガムになっ
て、制服のカタログに犯されたい。

 「意味」が生まれてきそうになると、それを拒絶するようにして、またナンセンスなことばが繰り広げられる。「詩」という建物のなかに潜んでいる「生物」とは「意味」であるかもしれない。--という考えそのものの方が「これはスッポンのダンス」というよりナンセンスなものであるかもしれない。--というような考えさえも拒絶して、北川は、ことばの自律(自由)を引き出したいと欲望しているように見える。
 その欲望に染まってしまいたい。スッポンのダンスっていったい何? あるいはスッポンのダンスのように肉体もことばも踊らせてみたい、という欲望に染まってしまいたい。そのダンスのなかに「コレスポンダンス」があるならあったでいいし、なければなくたっていい。たぶん、ことばということばがどれだけ無軌道に書かれたとしても、読者はそこから「意味」を誤読し、捏造してしまう。
 「詩」という建物のなかに潜む「生物」について、北川は、次のように補足する。

       それはどんなに比喩をかさねても語りがたい、時間
を喰い尽くす不可解な生きものです。人々は古い建物の外見だけ見
て、そこを自由に出入りする生きものの恐ろしさに気づかないので
は……。)

 「意味」とごこでも自由に出入りする。どこでもナンセンスを否定しようと待ち構えている。ナンセンスそのものに「意味」を与えようとする。--という私のことばも、また「意味」にすぎないかもしれないが。
 そういう「意味」と北川は闘っている。
 たとえば、私のように、「詩」に「意味」を付け加え、感想を各人間と闘っている。そういうことを承知で、私は、さらに今書いたようなことを書く。
 これは、北川がこの作品で書いた「詩」についての「挿入」と、それ以外の部分の関係と、それこそ「コレスポンダンス」してしまうことかもしれないが……。

 「これ、スッポンのダンス」にもどっていえば、「犯されたい」がいつのまにか「蛙」の俳句(?)の連作に変化して、この作品はおわるのだが、その俳句のなかにとても美しい句がある。

かえるなくコンキラポッキンさんらんき

 「さんらんき」がきらきら輝いている。オタマジャクシを透明な卵のなかに抱いて、水のなかで光っている。
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藤田晴央『ひとつのりんご』

2006-11-03 14:26:55 | 詩集
 藤田晴央ひとつのりんご』(鳥影社)(2006年10月15日発行)。
 藤田の詩は、どれも静かである。いわゆる現代詩の匂いがしない。ことばが目の前にある桜や川や何かと融合している。融合しながら、すーっと流れてていってしまう。その静けさにこころが洗われる。その流れは、川の流れがそうであるように、岩か何かにぶつかってうねり、しぶきをあげることもある。しかし、そのすべてが森や山や川や海といった自然のなかにのみこまれていく。それがあまりにも自然なのである。そのために静かなという印象が生まれる。
 山や川、海といった風土としての「自然」、そしてそのなかで何かが起き、やがて過ぎ去っていくことの「自然」。「自然」にはふたつの意味合いがあるが、そのふたつものが「ひとつ」になっている。その「ひとつ」になっているという印象が、静かという感じにつながる。
 そして、全体を読み終わったあと、感想を書こうとしてふたたび「ひとつのりんご」を読み返して驚く。「ひとつ」ということばが、そこにある。「自然」(風土)と「自然」(人事、ととりあえず書いておく)が溶け合った状態を指す「ひとつ」につうじる「ひとつ」が、すでに、そこに書かれている。

りんごがゆっくり降ってくる
青空の中をいくつもいくつも
きみはその中のひとつを受けとめ
手のひらに包んでみつめている
かなしいくらいに静かな真昼
あの日も 今も

 この詩の中に登場する「複数」はふたつある。
 ひとつは「りんご」。「いくつもいくつも」降ってくるりんご。
 もうひとつは「あの日」と「今」。複数の時間を藤田はみつめている。意識している。その意識につらぬかれて時間は「ひとつ」になっている。思い出、記憶、というより、感情になっている。感情は、いつもいつも、ひとりの人間のなかではひとつである。ひとりの肉体(手のひら)のなかでは、いつも「ひとつ」である。「りんご」は「りんご」であると同時に、感情の象徴である。
 感情を動かしていくものは、いくつもいくつも降ってくるりんごのように、いくつもあるだろうけれど、そのときも実はこころは「ひとつ」である。その「ひとつ」としっかり意識するようにして、「きみはその中のひとつを受けとめ」るのだろう。いや、「ひとつ」を受け止めることで、こころをしっかりと「ひとつ」のものに収斂させるのかもしれない。そうなることを願って「ひとつ」ということばが選ばれているのだろう。

 藤田にとって「ひとつ」というのは重要なことばなのである。あらゆるものは「ひとつ」になる。たとえば「さくらさくら」。その終盤近く。

あれからどれくらいの時がたったのでしょう
今もわたしはさくらが咲くと
思い出すのです
あなたのことを
まぶしい哀しさが
この目から心へと
走ってゆくのです

 「あれ」(あのころ)と「今」が「ひとつ」になる。「さくら」と「あなた」が「ひとつ」になる。その「ひとつ」とは「まぶしい哀しさ」という感情、こころである。「目から心へ」とは「肉体」から「こころ」へということだろう。その動きのなかで、肉体とこころも「ひとつ」になる。分離できないものになる。「肉体」と「こころ」はふつたの存在ではなく、融合した「ひとつ」の存在である。

 風土としての自然は季節のなかで繰り返し同じことをする。人間もまた、日常のなかで同じことを繰り返す。繰り返すことで、それが「複数」になるのではなく「ひとつ」になる。繰り返せば繰り返すほど、「複数」であるべきものが互いにその違いをのみこみながら「ひとつ」に溶け合うようでもある。

 「満開」の最後の数行は、一読すると、「ひとつ」とは違うことを書いているようにも見える。

わたしたちも心の中にいろんな色をもっているけれど
どうしてもなれない色があって
あちらに流れたりこちらに流れたりしながら
似ているのに微妙にちがう色を
無数に生み出している

 「いろんな色」「似ているのに微妙にちがう色」「無数」。これはすべて「複数」である。ところがその「複数」を浮かび上がらせるのは「どうしてもなれない色」という「ひとつ」の存在である。ほんとうは「ひとつ」をめざしている。そこにたどりつけないために「複数」の状態でいる。
 それはたとえていえば「あの日」と「今」が、最初は「複数」として浮かび上がってくるのと同じである。「あの日」と「今」は違う。違うけれど、その違いを意識するこころのなかに「ひとつ」がある。違うからこそ、結びつけ、融合したいという「ひとつ」の気持ちが動く。そのとの揺れ動きが「無数」にある。「無数」は「ひとつ」へたどりつくための過程なのである。
 この「ひとつ」を「しあわせ」と置き換えれば、それはそのまま「思想」である。人が「しあわせ」であってほしいと願う以上の「思想」は世の中には存在しない。最後に、そういう願いが静かに語られる「焚火」。そのなかほどの部分。

息子の手首くらいから
わたしの親指くらいの太さの枯れ枝を
朽木の竈(かまど)に積み上げていく
あたりには嵐の日に吹き飛ばされた枝が
たくさん落ちている
ブラ、ミズナラ、サワグルミ
長いのは足をかけてへし折り
わきに積み上げておく
最後に竈の真ん中に細い枝を放りこみ
新聞紙に火をつけてねじりこむ
新聞紙が燃えつきても炎は上がらない
じっとみていると細い枝が絡み合っているあたりから
白い煙が紐のように立ち上がる
紐の根元を俎板がわりのベニヤ板で扇ぐ
ふっと蝋燭の火がともったように
小さな炎が揺らぐ
あとはゆっくり扇いでいればいい
息子の人生にもこんなふうに火がともればよいのだが


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三角みづ紀『カナシヤル』

2006-11-02 23:45:37 | 詩集
 三角みづ紀カナシヤル』(思潮社)(2006年10月15日発行)。
 どの詩からも肉体を求める声が聞こえてくる。感情はあるのに、その入れ物としての肉体がない、感情を入れる肉体が欲しいと泣いている声が聞こえる。「プレゼント」のなかほど。

足首を切断してから
三呼吸目にチャイムがなった
流しの下に
足首をほおりこむ
あまりにも早く
恋人は来た
あまりにも、
早すぎた

もしかしたら
あなたは本当は
おらんひとなのかもしれん

 「あなたは本当は/おらんひとなのかもしれん」。このときの「おらん」は感情として存在しないではなく、肉体として存在しないという意味だろう。肉体の移動には時間がかかる。感情の移動には時間はかからない。感情は、いつでも、どこでも存在できる。肉体はそういう具合にはいかない。
 「あなた」は肉体であるよりも前に感情である。感情であるから、早く移動することができる。どこへ、かというと、「わたし」の感情へである。感情から感情へ、感情が動く。これを「愛」といえば「愛」だが、三角の不安は、「愛」があまりにも感情的、あるいは精神的すぎるということだろう。
 三角の感情・精神を上回って、「あなた」の感情・精神が「わたし」に寄り添う。というよりも、「わたし」の感情を、さらに育ててしまう。「わたし」の感情を先回りしてしまう。

疑ってしまうのだ
恋人は
水色と緑色の混じった
きれいな足首をわたしに差し出した
土盛海岸の色
の足首

 なぜ、恋人(あなた)は「水色と緑色の混じった/きれいな足首」を選んだのだろうか。それは「わたし」がひそかに望んだもの、というより、差し出されてみて、それこそが「わたし」の望んだ足首だったわかるようなものを差し出したのか。肉体としては不在、感情・精神としてのみ存在するからである。感情・精神は「ことば」のなかで重なり合い、その重なってしまえば、みわけがつかない。「おらんひと」と同じものになってしまう。(こうした考え方に対して異論を差し挟むことはできるし、本当は反論しなければならないのだけれど、ここでは省略する。私がきょう日記で書きたいと思っているのは、三角にとって「肉体」は存在しない、ゆえに肉体を求める、ということなのだから。)

 この詩では足首を切断する、足首を海で拾ってきて切断した足のかわりに結合するということが書かれている。もちろん「比喩」としてそう書かれている。「比喩」であるから、それは本当の肉体ではないのだが、それを上回って(と言っていいのだろうか)、肉体が不在である。

恋人は一言も発せず
手馴れた具合で
わたしに
足首をつけよった
浅い海のなかに居るように心細い
ひんやりとした
くるぶしまでの海

もしかしたら
わたしは本当は
おらんひとなのかもしれん
疑ってしまうのだ

 「比喩」とはいいながら、この「比喩」は肉体からはあまりにも遠い。新しい(?)足首は「わたし」の肉体と適合するかどうかよりも前に、感情・精神として動く。「浅い海のなかに居るように心細い/ひんやりとした/くるぶしまでの海」は足首が肉体として感じた「海」というよりも、感情・精神が感じた海である。「わたし」は「あなた」のもとへ行くよりも、「あなた」と一緒に土盛海岸へ行って足首を濡らしたかった。肉体があるとしたら、そういう夢を見ている足首が「わたし」にとっての肉体である。感情・精神が「あなた」によって先回りされ(それだけ愛されている、理解されているということになるかもしれない)、まるでそれが「わたし」の夢なのか、「あなた」によって夢見られた「わたし」の夢なのか見分けがつかなくなる。「おらんひと」になってしまう。肉体として、今、ここに存在するのに、感情・精神としては「わたし」ではなく「あなた」になってしまい、存在しなくなる。

 おなじ「おらんひと」ということばでありながら、「あなた」と「わたし」では「おらんひと」というときの意味合いが違う。
 「わたし」の肉体が「あなた」の感情・精神に乗っ取られる。「あなた」のことばが「わたし」の肉体のなかで、「わたし」の精神・感情となって動く。こういうとき、論理的(?)に考えれば、「わたし」は肉体的に存在し精神的には存在しない。そして「あなた」は肉体的には存在せず精神的に存在する。--詩は、たしかにそういう構造でことばが動いている。
 しかし、感情は、そんなふうには考えない。(感じない、と書くべきか。)
 「あなた」の感情が「わたし」の感情になることによって、感情はよりいっそうたしかなものになり、その反動として、「わたし」の肉体の存在があやふやになる。肉体と感情のバランスが崩れ、肉体が見えなくなる。(三角にとって、肉体はあくまで感情が把握する存在なのである。)

台所の床の上で
乱暴なセックスをしたら
わたしたち
もう原形をとどめて
いなかって、
いなかった

 「いなかって、/いなかった」。それには補語が2種類ある。「感情・精神として」いなかって、「肉体として」いなかった。「原形をとどめて/いな」いということは、そういうことを指すのだが、三角が、わざわざ「いなかって、/いなかった」と繰り返す理由は、そこに補語が2種類あるということを明確にするためである。
 ここに、肉体が消えてしまったという意識と、それが肉体を求める悲しい声が同時に存在する。三角の「詩」がある。
 こういうことが起きるのは、三角が表紙の折り返しに書いているように「ことばが好き」だからであろう。ことばが好きすぎるからであろう。感情・精神のいれものとしてのことばは、たやすく他人のことばと重なる。「おらんひと」がそうであるように、実際は意味が違うのにおなじものとして存在してしまい、その混同のなかで、何かがかわっていってしまう。肉体が存在すると感じるべきなのに、肉体が存在しないと感じるように……。

 ことばが好きで好きでたまらない。一方、肉体も取り戻したい。ことばに拮抗するような肉体の存在感を感じたい--ことばにしたい。
 この思考には一種の「矛盾」のようなものがある。だからこそ、私は、そこに三角の「思想」を感じる。肉体を傷つける(たとえば、この詩では足首を切断する)とき、肉体は痛みの声を上げるはずである。(この詩では、痛みを発するよりも先に、恋人が駆けつけ、別の感情を作り上げてしまい、そうすることによって「あなた」も「わたし」も不在の人間になってしまったが……。)その痛みを詩のなかで取り戻そうとする意志を感じる。ことばに、そういう力を与えたい、という意志を感じる。


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アレクサンドル・ソクーロフ監督「ファザー、サン」

2006-11-02 23:07:11 | 映画
監督 アレクサンドル・ソクーロフ 出演アンドレイ・シチェティーニン、アレクセイ・ネムィシェフ

 印象的なシーンがふたつある。
 ひとつは悪夢から醒める息子の口のアップ。ゆがんでいる。ねじれ、ひきのばされ、立体が平面に変化していくような感じである。この映像は、悪夢でうなされる息子を力ずくで押さえ込む父親の肉体とのからみのあとで出現するので、まるで同性愛の男が、互いを征服しようとして争いながら、最後に射精して果ててしまう絶望のような暗い内部(口の中)をのぞかせる。内部からの熱で、存在そのものがぐりゃーっと伸びて変形したような印象もある。そして、その内部からの熱によって表面が変形していくという印象が、またセックスを思わせるのである。「父にまた助けられた」という息子の声がなければ、同性愛の男同士の生活を描いた映画と思ってしまうだろう。この口のアップに象徴される、ゆがんだシーンは、悪夢の1シーン、息子がひとりで立っている映像も同じである。縦方向に引き延ばされ、ゆがんだ感じがする。
 (ゆがんだ映像は、そのあとも繰り返される。似た感じがするシーンもある。父を訪ねてくる父の友人の息子と街を歩く、そのときの映像も、立てに引き延ばされ、横に圧縮されたような、奇妙な印象がある。ここにも、同性愛の嫉妬の反映のようなものが、少なからず感じられる。)
 もうひとつは、息子が恋人と軍人養成学校で窓越しに会話するシーン。窓の枠が顔にかかり、半分しか見えない。ときどき顔全体が映し出されるが、ほとんどは顔の片側、片方の目だけである。しかも、その窓は閉ざされているのではなく、少し開いている。隙間がある。その隙間越しに、わざわざ相手をのぞいている感じがする。そんなところからのぞかなくても、顔をガラスに正面にもってくればきちんと見えるのにそうしない。わざと半分を隠している印象が残る。
 たぶん、「半分」というのがこの映画のテーマなのだと思う。(父親だけがいて母親がいないというのも親が「半分」ということをあらわしているのかもしれない。)そして、その「半分」というのは、妻のいない父親(半分)、母のいない息子(半分)が一緒になって、「半分」+「半分」=「1」という関係ではなく、ふたりが一緒にいることによって、ふたりとも「半分」でしかない、「半分」を強いられるという意味である。
 父は母親のことを隠している。隠すつもりはないだろうが、すべてを語ってはいない。軍隊でのできごとも同じである。二人が接近するとき、ふたりは「隠された半分」がどこかにあると、常に意識してしまうのである。会話することによって「半分」になってしまうのである。
 何か「半分」隠している、隠しているものがあるはずだ、ということは、父の仲間の息子が訪ねてくることで明らかになる。窓枠越しの恋人との会話と同じように、父と息子は「半分」を隠しながら会話している。たぶん、すべてを語るのではなく「半分」隠すことで、息子を気づかっているのだろう。言ってはいけない何かがある。(これは、だれの人生でも同じだろう。)
 息子もまた父に対して「半分」なにごとかを隠している。父に対する思いのすべてを語っているわけではないだろう。
 そして、ふたりはその「半分」隠されたものをつかむために、今ある半分をぐぐーっと引き延ばす。それは悪夢の叫びの口のようにゆがむ。路面電車が走る街のように、あるいは走る電車そのもののように、何か力付くでひきのばされて、映像がゆがんでしまう。そして、そのゆがみが、父と子の会話をより複雑なものにする。かみあわず、突発的に爆発する。

 和解はやってこないのだろうか。ゆがみは解消されないのだろうか。

 スクーロフは、人間は常に「半分」を隠しているということを明確にすることで和解へと二人を導いていく。
 父の友人の息子が父を訪ねてくる。父について、息子の父に尋ねる。そのことをとおして、息子は、父には息子の知らない人生、隠された部分があることを知る。息子は父の友人の息子に対して、激しい嫉妬を燃やすが、それは父の友人の息子が、彼の知らないことを知っている(知る手がかりをもっている)からである。隠された「半分」を父の友人の息子がのぞきみているからである。
 この「半分」を人間の内面と呼ぶとき、それは息子が大事にしている父の胸のレントゲン写真と「暗喩」のなかで重なり合う。隠された「半分」、人間の「内部」を人はのぞく。(息子から悪夢の話を聞く父にとっては、その悪夢を語ることばが息子の内面、隠された「半分」へとつながる)。その隠された「内部」、肉体の中にあるものを吐き出させるために、肉体が接近する。ぶつかりあう。あるいは、触れないということで、触れるよりも激しく、内部を燃え上がらせる。(これもまた、セックスそのものである。)そして、そこから「ゆがんだ口」(肉体の内部をのぞかせる暗い暗い淵)があらわれ、声にならない声を発する。
 人間が、常に「半分」を隠して生きていると知ったとき、息子は、父を受け入れる。そして和解が成立する。「半分」+「半分」=「1」ではなく、「半分」であることが他人であるという証拠なのである。それは冒頭のセックスじみたからみあいのように、ひとつをめざして重なり合ってはならないものなのだ。逆に離れることで「半分」が「1」であることを知らなければならないのである。人間は相手と向き合ったとき、正面は見えても背面は見えない。「半分」は見えないのが人と人の関係なのである。
 雪の朝、父親が屋上へ出ていく。息子がベッドから声をかける。「そこに私はいるか」「いない」。それが、和解である。冒頭の悪夢で同じ質問を父がしていた。「そこに私はいるか」息子は「いない」と答え、その不在が、父と子の、ねじれた苦悩の出発点だったが、「不在」であることが正しいのだと知ることで父と子は和解する。それぞれ「ひとり」になっていく。この雪のシーンはとても美しい。
 もっとも、この和解は、いささか唐突な感じがする。美しすぎる感じがする。

 こんな、とってつけたような「和解」よりも、まるで「和解」を拒んでいるような父と子の肉体、それをとらえる映像がこの映画のほんとうの魅力かもしれない。「和解」にいたるまでの「苦悩」がこの映画の魅力かもしれない。
 人間は皮膚でつつまれ、その内部は見えない。見えないはずなのに、その肌が透明になり、(特に、息子のはりつめた白い肌の透明さが印象的だ)、肌の裏側からこころが滲み出してくるような映像。こころだけでなく、まるでうっすらと血の滲んだ筋肉が滲み出してくるような映像。(実際に、皮膚を剥いだ筋肉図?のようなものが壁に飾ってあったりするのだが。)愛と憎しみがまじりあい、それがことばではなく、生々しい筋肉となって滲み出してくるような映像がこの映画の魅力である。夕暮れの弱い光が、その滲み出してくる肉体の動き陰影を与える。どんなちいさな肉体の震えであっても、夕暮れの斜めに射してくる光のなかで長くて深い影をつくる。その「ひだ」を見ているような、奇妙な苦しさにおそわれる。感情は、見えないこころに宿っているのではなく、見ることも、手で触れることさえできる肉体、筋肉に宿っている。肉体は近付くだけで、それを互いに感じ取る。そういう動きを見ているようだ。同性愛と近親相姦の二重のタブーの前で立ち止まって苦悩する肉体を見ているような錯覚を覚える。
 これはもしかすると、父と子の「和解神話」という構造、暗喩に満ちたセリフを利用しながらつくられた、同性愛への手引きの映画かもしれない。快楽ではなく苦悩で誘う分、しまつが悪いかもしれない。どんな快楽に対しても、人は簡単に「それのどこが気持ちがいい?」と否定することができるが、苦悩に対しては、それがどんな苦悩であるにしろ「その苦悩など取るに足りない」とは否定しにくい。苦悩に寄り添うのがヒューマニズムであるという意識があるからだ。スクーロフのこの映画は、どこかで、そういうものをひっそりと利用している気がする。とてもしまつが悪い。

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立木早『ウチニ、カエロウ』

2006-11-01 23:48:30 | 詩集
 立木早『ウチニ、カエロウ』(砂子屋書房)(2006年10月15日発行)。
 日々の暮らしのなかで、人はそれぞれ仕事を分け合って生きている。一日の最後、立木は風呂の掃除をする。

水を抜いたあとの掃除は
私の日課だが
いまどきの便利なつるりとした浴槽からは
魚の臭いがする
私らはやっぱり
湯舟に浸かりながら
どっかで
魚にもどるのではなかろうか
へばりついた湯垢を落としながら
一日
泳ぎ疲れて
たどり着いた一人分のお湯のふね
ふうう
釣り上げられた
魚の口だ

 「水を抜いたあと」「へばりついた湯垢を落としながら」、ふっとお湯に入っていた姿を思い出す。そのときの

たどり着いた一人分のお湯のふね

 の「一人分」が美しい。「一人分」と感じるときの満足感がとてもいい。「二人分」や「三人分」ではちょっともてあますだろう。「一人分」という広さ、自分の手足を実感する限定された広さ、それに対する安心感のようなものがある。
 これは、いわゆる「小市民」の満足感にすぎないだろうか。そうかもしれない。立木自身も、湯舟につかって息を吐いている姿をちょっと戯画化して

ふうう
釣り上げられた
魚の口だ

 と書いている。
 だれに釣り上げられたのか。それはわからなくていい。世の中にはわからなくていいことだってある。きょうも一日おわったな、という感じを、ただ自分の手足の大きさそのままに感じるだけでいい。
 誰かに釣り上げられた存在にすぎなくても、今、お湯につかって自分の肉体の存在を感じている。拡大も縮小もしない。あるがままの「一人分」を実感する。この幸福はたしかに美しい。

 今、私が書いた「美しい」ということばを、立木は二通りに使い分けている。「美しい」という書き方と「うつくしい」と書き方に。その使い分けに、たぶん、立木の「思想」、立木にしかわからない何かがある。「ガーデニング」の冒頭。

庭いじりを
そんなふうに呼ぶようになって
美しい花たちは
うつくしくならなければいけないので
毎朝まいあさ花がら摘みは日課だ
実をつけないように
害虫をよせつけないように
美しい花たちについての
うつくしい会話が
今日も通りのあちこちで聞かれる

 花--自分の外部に存在するものは「美しい」という表記で表現され、人間がそれにかかわるとき(人間のはたらきかけで存在が変化するとき)、「うつくしい」がつかわれているようだ。「うつくしくならなければいけない」は花そのものの義務(?)ではなく、花を育てる側(人間)の義務であり、ほんとうは「うつくしくなるように育てなければならないので」と書かなければならないところだろう。
 「うつくしい会話」も、それをうつくしくするかどうかは、人間の態度による。
 花は存在自体として「美しい」。そして、それを育てる人間は「うつくしい」。花についての会話が「うつくしい」かどうかは、人間がつかうことばによって決まるのだ。

 「一人分」のお湯、それを「一人分」と感じるこころが「美しい」と私は書いたが、ここは立木にならって「うつくしい」と書かなければいけないのだと、私は、今、反省している。
 「うつくしい」という表現方法、その「ひらがな」の表現のなかに、立木の「思想」がある。「漢字」になるまえの、肉体のなかでまだうごめいている感覚、意識、そのうごめきのようなもの、何かにかわろうとする思いのようなもの。立木は、そういうものをみつめている、それをことばとして定着させようとしているのだと思う。
 「うつくしい」をつかったもう一つの詩。「洗濯」。その末尾。

ところで教えてくれまいか
Yシャツをたたむにはどうするか
何時間も一人シャツと向き合い
店員もどきのたたみ方
知るは知ったで鼻持ちならん
うつくしく
生きるって
むずかしいわね
そばで女が
わらっている

 選択したシャツを「美しく」たたむ--それが「うつくしく」生きること。たたんだシャツが「美しい」とき、そんなふうに何かを美しくできる人間が「うつくしい」のである。「美しい」の背後には「うつくしい」人間の生き方がある。
 何かを「美しく」ととのえていく、やりとげる人間--そのなしとげたことは「美しい」が、同時に、それをしているときの人間の姿も「うつくしい」。こういうことは、多くの人が感じることだと思う。その感じを大切にしながら、「うつくしく」なろうとする生き方が、立木のことばを支えている。

 「風呂場」には「一人分」という表現があった。「洗濯」には「一人」という表現がある。ここにも、立木の「思想」がある。「うつくしく」生きることは、他人に頼らず「ひとり」でできることである。まず自分の生き方を「うつくしく」する。(その結果として「美しく」なる。)だれのためでもない、自分自身のための「うつくしさ」の実践がここにある。

そばで女が
わらっている

 この「わらい」は、肯定の「わらい」である。共感の「わらい」である。「うつくしくなってきたわね」という「ほめことば」のかわりの「わらい」である。「うつくしれ」を抱き締める、愛である。

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